
エリート建築士の恋愛ラビリンス―耐震設計中📐―|#20
理性は、恋に耐えられるのか。
エリート建築士の“設計”が、静かに崩れ始める。
♯20 「最後尾」が閉じる時
日差しが容赦なくコンクリートを焼き、空気の粒子が熱で歪み始めた昼下がり。
私の掲げていた「最後尾」の看板の向こう側に、ようやく行列の終わりが見えた。
どれほどの時間が過ぎただろうか。
彼女は一度も嫌な顔を見せず、無機質なレンズの群れに対し、暗殺者・セレーネとしての冷徹な眼差しと、時折零れる皇凛菜としての柔らかな微笑みを投げ続けていた。
その両方を、私はずっと見ていた。
「お疲れ様。りんな。……これでも飲んで落ち着くといい」
列が途切れた瞬間、私は準備しておいたボトルを差し出した。
それは、私がいわば「日常の儀式」として愛飲している、硬度と採水地にこだわった少し高価なミネラルウォーターだ。ラベルを剥がされたその透明な液体は、今の彼女の渇きを癒やすための、最も純粋な「資材」に見えた。
「わぁ、神谷さんありがとうございます!」
彼女はボトルを受け取ると、喉を鳴らしてそれを飲み干した。
その細い首筋が波打つのを、私はまるで設計図の細部を確認するかのような無遠慮な視線で見つめてしまう。
「そうだ、この看板。君の手製なんだね。この隅に描かれた『ミガリン』の表情が、実によく捉えられている」
「そうなんです。わかってもらえました? ……ずっと持ってもらって、本当にありがとうございます。手、疲れませんでしたか?」
「君の献身に比べたら、なんてことはないよ」
少しだけ、間が空く。
「実は……ちょっとだけ、疲れちゃいました」
彼女がふっと肩の力を抜き、あどけない笑みを浮かべる。
その瞬間、私は彼女を包囲していた「暗殺者」という構造が解け、剥き出しの「一人の女性」がそこに現れたことを悟った。
セレーネでも、被写体でもない。
ただの、りんな。
「無理もない。これほどまでの撮影攻勢は、私の想定していた『趣味の領域』を遥かに超えていた」
「ふふ、生き返りますぅ……。この水、すごく美味しい。さすが神谷さんですね、初めて飲みました」
「ああ、私も好きでね。建築と同じだよ。基礎となる水が良くなければ、一日を構築することはできないから」
口にした瞬間、私はわずかに苦笑する。
ついさっきまで、私はこの場所を「戦場」と呼んでいたはずなのに。
だが今は違う。
ここは、誰かの「好き」が、形を持って立ち上がる場所だ。
そして私は、その一部に――ほんの少しだけ、組み込まれてしまった。
視線を落とす。
鞄のジッパーで揺れるミガリンは、朝の純白を、ほんの僅かだけ失っていた。
埃か、汗か、それとも。
理由はわからない。
だが、その「変化」を、私はもう拒絶しなかった。
むしろ。
(……悪くない)
そう思ってしまった自分に、静かに驚いていた。
「ところで、お腹は空かないか?」
「あ、実は……撮影の途中から、お腹が鳴ってたんですよ」
彼女は、あの「背中」とは対照的に、衣装越しでも分かるほど細く鍛え上げられた腹部を、照れくさそうにさすった。
その仕草が、つい先ほどまで光に晒されていた“作品”ではなく、“生活している身体”であることを、妙に強く意識させる。
「駅の方で、何か探すとしようか」
「はい! 午後からも撮影の予定なので、軽く食べたいです」
「午後も、まだ続けるのか。同じポーズを固定し続けるだけでも相当な負荷のはずだが……君にとって、それは苦痛ではないのか?」
私は、建築士として「耐久消費」の観点から問いかけた。
だが、彼女の答えは、私の論理の外側にある熱量を孕んでいた。
「きついですけど、それを周りの人が評価してくれるんです。皆の熱気を感じると、『やってやろうじゃない!』って気分になれるんですよ」
彼女は笑う。
その笑顔には、さっきまでのセレーネの影はもうない。
だが、確かに同じ“芯”が通っている。
「なるほど。それは、仕事の流儀にも通じるものがあるな。優れた成果物が他者に認められた時の高揚感。……いい仕事をすると、確かに気持ちがいい」
言葉にしてから、わずかに違和感が残る。
私は今、“仕事”の話をしているのか?
「神谷さんって、いつも仕事が頭の中にあるんですね。……今日、楽しめてますか?」
真っ直ぐな問いだった。
逃げ場を用意しない、シンプルな問い。
私は、一瞬だけ言葉を詰まらせる。
これまでの私なら、ここで“正しい回答”を選んだだろう。
だが。
(大人とは、何を守る存在だったか)
秩序か。体裁か。
それとも――
「……すまない。本音を言うと、とても楽しいよ。想像以上にね」
口にした瞬間、胸の奥で何かが静かにほどけた。
彼女は一瞬だけ目を丸くし、それから――
「……そっか」
ほんの少しだけ、視線を逸らして笑った。
安堵にも似た、柔らかな表情。
「よかった。ちょっとだけ、不安だったんです。無理させちゃってるんじゃないかなって」
「無理、か」
私は小さく反芻する。
違う。
これは“無理”ではない。
設計図にはなかったが、確かに成立している構造だ。
「いや。むしろ――予定外の発見、というやつだな」
そう言うと、彼女はくすっと笑った。
「それ、神谷さんっぽいですね」
並んで歩き出す。
会場の喧騒が少しずつ遠ざかり、代わりに、昼の街のざわめきが戻ってくる。
だが。
私の中の何かは、もう元の静けさには戻らなかった。