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゚ゎむズムの時代

     か぀お、自分の味方以倖は党お敵だずいう時代があったず仮定しおみよう。
     実際にあったか、どうかは問題ではない。おそらく、そのような時代が䜕回もあったに違いないが、歎史的な怜蚌はしない。なぜなら、今でもそのような時代は続いおいるからである。
     このこずに関し疑問をもたれる方も倚いだろう。䟡倀盞察䞻矩が党盛時代の今、䜕が敵が分からなくなっおいるこずこそ、この時代を生きにくくしおいる理由だからだ。

    前略昔はこうじゃなかった。䞖界はもっず小さかった。手応えのようなものがあった。自分が今䜕をやっおいるかがちゃんずわかった。みんなが䜕を求めおいるかがちゃんずわかった。メディアそのものが小さかった。小さな村みたいだった。みんながみんなの顔を知っおた。』
     䞭略
     『でも今はそうじゃない。䜕が正矩かなんお誰にもわからん。みんなわかっおない。だから目の前のこずをこなしおいるだけだ。雪かきだ。埌略
         村䞊春暹、『ダンス・ダンス・ダンス』

     党くそのずおりだ。䜕が善か悪か、それが分からない。だから敵もいない。
     いや、確かに敵はいるのだが、それが誰か分からない。今たで味方だったものが、次の瞬間には敵に倉わっおいるかもしれない、そんな耇雑な時代になっおいる。
     だから我々に出来るこずは
       ある仮想の敵を぀くる。
       自分以倖を党お敵ずする。あるいはその逆
       その時々で盞手が敵か味方か、瞬時に決定しおいく
       党おの人を第䞉者化しお、”ムシ”する
     ずりあえずは、この通りしかないだろう。

    は冒頭に蚘した「自分の味方以倖は、党お敵」ずいう考え方である。正確に蚘せば、あるものを敵ずするこずによっお、ある皮の共同䜓をでっちあげ、今床は逆にその共同䜓以倖のものを敵ずする態床である。
     「仮想の」ずしたが、それは実䜓仮想ずいう察立の䞊に立぀「仮想」ではない。
     私芋ではあるが、そもそも「実䜓」そのものが仮想以倖の䜕物でもない。敵がいなければ成立しない共同䜓は「仮想」そのものであり、逆にその共同䜓に察立するような「敵」もやはり「仮想」のものである。そういう意味での「仮想」だ。

     もっず簡単に述べれば、これは二分法の考え方だ。
     冷戊の終結たでは資本䞻矩ず瀟䌚䞻矩ずいう察立が䞻たるものだったが、それ以倖にもこのような察立は、様々な堎所で珟れおいる。
     スキゟパラノ、ポゞティノネガティノ、デゞタルアナログなどなど。
     このような二分法は本来的には、ある皮の均衡状態を保っおいるはずなのであるが、実際には自分の偎にあるものを優䜍に眮くこずがほずんどである。このような二分法は、最終的には垝囜䞻矩に通じる。
     ぀たり自分の所属する共同䜓に埓属しなければならないずいう考えを生むのだ。そしお、その優䜍劣等の二分法はそのたた、正矩悪の二分法に通じる。 

     冒頭に「か぀お」ず蚘したように、このような考え方はかなり遅れおいる。いわゆるムラ意識誰もが私を知っおいるし、私もみんなを知っおいるずいう意識に基づく共同䜓が、倖郚的なもの他者に出䌚ったずき、その倖郚他者を敵ずするずいう思想が叀兞的であるずいうこずは蚀うたでもない。
     しかし、問題はこのような叀兞的な考え方が、共同䜓がいったん厩れた堎で再構築されたずいうこずである。぀たり本来的には共同䜓が倖郚他者ず接したずきにこそ敵が生たれるはずであるべきものが、逆に倖郚他者を造り䞊げるこずによっお共同䜓が出来䞊がるずいうこずなのである。

     このような圢態に倉化するず、この考え方は珟圚でもかなり有効なものずなる。 おそらく我々は䜕かを敵ずしなければ目暙を倱っお行き詰たっおしたう。しかし、倖郚が敵である堎合、その予想が぀かないある皋床、予想が぀くならばそれは倖郚他者でない。だけに戊略が立おにくいのに察し、元々敵が敵であるこずを前提ずされた存圚ならば、攻略が立おやすい。
      䟋えば「反栞」ずいう思想の偎に぀くずする。この堎合、圓然のこずながら栞保有囜ずか、それを掚奚する人たちを敵ずしおいる。だからこそ、どの点を批刀したらいいか䟋えば危険性などが分かるのである。その意味で二分法は敵の蚭定も、その敵ぞの察し方もかなり楜なものであり、だからこそこのような考え方をしおいる人が珟圚においおも、かなり存圚するのである。

     しかし、この二分法のからくりに珟代はそろそろ気付いおきたように思える。もう仮想敵を䜜るこずだけでは凊理できないほど、時代は耇雑になっおきおいるのだ。
     二分法は確かに自分の立堎を単玔化し確定しお、アむデンティティを確立するのには有効である。
     しかし、それ故にそのような確定された郚分以倖のずころではどうしたらよいのかが分からないのだ。先ほどの䟋を繰り返すこずになるが、反栞団䜓は栞掚奚思想に察しおはその意矩を果たすこずが出来る。
     しかし、䟋えば日本政府を批刀しようずしたら、それは栞ぞの態床以倖の所では批刀できないのであり、日本政府のあり方そのものを批刀するこずは出来ない。
     そうするず、日本政府そのものを批刀するには、日本政府を敵ずするしかないのであり、そのようにしお仮想敵はいく぀も増加しおいくこずになり、最終的には結局誰が味方で誰が敵か分からないずいう状態に戻るこずになっおしたうのだ。

     だからずいっお共同䜓さえも信じないようなの方法はよけいに困難であろう。いうたでもなく正垞な人間瀟䌚ではこんな゚ゎむスティックなやり方は通甚しない。自分以倖のものを党お敵ずするなどずいう生き方では息が詰たる。

     このような生き方を出来るものは、敵さえも操る”力”がある䞀握りの人たちか、さもなくばよほど匷靱な粟神の持ち䞻だろう。逆に党おを味方にするずいう方法はもっず危険だ。そんなこずをしたら、いわゆる”善人”ずしお、いいように利甚されるだけだ。もっずも逆に蚀えば匷靱な粟神さえ持っおいれば、これほど楜な生き方はないだろう。少なくずも敵か味方かを考える手間が省けるのだから。
     だがこのような生き方は䞀握りの暩力者か聖人かのどちらかしかできないだろう。すくなくずも䞀般の人には無瞁の生き方である。

      さおのような生き方はどうであろう。おそらく、この方法ずの方法が最も「珟圚的」な生き方であるだろう。
       我々は「雪かき」のごずく、目の前にある事象を即時に刀断しお片付けおいくしかない。その刀断の基準は我々自身にある。もし他の䜕かに求めるならばず同じになっおしたう。
      しかしその刀断の基準が我々にあるからこそ、その刀断が正しかったか間違えおいたかは、結果を芋なければ、あるいは結果を芋おさえも分からないずきもあるのだ。

     これは䞀芋䞍安定で困難な生き方かもしれない。しかし、にもかかわらず 我々が「珟代的」に生きようずするなら、これ以倖の方法を芋぀けるのは難しい。自分を正矩ずする゚ゎむスティックな生き方を避けようずする者は、ここたで冷めた感芚で、人間を、そしお時には自分自らも裁かなければならないのである。
      これは珟代的な生き方であるず蚘したが、正確に蚀えば「近代」から「珟代」に通じる生き方である。゚ゎむズムではない自由䞻矩、個人䞻矩に留たろうずする限り、この考え方に行き着くしかない。

      これはずは違った意味で困難な生き方である。自らに党おの決定暩があるずいう考え方は、自由ではあるが、その自由が故に疲れる。どこかに基準があり、その基準に合わせお生きる方が楜なのだ。だから、もしこの生き方を貫培しようずすれば、自らが自らのために埋法を造るずいう地点にたで思想を進めざるを埗ず、本来流動的な刀断の基準が、固定化せざるを埗ない。そうするずやず結局のずころ同じ考えになっおしたう。

      䟋えば、吉本隆明や柄谷行人などはあそこたで過激な衚珟をしおいるずころだけを芋るず、固定化しおいるように芋えるが、実はかなり埮劙なバランス感芚で緩やかに思想の流動化を図り、うたく察凊しおいる。しかし、䞇人にこのようなバランス感芚が有るずは思えない。党おの人が絶察䞻矩にも、この埌に述べる単なる盞察䞻矩にも陥らないでこのような生き方が出来るかず問われるず、かなり疑問が残る。
      だが、実のずころ、このような生き方が最も理想的なのだ。耇雑な珟代瀟䌚に察しお、積極的に、しかも゚ゎむズムに陥らずに生きようずすれば、このような生き方が最も適しおいるのだ。

     の党おの人を第䞉者化しお、ムシしお生きるずいう生き方は、おそらく珟圚最も倚くの人が遞択しおいる生き方である。その意味で前述したように最も珟圚的な生き方である。
     しかしが積極的な生き方であったのに察し、こちらは消極的な生き方である。この思想は敵か味方か分からないずいうこずを、そのたた攟眮するずいう考えである。「ムシ」などずいう衚珟を䜿うず、悪い印象を䞎えるだろうが、盞察䞻矩は、この「ムシ」しおいるずいうこずを巧劙に隠しおいる。だからこそ、珟代においお最も理想的な生き方であるず錯芚されおしたうのである。

     敵か味方かを分からないたた攟眮するずいう考えは、盞手に察しお䜕ら害を䞎えないのだから、益も䞎えないが、盞手の生き方を認めおいるず錯芚される。だから盞察䞻矩に立぀人は、人の生き方を玠盎に認めるこずが出来る「オトナ」ずいうように考えられるのだ。

     このような盞察䞻矩の考え方が衚面に珟れるのは「人それぞれだから」ずいう蚀葉である。あるいは「その人の趣味だから」ずか「人は䞀人䞀人違うのだから、違った答えを持っおいお圓然だろう」などの蚀葉である。これらの蚀葉は非垞に正しい蚀葉のように思える。
     いや、確かに「人それぞれ」ずいう蚀葉は正しい。それを認めず。みんな自分ず同じだず考えおいるのぱゎむズムにほかならない。
      しかし、この蚀葉を自分の䟡倀芳を守るために䜿うのならば、それは卑怯者以倖の䜕物でもない。
      䟋えば、自分が嫌いなものを、他の人が奜きだず蚀ったずする。そのずき、自分はそれに察し「どういう頭の構造をしおいるんだ」などず思い぀぀も、「たあ人それぞれだから」ず蚀う。
     その蚀葉の裏には「あなたの嫌いなものを私が奜きだずしおも、私には私の奜みがあるのだから、それに口出しするな」ずいう゚ゎむスティックな意味が隠されおいるのである。
     ぀たり「党おは正しい」ずいう盞察䞻矩は「私は正しい」ずいう゚ゎむズムず背䞭合わせになっおいるのだ。

     「人それぞれ」ずいう蚀葉はたた、他者ずのコミュニケヌションを拒吊した、極端な人間䞍信の蚀葉であるずも蚀える。
     䜕か察立が生じたずきに「人の奜みだから」ずいう蚀葉はすこぶる有効である。この蚀葉によっお察立が治たるこずは少なくない。
     しかしこの蚀葉の「力」は、盞手にたいしおポゞティノなものではない。自分が盞手ぞの攻撃を攟棄するこずによっお、盞手からの攻撃を拒吊するず蚀ったネガティノなものである。
     この蚀葉には「あなたに私の䟡倀芳が理解できるわけがないのだから、䜕も蚀うな。その代わり私もあなたには䜕も蚀わない。」ずいう意味が隠されおいる。ここには人間的なコミュニケヌションは存圚しない。安党に自分を守るための「接觊」があるだけである。

     さお、このような盞察䞻矩は、敵か味方かの刀断を攟棄し、途方もない混沌をそのたた匕き受けるものだから、どこかで必ず問題が生じるこずは蚀うたでもない。
     たずえば、いきなり目の前の人が、自分に銃を突き付けたずきに、それでも「たあ人それぞれだから」ず蚀えるずは思えない。
     このように、自分に盎接的に利害関係が問われたずきに盞察䞻矩はきわめお匱い立堎なのである。最も逆にそのような珟実的な状態を出来埗る限り排陀する思想が盞察䞻矩なのだずも蚀える。いずれにしろ盞察䞻矩が䞀芋開攟的に芋えお、その実、最も閉鎖的な思想であるず蚀うこずは確かなようだ。

     
     
     
    新期県圚䜏。 玚スポットトラベラヌ。倉な看板写真収集家。たたにバルヌンパフォヌマヌ 䞍思議なこず、怪しいこずに興味があり、そんな所に実際に蚪れおいたす。 看板探偵http://bqspot.blog42.fc2.com/

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