
第3次反抗期
会社の廊下を歩いていると、同僚が知らない誰かと談笑していた。
素通りすると後ろから「偉い人!」と同僚の声が聞こえたが聞こえないふりをする。
あれが誰に対して発せられた言葉なのか、どんな意味をもっていたのか、今をもってもわからない。
中学生の頃、あいさつ運動というものがあった。
教師の説明によると、知ってる人に会ったら学校内外問わず、自ら率先して「こんにちは」と言おうというものだった。
しかし実態としては、生徒は教師に、下級生は上級生に会ったら自ら挨拶しなければ怒られるというものだった。
これにより私はわが校におけるヒエラルキーを理解し、ヒエラルキーの低いうちは上の者にエンカウントしないように隠れながら下校するのが常となった。
この経験は、偉い人に出会ったとき、お前は私に挨拶させるに足るどんな凄さを持っているのか?というある種の反抗心を、私の中に育てる結果となった。
尊敬に値するものにしか頭を下げないというのは難しいようで簡単なことでもある。むしろ、心と体が一致している分、気楽なものではあって、普段の何でもやります!という猪突猛進な働きぶりを知っている人たちからすると、誠実という結論になるようだ。ノーといわない奴のイエスに価値はない。これは単純だ。
凄い人になら利用されたい。
敬意に膝をつき、心酔するように、この信仰が汚されないように言葉を選びながら、あなたの凄さをいつも語る。
「百万円の幸せの壺を買わされて本当に幸せになっちゃうような人」
まるで自分が変換装置になったように、自分がいることで周りが変わってしまう、そういう魔法にかかっているときは夢中になって体が動かされる。そこには喜びがある。それは本当の自分を取り戻しているからだ。
だから凄い人に出会うとそれまでの自分がねじ曲げられてしまう恐ろしさがある。その恐ろしさが快感となって、もう戻れないところにいる。