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しるこ缶

    漏れる息が白く染まる夕暮れ時、ふと気がつくと僕は見知らぬ街角に立っていた。いや、ここが街かどうかすら怪しい。文字は左から右へと流れている。しかし、どうやら東京であることは確からしい。

    しかし、僕の知っている、時代が移り変わりゆく、晴々とした活気のあるモダンな東京ではない。

    まるで神々の国のように、しかし不気味に、太陽を照り返す硝子張りの高塔が空を埋めるように立ち並び、道を行き交う奇怪ななりをした人々は皆、手に奇妙に光る板切れを見つめながら、夢遊病者のように辺りを歩いている。

    馬車や市電の乾いた軽快な音はなく、ただ夥しい喧騒と、頭上を覆って明滅を繰り返す極彩色の看板とが、僕の神経を絶え間なく刺激し続ているのだった。

    震災以来の東京はずいぶんと姿を変えたものだと嘆いていた僕だが、この未来の東京の変貌ぶりたるや、もはや滑稽にすら感じられる。元号は令和といい、百年余りの年月が経っているらしい。こうも目まぐるしい世界になるとは想像もつかなかった。周囲を見回し、はじめに見ていた景色がもう違う景色に変わっているのである。

    そんな異界の地を半日ほど歩き回った僕は、ひどい疲労とそれ以上に耐え難い甘味への渇望を覚えた。

    この未来の街においても、やはりしるこ屋は姿を見せないのだろう。かつて、僕は東京からしるこ屋が姿を消し、どこもかしこもカフェだらけになってしまったことを情けないことだと考えていた。しかし、百年も経ったのだ。新たな甘味に出会わないとも限らないだろう。

    それにしても、この東京のカフェの氾濫ぶりは、筆舌に尽くしがたい。

    街角という街角に、緑色の人魚の紋章を掲げたカフェがあった。そのまた、隣にもそのカフェは姿を現した。あるいは、赤や橙の看板を掲げた似たような店が無数に立ち並んでいる。

    中を覗けば、奇怪な身なりをした若い男女が何やら黒と白が混じり合い、その上に山のように白いなにかが乗ったものに、細い筒をさして咥えている。長い煙草のように見えなくもないのである。

    僕は勇気を出して、その人魚の館に足を踏み入れてみたが、「ヴエンテイ」だの「フラペチイノ」だのという、日本語とも思えぬ呪文のような言葉が飛び交う様に恐れをなして、足早にその場を退散したのである。僕に驚いたのか目を見開いて佇む看板娘であろう一人の女子を残して。

    どうやら僕がゆっくりと足を伸ばせそうな茶屋は、なくなってしまったらしい。

    途方に暮れた僕を迎えてくれたのは、街のあちこちに不気味に立ち並ぶ、光を放つ鉄の箱――「自動販売機」なる神器であった。

    僕はその箱の中に、信じ難い姿を目にした。硝子の向こうに並んだ様々な洋風の飲み物に混じって、細長く小さな赤い鉄の缶が控えめな雰囲気で鎮座しており、そこには確かに「おしるこ」と記されていた。

    僕の時代の「しるこ」は、漆塗りに椀で供されるのが常識であった。それが、このような手に収まるサイズの鉄の缶に封じ込められているとは、思いもよらない。本当に未来にやってきたのだと、この時に初めて実感が湧いた。

    僕は通行人の見よう見まねで、目を疑うほどの額の紙幣を投じ、その「おしるこ」の下にあるボタンを押してみた。機械の下の方にある取り出し口に恐る恐る手を伸ばして、赤い缶を手にした。自動販売機からはジャリンジャリンと音がなっている。随分とやかましいもので風情もなかった為に、足早にその場を去った。

    手にした「おしるこ」は驚いたことに、熱を持っていた。いや、かなり熱い。この短時間で出来立てを缶に詰めてみせるとは、ある種、魔術のようなものと言える。僕は、金属の蓋をこじ開け、湯気が立つ開口部に口をつけてみた。

    甘い。

    確かに、これは僕の知る小豆の甘さで相違ないだろう。底の方に沈んだ数粒の小豆が、金属の縁に当たって中々落ちてこないのは、いささか情緒に欠け、これまでに飲んできた「しるこ」の味には到底及ばない。

    それでも、この鉄の缶に封じられた優しい赤紫色をした甘い液体は、異世界に迷い込んだ僕の孤独な胃と、心をも確かに温めてくれたのである。

    缶の「しるこ」を啜りながら、僕は街を歩く奇怪な人々を改めて眺めた。そこには、僕の居た時代には考えられないほど多くの紅毛人たちが混ざり歩いている。彼らは皆、この極東の島国の景色を珍しそうにしながら、光る板きれに収めている。

    僕はかつて、彼ら相手にでも、「しるこ」は通用し、愛してくれるのではないかと妄想していた。

    しかし、この時代の様相を見ると、それは否定されたような心持になった。

    彼らは今や「抹茶スイーツ」なる緑色の甘味に熱狂し、チョコレートから氷菓子、カフェの飲み物、果ては焼き菓子に至るまで、嬉々として緑色を食らっている。

    しかし、「しるこ」はどうか。この赤い鉄の缶を買い求めている者を、僕はただの一人も見かけていない。彼らは相変わらず、小豆の深い赤紫色の魅力を、煮詰められた甘味の真髄を未だ見出していないのである。

    僕は未来の土地に立ち尽くし、この鉄の摩天楼のどこかで、世界を牛耳るような莫大な富を持つ億万長者が、或いは火星への移住を企てる起業家が、深夜にデスクの前で一人、缶の「しるこ」を啜っている様を想像してみた。

    彼らが莫大な資金を動かす片手間に一缶の「しるこ」を啜り、缶の底に残された最後の小豆の一粒をいかにして取り出すかを思案している様子を。

    缶を仰ぎ、底を叩き、傾け、ついには舌を伸ばしてみる。時代の局面を操るような大物であっても、「しるこ」に翻弄される姿は、想像するだけでも愉快であろう。

    カフェの荒波は、僕の時代よりもさらに暴力的にこの国を飲み込んでいるようだ。しるこ屋はもう絶滅してしまったのだろうか。

    僕の愛した「しるこ」はかろうじて、路上に佇む鉄の箱の中に、その儚い命を宿し、託していた。姿かたちは変われど、僕らの血肉となる小豆の甘味は、この狂気のように発展し尽くした都市の片隅で、今も静かに息づいているのだ。

    缶の温もりが冷め、僕もようやく冷静になりつつあった。少しだけ、この未来の東京を許してもいいような気がしている。街を見つめていると、いつの時代であろうと、人の抱える問題は変わらないのだろうと考えるに至った。

    それならば、「しるこ」の必要性もまた変わらないのだろう。百年も生き延びたのだから。

    僕は空になった缶を近くのくずかごに入れ、無数に輝く光と人の波にゆっくりと向かっていった。どうにも大切なことは山積みである。よほど感極まってしまったが、本来「しるこ」どころではないのである。



    あとがき

    芥川龍之介全集を全冊買ってから、適当に本を開いて、そのページを読むということを一時期していて、その時に出会ったのが彼のエッセイ(随筆)『しるこ』でした。

    これまでに読んだ彼の作品のどれにも当てはまらないテイストを『しるこ』からは感じられたんです。

    私は元々、神経質で落ち込みやすい気質であるのだけれど、この『しるこ』を読んだとき、ほとばしる様な救いを感じた。

    現代だけでなく、この先の未来にも通用する優しいユーモアを彼は持っているのだなと、心に染み入るような儚さを感じました。彼が自殺という最期を遂げたこともあってか、私自身の心の痛みと作品とを無意識に繋げてしまっている可能性もありそうだけど。

    そうして『しるこ』に感化され、もし芥川龍之介が現代にタイムスリップしてきたなら……を突発的に書いてみたのです。

    芥川龍之介と、もし会うことが叶うなら、私はしるこ缶を携えて慣れ親しんだ大きな公園に彼と一緒に行きたい。都会の中だけど、切り取ってしまえば、まるで山の中のようで、ここがどこだか分からなくなる、そんな公園。

    何かから逃れたい時にはどんどん切り取ってしまえばいいと思っています。

    好きな風景でも、場所でも、時間でも。切り取って自分だけの空間にしてしまえばいい。大切な人だけ。気になる人だけ入り込める、そんな空間を。

    彼が現代に生きていたら、どんなふうに生きていただろう。どんな景色を切り取っていただろう。そんなことを考えずにはいられません。


     
     
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