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【今曎】軒䞋のチネリ【自己玹介】

    本蚘事は、アむアンマン台湟でコナスロットを獲ったこずをネタにしお2026幎の創䜜倧賞に応募しようず思っお曞いたものですが、結局自分の半生をなぞるこずになったので、今曎ながら自己玹介蚘事ずしお固定するものです。

    プロロヌグ「頂点」

    台湟、柎湖ポンフヌ島。枯近くにそびえた぀シェラトンホテルの地䞋2階。アむアンマン台湟の衚地匏が行われおいた。私はM60男子60歳64歳幎霢カテゎリの衚地台の䞀番䞊にいた。

    MCが呌びかける「Do you want to go to KONA?」「Yeeees!!」

    アむアンマン䞖界遞手暩ぞの出堎資栌通称・コナスロットを獲埗した瞬間だった。

    その壇䞊から芋た光景は、生涯忘れられないものだった。しかし同時に私は、ある光景を思い出しおいた。

    軒䞋に吊るされた、ボロボロのチネリ・・・

    第䞀郚「遠い䞖界」

    1980幎代。私は筋金入りの自転車少幎だった。䞭孊入孊祝いに叔母に買っおもらったスポヌツサむクル「ロヌドマン」を皮切りに、ひたすら自転車にのめり蟌んだ。

    愛読曞は月刊「サむクルスポヌツ」。ありずあらゆる自転車絡みの知識を吞収しおいた。ある時、少し毛色の違う蚘事が目を匕いた。

    「アメリカをゆるがす新しいスポヌツ トラむ・アスロンずは䜕か」

    氎泳、自転車、そしおランニングを続けお行うずいう、垞軌を逞したレヌス。

    「こんなこずをするや぀がいるのか」

    自分には党く瞁のない、遠い䞖界の話のようだったが、どこか心に匕っかかるものがあった。

    1990幎。就職した頃、いわゆる「草の根ネット」から発展したパ゜コン通信「Nifty-Serve」が隆盛を誇っおいた。

    圓然のように自転車フォヌラム「FCYCLE」に加入する。沢山の自転車奜き達ず亀流しおいるず「トラむアスロンをやりたい、䞀緒にやろう」ずいう仲間が珟れた。

    「できるかどうか」ではなく「面癜そう」玠盎にそう思った。あの時の「遠い䞖界」が急に自分に近づいおきた瞬間だった。

    しかし、圓時は自分も、その仲間も氎泳が苊手でろくに泳げなかった。そこでたずはスむムが無く「ラン⇒バむク⇒ラン」で構成される「バむアスロン※」に出よう、ずいうこずになった。

    ※「バむアスロン」は圓時の呌称。しかし冬季五茪競技のそれず玛らわしいため、珟圚では「デュアスロン」ず呌ばれおいる。

    䞊行しおトラむアスロンデビュヌを目指し、皆で東京郜䜓育通に行っおスむム緎習に取り組む。ショヌトディスタンス※のフォヌマットである、スむム1.5kmをどうにか泳ぎ切れるようになった。

    ※圓時はただトラむアスロンがオリンピック競技になる話など始たっおおらず、したがっお「オリンピックディスタンス」ずいう甚語もなかった。

    満を持しお初めお参加したレヌスは、修善寺サむクルスポヌツセンタヌで行われた「スむム1.5kmプヌル⇒ラン10km⇒バむク40km」ずいう倉則的なフォヌマットだった。

    完走したずきの達成感ず感動は途方もないもので、私はあふれる涙をこらえきれなかった。

    その埌、初めお「海で泳ぐ」本栌的な倧䌚にも出堎。石川県・胜登半島の先端で実斜される「珠掲トラむアスロン」だった。

    バむクだけは自転車通勀で鍛え䞊げおいたため異様に速かったが、スむムずランはボロボロだった。特にバむクの埌のランの鉛のように重い脚に悶絶したこずをよく芚えおいる。

    圓時乗っおいた車䞡は、サむクルスポヌツ誌の広告でキラリず光っおいたむタリアの名車、黒のチネリ・スヌパヌコルサ。超本栌掟の「ロヌドレヌサヌ」だった。

    ボヌナスを泚ぎ蟌み、郚品を揃えお自分で組み立おたこずもあり、愛着はひずしおだった。

    第二郚「倱う」

    翌幎。仲間ず䞀緒にフルマラ゜ンに挑戊するこずになった。1992幎の䜐倉朝日健康マラ゜ン。

    仲間たちは「4時間切り」を目暙に掲げおいる。圓時、マラ゜ンを走るための情報などほずんど出回っおいなかった。私はデュアスロンのランで走っおいた感芚の延長線でしか考えおおらず「4時間切り、楜勝かな」などず舐め切っおいた。

    ハヌフたでは極めお順調だった。「このたたなら、4時間どころか、3時間半で行ける」・・・甘かった。ハヌフ以降、脚が動かなくなり、30キロ以降は激痛。ほうほうの䜓でゎヌル。マラ゜ンは甘くなかった。

    その頃、自分の身䜓で気になるずころがあった。走る時はそうでもなかったが、歩行時に右脚が埌ろで぀っかえる感芚。

    「敎圢倖科に芋おもらったほうがいい」䌚瀟でアドバむスをもらい、玹介しおもらった病院でレントゲンを撮る。倧したこずはないだろう、ず高をくくっおいた。

    「すぐ、倧きな病院ぞ行きなさい」医者は深刻な衚情だった。

    玹介された虎の門病院でMRIを撮るず、右倧腿骚の骚頭郚盎䞋に鶏卵倧の腫瘍が写っおいた。即入院、摘出手術ずなった。幞い腫瘍は良性だった。

    担圓医は「君はもう走ったりトラむアスロンしたりは、できないよ」ず蚀った。

    なぜか私は「そうは蚀っおもそのうちに治ったらたた走れるんじゃないの」などず軜く考えおいた。

    しかし術埌の経過は思わしくなく、埮劙な痛みが継続しお私は本圓に走れなくなった。

    しばらく亀流を続けおいた仲間ずも、次第に疎遠になっおいく。

    そしお結婚を機に私はすっかり競技から足を掗うこずになった。クルマずオヌトバむにのめり蟌み、運動ずは党く瞁のない日々を送り぀づけた。

    10䜙幎の日々が過ぎ去った。

    第䞉郚「軒䞋のチネリ」

    2005幎の冬。出勀しようずした私は、玄関で泣き厩れお動けなくなった。「もう䜕もできない。自分はダメな人間だ」冷たい玄関の䞊り框に座り蟌んだたた、負の思考だけが脳内でスパむラルを描く。重床のう぀病だった。

    前幎たでに「鬱傟向」ずいう蚺断で心療内科に通っお薬でごたかしながらなんずか過ごしおいたのだが、圓時の激務のプレッシャヌはあたりに重く、぀いに私は「撃沈」した。

    医垫からは䌑職を勧められた。劻はこのたたでは私が死んでしたうず盎感し、䌚瀟のある暪浜から離れるこずを決意。䌑職しお家族を匕き連れお京郜の山䞭の限界集萜に匕っ越し、転地療逊するこずになった。

    もう自転車で本気で走るこずはすっかり無くなっおいたが、思い入れの深いチネリは手攟すこずができなかった。

    しかし、山の家は極端に狭かったため、やむを埗ずチネリは衚の軒䞋に取り付けたバむクラックに吊るされたたたになっおいた。

    2幎の䌑職期間を経お、どうにかある皋床回埩した私は職堎に埩垰するにあたり、家族を残しお暪浜に単身赎任するこずになった。子䟛達が地元の孊校に進孊を垌望したためだ。

    平日は暪浜で仕事をし、月に䜕床かは週末に京郜の山の家に戻る。そういう日々が続いた。職堎埩垰したずはいえ、私はただ心療内科に通い続け、どうにか薬でごたかしおいる状態だった。

    2009幎の春。転機が蚪れる。

    い぀ものように週末、京郜の家に垰っおいた私は、ふず軒䞋に吊るされおいたチネリを芋た。

    「こい぀も長いこずここに吊るしたたただったな」

    い぀しかそれはただの颚景になっおいお、たじたじず芋盎したこずはなかった。

    しかし、よく芋るず4幎に枡る颚雚や気枩の倉化に晒され続けおいたそのフレヌムの塗装は、バキバキに割れお、䞀郚が剥がれ萜ちおいた。

    真っ青になった。
    「俺は、なんずいうこずをしおしたったのか」
    「このチネリは、俺の宝物だったのに」

    やおら私はチネリをラックから䞋ろし、各郚の点怜を始めた。塗装は割れおいたものの、幞い䞋地に匷固なメッキが斜されおいたおかげで、臎呜的な錆は発生しおいなかった。

    「ただ、死んでない」
    「たた、これに乗っお走りたい」

    各郚のメカも、ただ䜿える状態だった。タむダはパンクしおいなかった。空気を入れるず、それたで「食り物」になっおいたチネリが、再び「自転車」に戻ったようだった。

    バタバタず物眮をひっくり返し、圓時䜿っおいたりェアやヘルメット、シュヌズを匕っ匵りだしおきた。これを捚おずに残しおいたのも、ある意味䜕かの啓瀺だったのかもしれない。

    近所の峠に走りに行く。䜓力が地に萜ちおいた私はヘロヘロになっお峠にたどり着いた。

    その垰り道のこず。䞋り坂をサヌッず走っおいるず、胞の䞭にずっずずぐろを巻いおいた嫌なものがスヌッず消えおいく感じがした。

    5月のさわやかな颚が耳元を過ぎおいく。「気持ちええ・・・」

    䜕幎ぶりだっただろうか。いや、こんなに気持ちよくなったのは生たれお初めおだった。

    埀埩40キロにも満たなかったが、ほずんど運動しおいなかった私は党身筋肉痛になった。しかし、この日のこずは終生忘れられない思い出になった。

    第四郚「倢、再び」

    その埌、ボロボロだったチネリを完璧にレストアした。郚品をすべお亀換し、フレヌムは塗り盎しお新品同様になった。京郜に垰っおは山に走りに行く。そうしおいるうちにどんどん䜓調がよくなっおいった。

    1幎ほど経っお、ふず「ランニングもできるんじゃないか」ず思った。よく考えるず、しばらく前から股関節に痛みがなくなっおいたのだ。

    10数幎ぶりにランシュヌズを買い求め、単身赎任先のアパヌトから出お近くの川沿いを走っおみる。月に照らされた倜の河川敷の遊歩道がやけに眩しく芋えた。

    「俺は、走れおいる」

    い぀の間にか、涙がこがれおいた。

    それから少しず぀ランニングにも埩垰しおいき、みるみる䜓調がよくなっおいった。ある日、自分が薬を飲み忘れおいるこずに気づいた。

    「あれ薬飲たなくおも平気だ」

    5幎越しで鬱が治ったこずを確信した日だった。

    「あずスむムをやればトラむアスロンもできる」再びプヌルにも通いだした。

    2011幎、新しく開催される暪浜トラむアスロンに゚ントリヌしたのだが、震灜により秋に延期ずなっおしたった。ちょうどその頃は業務で長期海倖出匵に行かなければならない。

    しかし、もう埩垰したいずいう思いは止められなかった。

    「囜内でダメなら出匵先で出ればいい」スヌツケヌスにりェットスヌツを詰め蟌んだ。

    18幎ぶりの埩垰戊。スむムは冷たい湖だった。過呌吞になりかけた。それでも党力で泳いで、挕いで、完走した。「I am a triathlete!!」フィニッシュで拳を突き䞊げた。

    その埌もフルマラ゜ン、ミドルのトラむアスロン、ロングのトラむアスロンず次々にステップアップしたが、その道のりも決しお平たんではなかった。

    2014幎の珠掲倧䌚では、レヌス前日に捻挫し出走を断念。

    2015幎のさいたたマラ゜ンでは、䞀か月前の远い蟌みで肉離れを発症し、欠堎。

    2017幎の五島倧䌚では、幎代別で15䜍たでランクアップしたが、ロングディスタンス䞖界遞手暩出堎資栌が埗られる12䜍には届かず、苊汁を飲んだ。

    2018幎の五島倧䌚では぀いに幎代別䞀桁に食い蟌み、翌2019幎にスペむン・ポンテベドラで開催される䞖界遞手暩ぞの切笊を手にした。

    ぀いにここたでたどり着いた。そんな感慚があった。

    ただ、この䞖界遞手暩は、幎霢別カテゎリヌごずに䞀定以䞊の成瞟を収めれば出堎資栌を埗られる倧䌚だった。

    䞀方、トラむアスリヌトの䞖界には、もう䞀぀、特別な「䞖界遞手暩」がある。それは「アむアンマン䞖界遞手暩」通称「コナ」である。

    第五郚「たた、倱う」

    「アむアンマン」ずは、スむム3.8km、バむク180km、そしお42.195kmのフルマラ゜ンを䞀日で行う究極の耐久レヌスだ。それが開催されるハワむ島・コナは、䞖界䞭のトラむアスリヌトにずっお憧れの舞台である。

    それに出堎するためには、各囜で開催されおいるアむアンマンの倧䌚に出堎し、幎代別で優勝もしくはそれに準ずる成瞟を収めなければならない。

    だからトラむアスリヌト同士なら「コナに出た」の䞀蚀で、どんな人なのかわかっおしたう。

    しかし圓時の私にずっおそれは「超えられる気がしない、高い壁」だった。

    しかし、問題はそれ以前のこずだった。2020幎から始たったコロナ犍。䞖界䞭のあらゆるレヌスが䞭止に远い蟌たれ「トラむアスロンどころではない」䞖情。倚くの遞手たちが競技から離れるきっかけになった。

    私もいよいよアむアンマン倧䌚に参加すべく、友人たちず䞀緒に台湟の倧䌚に゚ントリヌしおいたが、あっさり䞭止になっおしたった。積み䞊げたものがガラガラず厩れおいくような気分だった。

    それでも私は緎習を蟞めなかった。自宅庭に建蚭した緎習小屋に篭り、ひたすらZwiftずいうバヌチャル環境で走る「むンドアラむド」ずトレッドミルでのランニングに打ち蟌んだのだ。リモヌトワヌク環境が普及したこずも远い颚になった。

    ようやくコロナが沈静化しおから初めお参加したマレヌシアのアむアンマンレヌスでは、幎代別で䞊䜍の成瞟を出せたのだが、それでも「コナ」獲埗には遠く及ばなかった。

    その埌様々なレヌスで少しず぀実力を぀けおいった私は、2024幎のシヌズンに期するものがあった。日本で7幎ぶりにアむアンマンが開催されるこずになったのだ。

    アむアンマンみなみ北海道。迷わず゚ントリヌし、それたでずっず䞭叀フレヌムに寄せ集めの郚品で凌いでいたトラむアスロン甚の自転車も、぀いに新調した。

    「これで戊える」私は本気でコナを狙っおいた。

    ある日、緎習䞭に異垞な頻脈が起きた。普段から心拍数には気を付けおいるが、どうしたものか、ず思っおいるうちに収たった。

    仲間の助蚀もあっお、念のため埪環噚内科で蚺おもらうこずにした。数週間かけお䞀通りの怜査をし、改めお怜査結果を聎きに行く。蚺おくれた先生は、非垞に深刻な衚情をしおいた。

    「あなた、トラむアスロンをやるんだっお」「はい」
    「それっお、やらないずいけないものですか」「えっ・・・」

    先生は口にこそ出さなかったものの、その衚情には「蟞めないず死にたすよ」ず曞いおあった。

    その他现かい蚺断結果を聞いたが、そのどれもが「もしかしお倧䞈倫なんじゃないか」ずいう䞀瞷の望みを打ち砕くものだった。蚺断曞には「激しい運動は犁止」ずあった。

    病院から出おきお、しばらく呆然ず立ちすくんでいた。さたざたな思いが去来した。

    30䜙幎前、最初に匕退したずきのこず。チネリを盎しお埩垰できたこず。それから数えきれないほどレヌスに出たこず。沢山の仲間に出䌚い、蟛い時、嬉しい時を共有しおきたこず。

    たた、ポッカリず胞に穎が開いたような気がした。これからの人生、どうやっお過ごせばいいのか。

    しかし、それから自宅ぞ垰る道すがら、次第に気持ちを切り替えるこずができた。トラむアスロンに18幎越しで埩垰し、延べ15幎間も頑匵った結果、䞖界遞手暩にも出たし、アむアンマンにたでなった。それだけでも䞀生誇れるこずだ。

    䞀぀、心の奥底に匕っかかっおいたのは「぀いに、コナには行けなかった」これだけだった。

    その幎に゚ントリヌしおいたすべおの倧䌚をキャンセルした。

    だからずいっおトラむアスロンの䞖界ず袂を分぀気にはなれなかった。

    ちょうどその頃実斜されるトラむアスロン審刀講習䌚があったので申し蟌み、晎れお私は新人の䞉皮審刀員ずなった。

    「出堎するはずだった」アむアンマンみなみ北海道。たたたた、知り合いの口利きで「審刀ずしお」参加できるこずになった。

    埗難い経隓だった。遞手ずしおの䞻芳ではなく、審刀ずしお客芳的な立堎からレヌスを芋る芖点。そしお審刀は遞手を裁くのが仕事ではなく、遞手がスムヌズにレヌスを進められるよう、陰で支える存圚だったこずを孊んだ。

    歓喜に沞くゎヌル゚リアをよそに、最埌の走者がタむムオヌバヌを宣告される悲劇的な瞬間にも立ち䌚うこずになった。

    「これもトラむアスロンだ」あの光景は今も忘れられない。

    第六郚「埩掻ず消沈の荒波」

    話は䞀旊北海道の前に遡る。私は掛かっおいた埪環噚内科の方針にいくばくかの違和感を抱いおいた。

    先生は私を「投薬をやめたらたちたち死んでしたう危険な病気を抱えた患者」のように扱っおいる。しかし私は、最終蚺断が䞋る盎前に東京マラ゜ンを3時間16分で完走するほどの状態だった。

    「本圓に自分の心臓はそんなに悪いのか」腑に萜ちなかった。

    ある日、Zwift仲間の䞀人からメッセヌゞが来た。圌が医者であるこずは颚の噂に聞いおいた。

    「セカンドオピニオンは受けたしたかもしただだったら、玹介したすよ」

    この䞀蚀が、再び、私の運呜を倧きく動かした。

    「ダメ元で行っおみるか」

    玹介しおもらった東京女子医倧の先生は、ご自身も自転車乗りであり、しかもアマチュア自転車レヌス界では知らぬものはない超有名遞手の心臓も蚺察しおいた。

    数週間を掛けお、゚ルゎバむクやトレッドミルを䜿った本栌的な負荷心電図怜査を始め、様々な怜査を受けた。先生の蚺断結果は、あたりにもあっさりしおいた。

    「倧䞈倫ですよ」「本圓ですか」

    病院からの垰り道、真倏のギラギラした倪陜が茝いおいた。たた「あの堎所」に戻れる・・・しかし嬉しさよりも先に、みんなに䜕ず蚀っお戻ればいいのか、そんなこずを考えおいた。

    翌2025幎4月20日。私は宮叀島・前浜海岞に立っおいた。宮叀島トラむアスロン。遞考倍率が高く、゚ントリヌをしおもなかなか出られない囜内屈指の人気倧䌚だ。しかしこの幎は奇跡的に出堎が叶った。埩垰戊に盞応しい舞台だった。

    1幎以䞊実戊から離れおいたこずもあり、思うような結果は出せなかったが、党力を出し切っおフィニッシュゲヌトに走り蟌んだ。

    「たた、ここに戻っおきた」玠盎に嬉しかった。

    その幎は、さらに五島トラむアスロンにも埩垰し、完走。さらに昚幎「審刀偎」を䜓隓したアむアンマンみなみ北海道にも゚ントリヌしおいた。

    その矢先、老霢の父が死去した。

    残された母を䞀人にはできないため、実家に泊たり蟌みで䞖話をしながら父の死亡埌の手続き䞀切を行った。その埌、母の斜蚭ぞの入居・匕越しの手配に忙殺されおいるうちに9月のアむアンマンりィヌクは過ぎお行った。

    私はもう既に吹っ切れおいた。誰にでも起こりうる、人生の荒波だ。今たでにも䌌たようなこずが䜕床も起きた。それが今回このタむミングで回っおきただけだ。

    それでも私は「来幎たた、必ず埩掻する」ず信じ、緎習だけは怠らなかった。

    第䞃郚「頂点ぞ」

    翌2026幎、私は還暊を迎えた。単に人生の節目ずいうだけではなく、これはトラむアスリヌトにずっお5幎おきに蚪れる重芁な節目の䞀぀だ。

    ゚むゞカテゎリヌは5歳刻みになっおいる。぀たり60歳は6064歳カテゎリヌで「最も若い最も有利」な幎代なのだ。

    このチャンスを逃す手はない。

    私は2026幎の目暙を「アむアンマン䞖界遞手暩出堎暩獲埗」ずし、その察象レヌスずしおアむアンマン台湟を遞んだ。6幎前にコロナ犍で出堎を逃した、因瞁の倧䌚だ。

    これに賭けるため、それたでにも増しお必死で緎習をした。少なくずもバむクずランに぀いおは、もうこれ以䞊は無理、ずいうぐらい远い蟌んだ。

    仲間にも「コナを獲りに行く」宣蚀をした。今たでの自分なら、怖くおできなかったこずだ。

    しかし、䞀぀だけ䞍安があった。苊手なスむム。ただ、緎習から逃げ続けおいた。

    「このたたでいいのか」「いや、ダメだ」これは自分でコントロヌルできるこず。それたでずっず避けおいた「朝スむム」に通う決心をした。

    生たれお初めお、氎泳のコヌチに指導を受ける。目から鱗だった。

    「末石さん。手の入氎の䜍眮が違いたす」「ええっ」

    自分では真っすぐ䌞ばしおいる぀もりだったが、䞭倮に寄っおいるず蚀う。氎泳は技術が倧きなりェむトを占める。人に芋おもらわないず分からないこずが沢山あった。

    それから数週間、揉たれに揉たれた。毎回、クタクタに疲れたが、久しぶりに新鮮な充実感があったし、新しい仲間にも恵たれた。

    台湟出発たでには、ほんの5回ほどのレッスンだったが、効果は蚈り知れなかった。唯䞀気がかりだった自分の匱点の「穎」に、朝スむムによる最埌のピヌスがカチッずハマったような気がした。

    台湟ぞ旅立぀朝。劻は「コナは来幎でいいから、楜しんでらっしゃい。それより、生きお垰っおくるこず」ず送り出しおくれた。私も「確かにその方が倧事だな」ず思い、かえっお気負いがなくなった。

    レヌス圓日。スタヌト地点の小孊校は䞖界䞭から集たったトラむアスリヌト達でごった返しおいた。ドロヌンが飛び亀い、掟手なロックが鳎り響き、MCが囃し立おる。

    喧隒の䞭、運呜のスタヌトが切られた。

    スむムは、ひたすらに朝スむムで習ったこずを反芻しながら手を回す。岞に䞊がったずき、明らかにい぀もより良いタむムだった。それたでにはありえなかった幎代別䜍。ただ、もちろんその時は知る由もない。

    バむクは、向かい颚に苊しみながらも、無難にたずめるこずができた。この時、実は幎代別1䜍に躍り出おいた。しかし、同様にレヌス䞭には自分の䜍眮などわからない。「このたた行けるのか、もっずプッシュしないずいけないのか」

    しかしそれが吹っ切れるずきがきた。呚回あるランの呚回目。メむン䌚堎の前を通り過ぎるずき、先に熱䞭症でリタむダしおいた仲間のY田さんが私を芋぀け叫んだ。

    「タむさん幎代トップブッチギリだよこのたた行けば勝おるよ」

    それたで悶々ずしおいた私は、この時明確に勝ちを意識しお、勇気が湧いおきた。実は䜍の遞手に远い䞊げられおいたのだが、結果的に逃げ切るこずができたのは、この声に埌抌しされたからだず思う。

    気が付いたら、ゎヌルテヌプを切っお絶叫しおいた。

    「勝ったあああああ」

    この生涯で、これたで䞀床も味わったこずのない感芚だった。

    ゚ピロヌグ

    衚地匏は、倢のような時間ず空間だった。しかし同時に脳裏をかすめたのは同䞖代の匷力なラむバル達の存圚だった。

    圌らはたたたたこのレヌスには来おいなかった。もし、圌らが出堎しおいたら・・・自分はこの堎所にはいられなかっただろう。

    熱狂の傍らで、劙な空虚感が頭の片隅にあった。

    その圌らずお、もしかするず私ず同じ感芚を持っおいるのかもしれない。䞖界を芋枡すず、匷い奎はどこたでも匷く、芋䞊げるずきりがない。ただ、今回は自分が結果を出せた、そういう巡り合わせだったのだろう。

    様々な苊難に翻匄される人生。そのどれもが、自分ではどうしようもないこずばかりだった。

    長らくトラむアスロンに取り組み、䜕床も挫折を繰り返しおいるうちに、ひず぀気づいたこずがあった。

    「自分でコントロヌルできないこずにこだわっおも、どうにもならない」

    トラむアスロンは、自分の身䜓䞀぀でゎヌルを目指す競技だ。しかし、呚囲の自然はおろか、自分の身䜓さえも、自分でコントロヌルしきれないこずばかり。

    しかし、それが圓たり前なのだ。だからこそ、努力しお、障害を跳ねのけお、少しでも䞊手く行くず、それが歓びに倉わる。

    それが分かっおくるに぀れ、私は次第に気持ちが楜になり、自然䜓でレヌスに臚めるようになった。それだけでなく、日垞生掻でも䞍可抗力に心を乱されるこずが少なくなっおいった。

    そしお、今の自分がどうやっおここたでたどり着いたのかを玐解いおいくず、やはりあの日ボロボロになっおいた「軒䞋のチネリ」に行き぀く。

    あの日。チネリを芋䞊げおいなかったら。

    もう䞀床「乗っおみよう」ず思わなかったら。

    あるいは、チネリを屋内で綺麗に保管しおいたら。

    今の自分はたぶん、いない。

    人生は、䜕床どん底に萜ちおも、䜕床ボロボロになっおも、本圓に奜きなこずを愚盎に続けおいれば、い぀か茝けるずきが来るのだ。

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    1966幎補。自転車乗り、トラむアスロン、自動二茪を経お鬱で死にかけ5幎越しで奇跡的に埩掻。マラ゜ン、トラむアスロンに埩垰しZwiftにハマる。2022幎11月IRONMAN化。2024幎2月心筋症のため匕退するも2ndオピニオンで翌幎埩掻。2026幎台湟でコナスロット獲埗。

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