
灯台はまだ見えない(エピローグ)
エピローグ
一か月後、みなと図書館の返却口は元の金属音を立てていた。
朝の開館前、紗月は一人で台車を引き、昨夜の返却本を受け取る。利用者はもう普通の顔で本を借り、普通の顔で返す。ニュースはまだ量子コンピューターの件を流しているが、人の生活は思ったより早く表面を取り戻す。
けれど前と同じではない。
市役所からは情報管理の見直し通達が何度も届き、図書館システムも改修中だ。黒田は忙しすぎて眠れていない声でたまに連絡してくる。久住刑事は異動になったらしい。あの晩のことが直接の理由かどうかは分からないが、少なくとも元の部署にはいられなかったのだろうと紗月は思った。瀬良の名は会見に出ず、水沢の消息は報じられない。戸賀崎の会社は別名義へ変わったという噂だけがある。
彰人については、まだ確定したことがない。
失踪者名簿のまま。
死亡認定もない。
帰還もない。
紗月はそれを、もう無理に一つへ決めないことにした。
失ったものに、名前をひとつだけ与えなければ前へ進めないわけではない。
人は案外、決めきれないままでも生きていける。むしろ急いで名前を付けた瞬間に、もう二度と触れられなくなるものの方が多いのかもしれない。
昼休み、児童カウンターの展示を入れ替える。
量子力学のミニ展示は撤収され、新しく「海と町の歴史」という地味な企画が入る。その中に、灯台の古写真が一枚だけある。
子どもがそれを見て、母親に聞く。
「灯台って、何のためにあるの」
母親は少し考えてから答えた。
「迷った人が帰れるようにするためかな」
紗月はその言葉を聞きながら、本を棚へ戻した。
閉館後、返却口の最後に一冊だけ絵本が残っていた。
『とうだいへいく』。
表紙は擦り切れているが、まだ使える。
紗月はそっと開いた。
何も挟まっていない。
それでいいと思った。
もう次の手紙を待っているわけではない。
ただ、本当に消えたのか、まだ見えていないだけなのか、その境目を急いで埋めなくていいと知っただけだ。
答えは、いつも見つけるものだと思っていた。
でもたぶん、手放さずに持っているだけでいい問いもある。返却口から始まったこの数か月で、紗月がいちばん深く覚えたのはそのことだった。
机の引き出しには、公開しなかった音声ファイルの入った小さな記録媒体がある。
それは記事でも証拠でもなく、紗月だけの未返却本みたいなものだった。
図書館の電気を落とし、最後に鍵をかける。
外は春の夜で、海の匂いが薄く混じっていた。
町は静かだった。
静かなまま壊れるものがあることを、紗月はもう知っている。
それでも、明日また返却口を開ける。
