『ブリュッセル1080、コメルス河畔通り23番地、ジャンヌ・ディールマン』/退屈は誰のものか

 この映画はベルギーの女性映画監督シャンタル・アケルマンによる1975年の作品である。3時間超の間、固定カメラで撮影された主人公のジャンヌ・ディールマンの「日常」、家事や一人息子の世話などを延々と見せられる、退屈な映画だ。だが、この一言でこの映画の評価を止めるべきではなく、ましてや評論の副題を「日常の耐え難い退屈さ」などとして気取ってはいけない。この映画の持つ恐ろしく追求され洗練された単調さは、他の全てのものに対する皮肉である。

 ジャンヌの夫は既に亡くなっており、彼女は息子と二人暮らしをしている。映画が捉えるのは、料理し、食事し、裁縫し、息子と少しの会話をし、息子のいない間に売春し、そのほかは一人で家の中で沈黙しているジャンヌの姿である。彼女は息子が学校に行っている間誰とも喋らないが、映画はその時間を淡々と映す。
 ここに、映画はまず時間芸術である、という原理が研ぎ澄まされる。観客は彼女が独りで黙って過ごす時間を、スクリーンのこちら側で共有させられる。彼女の沈黙と退屈を、観客もまた体験せざるをえない。
 また、もし映画館での長い上映時間中、視界の隅で他の客がお手洗いに立ったり、あるいは隣の客が寝ていたりするのに気づかざるをえなかったとしたら、それは観客に自身の身体を意識させ、彼女の時間を鏡にして当人の時間を照らすように働くかもしれない。
 映画は彼女のある三日間だけを切り取っているが、その中でも繰り返される売春、料理、息子の帰宅、夕食、散歩、の日々は、同じ行動が徹底して同じ構図で撮られ、それらの反復を強調する。

 この映画はまた、「他の映画が撮らなかったもの」を集めたようにできている。それは、毎日郵便受けを確認すること、アパートのエレベーターに乗ること、夕食の準備に失敗することなど、映画ではふつう省かれてしまうような「何も起きない」時間である。このようなシーンの蓄積は、観客に自分の日々もそのような「何も起きない」時間で大半が占められていることを思い出させるとともに、これまで映画がいかに都合よく現実を切り取り映してきたかに対しての批判たりうる。

 最後、彼女は売春の客の一人である男を寝室で刺殺する。彼女の日常は「映画のなかの三日間で少しずつ狂っていった」とも解釈できる。鬱屈とした気持ちが殺意としてこの瞬間噴出したと考えることはもちろん可能である。しかし、この映画の初めのショットから彼女はまさしく売春していたことを考えれば、それはむしろ彼女の日常の中にあるべくしてあるものであった。さらに、映画のラストショットは殺害後彼女がダイニングで一人で黙って座っている、痺れるほど異様に長いものであることとも合わせれば、彼女の息の詰まるような憂鬱な日々はこれからも何も変わらずに続くと考えるのが妥当ではないだろうか。
 彼女が彼を刺殺することで映画は終わり、観客は彼女の時間から解放される。しかし、彼女はスクリーン=退屈さから解放されることはない。むしろ彼女はわざわざ自分の時間とお金を使って「こんな映画」を観にくるような観客の、映画の観客としての立場を殺害して終わらせ、わたしたちを映画の外に追放したのだ。わたしたちが座席に固定され観せられた時間は、所詮彼女のものでしかなく、映画のものでしかない。しかしその断絶によってわたしたちは映画を観ていた間の居心地の悪さや共感だったはずのものを自分だけのものとして持ち帰ることになるのだ。

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