
ノーサイドの向こう側 ―青春の大半はホウキを握っていた―
高校生になったら、サッカー部のマネージャーになる。子供の頃、キャプテン翼の影響でオーバーヘッドシュートを密かに練習していた私は、そう心に決めていた。
ところが、いざサッカー部の見学に行くとマネージャー希望者が一学年でまさかの9人。その数、マネージャーどころかフットサルできるよね?
というのも、私が高校に入学した年の数年前にJリーグが発足し、スター選手たちが次々に誕生していた。連日サッカーのニュースが報道されて、日本中がサッカー熱に浮かれていた時代。強豪でもない、ごく普通の高校のサッカー部にすら、部員だけではなくマネージャー志望が殺到していた。
そんな華やかで賑やかなサッカー部の隣で、黙々と練習していたのがラグビー部だった。特に興味もなく素通りしようとしたとき、足元にボールが転がってきた。見慣れない楕円形のボールを拾い、顔を上げると──
竹刀を持って、サングラスをかけた背が高くて細身の男性がこちらをじっと見ていた。
なぜここにヤクザが? ……と思ったのも束の間、その男性がズンズンとこちらに近づいてくる。
「マネージャー、やらないか」
唐突すぎて脳がフリーズした。
「え、えっと……何部なんですか?」
竹刀を持っているから、てっきり剣道部かと思ったら、
「ラグビー部だ」
「あの、私ラグビーはよく知らなくて……」
「知らなくてもいい。来い!」
気がつけば、茶色のローファーのまま再びグラウンドに戻っていた。真新しいHARUTAのローファーに、白い砂がこびりつく。私はこうして、恐喝──いや、スカウトされてラグビー部に入ることになった。
入部後、部員たちから「なぜラグビー部に?」と期待を込めた眼差しで聞かれるたび、まさか「サッカー部が満員だったんで」とは言えず、笑ってごまかしていた。
◼️
高校生の私には、先生の外見はどう見てもヤクザだった。名前は仮に林先生とする。──もちろん、メディアで有名な“あの林先生”ではない。
私たちの林先生は、気が短くて気性が激しい。
勝っても負けても怒られ、天気にも文句を言う、何がスイッチなのかわからない、壊れた瞬間湯沸器のようだった。
とはいえ、時々、モール中の部員の背中をツンと突く程度はあったかもしれないけれど、持っている竹刀で実際に叩かれたことはなかったし、天気はともかく、プレイに関してだけ叱責された。あくまで威嚇用だったことを先生の名誉のために補足したい。
ほかにも、ラックをやり直す時に、竹刀で地面のボールを引き寄せたりと、竹刀もまさかこんな使われ方をされるとは想定していなかっただろう。
「マネージャー」
低く響くその一声に、私ともう一人のマネージャーはいつも怯えていた。何を命じられるか分からないからだ。その声色とは反対に、命じられるのは“掃除”。
ラグビー部の使用後の備品やグラウンド、通路などの片づけで、活動内容としてはおかしくない。たぶん。
大量の泥がジャージやスパイクから落ちて、あたりを汚すからなのだけれど、三年間、気がつくと掃除ばかりしていた。こんなにホウキを握っていたのは、魔女の宅急便のキキと私たちくらいかもしれない。
ちなみに林先生は学生の頃、サッカーをプレイしていたそうだ。顧問はなぜか大盛況のサッカー部ではなく、ラグビー部。そのズレ具合も林先生らしかった。
◼️
春から夏になり、なんとかラグビーのルールを覚え、スコアも書けるようになった頃、初めての合宿を迎えた。合宿は他校と合同で長野県・菅平で行われる。各校と練習試合をして、試合がない学校は練習をするというスタイルだった。その練習というのがやっかいで、山の上まで登って降りてを繰り返すというもの。
当然、私たちマネージャーも付き添いで登らなければいけない。片手に救急箱、反対側の手にやかんを持ち、背中には荷物を背負いながら。マネージャーなのに部員並みに鍛えられるシステム。そのうえ、やかんの水が無くなれば山の麓まで汲みに戻るので、何度も往復しないといけない。
練習中は部員が何気なく使う水に、
「こぼすな!ああ、お願い、こぼさないで!」と念じていた。マネージャーの視線はほぼ水しか追っていなかった。
夜は遅くまで業務用の洗濯機を回す。それでも、数十人分の洗濯はなかなか終わらない。
ようやく洗濯から解放されて、くたくたになった深夜、誰もいない部屋で、憧れの先輩のラガーシャツをこっそり抱きしめた。――いや、汗臭かったけど。全てが小説やドラマのようにはいかなかった。
部費を払わない部員に取り立てをしたり、節約のために、ポカリを薄めで作ったらすぐさまクレームがきたし、真冬の部活動では林先生が焚き火をしてくれたはいいけれど、薪を探していつも走り回っていた。これ、薪にいいんじゃない?とマネージャー同士でよく話していたけれど、女子高生の部活中の発言としては明らかにおかしいやりとりだ。
焚き火にこっそり芋をしのばせて、焼き芋を部員たちに隠れながら食べたこともあった。
ちょっと焦げていて、生焼けの部分もあったけれど、とても楽しかったことを覚えている。
肝心の部活動はというと、サッカー人気の煽りを受けたこともあり、怪我人が出ると試合に必要な人数の15人が集まらないこともあった。
その度に、林先生は目ぼしい生徒を再びスカウトして、強引にラグビー部に入部させていた。
「僕、柔道部に入ってたんですけど」
後輩の一人がそう言ったときに、私と同じだなとこっそり思っていた。ラグビー部としては特別強いわけでもなかったので、桜が散る頃に引退となった。それも含めて全部が青春だった。
◼️
時は流れて、現在。
林先生が退任するときは、OB・OG含めて100人近くが集まった。ホテルでパーティーを開いたら、ちょっとした同窓会になっていた。
久しぶりに再会した先生は、サングラスを外していて優しい目をしていた。授業のあとに、夜遅くまで練習に付き添ってくれたり、休みの日に試合の引率をすること。それが、どれだけ大変なことだったのか今ならわかる。
そして、「菅平地獄」を一緒に乗り越えた仲間たちと、年に一度の忘年会を開くようになった。当時の林先生の年齢を超して、気づけば体型はおおらかになり、皺も増えた。この忘年会では旧姓で呼ばれるのが、少しだけ嬉しかったりする。
ときどき、サッカー部の部員やマネージャーも参加して同窓会のようになる。
忘年会で聞いた話によると、柔道部からスカウトされた彼は、部員達と仲間で起業をして頑張っているそうだ。
「なんでラグビー部に入ったの?」
酔うと毎回交わされる、いつかと同じ質問に思わず笑いながら、運ばれてきたレモンサワーに口をつける。
あのとき、ボールが転がってきてよかった。
偶然のようでいて、ノーサイドの向こう側に、何十年後も連れて行ってくれるなんて当時はわからなかった。
LINEのグループアイコンには、真っ黒に日焼けをした、高校生のままの私たちが馬鹿みたいに笑っている。
時間が経って、オールド・ボーイとオールド・ガールになった私たちは高校生の頃みたいに、自分を物語の主人公だとは思わなくなった。それでいい。
家族のことや、子供のこと。仕事や健康のこと。
みんな、色々あるけれど、ぼちぼちでやってるよ。
忘年会でそう言えるように日々を過ごしていく。
ホイッスルはまだ鳴っていない。それぞれの試合はたぶん、今も続いている。