
「アザーサイド(ある作家志望者の死)」【掌編小説】
左腕だけでなく、右腕の内側にまで無数に打たれた注射痕は、もう治ることはない。二度と動くことのないNが横たわっている遺体安置所で、僕は彼のまぶたを閉ざしてやりたかった。どうやっても降りないまぶたの下で、Nの瞳は半分がた潰れていた。
こちら側とあちら側は常に隣接していて、境目に立てば両方に触れることが出来る。
「生きている者」と「生きていない者」だったり、
「一線を超えた者」と「一線を越えていない者」だったり、
「産まれてきた者」と「産まれてこなかった者」だったりする。
真ん中にいてもいいことはない。どちらにも引き込まれて、どちらからも追い立てられる。
Nはクスリに溺れる前は僕と同じ作家志望者だった。彼とは本の好みは合わなかったけれど、彼の書く小説は私の好みだった。新人賞の最終選考だとかいい線まで行ったこともあったし、いつかNの著作が本屋に並んでいるのを見るのだろうと思っていた。僕自身はいつまでも作家志望者のままの姿で。
Nは新作を僕に見せてくれなくなってからもしばらくは何かしら書いていたらしい。
Nを支えてくれていた恋人と別れたからとか、賞を取り逃がしてからはろくな結果を残せてなかったからとか、自分を見限ってしまったとか、いろいろな理由はあるだろうが、とにかくNはクスリに溺れて、自分自身と人間関係を失ってしまった。
「俺の言葉は誰にも届いてなかったんだ」とNは言った。
「そんなことはない、俺は君の書くものが好きだ」
「嘘をつくな。お前は人の話をほとんどスルーするだろ。嘘をつく時だけ人の話を聞く振りをする」
自分がそこまで人の話を聞かないひどいやつとは思っていなかったが、嘘を交えたのも事実ではあった。僕は彼の作品ではなく、彼のことが好きだったのだろう。そこまで書いていいのか、というくらいに彼自身のことを書いた文章の中の彼が好きだったのだろう。小説家としてではなく、小説としてではなく。だから嘘だと言われても言い返せなかった。
「俺はまだ生きてるんだけど」
Nの声が聞こえた気がした。それほどに僕はまだ彼のことを想っている。
「死んでないし、クスリもやってないし、確かに一時小説を書くことを止めたけど、まだ書き続けているんだけど」
右の耳に聴こえたNの声が、左耳から出ていった。
「スルーするなって! お前の書き物のネタのためだけに俺を殺すな!」
あちら側に行ってしまっても彼のツッコミは続いている。でも遺体安置所の中では確かに動かない彼が横たわっているのに。
「じゃあ遺体安置所とやらの具体的な描写をしてみろよ」
床一面に並ぶ石棺の中に、それぞれ物言わぬ遺体が納められている。いつの時代から安置されているのか、今の時代の人ではない方もいる。髷を結っていたり、骨格からして違ったり、よく見れば猿もいる。
「ダウト」
よく見れば犬も。
「ページワン」
きびだんごが。
「ロン!」
面前で清一色を和了ったNは誇らしげに僕を見ている。まるで遺体安置所なんて所には始めからいなかったみたいに。
「生きてるから」
そう、彼はいつまでも生きている。僕が彼のことを書く限り、彼は小説の中の登場人物として、永遠の生命を得ることも出来る。僕が書くことを投げ出して未完にしてしまえば、彼は不幸な最期を迎えることもない。
「その代わり幸せにも絶対なれないけどな!」
遺体安置所というかNの部屋から出た僕たちは、大型書店に立ち寄った。昔の創作仲間たちの著作が並んでいるのを横目で見ながら、最終的には就職情報誌を手にした。
「スマホで登録した方がいいんじゃね?」
彼の一言で結局僕らは何も買わずに書店を出た。そもそも金なんてほとんど持ってはいなかった。
(了)