
支流
あらすじ
大震災で家族と故郷を失った奥平璃夢は、避難所で献身的に人々を支えつつ、自らの喪失感を押し殺しながら生きていた。やがて、同級生の早苗との再会をきっかけに、彼女の周囲では、不穏な影が動き始める。カルト宗教団体の幹部が、震災の混乱の中で不審死を遂げ、現場には璃夢の名が記されたカードが落ちていたのである。その後、彼女を犯人と断定する情報が匿名で警察に届き、璃夢は疑惑の渦中へと放り込まれることになる。
璃夢の弟・秀直もまた、成り行きで別の宗教団体と関わりを持ち、事件は一挙に、複数の教団の思惑が交錯する、巨大な濁流のようなものへと姿を変えていく。錯綜する人間模様の中で、物語はやがて、衝撃的な結末を迎えることになるのだった。
1.
未だ各所で悪臭が漂っている、瓦礫の山と化した故郷の町だったが、奥平璃夢(おくだいらりむ)は、その中に、少しずつでも復興の兆しを見い出そうと努力していた。
あれほど頻繁に襲ってきていた余震も、最近になってようやく回数を減らしていたが、それでも揺れてもいないのに揺れているような「地震酔い」の症状は、彼女を含め、ほとんどの住民に現れていた。
生まれ育った家、そして家族までを失くしてしまった二十四歳の彼女は、出来上がったばかりの仮設住宅に移る権利があることを告げられた。が、それを優先的に利用させなければならない人は、他にいっぱいいるからと、彼女は移住を断っていたのである。
その日も彼女は、満面の笑顔を作りながら、高齢の避難者を中心に、精力的に声掛けをして回っていた。
「おはようございます。体調はいかがですか? 寒くなってきましたけど、毛布は足りますか?」
「いや、毛布は大丈夫なんだけどね。夜になると、足が攣ってしまって…」
「それはお辛いですね。水分、少し足りてないかもしれません。あとでお茶、持ってきますね」
「ありがとう。あなたも若いのに、本当によく頑張るね」
若いからこそ頑張れるんですよ、などということを、璃夢はつい言いそうになり、慌てて引っ込めた。
辛うじて形をとどめ、雨漏りなどの応急処置だけ済ませた中学校の体育館で、他の地方からやって来ていた、ボランティアの若者達と寝食を共にし、他の避難民の世話に明け暮れる生活が、もう三か月も続いていた。
その華奢な体には応えるはずだが、璃夢は今の生活を苦と思うことはない。震災で受けた心の傷は、彼女も皆と同じであったが、まるでそれ以外の何かを振り払おうと、躍起になっているかのようにも見えた。
「お昼のおにぎり、配りますね。温かいスープもありますよ」
「ありがとう。でも、子供達を優先してください」
「いえいえ、お母さんもちゃんと食べないと。みんな同じですから」
「私、ここに来て、何日目でしたっけ…曜日の感覚もなくなっちゃって」
「今日でもう、三か月目になります。日が長く感じますよね」
「未だに、自分の家がどうなってるのかも分からなくて…。本当にこの先、一体どうなるんでしょうか」
「不安になりますよね…。何か情報が入ったら、すぐにお知らせしますね。どうか一人で、不安を抱え込まないでくださいね」
ある雨の日に、食事もとらずうずくまっている、高校生ぐらいの女性がいた。見ると、履いているジーンズの股間の部分が、広範囲で赤く染まっていたのである。璃夢は迷わず、声を掛けた。
「シャワー室とまではいかないけど、大きな仕切りで囲われた、洗えるスペースが、こっちの方にあるわ。案内するから、来てちょうだい。
それと、生理用品は、十分にストックがあるから、恥ずかしがらずに、私達に声掛けしてね。お願い、言われないと、私達も、何もわからないから…」
「ありがとう。恥ずかしかったわけじゃなくて、ただ何となく、面倒臭かっただけなんだけど…」
県外から、被災者支援ボランティアとして参加してきた若者の中に、上島早苗という、璃夢とは同い年の女性がいた。彼女は、東京のアニメーター養成専門学校の同期生だったのである。
璃夢は卒業と同時に、幾つかの関連会社の面接を受けたが、結局アニメの夢は早々に諦め、郷里に戻ってきたのである。大震災に見舞われたのは、実家の食堂を手伝う生活もだいぶ板についてきた、それから二年後の春のことだった。
大勢の避難民が集まる体育館で、璃夢と再会した早苗は、本当に嬉しそうな顔をして、相手に近づいていった。二人は在学時、それほど仲が良かったわけではないのだが、やはり卒業から何年も経って、このような偶然があると、何かの縁を感じない訳にはいかなかった。
「お久し振りね。大変だったわね、璃夢。こんなことになっちゃって。そうそう、アニメーターになる夢は叶った?」
「ううん、全然。現場は仕事すごくキツそうだったし、私には向かないかなと思って、早々に諦めたんだ。実家が食堂だったから、しばらくはそこを手伝ってたんだけど、この有様でしょう?
お店で逃げ遅れて食器棚の下敷きになったお母さんも、搬送先の病院で、死んじゃったの。お店は完全に倒壊しちゃったから、もうご飯を作って、みんなに提供してあげることもできない…。
ここでのご飯は、支援物資で何とかなってる。幸い、私は体だけはちゃんと動くから、その分、動けない人達のために、一生懸命働かないと。看護師さんの数も十分とはいえないから、怪我や病気の手当ても、できる範囲になるけど、お手伝いしてあげないと…」
「本当に偉いなぁ、璃夢は…。お父さんだって行方不明になって、弟さんも大変なことになっちゃったんでしょう? 相当にショックだったはずなのに、自分を顧みないで、そうやってコマネズミみたいに動き回って、同じ境遇の人の役に立とうとしてる。まったく頭が下がるわ」
「え…?」璃夢は、目を丸くした。
「 早苗、今何て言った? 父や弟のことを、どうして知ってるの? そんなこと、まだ誰にも話してないわよ」
早苗は苦笑いしながら、立ち上がった。
「貯水タンクを見てくる。一人でもお風呂に入れない人が出てきたら、大変だもんね」
その後ろ姿を、璃夢は呆然としながら見送った。やがて、彼女は確信したのである。早苗がこうして自分と出会ったのは、決して偶然じゃなかった、と。
「こないださぁ、電話があったんだよ。災害復興支援団体の者ですが、義援金を募っています、ってね。その後で、何て言ったと思う? 一万円以上の寄付をしてくれた方には、漏れなくこちらで開発した投資ツールのURLを、無償で提供します、ときたもんだ。
ツールを使えば、寄付をした金額の二〇〇%がバックされるんですよ、災害に遭った方々も喜びますし、あなたも儲かりますし、お互いウィンウィンで、いい話だと思うんですが、だってさ。
アホか、と思ったね。俺は一応言ってやったよ。あんたさぁ、本当に支援団体の人かい?そういう人が変な儲け話なんか、してくるわけがないだろう?ってね。
その男、途端にガラリと態度を変えやがった。寄付を断るってのかい?困ってる人達のために、自分の金を使いたくないだなんて、あんたは血も涙もない人なんだね、だってさ。
もう笑うしかないね。お前が言うな!って言って、電話を切ってやったよ。まったく、最悪の漫才さ。
義援金っていう、人の善意の上に成り立ってるはずの制度を悪用して、金儲けに走る大馬鹿者は、残念ながらいっぱいいる。厄介なのは、これは特殊詐欺全般にいえることなんだけど、人を騙しているっていう自覚がまったくない、思い込みの激しい、確信犯的な奴らなんだ」
恋人の水木和佳に向けて、得々と語りかける無代啓一が住んでいた地域は、被災地からは遠く離れ、一部で長い停電があったものの、比較的被害は少なく済んでいた。が、大地震は日本中に衝撃を与え、受けた心の傷は、皆平等と言ってよかっただろう。和佳が、啓一に応えた。
「その話をすれば、この震災で、遺体が見つかってる死者の数は、全部で約二万人だって。死因の大部分が、津波による溺死で、その次が、自宅などの建物が倒壊して、その下敷きになった人。あるいは火事が発生したために、焼死した人。せっかく避難所まで行くことができたのに、その先で死んだ人も結構いた。
ただ、一件だけ、どの死に方にも該当しない、不審な死に方をした人ってのも、いたらしいわよ。現場は、ホラ、知ってるでしょ? この頃何だか知らないけど、日本中、いえ、今は海外にも進出して、信者を爆発的に増やしてるとか言われてる、春風霊玄会(しゅんぷうれいげんかい)。
普段はそのカルト教団の、信者が集まって何か儀式みたいなことをやってる施設。その中でも、運悪く被災地に建っていた『教会』の一つよ。
死んでいたのは、霊玄会教祖・麻宮龍子の教えを最も正しく受け継ぐとされる、その教団の代表・白神礼導と、その幹部の一人。
教会は半壊状態で、一見すると確かに、崩れた建物の一部が彼らの体を直撃し、死に至ったようにも見える。でも、それにしても遺体の損壊のし方に、不自然な部分がある。
これは、悪意を持った何者かが、地震に乗じて、彼らを手に掛けたとみる方が自然だとして、最近になって、警察が動き出しているのよ」
「なになに、それは初めて聞く話だぞ。和佳って、本当に情報を得るのが早いんだなぁ」
「まあね。実は警察官に、友達がいてね。昔、彼女が警察官になる前から、一生懸命応援してあげてたから、今もたまに、そうして情報を横流ししてもらってるのよ。あ、こんなこと、他の人には言わないでね」
啓一は、なるほどな、と思いつつ、話を続けた。
「つまり何だ、たまたま被災地に信者の砦を築いていたその白神っていう怪しげな野郎と、その腰巾着一人を、震災のドサクサに紛れて殺害し、まるで地震が原因で死んだかのように偽装した奴がいるってことだよな? そんなことが、本当にあり得るのかなぁ」
「うん、可能性としては、十分あり得るんじゃないの?」
「随分と陰湿な真似をする奴がいたもんだな…。と、普通なら怒るところなんだろうが、正直のところ、被害者が被害者だからな、今一怒りの感情が湧かないや」
「啓一、滅多なこと言うもんじゃないわよ。今は警察も神経質になってるから、そういう不用意な発言一つが、何か犯行に関わってると見られても、文句は言えなくなるのよ。
犯人はたぶん、その教団に、家族の誰かを奪われたと感じていた人なんじゃないかな。もっとも教団から『我々は脅したわけでも強制したわけでもない。子供ではない、大の大人が、自分の意思で入信したんだから、家族だってそれを咎める権利はないはずだ。我々に責任はない』なんて言い張られたりしたら、犯人だって、何も言い返せなくなりそうよね。
そうして、信者達は、ただ教団の代表を殺されたっていう事実だけを突きつけて、犯人に対して躍起になって、厳罰を求めていく可能性が高いんじゃないかな。
もっとも、すべては真犯人が見つかってからの話ってことになるけどね」
和佳のあまりにも冷静で的確な分析に、啓一は舌を巻いた。
「スゴいな、和佳。推理作家になれるんじゃないか?」
現場から遠く離れた場所で、刑事でも何でもない一般の人間が、気軽な気持ちで語ったことが、案外現場の真っ只中で見ていると霞んでしまう事実を、炙り出してくれる可能性もあるのかもしれない、と彼は感じていた。
2.
「とりあえず今月も何とか生きていけそうだな」と思い、奥平秀直はポケットの中で、治験の参加確認書を握りしめながら、電車に乗った。「仕事場」は、アパートの最寄りの駅から、私鉄で五駅ほど先の内科クリニックである。
到着した病院で、彼は深呼吸する。入院タイプの治験モニターというものに参加するため、彼はそこで二泊三日間を過ごすことになるのだ。
受付で、まず事前検査の説明を受けた。二十人ほどの治験希望者と一緒に、入院生活や薬の内容、副作用について詳しい説明を受け、問診、血液検査、尿検査を行うのである。
基本的に、市場に出回る前の新薬を試されるため、副作用など万が一の事態があった場合に、理解を求めるための確認事項を記した誓約書にも、署名する必要があった。
入院初日は、事前の採血や注意事項の説明があるのみで、夕食後は自由に過ごすことができる。病院内にはWiFi環境があり、パソコンの持ち込みも自由なのである。
漫画やDVDも豊富に取り揃えてあり、退屈することはない。二日目から、本格的な治験薬投与が始まるのである。その間の採血は、十二回に及ぶ。頻繁な採血にウンザリする者も少なくないが、これも仕事と、秀直は耐えた。
彼はテレビのBS放送を眺めながら、その月の収入を得られる安堵感と引き換えに、身体が知らない薬にどのように反応するのかという不安とも、向き合わなければならなかった。
周囲を見渡すと、誰もがそれぞれの事情を抱えながらも、彼らもまた自分と同様、年齢的には若くても、先のまったく見えない、閉塞感に満ちた日々を過ごしていることが伝わってくる。
やがて最終日、昼前に最後の採血を済ませ、看護師から一通りデータ収集を終えた旨を告げられると、彼はその場で報酬を受け取り、退院していった。
そして、大震災の数日ほど前、二十一歳を迎えた彼は、その日東京都内の、ある雑居ビルの会議室のプレートが貼られた一室で、いわゆるアルバイトの講習会を受けていた。会議室には、三十人ほどの老若男女が集まっていた。
数枚のホチキスで留められたプリントを渡され、いわゆる仕事の概要をハイテンションで捲し立てる若い男の顔をボンヤリ眺めながら、収入を得るために、自分がこれから何をやらされるのか、いや、何をやらなければいけないかを、秀直は次第に理解していった。
男の、ハイテンションな中にも、時にジョークで笑いを誘い会場を和ませる、巧みな話術が続いた。講習会は指定されていた一時間きっかりで終わった。
男からの説明を要約すると、次のようになる。仕事の内容とは、ここに集まった一人一人が、同じ講習会を、どこかのビルの一室を借りて開いてもらう、というものだったのだ。
そういえば会議室に入る際に、受講料の名目で二千円を受付の女に支払っていたことを、秀直は思い出した。集まっていたのは四十人ほどなので、この一時間で、単純計算で八万円が、男の懐に入ったことになる。
人見知りで、講義を開くなんてできないという人のための、パソコンやスマホを使った方法などというものも、ご丁寧に用意されていた。
プリントには「確実に稼げる内職があります」の謳い文句と共に、URLが記載され、それぞれが個人のブログやSNS、あるいはどこかのネット掲示板を借りて、それを貼り付けていくよう勧める。
URLをクリックし、ホームページに誘導されても、詳しい情報に行きつくためには、やはり料金が発生する。この場でセミナーに参加している自分達と同じように、同じ手に引っ掛かって、自分の口座に「閲覧料」を振り込んでくれる「カモ」が都合よく何人もいる、という前提で、その「営業」は成立するのだ。
手口としては非常にシンプルだが、その分ネズミ講のように分かりやすく、手を付けやすい。考えてみれば嘘をついているわけでもないので、詐欺には当たらないと彼らは主張し続けるだろう。
それでも、今回の参加は結局、彼にとっては、空しさしか感じられないものだった。手口があまりにもセコい、詐欺とも商売ともいえないようなものであり、二千円ぐらいは「授業料」としてくれてやってもよかったが、もう同じような話は、聞きたくもなかった。
しかしながら、仕事に対する明確な信念を持たず、金銭に対する誤った認識が独り歩きしてしまっている秀直は、大都会・東京の中にあっては、やはり隙だらけの存在だったのである。
彼は、家族とは元々、離縁同然の気持ちで上京してきた。彼にあるのは、東京で何がしたいという明確な目標では無論なく、ただ何かから逃げ出したいという気持ちだけであり、大勢の人間の中にあって、それぞれが不干渉を決め込んでくれる東京は、彼にとっては非常に居心地のいい場所だったのだ。
当然日々の生活も、刹那的で行き当たりばったりなものになってゆく。仕事もただ日銭を稼ぐという感覚であり、今や多くの若者が同じような感覚に陥っているようだが、バイトの情報を運んでくれるスマートフォンこそが命綱だった。
そして、彼は見つけてしまった。これまであまりにも安易な道を歩み続けてきた報いを、一気に受けることになる、決定的な情報を。ウマい話には、必ず裏がある。頭では分かっている。分かっているつもりでも、秀直のような若者には、もしかしたら…という期待感が、どうしても拭い去れない。
仕事の募集内容は「簡単なイベント関連の調査補助」とだけ書かれており、短期どころか、一日のみの採用だった。年齢・経験不問はいいのだが、手取りが破格だったのである。
「三十万円?たった一日で?」
いかにも怪し気だったので、スマホ画面をすぐにスクロールするつもりだったが、彼の指は勝手に止まり、いつの間にかその画面に目が釘付けになっていた。そして…次の瞬間、彼の指は、先方の電話番号をタップしていたのである。
指定された日時・場所では、控えるよう言われていたナンバープレートを付けた黒い車が、確かに待っていた。早朝の駅裏駐車場は空気がひんやりし、秀直の身は余計に引き締まった。
運転席で彼を待っていたのは、寺島と名乗る、スーツ姿の、今風の眼鏡をかけた、一見すると優(やさ)男風の三十代ほどの男だった。
寺島は車をアイドリングしたまま、渡された履歴書替わりの「個人情報書」にざっと目を通すと、さっそく話を始めた。語り掛ける調子は柔らかく、どこか安心感を誘われた。
「景気が少し上向いてきたとはいっても、若い人達にとってはまだまだ辛いよねぇ。どう? お金が欲しいでしょう?」
「はい、勿論」
「正直でいいね。よし、では早速」
寺島は車に積んであった黒いリュックサックから、何やら封筒を取り出し、秀直に手渡した。
「これには用意した君の取り分の半分の金額が、手付金として入ってる。残り半分は、君がするべきことを成し遂げた後に、この個人証明書に記載されてる口座番号に即行で振り込んであげる」
秀直は封筒を開け、中身を確認した。現金十五万円が確かに入っていた。これでもう後には引けなくなり、彼はこれからさせられることの重大さへの予感に身震いした。寺島は続ける。
「奥平君、今回君にやってもらう仕事はね、確かにお金も稼げるけど、実はそれ以上に、世の為人の為になる仕事なんだよ」
「……」
「宗教団体・光輪真理会のことは、テレビでもよく出てるから、君も知ってるよね? その教祖・天城法元が、遊説先の中国から帰国し、今日これから、築地にある本教会に、登壇することになっている。総幹部会は毎月行われているが、多忙を極める天城本人が顔を見せる機会は、そうそう無いんだ。
今回も教祖を始めとした主要幹部が中心となった総幹部会だが、一般信者も多数参加する。まず君にやってもらうのは、その信者の一人に近づいて、教義に興味があるフリをして、友達関係みたいになってもらうことなんだ。
いや、大抵の信者は警戒するだろう。まずは各地にある最寄りの教会で毎日のようにやっている集会に参加し、入信の意思を示すのが先だ、とね。何故なら、いわゆる『一見さんお断り』の店と同じで、紹介者がいない『客』というものは、いきなり信頼を得るのは難しい。ましてや教祖が登壇する最高幹部会ともなれば、周辺の神経がピリピリしてしまうのは、どうしても避けられないことなんだ。
そこを何とか君の才覚で、一人でいいから仲良くなってもらい、うまい具合に教会に潜入するきっかけを作ってほしい。それさえできれば、もうしめたもんだ。後は何か手段を講じて、我々に情報を送ってもらう。それが今回の、君の役割なんだ」
「…それって、スパイってことですよね?」
寺島は、これには答えなかった。
「我々自身も、依頼を受けた身だ。この案件の本当の目的は、実は我々も知らされていない。ただ確かなのは、これが絶対に世の中を変えるきっかけになるんだという信念を、その方から聞かされ、我々も心を動かされたということなんだ。
とにかく、君自身は我々の指示にだけ従い、ただお金を受け取ってくれればいい」
先ほどのリュックから、彼は大き目の手提げ鞄を一つ取り出し、秀直に差し出した。鞄を受け取り、言われて中を開けてみると、中には、小冊子なども含めた何冊もの本が、溢れんばかりに入っていた。
「これらの本はみんな、教祖天城の著作になるものだ。本当は、我々にとっては何の価値も持たないものさ。これらはみんな、真の目的を達成するための、ただのカムフラージュなんだ」
見ると、確かにすべての本の表紙に、天城法元の名がある。秀直は一冊を手に取ると、パラパラとめくってみた。そこには何の用語ともつかない怪し気な言葉が、尤もらしい文章を紡いでいた。それらの文章は彼の頭の中で理解される前に、泡のように消えていった。確かに彼にとっても、何か価値のある本とは思えなかったのである。
寺島はリュックから、今度はガラケーを出してきて、秀直に渡した。
「これはプリペイド携帯だ。何かあったらその都度、自分のスマホではなく、それを使って連絡してくれ。ただし分かっているとは思うけど、連絡はトイレなど、絶対に人目につかないところでね。
さて、ここまでで、何か質問ある?」
「……」
「どうかした?」
「いえ、別に…大丈夫です」
「そうか。確かに緊張するよね。本当ならこれは、誰彼には任せられない仕事なんだ。会ってすぐに、君にだったらぜひやってもらいたい仕事だと、僕は思ったんだよ」
その言葉で、秀直の警戒は簡単にほぐれ、表情の緩みにも、ついそれが出てしまった。そこへ、寺島が具体的な指示を出してくる。
「鞄の中に入ってる指示書には、本教会までのルートが書いてある。JRと東京メトロを乗り継いで、目的地に着くまでの間に、指示書の内容をよく読んで、頭に叩き込んでほしい。そして目的の駅まで着いたら、その指示書きはできるだけ細かく破って、ゴミ箱に捨てるかトイレにでも流してほしいんだ。出来るかい?」
「………」
ここまで話を聞いて、自分がこれから本格的なスパイ活動に関わるということを知って、秀直はビビると同時に、自分がまるでドラマに出てくる影のあるヒーローになったかのような錯覚を起こし、妙な興奮を覚えたのだった。
「さあ、僕と君が直接顔を合わせて話ができるのは、ここまでだ。これからは君一人だよ。指示書きをよく読んで、くれぐれも書かれてあること以外はしないでね。では、携帯からの情報を待ってる。健闘を祈るよ。あ、まずは深呼吸を一つして」
秀直は寺島に見送られながら車を降り、駅舎までの道を、緊張の足取りで歩いていった。
本教会への潜入は、思った以上に順調に出来た。何よりも、教団の雰囲気が、寺島から聞かされていたほど、閉鎖的ではなかったことに、秀直は少し驚いていた。
中堂と名乗る、ベテランの信者らしい男と目が合い、どちらからともなく声を掛けた。そしてすぐさま鞄の中の本を数冊取り出し、自分は何も分からないけど、これを読んで、教団に興味を持ったなどということを、秀直は白々しく語った。
中堂はその発言に何の疑いも持つことはなく、いやぁ、今日の君はラッキーだよ、この光輪真理会でも、滅多にご尊顔を拝することさえできない天城法元先生から、直々にお話を聞くことができるんだからねぇ、などと、まるでアイドルの生ライブを控えた熱狂的なファンのような顔で、彼は本当に楽しそうだった。
考えてみれば、宗教団体というものは、どこでも自分達の教義こそが絶対的なものと信じて疑ってはいない。教団に近づいた真意が別にあろうが、そんな疑念は仮に見えても、あえて見ないよう無意識に目を背けている。
自分達に同調してくれる者を一人でも多く増やしたいという熱意のみで、基本的に彼らは動いているのだ。教祖や幹部に対する保安の部分が、結果的にどこか疎かになることは、必然のようなものだった。
広場前では、一応の持ち物検査があった。指示書きの内容は、記憶力には自信のある若い秀直の頭に残らずインストールされ、指示書き自体は影も形もない。寺島に繋がる情報を示すものは、鞄の中には何もないはずだった。
実際に、検査に携わった者達は、鞄の中に山を成している教団関係の本ばかりを嬉々として手にし、何かを疑う素振りも見せない。中堂とも同伴ということで、秀直はすんなりと広場を抜け、本教会講堂まで通してもらうことができたのである。
講堂は驚くほど広く、正面には金でまばゆく表装された、三体の巨大な千手観音像が、それぞれに後光を背負い、めいめいのポーズをとっていた。
三体から睥睨されるように居並ぶ、白装束の信者達の数は、延べ二万ほどである。幸いにも秀直のような、白装束ではない、一般からと一目でわかる参加者も数多く見られ、特に彼が目立つことはない。
写真・動画撮影は禁止されていたが、講堂脇にはテレビの撮影隊らしき者達がスタンバイしていた。
教団が彼らを歓迎しているとは思えなかったが、彼らからは、やましいことを何もしていないのだったら、宣伝効果を出すためにも、テレビは利用した方がいいんじゃないか、などと吹き込まれ、黙認させられていたのかもしれない。
中堂からトイレの位置を聞き出し、秀直は席を立った。あまりにも広過ぎるため、後で元の席が分からなくならぬよう、席に置かれたままの鞄には、GPSが付けられるという配慮がされていた。
個室の便座に座ると、秀直は渡されていた携帯を手にとった。寺島が出ると、小声でその時点で分かったことを、迅速に伝えた。中堂の信頼を得て、潜入に成功したこと、豪華絢爛な講堂の様子、参加していた信者のあまりの多さに圧倒されたこと、テレビ中継がされるらしいことなどである。
「上出来だ。この後、いよいよ天城が登壇する。身辺警護役の幹部も一緒に出るはずだから、その様子なども覚えて、後で知らせてくれ。天城のスピーチの内容などはどうでもいい。では、引き続きよろしく頼む」
その時、突然トイレのドアをノックする者があり、秀直は慌てた。携帯での通話は終了したが、緊張のあまり便座で本来の用を足してしまい、知らぬうちに留まる時間が少し長くなっていたのだ。
席に戻ると、ああ、ついに教祖様の声が聞けるよ、と隣の席の中堂は、興奮を抑えられないようだった。秀直もまた、二度目の連絡を控え、神経を研ぎ澄ませていた。
やがて、千手観音像の足元からは、円い台座の形をしたステージがせり上がってきた。上には、三人の男が乗っていた。二人の幹部を従えた、教祖・天城法元が、ついに姿を現したようである。
秀直は拍子抜けする思いだった。背の大きな幹部に挟まれるようにして姿を見せたのは、身長が二人の半分ほどしかない、それでいて妙に横幅の大きい、醜く肥った男だったのである。幹部の背が特に高かったわけではなく、教祖が特別小男だったということだ。
確かにテレビでは観たことがあるが、その映像は何十年も前の、今より多少はマシな若い頃のものであり、それがニュースの映像では、数十年経ってからも使われていたということだ。報道とは映像ではなく、情報内容の新しさが重要なのである。
何にしても、彼のどこに、多くの若者の心を掴むカリスマ性があるのか、秀直にはサッパリ分からなかった。結局は容姿ではなく、いい事を言っているかどうかでも無論なく、声が大きいことと、身振りが大袈裟であることが重要なのだろう。
天城はステージ上から、まず眠気も覚めるような一喝するような大声で何かを喚き、その後ゆったりとスピーチを始めた。内容はおそらく手元にある本と同じようなことだろう。
訳のわからない用語の寄せ集めでも、盲目的に彼の言葉を信じて疑わぬ者達にとっては、麻薬のように心地いいものなのかもしれなかった。実際、DVDで彼の容姿、話し振りに繰り返し繰り返し接してきていた中堂などは、ただ何も考えず彼を無条件で褒め称え、隣の席で陽気にはしゃぐのみであった。
むろん秀直にとっては、さして耳を傾ける気にもならない。周囲の酔いしれるような反応があっても、いや、そのような反応があるからこそ、彼の気持ちは白け、冷めていく一方であり、その場にいることが、退屈を通り越し、ただただ苦痛でたまらなくなってきていた。が、そんな彼の気力を支えていたのは、やはり使命感ということになるのだ。
やがて、彼はボンヤリと、寺島のことを考え始めていた。
そもそもこの仕事とは、いったい何だろう。大金をかけて、自分にこんなくだらないスピーチの様子などを報告させて、彼は、いや彼らは、いったい何を得るというのだろうか…。
その時だった。思い掛けないことが起こったのである。
一向に終わりの見えなかった天城のスピーチを一瞬にして掻き消す、非常に大きな破裂音が、講堂中に数発、立て続けに響き渡ったのだ。
発生源は、あろうことか、秀直の足元だった。よく見ると、そこに置いていた、寺島から預かっていた鞄の底の方から、白い煙が上がっていたのである。
信者達が、一斉にどよめいた。壇上では幹部の一人が、天城の盾になるように、彼に覆い被さるような形になった。確かに破裂音は、銃の発射音に聞こえたため、続けての発砲を警戒しての行動だった。
彼らの視線は、秀直に一斉に注がれた。中堂も、まさか君が…?とでも言うように、裏切られた失意の目を、彼に対して向けてきたのである。
「ち…違う! 違うんだ!」
言うよりも先に、彼は鞄を置いたまま、反射的に椅子を倒し、その場から逃げ出そうとしていた。
「待ちやがれ! この野郎!」
一転して言葉の乱暴になった複数の信者が、彼を追いかけ、すぐに追いついた。そのまま床に引き倒すと、肩を押さえつけ、右腕を後ろに回し、たちまち彼は身動きがとれなくなってしまった。
体を押さえつけていた信者の一人が、彼の着ていたジャケットのポケットをまさぐった。破裂音を銃の発射音と誤解し、そこにピストルか何かを忍ばせていると思ったのである。
ピストルの替わりに出てきたのは、寺島から渡されていた携帯だった。それを使ってすぐにでも寺島に電話をし、事の真相を問い質したかったが、それももはや叶わなくなった。が、信者達が注目したのは、ポケットに忍ばせていた、もう一つの物だった。
「貴様…春風霊玄会の回し者だな?」
秀直は何のことかまったく分からず、沈黙するしかなかった。もう一つの物とは、彼が封筒のままポケットに突っ込んでいた、仕事の報酬の一部だった。信者達が着目したのは、その封筒の方だったのだ。
中身の現金にばかり目を奪われ、封筒の方をろくに見ていなかった自分に、秀直は気がついた。他の手に移ってしまったが、確かに改めて見ると、封筒の表には何やら大きく象徴的なマークが描かれ、春風霊玄会の文字も見えた。
おまけに中身が、十五万円もの、少なくとも彼にとっては大金である。そういうものを彼が所持していたことは紛れもない事実であり、自分はその団体から雇われてはいない、何も知らなかった、は到底通用しなかった。
「寺島…」
秀直は恨みがましい思いで、その名を小さく呼んだ。
ここぞとばかりに走り寄ってきたのは、やはりテレビ局の者達である。信者達に腕を掴まれ、警察に引き渡され、パトカーに押し込まれるまでの間に、秀直の顔は、テレビカメラに無遠慮に収められてしまった。
多くのカメラのフラッシュが焚かれ、彼らは矢継ぎ早に何かを口々に質問してきたが、彼にはほとんど聞き取れなかった。正確には、心に鎧戸を下ろし、何も耳に入らないようにし、一切の返答を避けたかったのだ。
このすぐ後に、実名報道されるであろう自分の存在を、このような形で全国に知らしめてしまった影響力とは、どれほどのものなのか…。むろんこの時点での彼は、とてもそこまで考える気にはなれなかった。
そして、ようやく騒ぎが収まったと思った時には、秀直の身は、警察署内にあった。取調室で一通りの事情聴取を受け、彼はそれまでの経緯を、問われるままに、嘘も包み隠しもなく答えた。
当人の過失が一応認められたため、その日は処分保留として、帰宅が許された。許されたはいいが、盗られてしまった十五万は戻ってはこない。振り込むと言われていた残りの報酬も、もはや絶望的だ。明日からの生活をどうしよう…。
そんなことを考えながら署内の廊下を出口に向かって歩いていると、彼を呼び止める声があった。頭頂部の禿げた初老の男で、嘉村と名乗る刑事だった。
「奥平君だったよね。この度は災難だったねえ。まあ、これに懲りて、次からは、変に高額なバイトは、怪しいと疑ってかかって、安易に手を出さないことだね」
秀直は、ムッとなった。
「そんなことは、取調室でもさんざん言われましたよ。でもあなた方は、本当にお金に困ったことなんてないでしょう? 何が怪しくて何がそうじゃないかなんて、生活に窮してたら、考える余裕なんてありませんよ」
明らかな開き直りだったが、嘉村は咎めることもなく、穏やかに話を進めた。
「いや、実は私は、君が関わってしまった春風霊玄会のことについて、今いろいろと調べている最中なんだ。君にも少し、協力をお願いしたいと思ってね。
聞いたとは思うが、君が自称・寺島から預かった鞄は、二重底になっていて、連中が喜ぶような、多量の本もカムフラージュになって、連中が行う甘々な持ち物検査では、その底の底の方にとんでもないものが仕掛けられていたとは、到底分からないようになっていた。
カムフラージュは、君自身に対してももちろんそうだが、寺島自身も、知らされてなかった可能性がある。
鞄の二つ目の底には、タイマー式の、つまり時間が来れば動作する仕掛けになっていた発火装置と、爆竹のようなものが仕込まれていた。これにより、何者かが何者かの命を狙って発砲事件を起こしたという時間を演出する。
具体的には、光輪真理会教祖・天城を標的として、刺客が差し向けられたという筋書きだ。むろん知っての通り、実際には誰も銃撃によって死んでも傷ついてもいない。この教団に向けての『警告』が、そもそもの目的なんだ。それでは、いったい誰がそのような手の混んだことを企んだのか。一見すると、光輪真理会と敵対関係にある、春風霊玄会のようにも思えるよねぇ」
「そういえば、あの男は、こんなことも言ってました。『我々自身も、依頼を受けた身だ。この案件の本当の目的は、我々も知らされてはいない。ただ確かなのは、これが絶対に世の中を変えるきっかけになるんだという信念を、その方から聞かされ、我々も心を動かされたということなんだ』と…。『我々』というのは、春風霊玄会のことじゃないんですか?『その方』とは、霊玄会の教祖のことじゃないんでしょうか」
「霊玄会ではないと、私は踏んでいる。自称・寺島は、あのような騒ぎを起こして、霊玄会と光輪真理会との反発を煽ることによって、得をする側の人間だよ。君は不運なことに、その争いに巻き込まれたということになるんだ」
「何ですか、それ。まるでヤクザ同士の陰湿な抗争じゃないですか」
「そうとも言えるな。大体、組織というものは、大きくなればなるほど、まるで組織自体が、意思を持った巨大な化け物のようになりがちなものなんだ。特に暴力団や過激な宗教団体といった反社会勢力は、その傾向が強くなる。
そこに属している一人一人の人間も、本当はその化け物の操り人形としての行動をとっているに過ぎないのに、まるで自分の意思で行動しているかのような錯覚に陥り、結局はいいように利用され…終いには自分の人生そのものをダメにしてしまうことになる。団体の代表、つまり教祖や組頭と呼ばれる者達でさえ、組織という化け物からは、利用されているに過ぎない存在なんだよ。
例えば大病院、それに我々警察なども、組織である以上は、そうなる危険に常に晒されていると、私は思っている。
病気を一つでも多く治し、人の命を守る。犯罪を一つでも多く失くし、人々の保安に努める。医者・警察官の一人一人が、そんな当たり前のことだけを、本来は考えていくべきなのに、いつの間にか病院が、警察機構全体が、組織として大きく膨れ上がっていくに従って、派閥とかくだらないことに囚われて、どこか本来の役割が疎かになりがちな不安感を醸成している。
奥平君、君だけに言うんだけどね、私は一刑事だが、自分の良心だけを信じて、普段仕事をしている人間だ。警察機構など、私にとっては、ただ利用するだけの存在なんだよ。
私の名は、嘉村重松。先ほども言ったように、様々な捜査の上で、今後も君には協力をお願いしたいと思っている。どうだろうか?」
「………」
秀直は、事件の概要に始まって、自己の哲学にまで話が及んでいった嘉村の暴走ぶりに最初は面食らった様子だったが、やがて相手に対し「何てカッコいい人なんだろう」という思いが生まれていった。そして、彼は決意したように言った。
「はい、こちらこそよろしくお願いします」
そう言って別れ、警察署の玄関先から外へ出たところで、秀直は再び、嘉村に呼び止められた。同時に嘉村は、足早に歩み寄っていき、秀直のジャケットのポケットに、何かを突っ込んできたのである。
「鞄、携帯、封筒は、我々の方で押さえた貴重な証拠品だから、当然本署の方で保管する。本当は中身の方もダメなんだが…これは君が持つ資格があるといっていいだろう。私の方の勝手な判断だから、くれぐれも他言は無用にね。それじゃまた」と言って、嘉村はすぐに署内に消えていった。
大通りを挟んだ、署の向かい側の公園で、秀直はポケットに突っ込まれたものを確認した。すると…それは何と、クラフト封筒に入れ替えられた、あの時の十五枚の一万円札だったのである。
「ありがとう、ありがとう、嘉村さん…」
彼は公園の植え込みの辺りから、署の建物に向けて、封筒を握りしめたまま、何度も何度も頭を下げた。
「嘉村さん、春風霊玄会のナンバー2と目される白神礼導が、会の拠点となる施設を、今度は自身の生まれ故郷である町に完成させたという情報を得ましたよ。近隣住民の反対など、見て見ぬ振りなんでしょうね。まったく、困ったもんです」
刑事課で、突っ立ったままの嘉村に対して報告をしてきたのは、彼の相棒とも呼べる威勢のいい若手の刑事、双見である。嘉村は双見を一瞥し、すぐさま視線を、元の大きな窓に戻した。そして、ポツリと言ったのである。
「本当に、困ったもんだよね…。それよりも双見君、窓の外を見てごらん。何だかあの雲の形、異常だよ。何だか今までにない、大変なことが起こりそうな予感があるんだけど…」
「そうですよね。予報では、天候は明日相当に荒れるらしいですよ」
「天候が荒れる…ねぇ」
そして…南東北を中心とした各地が、日本全土を震撼させる、全世界の終焉かと見紛うばかりの大震災に見舞われたのは、まさにその翌日のことだったのである。
3.
震災のあった翌々年の十一月、璃夢を含めた、市民のほとんどが、仮設住宅への移動を完了させていた。
住宅は、やはり急ぎの形で作られるため、一つ一つは箱型の量産タイプがほとんどだったが、中には、バス・トレーラー・コンテナ車などの、大型車両を改造した、ユニークな形態のものも存在していた。
仮設とはいっても、電気・水道・ガス、そしてネット回線に至るまで、あらゆるライフラインが、すべての住宅の中で再現されており、住民の希望次第で、そのまま永住も可能となっていた。
あれから璃夢は、強い勧めに根負けした形で、トレーラーを改造した、仮設というにはかなり大きく立派な住居に、一人で移り住む決心をようやく固めた。
体育館の片隅に寝泊まりする生活も長かったが、いざそう決めてみると、当然のことながら、やはり非常に居心地のいい空間に、満更でもない思いだった。
なぜ仮設に移り住むことを、長く拒否していたかについては、むろん彼女なりの理由があった。
自分は他人の施しを受ける資格などない、自分の家族について、あまりにもいろいろあり過ぎたから、せめて自分だけは、他人の役に立ちながら、いえ、いっそのこと、見知らぬ誰かの犠牲になって、死んでいってもいい…そんな気持ちだったのである。
これまでの、見知らぬ誰かの身辺の世話に明け暮れることは、彼女にとって心を空っぽにできる、非常に貴重な時間だった。が、それも長くは続かなかった。
ある日、ついに過労で倒れ、彼女自身が世話をされる身になってしまったのである。情けなさに、涙が出た。
そのような経緯を経て、トレーラー住宅に移り住んだ彼女だったが、設置・接続まで、ついすべてを人任せにしてしまったテレビで、その日は何となく、ベッドに横になりながら、過去の沖縄地上戦のドキュメンタリーなどを観ていた。
地震は人の手で引き起こされるものではない。が、戦争などという、わざわざ人の手によって起こされる愚かしい破壊行為が、昔と変わらず、未だに世界各地で行われている、という現実がある。
瓦礫の山と化した生まれ故郷を目の当たりにし、再現された映像で見ていた、戦時中の同じような風景が重なり、彼女は、どうしてもやり切れない思いに襲われてしまった。
「本当に、本当の意味で、果たして復興できるのだろうか。この町は、この世界は…」
そんなことを呟きながら、いつの間にかベッドに突っ伏してしまい、住宅の玄関チャイムがせわしく鳴っていたことにも、彼女はしばらく気がつかなかった。
よろよろと起き上がり、玄関まで出てみると、そこに立っていたのは、二人の警察官だったのである。女子警官の側が警察手帳を見せ、早口で話を始めた。
「お休み中のところ、大変恐れ入ります。現在一軒一軒を回って聞き込みをしている最中でして、震災の傷跡が生々しい今、皆さんが大変な思いをされていることは重々承知なのですが、事態は深刻なんです。どうかご協力を、お願いできないでしょうか」
「はぁ…まあ、いいですけど」
「ありがとうございます。早速なんですが…倒壊した数多くの建物の中に、最近になって出来た、ある新興宗教の施設があったことは、ご存じでしょうか」
「はい、それはもちろん。この辺でも、随分と前から、退去を促すプラカードを掲げる人達が何人もいたのに、それを一切無視して、強引に建てられた教会だったんですよ。本当にもう、迷惑でした」
「ですよね。それで…その施設の中では、宗教団体の代表と、側近2名が死亡していました。当初は、地震の際に生じた、建物の損壊による災害死と認定されました。しかし、改めて調査した結果、そう言い切れない部分が数多く出てきたんです」
「どういうことですか」
「教会は、壊れたといっても、出来たばかりのごく新しいもので、いわば頑丈に造られていました。地震後も、周辺の、原形をとどめないほど激しく損壊した建物に比べると、鐘のある塔など、形として残っているものが、比較的多かったんです。にも拘らず、その中にとどまっていた二名の遺体の損壊の程度が、不自然に大きかった」
「それって、殺人事件ということですか?でも私は何も知りませんけど…。いえ、それ以前に、何も関わりたくはないです」
警官は、それには答えなかった。
「奥平さん、お疲れのところ大変申し訳ないんですが、とりあえず署までご同行願えないでしょうか。見て頂きたいものもありますし、どうしても詳しくお話を伺いたいんです。お願いします」
「え?一人一人に話を聞くだけって言ったのに、どうして私だけ…?」と璃夢は怪訝な表情を浮かべたが、警官の何やら有無を言わせぬ調子に気後れしてしまい、彼女はとにかく早く事が済んでくれることを願いつつ、外出の支度をしたのだった。
一人パトカーに乗せられ、彼女は地元の警察署の取調室に通された。テレビドラマでしか見たことがなかった取調室の机が、彼女の目の前にあった。有名スーパーの、キャッシング機能のないポイントカードが、パッキングされた状態で、そこに置かれていた。
「奥平さん、このポイントカードは、君のだよね? ホラ、ここに、名前が直書きしてある」
彼女にそう尋ねてきたのは、机を挟んで彼女と向き合う、双見刑事だった。
「はい、これは、確かに私のです。そこに書いてあるのは、確かに私の名前です。買い物中に店の中で落としたと思ってました」
「どこにあったと思う? 実はこれは、半壊していた例の新興宗教の施設内で、不審の死を遂げていた男達の死体の、すぐ傍に落ちていたんだよ」
「え…?」
彼女の頭の中は、一瞬真っ白になった。そして…次の瞬間には、彼女の言葉は奔流のように溢れていたのである。
「もしかして私、疑われてますか?そんな… 私は、あの人達を殺してなんかいません! 大体、あれだけの大きな地震の中では、自分や家族の身を守ることだけでも、自分の家の心配をするだけでさえ精一杯で、心が一杯一杯だったんですよ。誰にとっても、そうだったはずです!
それなのに、わざわざどこか別の場所まで行って、わざわざ誰かを殺してくる…そんな人がいるなんて…そんな人がいること自体、信じられません!」
彼女の声のトーンは著しく上がり、目からは涙も溢れて止まらなくなってきた。いったい、この感情の昂ぶりを、どうやって抑えたらいいのだろう…。
双見は慌てて立ち上がり、手で制した。外から様子を見ていた先ほどの女性警官も、すぐに中へ入ってきた。
「どうか落ち着いて。君の言っていることは、確かにもっともだ。それは重々、分かっているよ。我々が君を疑っていると思われても、仕方がないのかもしれない。でもどうか、心を落ち着かせて聞いてほしいんだ。順番に、ちゃんと説明するから」
双見は、掛けていた眼鏡を直してから、言った。
「確かに大震災直後は、とにかく生存者確認、要救助者への対応、そして無事救出できた人々への、一刻も早いライフライン確立…そのことに我々警察を含めた、ありとあらゆる人々が、それこそ心を一杯一杯にして当たってきたと思う。
そんな中で、不幸にも亡くなってしまった方々が、それぞれどういう亡くなり方をしたのか、不審な死に方をした人はいなかったか…そこまでの調査が後回しになってしまうことは、どうしても避けられなかった。それは分かるよね?」
「はぁ…」
「だから改めて、状況が落ち着いてから…いや、本当は全然落ち着いてはいなかったんだけど、ようやく我々の方での、一つ一つの被災家屋の実況見分をするという流れが、次第に出来てきた。
そして、警察の目線から、これは明らかにおかしいと思える現場を発見した。それが、春風霊玄会の施設だったというわけなんだ。
このことについては、特に秘密裡に捜査を進めていたわけではないので、情報はいつの間にかネットで流されていて、一般の人達にも多少知られることになったようだが、マスコミには、捜査の進展の妨げになるとして、大々的な報道は今のところ控えてもらっている。
奥平さん、一通り説明は受けたと思うが、亡くなっていた白神礼導と二人の幹部には、災害死というには不自然な部分、つまり何者かによって殺害された形跡があり…そして現場に、このカードが落ちていた。君としては不本意でも、これは紛れもない事実なんだ」
「………」
「そして、ここからが重要だから、よく聞いてくれ。実は警視庁の方に、つい先日、ある情報が匿名で届いた。今からその全文を、こちらのパソコンから見せるから、どうか落ち着いて、目を通してほしいんだ」
机の上にすでに置かれていたパソコンが、女性警官によって開かれ、すぐに警視庁のサイトの、情報提供フォームに寄せられた情報が見られる画面まで導かれた。
言われた通り、そこに打ち込まれた文章に一通り目を通した璃夢は…顔面蒼白になり、座っていた椅子から、床に崩れ落ちそうになってしまった。落ち着けと言われても、無理な話だった。
そこには、まるで一人の人間の身辺調査の結果と思えるような内容の文章が、異常に詳しく綴られていたのである。内容は、読んでいけばいくほど、彼女自身と、あまりにも符合していた。
震災で亡くなる前、食堂を営んでいた頃、売上のほとんどを、当時心酔していた宗教への献金に充てていた母親のこと。
そんな母に早くから愛想を尽かし、まだ学生だった娘とその弟を残して失踪。その後聞いたところでは、ホームレスとなって、どこかで野垂れ死にしたらしいと聞く、破滅型の父親のこと。
将来に何の夢も望みも持てず、父とさほど変わらないその日暮らし。挙句には母が献金していた宗教団体と、闇バイトを通じて間接的に関わることになり、ニュースにまで出てしまった、根無し草の弟・秀直。
これらの、何かとこの宗教団体に翻弄されてきた家族の経歴。これらの事情から、璃夢という女性が、この団体への憎しみを、長期にわたって募らせてきたという事実。やがてすべてが、当の宗教・春風霊玄会のナンバー2であるである白神礼導を、彼女自身が殺害する動機へと繋がっていった…とする、暴走したストーリー。
トドメは、文章の最後に貼り付けられていた、彼女の実名入りの顔写真である。「この女が犯人です」という文言も添えられていた。
「ひどい…いったい、誰がこんなことを…。私の家族のことまで詳しく…あっ!」
彼女の中から思わず大声が漏れ出た。早苗のことを思い出したのだ。
「どうかした?」
「いえ…何でもないです」
一呼吸置いて、彼女は言った。
「ねえ、刑事さん。私、逮捕されるんでしょうか? ポイントカードのことといい、ここに書いてあることといい、状況はみんな、私にとって、不利なことばかりですよね」
「いや、それはないよ。メールの内容も、あまりにも一方的だし、君を陥れるための、悪質な嫌がらせと、こちらでは見ているよ。カードだって、君に罪を着せるために、たまたまそれを拾った誰かが、わざと落としていった可能性が高い。たぶん、これを書いたのと同一人物だろうがね」
「よかった…」
「何にしても、これを書いた人は、君のことをストーカーみたいに、本当によく調べ上げてる。君、これ書いた人に、心当たりがあるんじゃないの?」
彼女は一瞬ドキッとしたが、慌てずサラリと否定した。
「いえ、ありません。サッパリ分かりません」
「本当に?」
「本当です」
「まあいい。今後も話を聞くことがあると思うけど、今日のところは、もう帰っていいよ。家まで送ろうか?」
「いえ、それには及びません。パトカーにはそう何度も乗りたくないので」
「そうか。じゃあ、気をつけて」
とにかく、一刻も早く、早苗と話をしなければならないと思った。璃夢は、これ以上ないと思えるほどムカムカする気持ちを持て余しつつ、警察署からの帰路についていた。
この町の出身者ではない早苗は、仮設住宅には住めない。にも拘らず、彼女はいつまでも東京へは戻らず、璃夢の仮設に移る前と同じように、シュラフを持ち込んで、未だに体育館隅に寝泊まりする生活を送り続けていたのである。
早苗のこれまでのボランティア活動は、璃夢と同郷の多くの住民達の生活再建のための、純粋に善意からの行動だと思っていた。思っていたかった。しかし、そうではなかった。
どういう理由かは知らないが、彼女は璃夢たった一人を監視する目的で、それらの活動を行ってきたに過ぎなかったということだ。
何にしても、早苗とは、じっくりと膝を交えて話をする必要があると、璃夢は感じていた。一体どういうつもりで、あんなことをしたのか…一刻も早く自分の気持ちをぶつけなければ、気持ちが収まらなかった。
ところが、いつもの体育館へ行ってみると、居るはずの時間帯にも拘らず、そこに早苗の姿はなかった。シュラフは、そのままだった。
「何よ、よりによって、こんな時に…」
その日の夜は、仕方なく彼女に会うことを諦め、璃夢は自分の仮設へと戻るしかなかった。聞いたところでは、朝から、誰も早苗の姿を見かけてはいないという。一体、どうしたというのだろうか…。
何気なく観ていた、その日のテレビの報道番組では、光輪真理会とかいう、璃夢達が不本意に関わってしまった春風霊玄会と、犬猿の仲らしいが、外から見れば似たり寄ったりのカルト教団の特集をやっていた。
そういえば、確かこの団体が、弟・秀直が、闇バイトを通じて関わったんだっけ…。秀直のことが、彼女は俄然気掛かりになってきた。
父と同様に、家族というものに見切りをつけるかのように、家を出てしまい、その後も自分には、連絡先さえも告げてくれなかった弟。そしてあれから、震災により、日本中の連絡網が、寸断された状態に陥った。
弟は、母の死のことは、ニュースで知ったかもしれない。彼女自身は、災害伝言ダイヤルによって、自身が無事である旨を通知済みだったので、せめてラジオでずっと流れている伝言だけでも、聞いてくれていることを願うばかりだった。
遠く離れて暮らす弟自身は、唯一の家族となった姉の自分のことを、どこまで考えて、日々を過ごしているのだろうか。もっとも、家族が揃っていた頃は、両親は喧嘩が絶えず、家の中の空気は殺伐としていたのだ。
お互い、思い出したくもないことが多過ぎる。今更、連絡なんかとってどうする、すべてを乗り越えるには、時間が足りな過ぎる…弟がそう考えていたとしても、不思議はないような気がした。
いろいろ思いを巡らせているうちに、ニュースの中では、教団所有のDVD映像の一部公開らしいが、光輪真理会教祖・天城法元とかいう男が、何やら胸糞の悪くなるような説法の様子を流し始めていた。
「諸君も知っての通り、この度の天からの揺さぶりにより、エセ・インチキ宗教の建物は破壊された。まさに天からの裁きが下されたというべきだろう。
余の命を狙っての銃撃も、失敗に終わった。あえて言おう。ざまあみろ、と。余はどんな妨害活動にも、断じて屈しはしない。
諸君、まさにこの世のすべての流れは、我らの意のままにある。我らの妨げになるものは、ことごとく打ち砕かれる運命にあるのだ!」
そして、両の手を高々と差し上げた。
「光輪真理会、万歳!」
周囲からも、一斉に歓喜に満ちた同調音。
「万歳!」
「万歳!」
むろん番組そのものは、視聴者目線を重視するため、寄せられる出演者からの辛口コメントなども交え、面白おかしく作られるが、彼女は今ひとつ雰囲気に乗ることができず、力を込めてテレビのスイッチを切った。
カルト教団、そして大地震、立て続けに家族に降りかかった災厄…。仮にもし、これらが何もなかったとしたら、今でも一家四人、楽しく暮らしていたのだろうか。
いや、それは絶対ないはずだ、と彼女は考える。特に、何かに対する依存心が異常に強く、おまけに思い込みの激しい気性だった母は、必ずどこかから何か見つけてきて、多額の献金の対象にしたはずだ。
自分にまつわる、深い業・因縁のようなものは、父と母の結婚、さらに遡った遥か昔から、一つの川の流れの中の、暗い淀みとして、とぐろを巻いていたように、彼女には思われて仕方がなかった。
その時、ドアチャイムが立て続けに鳴った。出てみれば、またしても警察だった。が、先ほどとは違う警察官だった。
「お休み中のところ、恐れ入ります。早速で申し訳ないんですが…」
その若い男性警察官は、一つの写真画像をスマホから見せた。
「この女性を、ご存じでしょうか」
彼女は、絶句した。見せられたのは、紛れもなく早苗の顔写真だったのだ。が、彼女は慌てずに答えた。
「はい…よく知ってます。彼女とはこの町で、私と長くボランティア活動を一緒にやっておりましたので。彼女とは、専門学校が一緒でした。彼女が何か…」
「彼女…上島早苗は、つい先ほど、遺体で発見されました」
「………!」
璃夢は、頭がグラグラと大きく揺れているような感覚に襲われ、その場に倒れそうになった。
4.
時は、三年前にさかのぼる。
大友瑠香(るか)は、当時十六歳だった。
「ただいま」
「ただいま、じゃないわよ! どこへ行ってたの?」
「どこって、学校に決まってるじゃない」
「嘘! 授業が始まってる時間なのに、神社の境内なんかでブラブラしてたあなたを、掃除に行ってた人が、しっかり見てたのよ。電話ですぐに、私に教えてくれたわ。武藤さんに、感謝しなきゃね」
瑠香は俯き、聞こえないように舌打ちしながら言った。
「あのババア、余計なことしやがって…」
「みんなちゃんと決まった時間に起きて、お行儀よく学校へ行って、将来いいお嫁さんになるために、一生懸命お勉強してるのよ。結衣を見なさい。ちゃんとしてるじゃない。お姉ちゃんとは大違いよね」
瑠香は、心の中で激しく毒づく。
「バカか、この女は」
母親はさらに畳みかける。
「まったく、あなたときたら、普段から、髪はボサボサ、歯も満足に磨かない。お風呂だって、言われても言われても、入るのはやっと一週間後。
家のお手伝いだって、掃除、食器の洗い物、洗濯物を干したり、やらなきゃいけないことは、山ほどあるのよ。何よ、全部結衣にばかりやらせて。
瑠香も昔は、言うことはちゃんと聞いてくれる、ほんとに素直な子だったわよ。まったく、いつの間にそうなっちゃったのかしらね」
瑠香はずっと俯いたまま、沈黙を貫いていた。
「何を黙ってるの? 言いたいことがあるんだったら、ちゃんと言ってくれなきゃ、分からないじゃない」
「………」
「そう、もういい、わかったわ。今日はお父さんね、会社から早く帰るらしいのよ。後で三人で、キチンとお話しましょうね」
ヤバッ!と瑠香は思った。
二階の自室に戻るなり、彼女は不貞腐れるように、すぐにベッドに突っ伏してしまった。
会社重役だった瑠香の父親は、会社ではどうか知らないが、家庭内では至って寡黙な方であり、だが時に高圧的で、生活のだらしなかった彼女に対しては、容赦なく手を上げていたのだ。
じきに、あの厄介なのと向き合わなきゃならない…そう思うと、彼女はゲンナリしてしまった。
ふと、机の上の、中学の入学祝いに、誰かから贈ってもらった、紫色の万年筆が、彼女の目に飛び込んできた。紫色といっても、元は白の万年筆だったのだが。
このことで猛然と怒ったのは、父である。
「何てことをするんだ! これはご近所の武藤さんが、瑠香のためにせっかく買ってくれた、高価なものなんだぞ! それを、見ろ、瑠香のせいで、あんなにきれいな白だった万年筆が、すっかり汚くなってしまった。武藤さんに、申し訳ないと思わないのか!」
「だって、こっちの色の方が、好きなんだもん」
父の平手が、彼女の右頬に飛んできた。
ベッドの上で、彼女は、万年筆を手にとって見た。油性のマジックペンなんかで塗ったから、改めて見ると色ムラだらけで、確かに汚い。
「私がもう少し器用だったら、キレイに塗れてたかもしれないのに…」
彼女は万年筆を、部屋のゴミ箱に放り投げた。良かれと思ってやったことだが、一度気が変わると、もう見るのもイヤになった。また何か言われるだろうが、黙ってさえいれば、風が吹き過ぎるように、事は終わるだろう…と思っていた。
その日の夜は、やはり父親が、いつもより早い時間に帰ってきた。居間の食卓では、夕食の支度が済んでいた。そこに待機させられていた瑠香に、父は鋭い一瞥を投げかけてきた。
「何だ、その座り方は。きちんと正座しなさい」
「………」
「お父さんの言うことが、聞こえなかったの? 瑠香、キチンと正座しなさい。女の子でしょ?」
父もそうだが、母の言うことは特に、彼女の神経に触った。が、仕方ないなと思い、彼女は膝を折って、座り直したのだった。
「今日、学校サボったんだってな。なぜだ。何があった」
「別に…」
「別に、で通ると思うのか。今までは、何となく見逃してやってた部分も多かったが、今日という今日は、ちゃんと説明してもらうぞ。
大体、学校をサボるなんていうのは、何が何でもあっちゃいけないことなんだぞ。学校とは、絶対のものなんだ。どうしても休まなければならない場合は仕方ないが、理由も何もないのに、行きたくないから休む。それで通るほど、世の中甘くはないぞ。学校に行きたくない…そんな気持ちが、少しでも起こったら、死ぬと思え!」
「お父さん…登校拒否っていうのは、今、全国で流行ってるんだよ」
「流行ってる? ふざけた言い方をするな! よその家庭のことなんか、知らん。瑠香自身の気持ちを、ちゃんと説明しろと言ってるんだ!」
「ちゃんと説明できないことだって、あると思うんだ」
「説明できないことなんて、ある訳がないだろう。屁理屈を言うな!」
父親の平手が、今度は右の側頭部に飛んできた。目から星が飛んだような気がした。
妹の結衣が、居間に入ってきた。学校から帰ってからは、宿題などやりながら、自分の部屋の中から、しばらく様子を窺っていた様子である。
「お母さん、お腹すいたから、先にご飯食べていい?」
「あっ、ごめんね、結衣。今からみんなで食べるところなのよ。さあ座って。いま味噌汁よそうわね」
自分と入れ違いに、居間から駆け足で出て行こうとする瑠香を、結衣は優位に立ったような表情で見送っていた。
「瑠香、ご飯食べないの?」
「いらない」
「放っとけ! これで少しは反省するだろう。腹が減ったら、自分から食べに来るさ。部屋で、十分に頭を冷やしてこい」
父親のそんなムカムカするような言葉を背に受けて、瑠香は二階の自室へと駈け上がっていった。もうこんな男には、何を言ってもムダだと思った。
再びベッドに突っ伏した瑠香は、今度は、前日の学校でのことを思い出していた。
彼女には、クラスにも、学校のどこにも、友達と呼べるような者は一人もいなかった。誰からも「彼女は、独りが好きな人なんだな」と思われていたのである。
それでも、彼女自身は、グループの中心になって、人気の男子生徒のことなどで、その場を陽気に盛り立てているクラスメイトを見ると、ああ、自分もああいう風になれたらな…と思うことはあった。
自分のことが、大嫌いだった。「他人になりたい」と、強く思っていた。
それでも時々、彼女に声を掛けてくる者はあった。その日、クラスメイトの一人が、彼女の机の前にやってきた。
「大友さん、いつも独りなんだね。どう?今度、みんなとカラオケ行かない? 楽しいよ」
「ううん、行かない。私、歌って大嫌いなの」
「ああ、そう?…ねえ、何か悩み事があるんじゃないの? 私も今はこの通り明るくて、友達も多いけど、前はすごく引っ込み思案で、外に買い物にも行けなかったのよ。
誰でも努力次第で、変われるんだよ。いつでも相談にのるからさ。あ、そうだ。今日の宿題、一緒にやらない?それなら…」
瑠香は、今自分が座っている椅子を、目の前の女子に叩きつけたい衝動に駆られた。
いわゆる「お為ごかし」つまり相手を憐れみ、それで自らが優位に立つ…。それが彼女が最も憎む、とにかく反吐が出るほど嫌いなものだった。それよりは、むしろ自分に対して露骨に暴言を吐いてくる、そんな人の方が、彼女はずっと好きだったのである。
そんな気持ちを、何とかグッと堪えて、彼女は女子に言った。
「悪いんだけどさ、向こうへ行ってくれる? あんたとは、無理!」
女子はたちまち不機嫌になり、膨れっ面になって「あっ、そう」と、机の脚をガンと鳴らして、去っていった。わかりやすい人で、助かった。
学校へ行ったフリをして、初めてのサボタージュに及んだのは、その翌日だった。公園の公衆トイレの中で、スマホで漫画などを見ながら、ダラダラと無為に時を過ごした。いや、無為ではなかった。彼女にとっては、初めて何か、充実したと思える時間だったのだ。
「そろそろいいかな」と思い、彼女はトイレを出て、下校を装い、通学路に戻ろうとした。その途中に、神社があった。何か神秘的なその雰囲気が好きで、彼女はつい境内を少し散策したのだ。
彼女が「お節介ババア」と呼んでいた武藤によって、日に二回ある境内の掃除に訪れた際に、彼女が目撃されてしまったのは、まさにその時だったのである。
改めて、ベッドの上で思う。
いったい私って、何者なんだろう。私って、どうして他の人達と、こんなにも違うんだろう。学校にも、もちろん家庭にも、自分の居場所なんて、全然どこにもない。
これから先、高校なんて、無事卒業できる?その後、就職…? まったく、全然、想像がつかない。先のイメージが見えない…。
そう、私はこの世のどこにも、居場所なんて、どう考えたって、ある訳がない。そう考えると、選択肢は本当に、一つしかないように思えた。いざそう決めてしまうと、本当に心が軽くなって、仕方がなかった。
その前に、一応やるべきことがあったことを、彼女は思い出した。家族はもう、夕飯を食べ終わった頃だろう。彼女はベッドから起き上がると、階下へ降りていき、居間のドアを開けた。そして、そこにいた父、母、妹に、深々と頭を下げたのである。そして、言った。
「お父さん、お母さん、明日からは、私、良い子になります。ちゃんと学校にも行きます。勉強もちゃんとやるわ。確かに、あなた方が正しかった。それじゃ」
彼女は、すぐにドアを閉めようとした。
「それじゃ…って、待ちなさいよ。瑠香、ご飯は食べないの?」
「まあまあ、お母さん。そうか、瑠香、やっとわかってくれたんだね。そうそう、その通り、今までの行いをすべて反省して、明日からは普通の女の子になれるよう、努力するんだよ。なあに、瑠香だって、やればできるさ。今夜は食欲がないんだね。明日の朝はちゃんと食べるんだよ」
彼女は、それには応えないで、さっさとドアを閉めてしまった。まったく、どこまで皮肉が通用しない男なのかしら。
自室に戻った彼女は、衣装ケースから、しばらく使わなかったピンク色の浴衣の帯を引っ張り出してきた。帯の片端を、自室のドアの、外側のドアノブに、きつく結びつけた。帯はドアの上部をくぐらせ、反対側の片端を、長さを調整しながら、輪を作ったのだった。
輪の高さは、彼女の身長からすれば、やや体が浮き上がるくらいになった。彼女は、踏み台を出してきて、足を乗せ、輪を自分の首にくぐらせた。後は簡単だった。わざと大きな音を出して、彼女は踏み台を蹴り上げたのである。
彼女の体は、宙ぶらりんになった。少し前に観た、ある映画を思い出していた。ラストシーンの、主人公達の「このくだらねえ世の中からの、希望に満ちた訣別」。まさにそれを決行するような、グランドキャニオンの絶壁からの、車でのダイビング…。
たまらなく爽快で、カッコいいと感じられた。私は今、それを実行しようとしている…そんな自分もまた、カッコいいと思えた。
ああ、少し気が遠くなってきたかも…。
が、その時、あれほどきつく結んでいたはずの、ドアノブの浴衣の帯の片端が、スルリとほどけてしまった。宙ブラになっていた彼女の体は、支えを失い、床に叩きつけられてしまった。家全体に、大きな音が響き渡った。
「いたたたた…!」
一階から、何事かと、階段をけたたましく駆け上がってきた両親がいた。部屋のドアを開け、そこに尻餅をついた状態で座っている娘と、輪を作ったままの帯を見た途端、状況を察した母は、絶叫した。
「何をやってるの、あなたは!」
父の側は、しばらくの間ぎゅっと、娘を睨みつけていたが、やがて何を言っていいか分からなくなったようで、視線を逸らし、部屋を出て行った。
「まったく、どこまで私達に、恥をかかせれば、気が済むのかしら、この子は…。とにかく、こんなことは、もう絶対にやめてちょうだい!わかった?」
「………」
「わかったの?瑠香」
「う…うん、わかった」
母もまた、出て行った。瑠香は、尻をさすりながら、苦笑いを浮かべていた。
彼女は、首吊り自殺には失敗したが、当てつけという狙いは成功したと思っていた。自身の、命を賭けた抗議に、手応えがあったような気がして、満足していたのだ。
「ねえ、昨日お店、結構お客さん入ったし、売上金だいぶあったはずなんだけど、全然計算が合わないよ。お母さん、もしかしてまた、勝手に持ち出したの?」
璃夢の母、奥平加代子は、苦笑いを浮かべていた。
「えっ?うーん…」
「あっ、やっぱり持ち出したのね? 何に使ったの?もしかして、また何か、変なモノにハマってるんじゃないでしょうね」
「変なモノとは、何よ。教祖様を侮辱すると、いくら娘だって、許さないわよ!」
思い切り、開き直ってきた。
「璃夢、あなたも一度、教祖様のお話を聞きにいらっしゃいよ。そうすれば、考えも変わるわ。
今日も、一組の親子をお連れしたのよ。娘さん、不登校で、自殺未遂まで起こしたんですって。ああいう人にはね、信心が一番なのよ。娘さん、きっと立ち直って、いい人生を歩んでくれるわ」
璃夢は、深い溜息をついた。
「そんなこと、どうだっていいわよ。お母さん、前にも何か、何十万もするおかしな壺なんか買わされてきて、神棚に上げて拝んだりしてたわよね。
でも、すぐに飽きちゃったじゃない。お母さん、あの時私に何て言ったか覚えてる?『もう、こういうものには絶対に手を出さない』だよ?
あれから一か月も経ってないのに、そのザマは何? どうしてそう、学習能力がないの?」
「あれは、ハッキリと壺を買わせる目的っていうのがあったのよ。でも、今度だけは違うから。今度は大丈夫。教祖様は、本当に私達の幸せだけを願ってくださってる方よ。何も買わされてるわけじゃないし。献金だって、ちゃんと自分の意思でしてるんだもの。
信者の勧誘も、献金も、あと少し頑張れば、あなただったら、すぐに幹部になれるよって、教祖様も、言ってくださってるのよ。嬉しいじゃない?」
「だから、母さんはマインド・コントロールっていうのをされてるんだよ。自分の意思でやってるように思わせて、実際には向こうの都合のいいように操られてるだけなの。もっと冷静になって、自分がおかしな考えに囚われてることを、自覚してよ。
ほら、テレビのニュースでも、たまにだけどやってるじゃない。あれって、かなりヤバい団体だよ。そのうち、必ず何か大きな事件を起こすから」
「何よ、大袈裟ねえ。そんなニュース、見たこともないわよ。何よ、マインドコントロールって…そんな難しい言葉、わからないわ。
大体、一辺も教会に行って話を聞いたこともないくせに、どうして教団のことを、そんなに悪く言うの? とにかく璃夢も、一度教会に来て、魂を清めてもらいなさい。そうすれば、体も心も軽くなるわ。そうだ、今すぐに行きましょう。教団の車を、呼んであげる」
加代子は、璃夢の手首を強く握ってきた。
「離してよ、汚い!」
璃夢は、母の手を振り払った。
「汚い?親に向かって、何て口のきき方かしら!やっぱり、魂が汚れてるのね」
こんな人には、もう何を言ってもムダだと思った。目の前にいる母親と名乗っている人間が、果てしなく他人に見えていた。もう二度と顔も合わせたくないと思い、璃夢は足早にその場を立ち去ったのである。
それでも、翌日になれば、店を開け、この人と二人だけで、料理を作り、お客に出していかなければならない…。彼女は考えただけでも憂鬱になり、ゾッとした。が、嫌でも明日はやって来る。
何より、翌日からの、料理を作るための食材の仕入れのお金をどうしたらいいかで、彼女は頭を悩ませていた。母親が使い込みをしてくれたせいで、下手をすれば、こちらの最低限の生活費の確保まで、危ぶまれていたのだ。収支内訳を丁寧に記した大学ノートを目の前にし、彼女は長い間呻き続けた。
瑠香の担任教師・高柳寿子は、その日、大友家の家庭訪問に訪れていた。瑠香が本当の登校拒否に陥って、一週間が経過していた。
高柳は、不登校になる前の、授業を受ける時の態度からも、瑠香のことを心配していたのである。瑠香が学校生活に馴染めていないことは、早い時期からわかっていた。いずれ学校には来なくなるだろうということも、予想はしていた。
そんな彼女に、高柳は、フリースクールを勧めるために訪れたのである。フリースクールとは、NPO法人、ボランティア団体、あるいは個人が運営し、不登校やひきこもり、発達障害など、さまざまな事情を抱える生徒を受け入れている。学習面よりも、生活面や精神面の支援に重点を置いていることが特徴である。スクールのパンフレットも、何冊も持参していた。
高柳は、大友家のドアチャイムを鳴らした。訪問する旨は電話で伝えてあったので、すぐに応対に出るだろうと思っていた。が、出ない。しばらく玄関先で待っていると、通りかかった高齢の女性が、声を掛けてきた。
「あの…もしかして、瑠香ちゃんの担任の先生の方ですか?」
「はい、そうなんです。高柳と申します。こちらのお母様には、この時間に伺うことは、お伝えしてあったんですが…」
「あ、私、武藤といいます。瑠香ちゃんも、お母さんも、いま家にはいないんですよ」
「そんな…お約束したのに。武藤さん、何かご存じなんですか?」
「はい…実はですね、先生がいらっしゃる前に、ある人達が来たんです。瑠香ちゃんが不登校になって、自殺未遂事件まで起こしたことを、どこかから聞いたみたいで、私達なら必ず力になれるから、なんて言って、ほとんど強引に、車に乗せて、連れて行ってしまったんですよ。
もちろん、今日は先生との約束があるからダメだということは、お母さん、一生懸命訴えてましたが、その人は『本当に瑠香ちゃんのためを思うのなら、私達を優先させないと、天罰が下るわよ。学校の先生との約束なんて、すっぽかしちゃいなさいよ。学校なんて、ロクな所じゃないわ』なんていうとんでもない事を、平気でベラベラ喋ってたわ」
「そんな…ひどい!」
「そういえば、二人が乗せられた車に付いてたマークに、見覚えがあるわ。ホラ、最近になって、教会ができたでしょう? あれは、確か春風霊玄会とかいってたわね…その車よ」
「あっ!」
その宗教団体のことは、高柳も聞き及んでおり、彼女なりに詳しく調べてもいた。
ああいった連中は、人間の心の暗部を、実に敏感に嗅ぎとってやって来る。そういう部分につけ込んで、金をむしり取ることしか頭にない、ただのハゲタカの集まりなのだ。ついにうちの生徒が、その毒牙にかかってしまった。彼女は、絶望的な気持ちに囚われた。
「畜生!畜生!畜生!」
教師らしからぬ声が周囲に響き、武藤をビックリさせていた。
5.
その年の冬、この地域にも、雪がたくさん積もった。雪が降り出す前、早苗の不審死について、璃夢は再度の、警察からの事情聴取を受けたことを思い出していた。
当時、早苗の遺体は、河原の茂みの奥に放置されていた。河原に転がっていた石で、前方から頭を一撃されて、亡くなったらしい。
血痕の付いた大きな石が、少し離れたところで見つかっており、遺体は、少しでも見つかりにくいようにと、茂みまで引きずられたようだった。発見したのは、いつも犬の散歩場所に、河原を利用していた男性である。
情報提供フォームを通じて、カルト宗教代表者・白神を殺害した犯人が、璃夢であるなどと言ってきた者に、璃夢自身は、実は心当たりがあった。
それが、地震被災地で共に救難活動の手伝いをしていた、早苗だった。そのことで璃夢は、早苗を問い詰めるべく、河原まで呼び出し、その場で口論となり、殺害に及んだ…。
そのような見立ても成り立つが、当然、璃夢自身は、まったく身に覚えのないことであり、非常に迷惑な話だった。殺害現場となった河原での、彼女のアリバイも証明されたため、その時も帰宅が認められたが、彼女の胸の内に渦巻くどす黒い感情は、少しも晴れることはない。
殺されたのは早苗の方だが、あの女は、最後の最後まで、手ひどい形で、私を追い詰めようとしたのだ。一時期は一緒に、アニメーターになる道を目指したこともあったのに…。なぜ私は、こんな目に遭わなければならないのか。彼女は悔しさで、涙を滲ませた。
仮設住宅の周辺では、住人がほぼ総出となって、除雪作業に追われることになった。元々体があまり丈夫ではなかった璃夢は、その日またも寝床で過ごすことになっていたのだ。
窓からは、住人達が、一生懸命作業する様子が見える。彼女は自分が参加できないことで、やはり申し訳ない気持ちで一杯だった。彼女が見守る中、山ほどの雪はみるみる片付けられていき、白く美しい地面が形作られていった。
遠くの方には、倒壊したまま、手つかずになっている建物や瓦礫の山も、まだまだ見られたが、彼女が見つめる窓の外の光景には、何か感動を呼び起こさずにはいられない力があったようだ。今度は別の涙が滲み、彼女は、徐々に心が癒されていくように感じていた。
陽も傾きかけ、食後の薬を飲み終えた璃夢が、布団の中でうつらうつらしかけていた時、ドアチャイムが鳴った。パジャマにカーディガンを羽織った彼女が、玄関へ出ると、二人の刑事が、警察手帳を見せてきた。
「お休み中のところ、申し訳ない。私は警視庁刑事課の、嘉村といいます」
「はぁ…」
「あなたは、奥平璃夢さんだね?」
「そうですけど…」
嘉村は、しばらく彼女の顔をまじまじと見た。
「やっぱり似ているね。さすがは姉弟だ」
「え…?」
「秀直君を知ってるよね」
「はぁ…弟ですが。もしかして弟が、また何かやったんですか?」
「いやいや、そうじゃない。私は、実はあのカルト宗教団体・春風霊玄会についていろいろ調べている最中で、ハッキリ言えば、奴らの解散を狙っている。秀直君には、日頃から、その協力をお願いしてもらってるんだ。
それで、成り行きで、彼にはしばらく会ってないお姉さんがいることを知った。此度大きな地震があったことで、あなたのことを心配していたよ」
「もしかして、秀直が、この町に帰って来てるんですか?」
「うん…今は、駅前の喫茶店で待ってもらってるよ。
今仮設の方にいるから、せっかくだからそこまで行ってあげたらどうかと言ったんだが、自分は家族として縁を切ったも同然だし、お姉ちゃんには迷惑かけっぱなしだったし、今更どのツラ下げて会ったらいいんだ、なんてことを言うんだよね。
近くまでは、何とか来てもらえたんだが、あなたを一目見たら、すぐに東京へ帰ると言ってる。
今回は、ただの私達のお節介なんだが、これも何かの縁だ。せっかくだから、あなた達の再会を果たさせたいと思ってね」
「そうなんですね…いろいろと有り難うございます」
「でもあなたは、見てると体調があまり良くないようだね。やっぱり会うのは、この次にするかい?」
「いえ、大丈夫です。刑事さん…嘉村さんに、せっかくここまでして頂いたんだもの。秀直に会います。すぐに支度してきますから」
璃夢は、一度ドアを閉め、大急ぎで着替えた。
大丈夫、とは言ったものの、彼女の足元はフワフワしていた。喫茶店の駐車スペースで車を降り、店に入るまでの短い距離も、積雪のせいもあったが、まるで自分の足で歩いている気がしなかった。ようやく収まったと思った地震酔いが、またぶり返したかのようだった。
喫茶店内に一人で座っていた青年が、秀直であることは、見てすぐに分かった。お洒落なラインの入ったジャケットに、都会的なセンスを感じたが、小さい頃はよく面倒をみた、たった一人の弟である。高々十年のブランクは、ものの数ではなかった。
「待たせたね、秀直君」
璃夢と同伴してきた嘉村が、秀直の向かいの席に座った。秀直の隣には、もう一人の刑事、双見が座った。秀直は自分に笑いかけてきた璃夢を、やはり直視できないようだった。
「遠慮せずに、好きなものを頼んで。ここのブレンドコーヒー、美味しいんだよ」
四人揃って同じコーヒーを注文した後、璃夢が口火を切った。
「東京での暮らしはどう?お金は足りてる?」
秀直は、ちらりと嘉村の方を見てから、ようやく顔を上げた。少しだけ緊張が解けたようだった。
「こっちは、まあまあやってる。お袋のことは、残念だったね。お姉ちゃんこそ、大丈夫なの? 顔色があんまり、良くないよ」
「うん…そうよね。困ってる人達を、一人でも多く助けなきゃって、何だか焦り過ぎちゃって、溜まってたものが、一挙に来ちゃったって感じ」
「今日は無理しないで、家でおとなしく寝てりゃよかったのに」
「嘉村さんからも、同じこと言われたわ。でもやっぱり、秀直に早く会いたかったもの」
秀直は、照れ笑いしながら言った。
「そう…俺も本当は、東京で、お姉ちゃんのことを考えない日は、一日だってなかったんだよ」
「またまた…噓でしょ?」
「嘘なもんか。本当だよ」
その時、コーヒーが運ばれてきた。双見刑事が、コーヒーをブラックのまま飲みながら、璃夢の方を向いて、話を始めた。
「奥平さん、こんな場で、ちょっとイヤになるような話をしちゃうかもだけど、どうか聞いてほしい。
この間見てもらった警視庁の情報提供フォームへの投稿文なんだけどね、あの内容が、事実かそうでないかはともかく、やはり非常に悪質であると、我々は判断した。
刑法二百三十条、名誉毀損罪、二百三十三条、偽計業務妨害罪が適用される可能性がある。そこで、我々はあれを投稿した人物を特定するべく、動いたんだ」
「そうなんですね…。ありがとうございます」
「投稿は、やはり特定を避けるためだろう、街中のネットカフェからされたものだった。しかし送信日時から、そのカフェの部屋を、その時間帯に利用していた人物を割り出せば、特定なんて、簡単なことだった」
「だ、誰だったんですか?それは」
絶対に早苗に違いない。璃夢はそう思っていた。
「この男だよ。見覚えある?」
双見は、自分のスマホから、長髪で汚く髭を生やした、ある男の画像を見せてきた。
あれをやったのは、早苗ではなかった?私の勘違いだったの?
璃夢は双見からスマホを受け取り、改めて画像を見た。しばらくの間、その男の顔を眺め続けた。一瞬、誰かは分からなかった。でも、何だろう…どこかで見たことがあるような気がする。
「あっ!」
途端に、璃夢は、強烈な目眩に襲われた。頭がグラグラして、体の重心を失ったような気がし、スマホを床に落としてしまったのである。
「どうしたの?奥平さん」
慌てた双見が立ち上がり、スマホを拾うのもそこそこに、彼女に駆け寄ろうとした。
彼女の意識は急激に遠ざかった。飲みかけのコーヒーのカップをひっくり返しながら、双見や嘉村の差し出す手も間に合わず、彼女は椅子から滑り落ち、床へと倒れ込んでしまったのである。
「奥平さん!」
「お姉ちゃん!」
「奥平さん!」
「大丈夫ですか?すぐ救急車呼びますね」
秀直、嘉村、双見、そして喫茶店の従業員が口々に自分を呼ぶ声が、彼女の頭の中で、ガンガンと反響していた。
間違いない。あの画像の顔は、確かに、あの時の男だ。
あの凍りつくような目…赤い温かい血が体中を流れているとは信じがたい面差し…。
思い出した…。何もかも思い出した!
まるで記憶喪失になっていたかのように、今までなくなっていた記憶。
実際には、失くしたのではなく、自ら封印していた、忌まわしい過去の記憶…。
髭のせいで、すぐには分からなかった部分もあるが、璃夢にとって、その男の薄汚いオーラは、双見から見せられたスマホ画面の中に、十分過ぎるぐらいに、満ち溢れていたのである。
璃夢を病院まで送り届けた後、嘉村と双見は、警察署までの帰り道、河川敷に車を停めていた。その日はよく晴れ、川は融雪によって増水し、荒々しい流れを作っていた。双見が、しみじみと言った。
「彼女の、よほど思い出したくなかったことに、我々は触れさせてしまったんでしょうね、嘉村さん」
「一つの事件の真相にたどり着くために、大勢の人間の、死ぬまで心の奥深くに仕舞っておきたかった、闇の部分を炙り出し、強引に言葉を引き出していかなくてはならない。刑事というのは、本当に因果な商売だよ」
嘉村は、煙草を吸うべく、一人車を降り、猛り立つ川の轟音の中に身を置いた。
「この辺りの流れもね、大地震の影響で、津波による逆流が起きたり、一部川の形が変わった所もあるらしいよ」
煙草を吸わないため、車内にとどまっていた双見の耳には、嘉村の声は、川の轟音にかき消され、ほとんど届かなかった。が、嘉村は構わずに続けた。
「双見君、川の流れっていうのは、どこから来て、どこへ注いでいるんだろうね。海に決まってる、っていうんじゃつまらない。
我々一人一人の人間は、一つ一つの川。本流から別れる、支流のようなものだと、私には思えるんだ。
清い流れが、まっすぐ続くとは限らない。時には曲がりくねり、時には荒れ狂い、時には淀みを作って、流れるのをやめてしまったり、それでも、確実にどこかに向かっている。
その先にあるのは、ただの混沌だろうか。私はそうは、思いたくないんだ。流れて、流されて、最後にたどり着く所…。
愛、正義、良心、言葉にすれば、いろいろあるけど、結局はひとつのものだ。そんなものは、ただの理想だ、みんな嘘っぱちだ、そんな風に言う人も多いけど、私は幾つになっても、そういうものを、信じていきたいんだよ」
車のドアが開き、双見が出てきた。
「そろそろ、暖かい車の中へ戻ったらいかがですか?」
「あ、ああ…」
吸っていた煙草を、運転席の灰皿でもみ消してから、嘉村は助手席へと戻った。
車を発進させながら、双見が訊いた。
「川に向かって、何を一生懸命喋ってたんですか?嘉村さん」
「ん?いや、事件とは何の関係もない、ただの独り言だよ。気にすることはない」
6.
十一年前の夏のことである。久垣と名乗る、璃夢にとっては一学年先輩にあたる男子生徒が、自宅でバースディパーティーを開くと言ってきた。その日で、十八歳の誕生日を迎えるというのだ。璃夢は当時、高校二年だったが、なぜかその招待を受けたのである。
招待ハガキは、その三日前に、彼女の自宅に届いていた。久垣という名に、心当たりはなかった。が、ハガキには、五人ほどの彼女の友人の名前が記されており、この人達も来るよ、と、いかにも楽しい雰囲気になりそうな演出が、施されていた。
ハガキが届いた当日に、確認と称する電話がかかってきた。初めて聞く、久垣の声だった。当然知らせてはいなかった電話番号、そして住所を、どうやって知ったのか尋ねてみると、その友人の一人から聞いたという。
その友人達には、璃夢もパーティーに参加することは知らせてないから、サプライズの意味で、当日まで黙っていてほしい、などということを、久垣は言ってきた。彼女の友人達とは、普段から親しいといったことを匂わせる雰囲気だった。
後になってから思えば、そんな言葉は信じないで、何が何でも友人達に、久垣のことを確認してみるべきだったのだ。そうしなかったこと、心に隙を作ってしまい、そこにつけ込まれたことは、後になって、どんなに悔やんでも悔やんでも、取り返しのつくものではない。
パーティー当日は雨だった。指定された駅まで電車で行くと、駅舎の改札口付近で、キャラクター付きの傘をさした、久垣と思しき男が、素早く璃夢の姿を確認し、声を掛けてきた。彼女自身は、やはり彼に見覚えはないが、相手の方は、十分にあったということだ。
「自分の傘は仕舞っていいよ。ホラ、いい傘でしょ? 君とは、相合傘したいなぁ」
そんなことを言いながら、彼は彼女を導くように、歩き出した。「冗談でしょ?」と呟いて、彼女は大きな音を立てて自分の傘を開き、彼からは距離をとって、後について歩き出した。伝えられていた通り、駅から自宅までは、徒歩で五分ほどだった。いい所に家を建てたものだ。
そこそこ立派なその家に入ると、大きなテーブルの上に、近所のスーパーからの購入と思われるが、豪華なオードブルが用意されていた。が、家の中には他に、誰もいる気配がなかったのである。璃夢が尋ねた。
「里美達は、どうしたの?先に来て、待ってると思ってたのに…」
「そうなんだよね。何だか急に、連絡がつかなくなってさ。でも大丈夫、そのうち来るよ。
それよりもさ、座って座って。何かお話しようよ。美味しそうでしょ?このチキン」
彼女は、仕方なく、勧められた柔らかいソファーに座った。その隣に、久垣は座ってきた。
彼女は男から離れて座り直し、尋ねた。
「お母さんか、お父さんは?」
「いないよ。俺さ、一人暮らしなんだ」
「え?噓でしょ?まだ高校生なのに?」
「人にはね、いろいろ家庭の事情ってもんがあるのさ。ああもう、そんなこと、どうだっていいだろ?
璃夢、ノイズサーカスのファンだよね?このDVDもう観てると思うけど、俺と一緒に観ようよ」
テーブル前の大きなテレビ画面の中では、当時コアなファンを獲得していたロックバンド・ノイズサーカスの演奏が始まった。確かに彼女はファンであり、アルバムも揃えている。が、なぜこの男は、そんなことまで知っていたのだろう。また「友人の一人から聞いた」とでも言うつもりだろうか。友人の一人とは、いったい誰なのか。
演奏が続く中、久垣は呆れたことに、どこからかウイスキーのボトルを持ってきて、水割りを作ろうとしていたのである。
「何やってるの?あなた、未成年でしょ?」
「固いこと言いなさんな。今時、高校生だって、みんなみんなやってるよ。あ、よかったら、璃夢の分も、作ってやろうか?」
「要らない!やめて!」
さっきから「璃夢」などと、呼び方まで馴れ馴れしくなってきた。俄然、空気が悪くなってきた。こんな雰囲気で好きなバンドの演奏などを聴いていても、ノレるはずがないのである。
「ごめん、里美に電話してきていい?」
彼女はソファーから立ち上がり、電話するべく、廊下に出ようとした。が、久垣は彼女の手首を強く掴み、引き戻すような動作をした。そのまま、グラスの水割りを、一度口にした。
「何だよ、ノリが悪いなぁ、璃夢。チキンもまだ、全然食べてないじゃない」
急激に、久垣の目つきが険しくなってきた。
「久垣君…里美達には、本当に連絡したの?里美達は、パーティーのこと、本当に知ってるの?」
久垣は、それには答えなかった。
「璃夢…俺は学校で、ずっとずっと、お前ばかりを、見てきたんだぜ。知ってた?」
「………」
ヤバい!この男、本当にヤバい!
「もう帰る、私!」
男が強く掴んだままの手首を、強引に振りほどき、彼女は大急ぎで、居間を出ようとした。
「帰れると思うの?」
久垣は彼女の前に素早く回り込み、今度は両肩を強く掴んできて、そのままソファーの上に押し倒したのである。男は、その状態で全体重を掛けてきて、彼女の体は、たちまち自由が利かなくなってしまった。彼女は恐怖のあまり、すでに声も出なくなっていた。
一方的な思いを満たそうとする男の力というのは、こんなにも強いものなのか。むせ返るような男の体臭と、喘ぐ呼気が、繰り返し彼女の鼻腔を襲ってくる。自らは呼吸が出来ず、ただただ命の危険に怯え、体は硬直し、首から下の感覚が、まるで無くなっていた。
悪夢は、いつの間にか終わっていたらしく、我に返った璃夢は、男の家から解放されていた。直前に男が、何やら彼女に対しいろいろ話しかけていたようだが、聞こえない振りをしていた。
止む気配のない雨の中、傘をさす気力さえも失ってしまい、何歩か歩いた後、彼女はそのままうずくまって、大きく号泣したのだった。
自分が、これまで大事に大事に守ってきたはずのものが、この長いのか短いのかよくわからない時間の間に、あまりにも理不尽な形で奪われてしまった絶望感――これが、喪失。自分が壊れること…!
帰ってきた時、ずぶ濡れになっていた彼女を、家族の皆が心配したが、彼女はとにかく、放っておいてほしかった。浴室に飛び込み、先ほどの穢れを、全力で洗い流した。
自室に戻ると、鍵を掛け、体を拭くのもそこそこに、裸の上に纏ったバスローブのまま、彼女はベッドに倒れ込んだ。布団を深く被って、そのまま意識をシャットダウンさせようと努めたのである。
そして、そして…目が覚めた時には、すべてが夢だったこと、先ほどのことが、すべて無かったことになっていることを、強く強く願った。
が、無情な朝は訪れた。あ、少し…いや、だいぶ熱っぽい。変な形で寝てしまったから、体が異常な反応を示している。その日の彼女は、学校を休んだ。
ベッドの中で、彼女は、これから自分がどうしたらいいかを考えた。久垣の嘘と、理不尽な行いに対する、告発——本来なら、それをするべきなのだろう。
が、そんな風に事を荒立ててどうなる、とも思った。自分に対する一方的な思いを、長い間募らせてきて、実行にまで及んだあの男が、周りが大騒ぎしたぐらいで、反省などするのだろうか。
それよりは、学校に通うようになってからは、あの時のことは、なかったことにするのが、一番ではないか。
これまで、少なくとも自分の方では、あの男のことは、学校の中で、存在さえも知らなかったのだから、その時の状態に戻ったのだ…そう思い込むことにするのが、最良であると判断したのである。
一方的な思いを寄せる者にとって、相手からは徹底して無視され、反応が何もないのが、最も嫌なことなのだ。仮にどこかでバッタリと出会って、何か話しかけてきても、目さえも合わせず、通り過ぎる…もうこれしかないと、彼女は思った。
翌日、熱の下がった璃夢は、登校した。友人達に対しても、当然久垣について触れるなどということはしなかった。もしかしたら、友人達の中にも、あの男のために、嫌な思いをさせられた者がいるのかもしれない。が、それを考えたところで、どうなるものでもない。
その日から、彼女は、努めて明るく振る舞った。試験勉強、友達付き合い、部活のバドミントン。とにかく、自分の流れに「淀み」を作ってはいけないと感じていた。何よりホッとしたのが、その後無事に生理があったことである。
幸い、久垣とは、学年が違うので、全校集会などの時以外は、同じ校舎の中で出会うことはない。
時が流れ、一つ上の学年が卒業式を迎えた。ようやく久垣が、学園から姿を消したことになるのだ。ああ…これでもう大丈夫!
その日以来、璃夢の、久垣に関する記憶は、完全にデリートされたかのように、彼女自身も思い込んでしまった。
が、一方の久垣は、鳴りこそ潜めていたが、まったく、そんなことはなかったのである。
喫茶店内で倒れた後、点滴を受けながら、ベッドに横たわり、ぼんやりテレビを観ていた璃夢の病室に、来客があった。双見刑事だった。彼女は起き上がろうとした。
「あ、いいよ、そのままで。奥平さん、具合はどう?」
「双見さん、この度はどうも、ご心配をおかけしました。昨夜こちらで、ゆっくり休ませて頂いたので、具合は多少は良くなりました。秀直は、どうしましたか?」
「昨日の新幹線で、東京へ帰ったよ。君によろしく、と言っていた」
「そうですか…ビックリしただろうな、秀直」
「奥平さん、早速なんだけど、昨日の話の続きをしても、大丈夫かな?」
「あ…はい、大丈夫です」
「やっぱり、あの時見せた画像の男を、君は知ってたんだね?」
「ええ…まあ」
「安心して。そのことについては、今回は追及しない。ただ…君にはなるべく早く、真相を知ってもらいたいと思ってる。
実は、あの悪質な投稿をした人物が、画像の男であることを、警察より先に、知っていた人物がいたんだよ」
「……」
「ある有力な目撃情報を得てね。あの男…名前は久垣源栄。奴が最近になって、なぜかこの町に現れた。それを見咎め、奴に近づいていった者がいたんだ。それが、上島早苗だよ」
「そんな…」
「上島さんと久垣が、連れ立って河原の方へ歩いていったことは、目撃証言がとれている。二人がどういう関係で、河原で、どういうやり取りがあったかまではわからない。が、結果として、上島さんは殺害された。何か口論の末、久垣が手を下したとみるのが、一番自然なんだ。
行方不明になった容疑者・久垣の行方を、我々は全力で捜している。証拠が揃い次第、逮捕状が下りるだろう」
それらすべての背景にいるのは、君だよ…双見の目が、そう語っているような気がした。
まったく、何がどうなっているのか…まるで大きな川が、自分の周辺で渦を巻いて、氾濫寸前になっているかのように、璃夢には感じられてならなかった。
双見が帰った後も、彼女は、自分を中心に、現在も恐ろしい事件が、どんどん進行中であるかのような感覚に襲われ、またも深々と布団を被ってしまったのである。
…それでも、気持ちは徐々に落ち着き、冷静さを取り戻してきた。それに伴い、何となくだが、彼女にも、真相らしきものが見えてきたような気がしたのである。
早苗が、私を陥れようとしたのではないことはわかった。むしろ逆に、命を懸けて、私を守ろうとしてくれたのだ…!
久垣は、高校を卒業してからも、私に対する執着を、やめるどころか、どんどん強くしていった。あの投稿フォームに書き込まれた詳細な内容を、どうやって知り得たのかが、ずっと気になっていた。が、あの男が、私から母親にたどり着き、あの教団と、何かしらの繋がりを持ったとすれば、そこからさまざまな情報を引き出す事も、可能だと気がついたのだ。
教団の連中は、関わった人間一人一人の、知り得た秘密や情報を守るというポリシーなどは、まったく持ち合わせてはいない。そういうものは、俗世間のくだらない約束事だと思っているのだ。「お布施」さえ出せば、誰にでも簡単に、欲しがっているものを渡す。
普通の感覚で考えれば、一人の人間を貶めるために、そこまで手の込んだことをする人間などいるのだろうか、と思うだろう。が、今ならばわかる。奴らは人間などではないのだから。
そして、早苗は、久垣から私を守るために、私に近づき、一緒に多くの救難を必要とする人達のための活動に汗を流してくれた。…そもそも、何のためだろう。早苗も私のことを、いろいろ知っているようだったが、もしかしたら早苗も、教団と関わっていたのかしら。
何にしても、彼女は私のせいで、悲惨な死に方をしてしまったのだ。どんなに詫びても、詫びきれるものではない。
いろいろ考えているうちに、またも眠くなってきた。あ、かなり眠い。歯は磨いてないけど、しょうがない、少しだけでも、眠っちゃおう………。
夢を見た。何やら、川が流れている。
川を背景に立っていたのは、早苗だった。私を見ながら、黙って微笑んでいた彼女。私は、思わず叫ぶ。
「早苗…どうして、私なんかのために、あんな危ないことしたの?」
彼女は微笑んだまま、答える。
「決まってるじゃない。昔、あなたの描いてた絵が、好きだったのよ」
「はぁ?」
「璃夢、私とはそんなに親しくないつもりだったみたいだから、気がついてないんだろうけど、昔、学校でアニメを作りながら、私、本当の夢を、あなたと一緒に追っかけてたような気がしてたんだよ」
「本当の夢…?」
「………」
「本当の夢って何?私と一緒に、どんな夢を?プロのアニメーターになること? 早苗、ハッキリ言ってくれなきゃ、わからないよ」
「ん…別にいいけど。でも璃夢、これが私からの、あなたへの、せめてもの、感謝の気持ちなの。
お願い、あなたは、頑張って、生きて」
「そんな…」
早苗のイメージが、次第に後ろへと、遠のいていった。やがて川面まで到達すると、その姿は、徐々に霞んでいったのである。
「待って、行かないで! まだまだ聞きたいことが山ほどある。待って、行かないで、早苗!早苗!早苗!」
自分の声に驚いて、璃夢は目が覚めた。瞼が涙で熱く腫れあがっていることがわかった。
まったく、早苗は、考えてみたら、昔からずっとそうだった。本当にもう、夢の中でまで、思わせぶりなことしか、言わないんだから。
いや、彼女の真意に気づけなかった私が、鈍いだけなのだ、きっと…。
「いやぁ、来てくれてありがと。サクラちゃんて、写真の通り、可愛いね。それにしても、マッチングアプリでサクラなんて、思い切った名前つけたんだね。まあ、ちゃんと来てくれたから、いいけどさ」
約一か月前のことである。自称サクラと会うため、自分の町へ帰ってきた久垣は、待ち合わせ場所にしていたファミリーレストランで、入ってきた早苗を見るなり、いきなりチャラさを全開にしてきた。
「さあさあ、好きなのを選んで。目玉焼きハンバーグ、美味しそうだよ。あ、先にビール頼んじゃおうか」
久垣は、メニューを見せながら、学生時代と変わらぬハイテンションで、相手を自分のペースに乗せていこうとしていた。ボーッとしていると、本当に彼のペースに飲み込まれてしまいそうだった。
「いらねえよ、そんなもん!」
サクラこと早苗のいきなりの暴言に、さすがの久垣も固まった。
「七面倒くせえの嫌いだからよ、さっさと本題に入らせてもらうぜ。これ書いたの、おめえだよな?」
早苗は、スマホを出し、双見刑事がパソコンから璃夢に見せたものと同じ、警察への投稿フォームの書き込みの一部が映った画面を、久垣の鼻先に突きつけた。
「オイオイ、いきなり何だよ。大きな声出すなよ。みんな見てるじゃないか」
「みんなが見てるからいいんだよ。何だったら、店中にバラしてやろうか。おめえが今まで、やってきたことをさ」
早苗のあまりの剣幕に、店中の客や店員が、何事かと二人の方を見ていた。
「一体、何なんだ、お前は」
「マッチングアプリいろいろ漁ってたら、すぐにおめえを見つけたよ。よく引っかかってくれたな。感謝するぜ」
「と、とにかく、店の外で話さないか?」
「フン、いいぜ」
もしも璃夢や、他のボランティアの若者達が、早苗のこの時の豹変ぶりを見たら、きっと腰を抜かすだろう。が、この「ズベ公」スタイルも、妙に馴染んで見えると感じるはずである。
注文が何も無いまま二人がファミレスを出てしまったので、店員はムッとしていた。塩でも撒きたい気分だっただろう。
ひと気のない場所で話そうという久垣の提案を受け入れ、早苗は、河原を指定した。二人は先ほどの店から少し離れた河川敷まで、歩いて行ったのである。
河原の周辺は、やはり地震の影響がまだ残っていて、川から流れ着いた家屋ゴミが山積みになっている所が幾つかあった。
石がゴロゴロしていて歩きづらい河原で、早苗と対峙した久垣は、先ほどとは打って変わって、険しい顔つきになっていた。
「答えろよ。お前は俺の、いったい何を知ってる?」
「フン、何もかもさ」
早苗は再び、スマホを取り出した。
「これは、あんたが警察に投稿した、嘘八百の情報だよな?ご丁寧に写真まで貼りやがってさ。彼女がどんな思いしたか、あんたに少しでも、わかるのかい?
昔、璃夢と、いったい何があった?フン、大体の想像はつくよ。
変な嘘をついて、自宅まで連れ込んで、レイプした。それでもう、彼女は自分のものになったと思い込んで、その後も執拗に連絡をとろうとして、当然ことごとくシカトされたもんだから、今度は逆恨みの感情を募らせていった。
大方、そんな所だろう?あたしの妹の時と、同じにさ」
「何だと?」
早苗はスマホから、今度は一人の女性が写った画像を出してきた。
「この、真ん中に写ってるのは、上島奈津美。知ってるだろう?」
久垣は早苗から突きつけられたスマホ画面を見て、太々しく言い放った。「ああ、よく知ってるぜ」
「最初、強引に迫っていったのは、当然あんただけど、純粋な奈津美は、そのうち、あんたとのことを真剣に考えるようになったんだよ。結婚まで口にするようになった。
それをあんたは、まるで服でも着替えるみたいに、簡単に彼女を見放して、別の女に付きまとい始めた。
あの時奈津美は、あんたの子供を身ごもってたんだよ。すべてに絶望した彼女は、ゆっくりと歩いていったんだ。この川の中へね」
久垣は、面倒臭そうに答えた。
「そうか、確かに、この川で入水自殺したって女のニュースをやってたなあ。あれは奈津美だったか。まさか、お前の妹だったとはな」
「あんたのことは、どうあっても許せない!」
「おいおい、そんな怖い顔するなよ。大体男なんてものは、みんな浮気性なんだからよ。奈津美はその辺を理解できないで、勝手に一人で死んでいったんだ。そういうのまで俺のせいにされちゃ、たまらねえな」
「よくもぬけぬけと、そんなことが言えたな!」
「お前って本当に、可愛くねえ女だな。まあ、しょうがねえか。マッチングアプリなんていうものも、当たり外れがあるからな」
早苗は、久垣に飛びかかっていった。彼女の予想外の行動に、久垣は防御の間もなく、その大きな体は倒れ込み、ゴロゴロしている石の一つに、したたか頭を打ち付けた。
「いてて…何しやがる!頭おかしいんじゃねえのか、お前!」
「奈津美に詫びろ!璃夢にも詫びろ!誠心誠意、詫びろ!」
久垣は、大きな石の一つを拾い上げ、自分に覆い被さってきた早苗の、額の生え際の部分に、力任せに打ち付けた。
「あっ!」
さらに一撃した。
額から大量の血を流し、河原へと倒れた早苗がいた。
薄れゆく意識の中、命の灯が消える直前まで、彼女は考えていた。
「これでいいんだ…。こうやって人一人死ななけりゃ、警察だって、動きゃしない。この男を地獄へ叩き落とすためには、犠牲が必要なんだ…。
璃夢、あなたは、頑張って、生きて」
息絶えた早苗の体を、久垣はなるべく人目につかない茂みまで引きずっていった。
「チッ、手間とらせやがって。全部お前が悪いんだからな」
久垣は周囲に人目がないことを確認すると、そのまま逃走した。行く当てはあったのである。街中でスマホを取り出すと、すぐにその者と、連絡をとった。
「もしもし、俺だ。今から、そっちへ行くよ」
「あら、珍しいわね。あんたから連絡してくるなんて。さては、ついに、決心がついたのね?」
「まあ、そんなとこだ。もう、何だってやってやるさ」
「嫌よ、そんなヤケクソみたいな言い方しちゃ。ねえ、何かあったの?」
「何もねえよ。じゃ、今から行くからな、紫蘭」
紫蘭というのは、春風霊玄会の女性信者の一人である。璃夢から、その母親・加代子を通じて、教団と関わりを持つようになった久垣は、成り行きで、彼女とも関係を持ってしまった。
しかし、転んでもタダでは起きないとばかりに、彼女は、久垣に対して、しつこく入信を迫っていたのである。むろん宗教など、興味もなければ、自分には縁もゆかりもないものとしか感じていなかった久垣は、その都度ごまかし、紫蘭のことも、ただの利用する手段としてしか、考えてはいなかった。
今回のような非常事態に直面して、彼は紫蘭を通じ、改めてその宗教団体を、自らの隠れ蓑として利用しようと考えていたのである。
7.
「嘉村さん、被害者・白神礼導と、その幹部らの、詳しい死亡推定時刻が、わかったんですがね」
双見・嘉村両刑事は、その時、刑事課にいた。
「彼らは、震災による大きな揺れの直後に襲われ、殺害後に、揺れに伴う倒壊物による死亡に偽装されたと、当初は考えられていました。
しかし、実際には、そうではなかったようなんです」
「何だと?」
「彼らは、地震の直後ではなく、地震の少し前に、すでに殺害されていました」
「すると何だ、犯人は、直後に地震が来て、地震が犯行の形跡をごまかしてくれることを見越していたというのかい?
いや、そんなはずはないよね。犯行後に地震が起こったのは、まったくの偶然ということか」
「そういうことになりますね」
「何にしても、当日、その時間に、春風霊玄会の教会施設内に、被害者と一緒にいた人物を、特定できればいい。そこで捜査は、終了することになる」
時は二年半前、まさに震災直前に遡る。
瑠香が、母親の則江から、春風霊玄会の造られて間もない教会内における、怪し気な「研修会」に、無理やり参加させられるようになってから、そろそろ一か月目になろうとしていた。
「この世のすべては、汚れ、腐っている。ホラ、最近やたらに地震が多いだろう?大地が怒りに震え、宇宙が変わろうとしている証拠なのだよ。
大地が溜め込んだ歪みとは、地上のありとあらゆる、信仰心を持たぬ不届き者の、心の歪みが引き起こしたものだ。それをデトックスできるのは、我々だけだ。
ところがどうだ。○○教、××教、そして我々と似て非なる教義を掲げ、真理から遠ざかろうと図っているエセ・インチキ宗教団体・光輪真理会。あれらの存在こそ、最も邪悪で、看過できぬものなのだ。
真理を伝えられる組織とは、たった一つだけ。それが我々、春風霊玄会だ。その宇宙絶対万有の摂理を、若い君達は、体の奥深くに刻み込まなければいけないんだよ。
学校の勉強?あんなものはくだらない。学校なんていう所は、生きていく上で本当に必要なことは、何一つ教えてはいない。皆さん、我々こそが本当の意味で、あなたの人生の道しるべを示してあげることができるんだよ」
教会の、見た目だけは立派な、遥か上方に巨大な鐘を有する、礼拝堂のような部屋で、瑠香は、自分とほぼ同世代の、数人の若者達と共に、保護者を交えて「勉強会」を受けさせられていた。
全員に向けて熱弁を振るっていた、講師役の教団幹部の一人・溝呂木は、やがて瑠香の方を向いて、言ってきた。
「もちろん、今はまだ分からないだろうさ。さあ、我々と一緒に、儀式を体験してみようよ。ありとあらゆるものの基準が、ガラッと変わるんだよ。本当にスゴいよ。今すぐにでも体験できるけど、どうかね?」
瑠香は即答した。
「いえ、要りません。どういう儀式かは知りませんが、結構です」
「そう。決心がつくまでには、なかなか時間がかかるよね。わかった。我々はいつまででも、待ってるからね」
彼らの「呪文」を延々と聞かされることに、瑠香はいい加減、耐性ができていた。あくびを噛み殺し、入信の意思がまったくないことを、それまで言葉数は少なくても、自分なりに日々、訴え続けてきたつもりだった。
仕方なく、参加してあげてる、ただこの場に居さえすれば、あんた方は満足なんでしょ、という意思を、何とか伝えたかった。が、彼らのような人種にとっては、個人の真意などというのは、尊重する価値もないものであり、永久に伝わるわけがないのだった。
それでも、いつかは彼らも諦めるだろうと思っていた。この馬鹿げた、苦痛でしかない「呪文」を聞かされる時間も、いつかは終わりを迎えるだろうと、彼女は祈りに近い気持ちを持ちながら、ひたすら待っていたのである。
則江に対しても、教団の車が自宅まで迎えに来る朝には、毎日のように「もう行きたくない」を連発していた。その度に、すでに教団からマインド・コントロールを受けてしまっていた則江は、このようなことを瑠香に対して言ってきた。
「あら、じゃあ、あなたがイヤでイヤで仕方がなかった、学校へ行く?」
そのように言われると、確かに何も言えず、結局は母親の言いなりになるしかなかったのである。
だが、間違っていたと感じた。これまで登校を長く拒否し続けてきた瑠香だったが、今に至って、教団の鬱陶しい教義などに比べれば、学校での生活の方が、遥かにマシなような気がしていたのである。
その意思を、翌日には伝えるつもりで、その夜の彼女は、眠りに就いた。
翌朝——この日は、何か様相が違っていた。朝一番に、則江が言ってきた。
「瑠香、今まで何度も、教会へ行ってもらってたわけだけど、明日からの研修会は、もう参加しなくていいそうよ。瑠香があんまりイヤそうにしてたから、幹部の方々も、もう諦めたんですって。だから、本当に、今日一日だけは、参加してちょうだい」
一体、どういう風の吹き回しだろう。でも、まあいいや、明日からは、もう参加しなくてもいいんだ。今日一日ぐらい、我慢できる。あまり深く考えずに、瑠香はそう思ってしまった。
教団の車が、いつも通りの時間に来たため、瑠香は後部座席に乗った。いつも同乗してくる母親が、なぜかその日に限って、一緒に乗り込んでこなかった。
「あれ?どうしたの?お母さん」
「もう終わりなんだし、今日は瑠香一人で、お話を聞かせてもらってきなさい。大丈夫よ」
「………」
何が大丈夫なんだろうか。さっぱりわからなかった。猛烈に嫌な予感がした。
その日の教団の建物は、不気味な雲に覆われていた。珍しく幹部の者達が、総出で拝廊まで出迎えていた。
礼拝堂まで行くと、これまで瑠香と共に研修会に参加させられてきた「受講生」が、その日は更に数を増やしていたのが確認できたのである。それ以外にも、彼らは顔つきが変わり、何やら異様な雰囲気を漂わせていた。
何よりも、これまで皆と同伴していた保護者の姿が、瑠香と同様に、見受けられなかったことも気になった。
「みんな…一体どうしたんだろう」
瑠香は不審に思い、嫌な予感がますます現実化していくのを感じていた。
「今日はここに、無事に儀式を済ませ、教祖様の下に帰依していった、君達の先輩方も一緒に参加してもらいました」
あっ、数が増えたと思ったのは、そういうことか…。ぼんやりとそう思っていた時、大きなボストンバッグが一つ、溝呂木によって、彼女の前の机の上に置かれたのである。
「これは、君のお母さんから預かってきたものだ。中に君の生活必需品が、みんな入ってる」
よく見ると、確かに「先輩」以外の、皆の机の前にも、同じような荷物が置かれていた。
「さて、皆さん。今日から君達は、ここで我々と一緒に暮らします」
「………」
瑠香は、頭の中が一瞬真っ白になった。
「これは皆さんのお母さんやお父さんも、みんな承知していることです。今日からここで皆さんは、我々と寝食を共にしながら、教義をより深く理解し、咀嚼し、全国で五万以上の信者を有するに至った、我々の組織のために、今後一生働ける、という栄誉を得たのです。
これはもう、本当に、すごいことなんですよ。我々こそがまさに、人生の王道を歩む存在なんです。このような機会を得られて、本当に良かったですね。お父様もお母様も、きっと喜んでいますよ」
「この野郎!」と、瑠香は心の中で激しく毒づいた。とにかく一刻も早く、この場を離れることを考えた。こんな連中と共同生活など、とても耐えられるはずがない。
何よりも許せないと思ったのは、母親の則江だった。くだらない嘘などをついて、自分への養育責任まで、教団に丸投げしようとしたのだ。確かに不登校になったのは、私だ。自殺未遂事件を起こしたのも、私だ。だからと言って…。
いろいろと考えている間に、語り手の交代が行われた。溝呂木が脇から、ステージに上がってきた彼の紹介を始めた。
「さて、ここからは、我が春風霊玄会代表・白神霊堂先生にご挨拶頂きましょう。どうぞ」
会場内から、割れんばかりの拍手が鳴り響いた。あ、そうか、いわゆる幹部さんの一人かと思ってたら、ここでは一番偉い人だったんだ…瑠香だけが、拍手もせずに、ボーッとしていた。白神が話し始めた。
「さて、溝呂木君から、一通りのことは言ってもらったから、私からは特に何も言わない。
とにかく皆さん方は、本当に若い。人間としての可能性も、無限です。その可能性を、ぜひとも本当の幸福のために使ってくれることを、切に望むものであります」
特に何も言わない、などと言いながら、この男は尚も、長々と話を続けようとしていた。そして、あろうことか瑠香の方を向きながら、おかしなことを言い始めたのである。
「霊玄会の儀式の重要性は、周知の通りだ。皆さんのほとんどは、通過儀礼を済ませ、次のステップに進もうとしている。が、この中には、どうしたわけか、儀式を頑なに拒み続けている者がいる」
彼女は、固まってしまった。溝呂木が、横から話しかける。
「瑠香さん、わかるよね。君のことだよ。今日こそは、何が何でも、通過儀礼を受けてもらうからね」
彼女は、ここはもう、ハッキリ言わなければならないと思った。
「私は、今日が最後の研修日だと思って来ました。正直言って、明日からはもうここには来なくて済むんだと思うと、ホッとした気持ちしかありませんでした。
それなのに、今日からここでみんなで暮らすとか、儀式を受けろとか、いきなりそんな話になって、もう私、不愉快です」
「大丈夫、大丈夫。みんな最初は、そうだったんだよ。とにかく儀式さえ受けてしまえば、気持ちなんて変わるから」
話が通じないと思い、瑠香は、ボストンバッグを掴んで、拝廊に向かって駆け出そうとした。つまり教会を出て行こうとした。
「私、もう帰ります!」
溝呂木が、彼女の肩を強く掴んだ。
「帰るって、どこへ帰るの。我々はお母さんから、もう君のことを任されてるんだよ。今日からここが、君の家なんだ」
辺りを見回すと、他の「見習い信者」達も、そうそうと言わんばかりに、ニコニコと何の疑いもない表情で、彼女を見ていた。
彼女は、この建物内で、自分が唯一の、孤立した存在であることを思い知った。
いや、この建物内だけだろうか。ここを出ても、自分にはもう、居るべき場所なんか、どこにも無い。考えてみたら、自分の家でもそうだったじゃない。四人家族の中でさえ、私は孤立していた。
そんなことを考えているうちに、溝呂木が再び口を開いてきた。
「そもそも、どうしてそんなに嫌がるの?理由を教えてよ」
「わからないんですか? あなた方が、あまりにも傲慢だからですよ。私を幸せにできるのはうちの宗教だけ。他はダメ。根拠も何もないのに、ただ一方的に、そうやって決めつけてるだけじゃないですか。
確かに私は未成年です。でも自分の進む道ぐらい、自分で決める権利は、あると思うんです」
「君の進む道って、何?」
「それは、まだ分かってない。これから時間をかけて、探します。一生の問題だもの」
「でも君は、一度自分で自分の命を絶とうとしたよね? 学校にだって、行かなくなったじゃない。
結局、未成年の進もうとする道なんて、間違いだらけなんだよ。だから我々が、正解を指し示していかなくちゃいけないんだ。正解がすぐ目の前にあるのに、そこから目を逸らしているのは、君の方だよ」
「だから、そういうのが傲慢だっていうんだよ!」
瑠香はつい、ヒステリックに声を荒げてしまった。
「可哀そうに…」
痺れを切らした溝呂木は、そう言うと、ついに彼女の腕を引っ張り、強行手段に出ようとした。
「何するのよ。離して!」
「心配ないよ。すぐ済むからね」
ドアに告解室のプレートが貼られた、小さい部屋が、礼拝堂の脇にあった。そこに彼女は押し込まれ、後から、白神が入ってきて、内側から鍵が掛けられた。
中には、ベッドが置いてあった。なるほど、想像はついていたが、儀式とは、やっぱりこういうことだったのか。
「怖がらなくていいんだよ。これは、名誉なことなんだから」
「今までも、こんなことやってきたの? 複数回にわたる、未成年者への強制性交…これがバレたら、一体どれぐらいの罪になるのかしら。見当もつかないわね」
「罪にはならないよ。これは神聖な儀式なんだから」
白神は、瑠香をベッドに引き倒すと、そのまま覆い被さっていった。その拍子に、瑠香のデニムパンツの尻ポケットから、その後いろいろ紛らわしい事態を招くことになる、ある物が滑り落ちてしまったのだが、当然そのことに気がつく余裕などない。
「冗談じゃねえ…こんなのにヤラれてたまるか!」
瑠香の目に、パイプ製の洋服掛けが目に飛び込んできた。仰向けの姿勢のまま、彼女は腕をグンと伸ばし、ちょうど手の届く位置にあった、その太いパイプ部分を掴み取ることができた。幾つかの法衣を下げたままのハンガーが落下していった。
パイプは、夢中になっていた白神の頭頂部に、力任せに振り下ろされた。呻いてベッドへ倒れ込んだこの男の、体のあちこちへ、体勢を変えた瑠香は、繰り返しパイプを振り下ろし続けたのである。教祖が、獣のような悲鳴を上げた。
あまりにも只ならぬ雰囲気に、何事かと外側からドアが叩かれた。
「どうしたんですか!何かあったんですか?」
動かなくなった教祖を背にし、瑠香は内鍵を開けた。返り血を浴びた瑠香の、鬼の形相が、告解室のドアの向こうから現れた。手には、血の付いたパイプが握られたままだった。
「ひえっ!」
溝呂木は、尻餅をついた。瑠香は、勢いを保ったまま、溝呂木へも、パイプを幾度も振り下ろしていったのである。この男もまた、情けない別の獣のような悲鳴を上げ続けた。
礼拝堂の中には、誰も彼女を止める者はいなかった。正確には止めるどころではなく、見習い信者達は、ただただ怯え、次に殺されるのは自分ではないかという恐怖に凍りついていたのだった。失禁している者までいた。
大の大人であるはずの、他の幹部までが、鬼の形相と化した、返り血を浴びた瑠香の迫力に恐れおののき、固まってしまったのである。
「大丈夫、あんた達まで殺したりゃしないよ」という意思を示すかのように、瑠香は、パイプを床に放り投げた。
そして…どうしたわけだろう。未曽有の大災害が、まさにこの時、なぜかこのタイミングで、彼らの身に降りかかってきたのである。
重低音のような唸りが、床下からせり上がってきた。次の瞬間、教会全体が獣の背に乗せられたかのように大きく揺れる。ステンドグラスが悲鳴を上げ、色とりどりの光が砕け散って、床に降り注いだ。
石造りの壁に走る無数の亀裂。礼拝堂の柱が軋み、耐えきれずに崩れ落ちると、白い粉塵が濃い霧となって漂った。天井からは漆喰と梁が剥がれ、奇妙なオブジェが、吊られた鎖と共に大きく揺れ、ついには落下した。
見習い信者達が座っていた長椅子、そして机は、波に呑まれた小舟のように滑り、ぶつかり合い、やがて倒れてしまった。
「うわっ!何これ?こんなの初めて!」
「みんな逃げて!出口はあっちよ!」
「慌てると転ぶよ。落ち着いて!」
若い彼らにとっては、踏んだり蹴ったりで、本当に悲運としか言いようがなかった。死への恐怖を、二度も味わうことになったのだから。しかも二度目は、特大級である。
それでも、幹部達は一応大人だったようだ。若者達を率い、何とか教会施設から脱出し、他の大人達の協力を得ながら、無事に避難所までの誘導を果たしてくれたのだった。
崩れゆく礼拝堂には、教祖と一人の幹部の骸が残された。彼らが災害死と認定されるかどうかについては、瑠香にとっても他の一緒にいた者にとっても、考える余裕などある訳がなかった。ただもうパニックで、その時々を、自分達が死なない方向に持っていくことで、心が一杯一杯だったのである。
早苗が私と一緒に見たがっていた、本当の夢って何?…そのことで頭がグルグルして、特に答えを探すというわけでもなかったが、有料配信サービスのアニメなどをつい延々と観ていた璃夢の耳に、かなり近いパトカーのサイレン音が飛び込んできた。
気になって外へ出てみたら、大勢のマスコミ関係者らしき人々に取り囲まれた一人の若い女性が、警察官に促され、パトカーに乗せられていく様子が見えた。彼女は住んでいたらしい仮設住宅の一つから出てきて、掛けられた手錠を布で覆った状態で歩いていた。
その女の子は下を向いていたが、よく見たら見覚えがあった。以前自分も住み込みをしながら、避難所である中学校の体育館で声掛けをして回っていた時、その中にいた一人…生理の血で自分のデニムパンツを汚してた、確かにあの時の子だった。一体、何があったのだろう…。
その後、ニュースや新聞等で、様々なことがわかった。
大地震の直前に、春風霊玄会代表・白神礼導と、その幹部・溝呂木孝逸を殺害したのは、当時女子高生だった彼女・大友瑠香だった。
警察の根気強い聞き込み調査等により、犯行時の、同日同時刻に、被害者と共に教会施設・礼拝堂内にいた複数の人物が、すべて判明したのである。
凶器となった、現場に残されていた、洋服掛けのパイプに付着していた指紋から、瑠香が特定され、本人の自供も得ることができた。
ここで、犯行を目撃していたはずの、被害者と共に幹部を務めていた者達には、なぜ警察に、それらの重要な事を今まで黙っていたのかを、改めて問う形になった。
ここに、未成年者拉致・監禁、そして彼らが「儀式」と呼んでいた、不同意性交等罪に当たる一連の事件が、明るみに出ることになったのである。彼らがこれまで何も言わなかったのは、むろん事件の発覚を恐れてのことだ。
当時は「聖なること」とか言って美化していたくせに、一応は悪いことをしているという自覚があったのだろうか。白神に対しても、天罰が下ったとしか言いようがない。
この糞カルト教団も、主要人物が逮捕され、いよいよ解散への動きが現実化してきたな、と璃夢は思った。
同時に、彼女は、瑠香のことをいろいろ考え始めたのだった。
そもそも、なぜ事件現場に、自分の買い物カードなどが落ちていたのかが、最初は分からなかった。が、いろいろ情報を得て、彼女なりの推理を立て、かなり真実に近づいてきたような気がしていたのだ。
自分がスーパーで買い物をしていた時に、どこかでうっかりカードを落とした。これは確かである。
たまたま、同じスーパーで、瑠香も買い物をしていた。彼女は偶然、そのカードを拾得したのだ。すぐにサービスカウンターに届けようとしたが、その時どこからか、電話が掛かってきた。
そして、反射的にカードをポケットに突っ込んでしまった。電話が終わった後に、届け出ることをつい忘れてしまったのだ。その後、カードのことはずっと忘れられ、長い間彼女のポケットに入れられたままになっていた。
犯行現場にいた時に、偶然何かのはずみで、それを落としてしまったという訳なのだ。これは、私に罪を着せようという悪意などではない。まったくの、恐ろしい偶然だったのである。
その恐ろしい偶然は、彼女の犯行直後の大地震という形で、最も顕著に現れることになった。
確かに冤罪にも繋がりかねない、紛らわしい事態を引き起こしたのかもしれない。だが、璃夢はそんな瑠香を、どうしても責める気にはならなかった。
瑠香とはその後も、別の形で会うことができた。彼女とは、不思議な縁で繋がっているような気がして、璃夢は仕方がなかったのである。そして、こう呟いた。
「瑠香…私は『あの時』自分を結局守り切れなかった。あなたは最後の最後まで、自分を貫き通したんだね。本当に立派だよ。いつか、会えるといいね」
瑠香は二人の命を奪ったことになるが、レイプとは、魂の殺人である。彼女は悪魔の手から、自分自身を守ったに過ぎないのだ。少年法だってある。誤った判決が下されないことを、ただただ祈るばかりだった。
8.
春風霊玄会、そして光輪真理会。この大層な名を持つ二つの教団は、元々は一つの宗教団体の中の、二つに別れた宗派だった。母体となるその教団の名を「求道会真元教(ぐどうえしんげんきょう)」という。
何冊もの分厚い本にまとめられた、おびただしい教義の中の、外から見ればどうでもいいような細かい違いを巡り、二つの宗派は、長きにわたって、衝突が絶えなかった。
同じ宗教団体の中で、同じ思想を巡り、同じ行動を繰り返していたら、その繋がりは堅固になっていくようなイメージがあるが、実態はまったくそうではない。
実際の彼ら一人一人は、元々がおかしな部分でプライドが高く、日々何かと、まさにどうでもいいようなことで、一触即発の細かいバトルを繰り返していたのである。互いの心は、一見通い合っているようで、その実まったくのバラバラと言ってよかった。
むろん中には、誰かに誘われノコノコついていき、その結果すべての判断を、周囲の者達に丸投げするだけになってしまった、自分の意思も意見も持たぬ若者なども少なくない。
そのような若者達こそ、彼らにとっては洗脳もしやすく、いざという時の捨て駒になる、都合のいい存在であると、彼らはうそぶく。自らの意思を持たないということは、組織によって、簡単に偏った思い込みを植え付けられ、反社会的な行動をとることに繋がりやすい、実に恐怖すべきことなのである。
ある日、決定的な事件が起こった。求道会真元教教祖・倉光克正の娘・土莉愛(どりあ)を巡り、真理会の前身となる宗派の代表・天城と、霊玄会の前身である宗派の当時の代表となる蛭田とが、恋敵になったのだ。
やがて蛭田は、天城を出し抜いて、土莉愛と関係を持つようになった。嫉妬に狂った天城は、あろうことか蛭田を刺し殺してしまったのである。
このことは内部で巧妙に揉み消され、事件として表面化はしなかった。が、これがきっかけとなり、二つの宗派は、求道会真元教とは完全に袂を分かち、それぞれが独立した宗教団体となっていったのである。話だけ聞くと、かなり飛躍しており、外からは何がどうなっているのか、サッパリわからない。
何にしても、このような教団の分裂、つまり自分以外の「教祖」が二人も現れてしまったというのが、倉光の目に完全な裏切り行為と映ったことは、想像に難くない。この対立する二つの団体は、元祖である真元教にも反旗を翻すことになり、今や三つ巴のややこしい関係となっていったのである。
蛭田に代わって、春風霊玄会の教祖となったのが、元霊媒師の、麻宮龍子である。霊玄会のナンバー2と呼ばれる、死んだ白神とは、やはり男女の関係だった。
かつて、奥平秀直が闇バイトで関わった、寺島という人物は、まさに求道会真元教の信者の一人だった。彼が「ある方」と呼んで絶対視していた存在とは、教祖・倉橋に他ならなかったのである。
高柳寿子は、その日、雑誌記者の幸畑と会っていた。春風霊玄会による一連の、未成年者拉致・監禁等の事件を受け、その全貌を暴き、スクープ記事として世間に公表するための、情報提供に協力するつもりだったのである。
教え子である瑠香に関してはもちろんのこと、その保護者を、教団の人間がどのように手懐けていったかを、幸畑には徹底して取材してもらうつもりだった。
則江は、連中からは完全に洗脳され、娘である瑠香の身柄を、何の疑いもなく教団に預けてしまった。同様にされた、つまり連中の犠牲になってしまった未成年者達の父母が、どれくらいの数に上るのか…。
また、保護者の意思に反して、つまり無理やりに近い形で連れて行かれた子供達だって、多くいたのではないか、というのが、高柳の見立てだった。そのような、マインドコントロールを免れた父母達と連絡をとり、協力を仰ぎ、教団解散に追い込むための布石とすることが、高柳の最終目標だったのである。
「あのようなことは、断じて許される訳がありません。何卒、あの狂った団体を、社会から永久に追放するために、お力添えをお願いします」
「勿論です。全力を挙げて取材に臨み、真実の記事を作り上げます。一緒に頑張りましょう」
二人は、固い握手を交わした。
かくして、幸畑が取材を敢行し、魂を切り刻む思いで書き上げた記事は「週刊文冬」に大きく取り上げられ、全国の書店の平台に並ぶことになった。これを読んで激怒したのが、やはり霊玄会教祖・麻宮である。
「ひどい…こんな根も葉もないことを書いて」
「まったくです。世の為人の為になるよう頑張っている我々に対して、何という仕打ちでしょう。もう、名誉棄損で、告訴してやりましょう!」
「ダメダメ!そんな生ぬるいやり方じゃ、ああいう腐った輩は許されないわ。この雑誌を出した出版社を、爆破するしかない。
その前に、この記事を書いた人間を探し出して、殺すのよ。いえ、それだけじゃ、残された家族が可哀そうね。もう、一家皆殺しよ。それが、天の意思よ」
「さっそくこの記事を書いた記者の家を調べ上げます。並行して、爆弾製造班に、強力なのを作らせます」
「頼んだわよ」
このようなヒステリー女の狂気の計画を、誰一人として諫める者はいなかった。彼女は、とにかく声が大きく、声自体もよく通り、かつ体も大きく、異様な存在感を放っていたのである。
誰も彼女の言うことには逆らえない。というよりは、施設全体が、どこか人間の当たり前の感覚を麻痺させるような異様な雰囲気を漂わせていたのだった。
その日、久垣は、教団が所有する宿泊施設の中の、紫蘭が利用している部屋にいた。彼は紫蘭のベッドに、裸で横になっていた。黒いキャミソール姿の紫蘭が、後ろから腕を回していた。
「まったく、この教団も、風当たりが強くなってきたな。ここにもいつまでも、居られないかもしれねえな」
「ダメよ。あんたはもうすでに、教祖様から直々に、洗礼を受けたんでしょ? 私達はもう、教団とは一蓮托生なんだ。もしも脱会しようなんて気を起こしたら、高額なペナルティだけじゃ済まない。何人もの団員からの、壮絶なリンチが待ってるんだよ」
「何だよ、そうやって脅すのかい。ヤクザと変わらねえな」
「当たり前じゃない。あんただって、それを知ってて入信したんでしょ?」
その時、ドアが激しい音を立てて叩かれた。カーディガンだけ羽織った紫蘭が、ブツブツ言いながらドアを開けた。
「何だよ!ノックならもっと静かにしてよ!ドアが壊れるだろ!」
現れた警察官が、手帳と書類を突きつけながら言った。
「警察だ!ここに、久垣源栄がいるはずだ。この男には、殺人の疑いで、こうして逮捕状が出ている」
「ええっ!」
「おい、そこにいるんだろ?出て来い!」
部屋の奥で、久垣は頭を掻いた。
「チッ。もう嗅ぎつけやがったか」
部屋には、裏口などというものがないから、反対側から逃げることはできない。服を着終わった久垣は、ノロノロと奥から出てきて、警官達におとなしくついて行く振りをした。
玄関先で、手錠をかけようとしてきた警官の隙を見て、久垣は猛ダッシュしたのである。
「あっ、待てっ、コラッ!」
高校時代に陸上部にいた久垣は、足の速さには自信があった。ドラマでよくやるように、彼もまた、逃げる先々でゴミの入った容器など様々なものをひっくり返し、警官の進路を妨害しながら走り続けた。
袋小路に追い込んだかと思ったら、その塀さえも乗り越え、余所の家の庭を突っ切って、逃げ続ける。相当な執念である。
だが、どんなに足が速くても、持久力があっても、結局は行き当たりばったりの行動である。一〇〇%失敗に終わることは、自明の理であった。警察のヘリコプターからの俯瞰、迅速な情報共有、巧妙な連携プレー。これに勝るものはないのである。
久垣は十数分後、身柄を拘束された。まあまあ、持った方ではないだろうか。彼に手錠を食い込ませながら、刑事・双見が言った。
「まったく、いつもいつも思うんだけど、お前らっていう人種のことが、不思議でしょうがないよ。自分の欲望のためにしか動かず、その時々で、まずくなればこうやって逃げては捕まる。その繰り返しだ。仮に謝罪みたいな言葉があっても、聞くだけ空しい。
なあ…マジで問いたいんだが、お前の中には、人としての最低限の『尊厳』っていうものがないのかい?自分ていうものを、根本から変えたいとは思わんのか?
とにかく、今回のことは、きっちりと裁きを受けてもらうぞ」
言葉は空を切り、久垣はただただ、痛えよ、手錠を緩めろよ、などと喚くばかりだった。
一方の、宿泊施設の部屋の中では、不貞腐れた紫蘭が、タバコに火を点けた。
「あーあ、源栄ったら、もしかしたらとは思ってたけど、人を殺してたとはねえ。それが教団のためだったら、別にいいさ。個人的な恨みなんかでそんなことされたら、みんなが迷惑だよ。前言は撤回だ。いいよ、あんたとはもう別れてあげる。教団からも、あんたは自由だよ。好きにやんな!」
あれから一年が過ぎ、元号も変わっていた。
幸畑の自宅を襲撃し、その四人の家族をすべて亡き者にしようと計画し、結果未遂に終わった実行犯であり、春風霊玄会の信者の一人・望月の裁判が、まさにこれから行われようとしていたのである。
裁判所の前に、傍聴人の長い行列ができていた。
「あら?」
秀直と連れ立って歩いていた璃夢が、行列の中に、ある人を見つけ、声を掛けた。
「あなた、瑠香さんでしょう?」
瑠香は、担任教師の高柳と共に、この事件とは深く関わっていたため、二人揃って、裁判の傍聴を申し出ていたのだ。
彼女は、殺害した人間が二人に及ぶため、残念ながら正当防衛による無罪とは認められなかった。が、当時未成年であったことを考慮し、刑には十分な執行猶予が付き、こうして別件の裁判の傍聴も可能となったのである。
「はい、そうですけど…」
「私、奥平璃夢といいます。私達もこの裁判の、傍聴席に座るのよ。あなた、私のこと覚えてる?」
「いえ…あ、はい、何となく」
「あなた、あの日、ズボン真っ赤に染めてたでしょう?私、あの時、あなたをお風呂場まで、案内してあげたのよ」
「あっ…!」
瑠香は、顔を真っ赤にして、項垂れた。
「やめてよ。そんなこと、大きな声で…」
「あら…ごめんね」
一呼吸置いてから、璃夢は改めて訊いてみた。
「ねえ、記憶にあるかしら?いつだったか、あなた私の買い物カード、拾ってくれたことがあるみたいなのよ」
「………」
しばらく、何のことか分からず、考え込んでいた瑠香は、突然思い出したように、声を張り上げた。
「あっ!」
瑠香は慌て、しどろもどろになった。
「ごめんなさい、ごめんなさい、璃夢さん、私のせいで、最初に璃夢さんが、あの事件の犯人に、間違われちゃったんでしょう?」
「いえいえ、そのことは、全然いいのよ。あの事件は、もう解決したんだから。
ただね、あの狂った教団のために、私達はお互い、ひどい目に遭った。改めて瑠香さん、偉いなと思う。本当なら目を伏せてしまいたくなるはずなのに、そうせずにしっかりと、進行中の出来事にも向き合おうとしているんだもの」
「あら、そんな…」
「それにしても、本当にバカな人達よね。おかしな事件を起こす度に、わざわざ自分達の教団の寿命を縮めることに、つまり自分達の首を絞めることになるのも、気がつかないんだから」
「本当ですよね」
二人のやり取りを、高柳、そして秀直も、目を細めながら聞いていた。他に、他県からやってきたもう一組のカップルが、同様に彼らを見守っていた。水木和佳と、恋人・無代啓一である。
璃夢自身は、何か、ここでまた幾つかの支流が、本流に向かって交わり合ったような、そんな不思議な感覚を味わっていた。
裁判所開廷の時間になった。傍聴席には、璃夢・秀直・瑠香・高柳…そして和佳・啓一の姿があった。
「被告人、前へ」
裁判長の低く抑えた声に、被告席の男は、ゆっくりと立ち上がった。背筋を伸ばし、傍聴席を一瞥するその目には、太々しさが漂っていた。
起訴状朗読が始まる。
「被告人・望月琉斗は、平成三十年一月二十八日深夜、週刊文冬記者・幸畑夏希、及びその夫、未成年の子二名を殺害する目的で、刃物および可燃物を準備し、幸畑宅に侵入しようとしたものである」
検察官の声は、内容の凄惨さとは不釣り合いなほど淡々としていた。裁判長が問いかける。
「被告人、起訴事実について、認否を述べなさい」
望月は、口元にわずかな笑みすら浮かべ、はっきりと言った。
「事実関係は認めます。ただし我々は、社会に害をなす虚偽の記事から、真実を守ろうとしただけです。あの記事は、教団と信者の尊厳を踏みにじるものでした」
検察官が鋭く切り込む。
「だから、記事とは無関係な、夫や子供まで、殺そうとしたのですか?」
望月は、まったく動じなかった。検察官は続けた。
「犯行の動機は、被害者が執筆した、被告人の所属する宗教団体・春風霊玄会に対する批判記事により、教団の名誉が著しく傷つけられたとする、一方的な思い込みによるものであります」
ここで、弁護人が立ち上がった。
「異議あり。被告人は教団の名誉のためではなく、上位指導者からの暗黙の圧力、そして長年にわたる精神的支配の下で行動したに過ぎません」
「異議を却下します。検察官は、続けてください」
裁判長の言葉に、弁護人が失意の表情で席に座る。検察官が続ける。
「なぜ、記者本人だけでなく、家族まで殺そうとしたのですか?」
「麻宮は、記事は悪意の塊だと言っていました。仮に本人を消しても、家族が残っていれば、結局同じ禍根を残すことになる。だから一緒に消してあげた方がいい、と」
法廷内がざわめき、裁判長が木槌を打った。
「静粛に!」
ここで、弁護人は改めて、被告人が長年、教団の施設内で隔離された生活を送り、外部との接触を断たれ、暴力を「浄化」と教え込まれていたことを強調した。
検察官は改めて、厳しく言い切る。
「どれほど教団側の偏った思想の影響を受けていようとも、無関係な家族、ましてや幼い子供までを殺そうとした事実は、決して消えることはありません」
続いて、原告側の被害者・幸畑の証言が始まった。証言台に立った彼女は、細く息を吸い、法廷を見渡した。
「私は、事実のみを積み上げて記事を書きました。内部証言、資金の流れ、脱会を希望しながら、それを踏みにじられた父兄の証言。どれもすべて、裏付けのとれたものです」
検察官が尋ねる。
「事件当夜のことを、話してください」
「はい」
幸畑は言葉を探すように、視線を落とした。
「深夜、物音がして目が覚めました。玄関の鍵が、外からこじ開けられようとしました。その時真っ先に思ったのは、家族を守らなければ、ということでした」
声がわずかに震える。
「子どもが泣いていました。私は警察に通報しながら、必死で家具を動かし、ドアを塞ぎました。近所の人も異変に気がついて、外に出てくれました」
検察官は被告人を一瞥してから、言った。
「被告人を見て、どう感じますか」
幸畑は、被告人を真正面から見据えた。
「この人は、私の書いた記事を、一行たりとも理解しようとはしませんでした。事実から目を背け、自分の思い込みだけで、行動を起こしたのです」
検察官は、改めて厳しい声で告げた。
「被告人は、最後まで自己の行為を正当化し、被害者への共感を一切示さなかった。本件は、信仰を盾にした暴力であり、民主社会に与えた影響は、まことに甚大であると言わざるを得ない。よって…」
検察官は、未遂事件としては異例ともいえる厳しい求刑をした。
やがて、ほぼ検察側の求刑通りの判決が出ることになったのである。
被告側は、やはりというか案の定というか、往生際が悪く、納得がいかないとして、即日控訴の構えだった。
その後、当然のことながら、控訴も棄却されたのである。
ここから、春風霊玄会解散への動きが、一挙に進むことになった。
世間では「宗教はすべて税金がかからないから、坊主丸儲け」などという認識があるが、これは大きな誤解である。特に実体の見えない新興宗教などというものは「宗教法人法」に基づき、財務開示を求められる場合が多いのだ。
確かに宗教法人は、公益法人等として扱われ、お布施、寄付金、賽銭などの本来の宗教活動は、非収益事業とみなされ、これによる収入は、法人税が完全に非課税となる。
また、境内の土地や建物にかかる固定資産税、都市計画税の非課税、墓地・社務所の登録免許税・不動産取得税の免除など、多くの税制上の優遇がある。これを「旨味」ととらえ、安易に宗教法人を立ち上げ、金儲けに走ることを考える馬鹿者も多い。
ただし、原価と販売価格の差額が大きいお守りや物品販売、有料駐車場などは「収益事業」とみなされ、法人税の課税対象となるのである。
壺・印鑑・数珠・書籍などの物販。セミナー・修行・講座の参加費。教会施設などの不動産収益。それぞれ法人税・固定資産税の対象となる。会計の透明性を保ち、宗教活動と収益事業との帳簿は、明確に区別する必要があるということだ。
宗教法人の優遇措置は、憲法上の「信教の自由」と関連している。「公益性の高い活動を支援する」という目的で、この措置が設けられているのである。
当然のことながら、個人所得、つまり住職や神職、宗教団体の代表を務める者の報酬全般に、通常通り所得税や住民税が課税される。宗教法人は他のビジネスと同様、財産目録・収支決算書を作成し、税金の申告の際に届け出なければならない。
これは信者・元信者・その関係者からの閲覧請求があった場合は、速やかに応じる義務を負う。もしも請求に応じない、または書類の内容に虚偽記載の疑いがある場合は、各都道府県の所轄庁・文科省に通報されることになるのである。
特に霊玄会は、不当寄付・献金が常態化していたため、さらに遡った財務状況の、厳しい追及がなされることは必至だった。
また暴力団との繋がりも指摘されていた。無論これらのことは「週刊文冬」の、幸畑執筆の記事に、余すところなく暴き出されていた。改めて裁判所からの解散命令を受けることは、もはや時間の問題であった。
「このまま順調に行って、あの教団が解散に追い込まれたところで、少しも不安材料が消えたわけではないがね」
嘉村が、河口に飛来してきていたユリカモメの群れを眺めながら、橋桁に凭れかかり、双見を相手に、今後のことを憂えていた。
「霊玄会の解体が確実と聞いて、光輪真理会の人間達は、さぞや大喜びだろうさ。目の上の瘤が無くなったとか思ってね。
だが、結局は奴らも叩けば埃が出る、霊玄会とは五十歩百歩の連中だ。奴らもいずれ、何かをやらかす。
そうやって、二つの教団が共倒れになるのを、嘲笑いつつ、高みから見ながら待っているのが、奴らの元祖となる、求道会真元教だよ。
真元教はこのまま、二教団の争いを静観しつつ、次に我々を食い物にする機会を、したたかに待つつもりなのさ」
「三つとも、潰せればいいですよね」
「そうだね。でも、難しいだろうね…」
嘉村はここで、残りの昼食のサンドイッチを一気に頬張った。
「宗教・宗派の違いによる大きな戦争は、中東・ヨーロッパなどでは、遥か昔からあった。が、日本では古代から、八百万の神への信仰があり、自然・万物を畏れ、敬う謙虚な気持ちというものを、昔の日本人はみんな持っていたはずなんだ。
時代が進み、生活様式が変わり、あらゆるものの価値観・解釈が変わった。日本人の信仰の在り方も、多様化を極めた。
だが昔ながらの『日本人の宝』とも呼べる、自然を畏れ敬う謙虚さ。これはすっかり、どこかへ行ってしまったような気がするね。
我々が携わってきたカルト教団は、人間の弱い部分につけ込み、人々から、金だけではなく『人間らしさ』までもむしり取り、その自覚さえもない、ただの確信犯の集まりだよ。もはや奴らが持つものは、信仰心の姿を借りた、ただのエゴでしかない。
仮に三つの教団すべてを解体できたとしても、その根っこにあるものは、不安の芽となるものは、永久に残り続けるのさ」
「………」
ユリカモメの群れが、川面から飛び立った。
「双見君、鳥を見て、彼らを自由だと思うかね? 自分も鳥になって、自在に空を飛びたいと思うかね?」
「ええ、まあ。誰だって一度は、そう思うんじゃないですかね?」
「私はないよ。鳥は全然、自由じゃない。他の生き物達と同様に、生きるか死ぬか、そのスレスレのところで、彼らは懸命に命を繋いでいるんだ。飛ぶということも、生きる手段として、たまたま体がそのように特化したに過ぎん。
餌がなくなっても、天敵に襲われても、彼らは簡単に死んでしまう。営巣地がなくなれば、子孫を残すことだってできんのだ。
どうして人間が、人間だけが、こんなにも特殊な進化を遂げたんだろうか。日々安心して飯を食い、眠くなれば寝て、もちろん子を産み、育てることも安全にできて、一生、命の危険などというものとは無縁に生きられる。
これも人間が、他の動物と違って『一人一人の命が大事』という思想に守られてきたからなんだろうね」
「………」
「だが、六年前の大震災は、もしかしたらこれら一連のことを、ひっくり返したのかもしれない。基本的なライフラインが、あっという間に破壊されたことで、多くの人々が改めて、生死のギリギリの境地を味わうという恐怖を感じたんじゃないだろうか。『生きるための本能』っていうものを、呼び覚まされたんじゃないだろうか…」
「………」
「所詮人間にとっても、生きる原点とは『戦い』なんだよ。ひとたび環境が大きく変われば、他の動物達と同様、生か死かのギリギリの状態で生きていかなければならなくなる。
あそこに揺れながら漂っている、一羽の死にかけたユリカモメと同じで、人間は一人一人では、とても弱く、頼りない存在だよ。だからこそ助け合い、目に見えない敵と戦っていくことの大切さ…そういうことを、震災は改めて教えてくれたのかもしれないよね」
「………」
「何だね。さっきから黙って」
「いえ…何だか嘉村さんて、すごい人だなって思って」
「…さあ、そろそろ行こうか」
嘉村は食べ終わった昼食の包みをポケットに突っ込むと、車の助手席に乗り込んだ。双見も後から、運転席に乗り込んだ。
9.
この日、璃夢と秀直は、東京・JR山手線に乗っていた。
「昨日ね、また早苗が、夢の中に出てきてくれたんだよ。いえ、ただ出てきてくれたっていうだけなんだけど、何となく今までモヤモヤしてて、なかなか分からなかったことが、ハッキリ分かった気がしたんだ」
璃夢はその話を、誰かにしたくてたまらなかった。たまたま傍にいたのが弟だったから、彼女は打ち明けたのである。
「早苗って誰さ」
「言わなかったっけ?私の友達だよ」
「お姉ちゃんの友達ったって、俺が分かるわけないじゃん」
「あっ、そうだよね、ゴメンね。
でも聞いて。私が絵を描いてた頃、早苗は、私の絵が、他の誰の絵よりも好きだって言ってくれたんだよ。私と一緒に、夢を追いかけようって言ってくれた。
どんな夢かは分からなかったけど、早苗は死んじゃって、私が出来ることは、もう何もなくなったと思ってた。でも、そうじゃなかった。
子供の頃に読んだ、ある物語の本を思い出したんだ。今から、その話をしてあげる」
璃夢は車両の揺れに身を任せ、本の内容を思い出しながら、ゆっくりと話を始めたのだった。
物語の主人公は、画家だった。時は戦時中。彼は軍の依頼で、国民の戦意高揚のための絵を、ずっと描いていた。いや、描かされていた。
ある日のこと、彼は一人の、まだ幼い戦災孤児と知り合う。彼は一晩だけの約束で、少年にその日泊まるための部屋と、食事を用意してあげたのだった。
身なりは薄汚れていたが、何か不思議な雰囲気を漂わせた少年だった。一宿一飯のお礼にと、少年は画家に、何か贈り物をしたいと言ってきた。自分が実は、彼が本当に欲しがっているものをあげられる、というのだ。
その話を本気にしなかった彼は、気持ちだけもらっておくよ、とだけ言い、一仕事した後、眠りについた。翌朝、彼が目覚めた時には、少年の姿は消えていた。
終戦後も、その日の食事にさえ事欠く日々が続いた。日本中が貧乏だった。そんな中で、彼には、素晴らしい女性との出会いがあったのである。
二人は、やがて結婚し、やがて子供を、三人も儲けた。
絵筆を持つことは、止めなかった。軍の依頼で描いていた戦争画などではなく、これからは本当に描きたいものを自由に描けるという喜びが、彼にはあった。
絵が売れることはほとんどなく、生活は困窮していたが、妻の支持・応援を得られたということが本当に大きく、彼はこの上なく幸福だった。その後無事、彼にも安定した収入を得られる仕事が見つかった。
その傍ら、日々成長していく子供、そして愛する妻の姿を、キャンバスに写し取っていくことが、彼の貴重な日課となっていた。
長い年月が経ち、彼もいよいよ、人生の終わりを迎えようとしていた。長く連れ添ってきた妻と、三人の子供、その結婚相手、そして大勢の孫に看取られながら、彼は静かに息を引き取った。
いよいよ三途の川を渡ろうというところで、彼はいつかの戦災孤児の姿を、そこに見たのである。あれから何十年も経つというのに、少年はまったく、会った当時の姿のままだった。
「お久し振り。僕からの贈り物は、ちゃんと届いた?」
「贈り物?確かに昔は、君がそんなことを言ってたことは憶えてるけど、何も届かなかったよ」
「え?そんな筈はないよ。ちゃんと贈ったよ。僕の、特製の絵筆を」
「君特製の絵筆?何のことかは分からないけど、別にいいんだよ」
「別によくないよ。あなたが絵描きだってことはすぐ分かったから、僕はあなたが最高の絵を描けるようにと思って、丹精込めて絵筆を作ったんだよ」
「…一体、君は何者なんだい」
「あっ、見つけた。そんなところに引っ掛かってたんだね」
少年は、彼がその時着ていた白装束の、後ろの裾の部分を指差した。確かにそこには、光り輝く、絵筆らしきものが引っ掛かっていたのである。
「あっ!」
後ろを振り返り、彼は思わず息を吞んだ。
彼の遥か後ろにまで広がっていたはずの雲海は、いつの間にか、巨大なキャンバスへと、姿を変えていた。
彼自身がこれまで歩んできた軌跡…少年から絵筆を受け取ったと思われる日から、人生を終えた今に至るまでの、あんなことやこんなこと…。
一つ一つのシーンが、キャンバスに、その筆によって描かれた一枚の曼荼羅のような巨大な絵として、残らず再現されていたのである。
彼が実際に描いてきた、一枚一枚の絵画、それに加えて、様々な出会い、一連の思い出、彼の紡いできた人生こそが、まさに彼自身の作品そのものに他ならなかった。彼は一人の芸術家として、この上ない達成感に打ち震えたのである。
その不思議な少年の正体とは、一体何だったのだろう。妖怪かもしれないし、天使かもしれない。それは未だに謎である。
「その早苗さんていう人は、お姉ちゃんに魔法の筆を授けてくれた、天使だったのかもしれないね」
黙って姉の話を聞いてきた秀直が、そう言ってきた。弟から自分が本当に言ってほしかったことを言われたような気がして、璃夢はとても嬉しくなった。
「本当の答えは、ずっと分からないのかもしれない…。早苗は結局、ただ単純に『あなたはあなたのままでいて』って言いたかっただけのような気もするよ。
何にしても、早苗はあの一時期、私と一緒になって、震災で家を失くして困っている人達のために、力を尽くしてくれた。それは嘘偽りのない事実だよ。それだけで、もう十分だと思うんだ」
山手線は、上野駅に到着した。姉弟は上野公園口で降りた。
「秀直、死んだ人って、つくづく本当に、一番強いと思うよ。生きてる時よりも、残された人の中で、その人はどんどんどんどん大きな存在になって、その後の人生さえも変えていく…そんなスゴい力があるんだよ」
「…お姉ちゃん、俺の方からもちょっと話していいかな。実は俺の方でも、最近嬉しいことがあったんだよ」
「あっ、ごめん。私ばかり長々と話をしちゃって。何かしら。聞かせて」
「俺に以前、仕事を依頼してくれた、寺島っていう人がいるんだけど…。その仕事の内容については、悪い意味で話題になっちゃったから、お姉ちゃんも知ってると思う。
その報酬なんだけど、まず手付金として、半分の十五万円を、俺は貰ってたんだ。残り半分は、仕事が終わった後に貰うことになってた」
「まあ、随分な高額ね」
「そうそう、いかにも怪しいと思うだろ。でも、現に手付金を貰ってたし、その後もうまくいくものと信じちゃったんだ。
ところが、知っての通り、その後は散々な目に遭った。あの時は、どんな大金を貰っても、割に合わないと思った。
その後、寺島の所在も有耶無耶のままになって…奴はただ、自分が所属する教団を守るために、俺を陥れたいだけだと思ってた。約束の残り半分の報酬の入金なんて、絶対にある訳がないと思ってた。
それでも、最近になって、久々に自分の銀行の口座を覗いてみたんだ。そしたら…」
「入ってたのね?お金が…」
「そうそう、そうなんだ。本当に嬉しかったよ。俺ってバカだから、それだけで、寺島って人は、実は根っからの悪い人じゃなかった、って思えたんだ」
「そう思えるところが、秀直の良さなんだと思うよ」
久々に会った姉弟は、目的地に到着するまでの間に、とても濃密な時間を過ごしたのだった。
二人は、やがて広い上野公園の、ある一角で足を止めた。明るい昼間なのに、その辺りは、なぜか暗い空気感が漂っていた。
雨上がりの湿った土の匂いと、あちこちに転がっている汚れた酒瓶、焚き火の跡…。姉弟は並んで歩きながら、無言のまま視線だけを動かしていた。璃夢が呟いた。
「東京には、まだまだこんな雰囲気の場所が、いっぱい残ってるのね…」
「そうそう、代々木公園、新宿駅周辺の地下通路、あとは浅草、山谷なんか有名だね。他は隅田川の河川敷とか…」
「そんなところで蘊蓄を披露して、どうするの」
ブルーシートを大きく広げた小さな集落の前で、璃夢は立ち止まった。 尻に段ボールを敷き、新聞を広げている、年配の比較的話がしやすそうな温厚な感じの男に、彼女は思い切って声を掛けた。
「すみません、もしかして、この人を知っていますか? この辺で暮らしてたって聞いたんですが…」
璃夢はスマホから、ある男の画像を出し、相手に見せた。
「……」
「すみません、手土産が必要なのは、重々承知なんです。でも、どうしても今回は急いでるので、あえて失礼を承知で、こうして尋ねています。どうか、お願いします」
しばらく黙って画像を見ていたホームレスの男は、思い出したように答えてくれた。
「ああ、何となく憶えてるよ。そういえば、今年冬を迎えた時に、何やら揉め事を起こしてたなあ。炊き出しの列で並んでた時に、殴り合いになりそうになったんだよ。いや、どちらかが順番を守らなかったってことで、言い合いになったのが最初だったんだけどね。
若い奴が止めに入って、その場は何とか収まったんだが、結局炊き出しの雑炊も食わねえで、その男は、どっか行っちまった。
その後、フラフラッとどっか、南の方に流れて行ったって聞いたよ。山谷の方かもしれんし、隅田川の方かもしれん」
「そうなんですね…貴重な情報ありがとうございます」
立てられていた幾つかのテントの一つから這い出て、横から画像を見ていた、汚れて痩せた女が、声を掛けてきた。時に女ホームレスというものは、男以上に、言葉にもならぬ激しい匂いが、周辺の者の鼻腔をツンと刺激してくる。
「ねえ、あんた達、もしかして、その男が死んだっていう噂を聞いたのかい?」
姉弟は、顔を見合わせた。
「ええ、まあ…」
「自分が死んだって噂は、その男自身が流したんだ。借金取りから逃げたかったか、家族から探されたくなかったか…たぶん、そんなところだろうさ」
「………」
あの宗教に一番ハマっていたのは、確かに母親の方だった。しかし、家に居た頃に、そのきっかけを作ったのは自分だったと、もしかしたら父親は自分を責め続けていたのかもしれない。
自分がいなくなることで、結果的に子供達にすべてを押しつける形になってしまい、それを本当に申し訳なく思って、自分を死んだことにしたかった、この世から、その存在の痕跡を消し去りたかったのだとしたら、ますます父に会って、それは違うよと言ってあげたかったのだ。女が再び尋ねてきた。
「その男、誰なんだい?」
「奥平文康。私達の大切な、父親です。この度は貴重な情報を、本当にありがとうございました。また何か訊きに伺うかもしれませんが、その時はよろしくお願いします。次は手土産も、忘れずにお持ちしますね」
女は即答した。
「あたしゃハンバーガーが食べたいね」
「わかりました」
秀直は姉の手を引き、大急ぎでその場を離れようとしていた。公園の噴水の前まで来ると、彼は深呼吸をした。
「ひでぇな…何なんだよ、あのモノすごい匂いは。ああいうのにまた会いに行くだなんて、お姉ちゃん正気なのか?何がハンバーガーだよ!まったくもう…」
「そんなことは言わないの。情報は、少しでも欲しいんだから」
「ああいう連中の言うことって、本当に信用できるのかな」
「じゃあホームレスじゃない人なら、秀直は信用できるの?少なくとも私は、スーツ着てネクタイ締めてるような人達よりは、ああいう人達の方が、ずっと信頼できるし、好きだよ?」
「………」
そのようなことを言いながらも、確かに実際には、路上生活を長く続けるなどということが、並大抵の者にできることではないことぐらい、璃夢も重々承知していた。
道を行く一般大衆からの、汚物を見るような視線を何とも思わない、鋼のような神経は、時と共に身についていくものらしかった。元々だらしない生活が常態化していて、普通の感覚がどこか麻痺していたような人は、そういう生活に慣れていくのも、早いと聞いている。
父が家にいた頃は、私達は子供だったが、何となく、そうだったかもしれないな…と彼女は思い返してみる。「破滅型の人間」などと、わかった風に久垣が言っていたことも、癪なことだが当たっていたのだ。
璃夢の故郷でも、彼女自身を含め、数多くの人々が、自分の家を失った。
仮にもし、元々ホームレスだった人が、支援物資を目当てに、わざわざ避難所までやって来て、被災者に混じるようなことがあったとしても、支援する側は、決して分け隔てすることなく、彼らに食物等を配給しなければならない。
なぜなら、本当の問題は、誰が「正当に」支援を受けられているかではなく、必要な人に援助が行き届いているかどうか、だからである。
都会という空間は、今も昔も、危険なところに変わりはない。最近でも、十代の若者数人から、ホームレスの人が暴行を受けたり、寝泊まりしていたテントや布団に、火を放たれるなどという事件が頻発していたのだ。
またその一方では、タチの悪い「貧困ビジネス」なども存在していた。ビジネスの業者達は、善人の振りをしてホームレスに声を掛け、役所へ連れて行き、生活保護の手続きを強引に進めさせる。
「囲い込み」と呼ばれる悪質な手口である。福祉課の職員を脅すようにして、生保の認可を無理やり通すと、次には対象者を、生保に対応した古いアパートに押し込める。そこから独自の契約書を作成し、管理費等の名目で、生活保護費の大半を搾取するのである。
初めのうちの親切そうな対応はどこへやら、住人が自分の取り分のあまりの少なさに文句の一つでも言おうものなら、彼らは、最初からそういう契約だっただろう、などと脅迫まがいに声を荒げてくる。
これならホームレスの頃の方がマシだった、などと悔やんでも、あとの祭りである。業者は、頑とした高圧的な態度で、もしもアパートから逃げ出したって、どこまでも追いかけていくぞ、という雰囲気を作り、利用者の思考力を奪っていくのだ。
だが、そのような状況からの脱出は可能である。貧困ビジネスの業者などが作る契約書に、法的拘束力はないのである。
最初から利用者の側で、公的機関や、ホームレス支援団体などの信頼できるNPO法人を利用していれば面倒はなかった。要は利用者が、勇気を振り絞って、後からでも、公的機関を頼ってくれることなのだ。
父が一連のそのようなものに引っ掛かり、被害に遭っていないことを願うばかりだ、と璃夢は感じていた。やはり彼女自身もまた、話を先に進めるためには、ホームレス支援団体と積極的に連絡をとった方がいいことに気がついたのだ。
さすがは支援団体である。おかげで事態は一挙に進展した。父親がその時点で住んでいた住居はすぐに分かり、璃夢と秀直は、連れ立って、足立区にあるそのアパートへと向かうことになったのである。
あまりにも月日が経っているので、支援員が間に入ることを提案してきたが、璃夢は断った。父を責める気などはまったくない。たとえどんなに悪く変わっていても、そんな父の姿を、ありのままに受け入れる覚悟はできていた。
教えられていたアパートの部屋のドアチャイムを、弟と同伴していた彼女は鳴らした。部屋の奥の方から声がして、やがて開かれたドアの向こうからは、昼間から薄暗い空間の中に、蓬髪のやや年輩の男の顔が浮かび上がって見えた。手の少し曲がった親指、ちょっと癖のある歩き方――確かに、父だった。
視線が合った瞬間、時間が引き戻されたように、娘の胸の奥は熱くなった。 父・文康の顔は幾分やつれていたが、髭は一応キレイに剃られていたため、彼の方も娘の私に会うために、きっと心の準備をしていてくれたのだろう、と思えたのである。
部屋の中は、まあまあ小綺麗だった。元ホームレスがアパートの部屋に移った場合、たちまち生来の悪い癖がぶり返して、ゴミを溜め込み「汚部屋」つまりゴミ屋敷と化してしまう場合が少なくないのだが、彼には何とか合格点をあげられた。
窓から時折吹いてくる柔らかな風は、テーブルを挟んで向き合った三人の顔を穏やかに撫で、再会に至るまでの時間が、ゆっくりと縮められていくように、璃夢には感じられていた。
そして、おもむろに文康が口を開いてきた。
「お母さんのことは聞いたよ。本当に大変だったね」
「あっ、聞いたんだね、お母さんのこと…やっぱりラジオで?」
「そうそう、緊急災害放送の、伝言ダイヤルの通知でね」
「ショックだった?」
「当たり前だよ。何を言ってるんだ」
そこに至るまでの、家でのいろいろな行きがかりをつぶさに見てきた璃夢にとって、一見普通のその反応には、複雑な思いが感じられた。
「あの時は、今までになかった大きな揺れで、店がとんでもなくひどいことになっちゃってさ。憶えてるよね?あの大きな食器棚が、まるでお母さんを目がけて倒れてきたみたいだった。
助けようにも、棚が大き過ぎてダメだったし、救急車にも当然つながらないし、どうしていいか、私もう、頭の中がパニックになっちゃって…」
璃夢は、やや過呼吸気味になっていた。文康は慌てた。
「落ち着いて、璃夢。すまんね、飲み物も何も出さないで」
「いいのいいの、大丈夫よ。ごめん、気にしないで」
それでも文康は、冷蔵庫から麦茶を出し、二人に振舞った。
「でも、君はこの通り、無事でいてくれた。秀直もね。それだけで、本当に本当に良かったと、私は思う。現地の復興は、進んでるんだよね?」
「…ぼちぼちってところかしらね」
「こんな生活をしている私が言うのも何だが、君達がこうして元気な姿を見せてくれたことで、我々三人がこれから協力して、食堂のリニューアルオープンなんていうのを達成するのも、そんな遠い夢じゃないような気がするんだよな」
確かに、外の世界はすっかり変わってしまったが、この時、親子の繋がりだけは変わらずそこにあると、父は思っていたかったようである。
窓の外では、カラスの群れが何やら喧しく騒ぎ立てていた。イヤでも不穏な空気を感じてしまう。
そして、実際に、イヤな予感は的中した。部屋を何気なく見回していた彼女の目に、とんでもないものが飛び込んできたのである。
「お父さん、何?あれ」
彼女の目に留まり、その指差す先にあったのは、部屋の隅の、押し入れからはみ出すように雑多に置かれていた、日用品に紛れたあるものだった。
「何あれ?って、何のことだい?」
父親からとぼけられ、璃夢はやむを得ず移動して、その品物を手に取り、彼の前に持ってきた。それは、いわゆるジャックナイフだった。
荷物として届いた時のままの、箱からまだ出してもいない状態だったが、梱包材とセロファンの向こうから透けて見える、その種類のナイフとしては比較的大型の、殺傷能力をギラギラに秘めた、鈍い不気味な光は、彼女を威圧するに十分なものだったのである。
「こんなナイフ、父さんみたいな人には全然似合わない。こんなものを、いったい何に使うの?」
「ああ、このナイフは、通販で買ったんだ。ただの護身用だよ」
「何が今更、護身用よ。こんなものを持って外を出歩いたりしたら、それだけで銃刀法違反で捕まるのよ」
「確かにね。だいたい金がなくて、その日食べていくのがやっとだったホームレスの頃には、随分と危ない目にばかり遭ってきて、死にかけた時も何度もあったからな。こういうものは、いずれ手に入れるつもりだった。
本当のことを言うと、拳銃が欲しかった。でもそれは、さすがに難しいからね」
「お父さん、やっぱりまだ本当のことを言ってない。これから先、何かやろうとしてるんでしょ?違うの?」
「………」
「何かやろうとしてるんでしょ?答えて」
「何かって、何だ?」
「訊いてるのはこっちよ。あたしの目を見て、ちゃんと答えて!」
「………」
「お父さん!」
「璃夢…本当に賢い娘になったな…」
さすがに観念した文康は、ポツリポツリと、自分の計画を打ち明け始めた。
「一か月後に、お台場で、あるイベントが開かれる。ご当地アイドルが参加するライヴなどがある。着ぐるみのキャラクターなんかも多数登場する。
秋の何かのキャンペーンに向けてのイベントという触れ込みだが、いろいろ調べたとこでは、実はこれには、あるカルト団体が関与していることがわかったんだ」
「あ…求道会真元教とかいってたよね」
今まで黙っていた秀直が、ここで口出ししてきた。
「俺もいろいろ調べたよ。俺が不本意に関わっちまった光輪真理会と、お袋がすっかりハマっちまった春風霊玄会…この二つの教団の元祖とかいうのが、そんな名前の団体なんだ」
「ふぅん…」
璃夢は弟の蘊蓄に、感心よりもやや呆れたような表情を浮かべた。
「そうそう、秀直。つまりそういうことなんだよ。真元教は、そのイベントに乗じて、自分達の団体をさらに大きくしようと画策している。
つまりイベントの数多くの参加者の中から、こいつはいいカモになりそうだ、っていうのを見繕って、うまい具合に別のスペースに誘導し、ハッキリと教団PRが目的というのがわかる、これまた派手な祭礼に参加させようっていう魂胆なのさ。
そうやって、少しずつ数多くの人達を、自分達の思想に染めていく…。それが奴らの、最終目標なんだよ」
そこまで聞き、秀直は改めて、父に向き直る。
「それで…お父さんは、具体的に何をするつもりなの?そのナイフでさ」
「………」
「俺はさ、何となくわかってるよ」
「何をだ?」
「何をだ、じゃないだろう。ズバリ当ててやろうか。
真元教教祖の名前は、倉光克正。父さんは、その祭礼に潜入して、奴を刺し殺すつもりなんだろう?」
「………」
自分がかつて関わった事案と、非常に似ているから、秀直もさすがに勘が働く。ここで、璃夢も畳みかけてきた。
「お父さん、本当にそうなの?」
「言ってしまえば、そういうことになるんだが…」
「やめて! そんなことをしたって、いったい何になるの?
長い目で見て考えて。百歩譲って、仮にその人を殺すことに成功したとするわ。でも、教団にとっては、そんなこと、大したダメージにはならないのよ。
教祖は、そうやって殺されることで、むしろ伝説になる。教祖が悲劇の死を迎えたっていうエピソードは、教団そのもののイメージを、人々に強く印象づけることに利用されるだけなの。
第二の新しい教祖なんて、連中はすぐに立ててくる。教祖なんていうものは、ああいう団体にとっては、幾らでも代わりが利く存在よ。それを忘れちゃダメ。
父さんにとっては、その人を殺すことで、いろいろなモヤモヤは晴れるんでしょうけど…絶対にやめて。本当に無駄なことだから」
「………」
娘の言葉にはあまりにも説得力があり、無言ながら、父の表情には大きな変化が訪れたように見えた。そして父は、ポツリと言ったのである。
「わかった。まったくお前の言う通りだ。もうやめる。こういうことは、もう二度と考えない」
「本当に…?」
「本当さ」
「よかった…本当によかった」
璃夢は父に擦り寄り、両手をとった。温かい、本当の父の手だった。
秀直がここで、目の前の刃物を手に取った。
「でもこのナイフ、なかなか洒落たデザインだね。どこのブランド?」
「よくわからないまま買っちまったからなぁ…。そうだ。そのナイフは、秀直にやるよ。気に入ったみたいだな。メーカーは君の方で調べてみたらいいんじゃないか?」
「へぇ…貰っちゃっていいの?そりゃ嬉しいな」
秀直はここで、手にしたナイフをしばらく見つめていた。
部屋の窓ガラスはよく見ると、何かの衝撃で割れたところを修復した跡があり、乱反射しながら飛び込んでくる夕陽が、彼の横顔に不思議な陰陽を形作っていた。そのような雰囲気の弟を見るのは、璃夢にとっては本当に初めてのことだった。
その時、何があったのかは知らないが、窓の外のカラスの群れが、今までになくひどく騒ぎ立てながら、一斉に飛び立っていくさまが彼女には見えた。
驚いた彼女は、しばらく窓の外に目が行き、茫然としていた。次の瞬間、どうしたんだろうねと部屋に視線を戻した途端…彼女は信じられない光景を…目撃したのである。
そこには、血にまみれた親子の姿があった。立ち膝で父親と対峙する秀直。彼の手にしていたナイフは、同じく立ち膝になっていた父親の胸に、深々と突き立てられていたのだった。
「秀直…どうして…」
璃夢は、ガタガタと震えながら、涙を流した。
「お姉ちゃん…すぐに通報して。でないと、お姉ちゃんまでこの事件に関与したみたいに思われちゃうよ。お姉ちゃんは、これには一切関係ないんだから。さあ、早く!」
彼女は何が何だか分からぬまま、言われるがままに、スマホから119番の方に通報した。
「もしもし、どうしました?火事ですか?事故ですか?」
「事故…いえ、事件です。人が刺されました」
「わかりました。すぐに向かいます」
文康のアパートには、救急車とパトカーが、間もなく同時に到着した。
「なぜだ。なぜ自分の父親を刺し殺したりしたんだ!」
秀直の身はこの時、取調室にあり、一人のやたらに血の気の多い刑事の尋問を受けていた。文康は救急車到着時には、すでに絶命していたのだ。
秀直は、どういうわけか、至って平静を保っていた。
「本当のことを言うと、自分でもよく分からないんです。ただ言えるのは、これは決して恨みからでも、憎しみからでもないということです。
父から、ナイフを貰ったこと、カラスが、バカみたいに騒いでたこと、夕陽が、眩しかったこと…。
これらの一連の要素が、一つでも欠けていたら、この事件は起こりませんでした。不幸な要因が、重なった結果なんです」
「この野郎!刺したのはお前だろうが!何をそんなに他人事みたいに冷静に、屁理屈ばかりこねてるんだよ!」
横から、別の二人の刑事が割り込み、喚く刑事の肩に手を置いてきた。嘉村と双見である。
「まあまあ、そういきり立つなって。ここは、俺達に任せてくれないか。この青年のことは、俺達が以前からよく知ってるんだから」
「何なんだ、あんた達は。担当も部署も、違うだろうが!」
「何を、どこかの刑事ドラマみたいなこと言ってるんだ。いいから、任せろって!」
双見は、肩に置いた手に力を込め、そのまま彼を机から引きはがした。はずみで彼はよろけ、床に尻餅をつきそうになった。
「覚えてろよ」
彼は部屋を出て行った。二人は机の上で、改めて秀直に向き直った。嘉村が口を開く。
「残念だよ…まさか君と、このような形で再会することになるなんてね」
「………」
「璃夢さん、泣きながら、すごく悔やんでたよ。自分が君をお父さんに会わせる機会さえ作らなければ、こういうことは起きなかったって」
やがて、秀直は、嘉村と双見に対して、自分の心情をゆっくりと語り始めた。
「姉だったら、そういう風に言うでしょうね。でも…本当は姉は関係ありません。実際には、すべてがこうなる運命にあった。すべてがあらかじめ仕組まれていたような気がして、俺には仕方がないんです。
あの時、父からナイフを手渡された時、まるで何かを試すみたいに、これで自分を刺してみないか、と言われたような気がしました。いえ、実際には、そんなはずはありませんよね。本当に、気がしたというだけです。
それでも普通なら、そこで、相手からの戯言として、笑い飛ばして終わりでしょう。でも、俺はそうはならなかった。
あの時カラスの群れが、今までになくひどく騒ぎながら、近所の公園の木の枝から飛び立っていったこと。割れた窓ガラスから差してきた夕陽が、すごく眩しかったこと。
すべてが、まるでこのことのために用意されていたような気がしました。父を刺すことに、何の迷いもありませんでした。
そして…刺した瞬間…あの温かい血潮の中に、今までになく、本当の父を感じたんです。
今となっても、不思議と、後悔みたいな気持ちはありません。裁判でも、同じことを言うつもりです」
「そうか…いや、いろいろとありがとう。ただ、裁判の前にね、弁護人に接見してもらう必要がある。
君の場合は、殺害に計画性はない。その瞬間に、君自身が『心神耗弱状態』にあったとして、罪が大幅に軽減される可能性が高いよ。私らもそうなるように、力を尽くすつもりだ」
「…ありがとうございます。でも、俺自身は、今後どのような判決が出ても、それを甘んじて受ける覚悟なんです。模範囚になれるよう、頑張るつもりです」
「………」
文康の遺体は、この時警察署内の遺体安置所にあった。璃夢もまた、署内で女性警察官に付き添われながら、ホットミルクティーを飲んでいた。
父は、三人で一緒に、また食堂を再開できるといいね、と言っていた。後になって思えば、それは叶うはずのない、途方もない空しい夢に過ぎなかった。父も、それを承知で、あえて言っていたような気がする…。
そもそも食堂をダメにしたのは、大地震などではなく、経営者である母の存在なのである。遡れば、彼女を洗脳したカルト教団の存在ということになる。
その代表者が逮捕された今、父の感情は、別の教団の教祖への殺意に、姿を変えていった。元々が同じ団体から発生したとはいっても、家族とは直接関わりのなかった教団なのだが、父にとって、そんなことはどうでもよかったのである。
父に対し、かつて家族として一緒にいた当時の秀直は、どのような思いを抱いていたのだろうか。姉の知らない、本人しか知り得ない、いや、たぶん、本人さえも知らない、その後の殺害に繋がる特殊な何かを、ずっと保ち続けてきたに違いない。
璃夢から見て、この親子は本当によく似ていた。いわゆる「破滅型」。つまり生き様はどこか刹那的で、一貫性がなく、結果的に職業も一定せず、周囲から流されるままに生きることしかできず、邪悪な存在に対しつい隙を見せ、道を踏み誤る原因を簡単に作ってしまう。
いわゆる悪い人間ではなくても、何だかどうしても許せないと思う者は、誰の身近にも居る。彼女自身、他ならぬ家族の一員として、彼らとは、複雑な感情を交錯させながら、長い間生きてきたのである。
ああ…家族って、いったい何? 私もいずれ恋をし、結婚し、家族を持つの? 全然、想像がつかない。想像するのも怖い。もういい年なのに、先が全然見えない。
それでも、川は一切のものを飲み込み、何も変わらず流れてゆく。その流れ着く先など、結局誰にもわからないのだ。
これから先、私はもう、自分が何をしたいのかは、あまり考えない。「何をすべきか」という、自分の使命みたいなものを、これから先考えていきたい。彼女はそう呟き、自分を律する。それはまさに今まで、ずっとやってきたことのはずだから…。
彼女がティーカップを置いたところで、警察官が声を掛けてきた。
「落ち着いた?もう暗いし、家まで送り届けてあげるわよ。弟さんについて、これからまた連絡することも多いと思うから、スマホにはいつでも出られるようにしてね」
これまでなら、パトカーに乗るのを嫌がっていた璃夢も、今回は「わかりました。お願いします」と素直に応じていたのだった。
10.
ここは山梨県山中にある、求道会真元教の総本山である。
ある男が、幹部会に呼び出され、大広間の中央に、幹部達に取り囲まれるようにして、鎮座していた。
大広間に施された装飾、設えられたオブジェの類いは、悪趣味の限りが尽くされていた。アメーバ様の、顔面に見立てたかに思われる大きなレリーフの盤面には、十数個もの充血した眼球、牙を剥き出した口腔が、まるで失敗した福笑いのように無造作に配列されていたのである。
そしてまた、顔面の空白に当たる部分を埋めていたのは、体内各所のリアルで生々しい臓器をかたどったイメージの数々だった。
この世のすべての「醜悪」の要素をすべて注ぎ込んだかのようなこの不気味なレリーフは、造形的なインパクトの面では、光輪真理会の講堂に設えられた巨大な千手観音像をも凌ぐ迫力を持っていたかもしれないが、まともな神経の持ち主には、とても正視に堪えられる代物ではなかった。
それもこれも、すべてがこのカルト教団の、教祖を始めとしたすべての信者達の心根を象徴したものといえよう。現に教団の誰もが、そのおぞましいオブジェをこの上なく美しいものと信じて疑ってはいなかったのだから。
広間に鎮座させられていた男は、寺島甚太という名だった。かつて秀直を闇バイトに誘った、あの寺島である。寺島は、実は偽名ではなかったのだ。幹部の一人が、彼に言った。
「呼び出された理由は、承知しているかな?」
「はい、勿論でございます。私もついにこれまでの功績が認められ、最高幹部の一人に加えて頂けるということですよね?」
教祖・倉光の側近となっている、最高幹部の別の一人が言った。
「バカもここまで来ると、おめでたいと言う他はないな。誰がお前などを、最高幹部の一人に据えると思うのだ」
さすがに寺島は、ムッとした表情になった。
「まあまあ、そこまで言うこともないだろう」と倉光。
「しかし、我々が組織の刷新を図っているというのは、事実だ。君は以前『教団のためだったら、いつでも死ねます』と言ったことを、憶えているかな」
「はい、尊師、勿論でございます」
「ならば、今この場で、その言葉を実践してみせよ」
倉光が言うのとほぼ同時に、先ほどの幹部が、短刀を寺島の目の前に放り投げてきた。
「ど、どういうことでしょうか」
ここからは、幹部の者達が交互に、寺島へ、倉光の意思を代弁していく形になった。
「どういうことも何もない。自分の至らなさの全責任をとれということだ」
「ですから、具体的に、私のどういう所が至らなかったのかをお聞かせ願いたいのですが」
「分からんのか。お前は以前、天城法元の暗殺に失敗した。その責任を質しているのだ」
「…天城に関しては、私なりに判断し、教団を大混乱に陥れることに成功しました。奴を殺せなどという指示は、一言も聞いてはおりません」
「天城を抹殺し、その罪を春風霊玄会の誰かに着せる。その後、教祖麻宮龍子も抹殺する。光輪真理会の誰かが、教祖を殺された仕返しとして、麻宮を殺したというストーリーを成立させる。それが、尊師のご意思だったのだ。
わざわざお前に、教団の貴重な金を預けたのは、あんな小細工をさせるためではないぞ。癇癪玉を破裂させて、何かをやり遂げたと思って、いい気になっているようでは、やはり最高幹部への道は、程遠いと言わざるを得ないな」
「そんな…」
寺島は、教団の中でも、変にインテリぶっているようなイメージが、幹部からも他の信者からも、普段から良く思われてはいない傾向にあった。
よって、連中はここぞとばかりに、まるで子供同士のイジメのように、何か叩く材料が少しでもあればすかさず叩いてやれ、と目を光らせていたのである。が、寺島も負けるわけにはいかなかった。
「秀直君は、前途ある若者でした。彼を殺人者には、したくありませんでした」
「秀直? お前があの時光輪真理会の祭典に潜入させた、奥平秀直とかいう若造のことかな?
もしかして、あれが父親殺しの大罪人だという最近の報道さえも、お前は見ていなかったのかな? 彼はすでに立派な、殺人者だよ」
「……」
「自分の父親を殺すぐらいだったら、我々にとって真に邪魔な存在を、まず消してもらいたかったものだね」
「その報道は、私も見知っております。しかし私は、秀直君を大罪人とは思っておりません。きっと彼自身にしか知り得ない、特別な事情があったんだと思います。
彼のことは、あなた方よりもよく理解しているという自負があります。確かに教団のことを伏せ、彼を誘ったのは私です。しかし、その後の成り行きは、まったくの天の意思という他はありません」
尚も続けようとする寺島の言葉を、幹部の一人が遮った。
「寺島君、その『天』こそが、我々なのだ! よもや肝腎要のその摂理を、忘れたとは言わせないよ。
彼は我々の思い描いたイメージとはまるでかけ離れた、ただの茶番を演じたに過ぎん。その責任は、すべて君にあるんだよ」
ここで寺島は、尊師こと、倉光に改めて向き直った。
「尊師、改めてお願いします。どうか今一度、チャンスを頂けないでしょうか」
最高幹部達に囲まれた倉光は、黙って寺島の顔を眺めていた。寺島は続けた。
「麻宮はすでに逮捕され、獄中にあるため、どうにもなりません。
しかし、娑婆にいるのをいいことに、今でもSNSなどを通じ、布教活動のようなことを太々しく続けている天城のことを、八つ裂きにしてやりたいと思う気持ちは、今でも皆さんと変わりありません。
今度こそ、今度こそきっと、皆さんの納得できる成果をお目にかけたいと思っています。何とぞ何とぞ…グッ!」
寺島が、いきなり悶絶を始めた。その口からは、大量の血が泡を立てて溢れ出ていた。彼はすがるような目を倉光に向けながら、辛うじて言葉を絞り出した。
「尊師…何故…」
倉光の取り巻きの一人が、口を開いた。
「言い忘れていたが、最初全員で食べた昼食の中で、君のお膳の料理だけに、遅効性の毒が入っていた。
本当は、そこに転がってる短刀で、潔く一息に自分の喉を突いてほしかったんだが、君はやはり私達が思った通り、自らを正当化するための弁明を、見苦しく続けるのみだった。
もういいよ。早く楽になりたまえ」
ここで倉光が、息も絶え絶えの寺島に歩み寄り、初めて彼に向けて優しい言葉を掛けてきた。
「今まで、本当にご苦労だったね、寺島君。君はまだ若い。だからこそ、死ぬことによって、伝説となる。君が真に教団の為を思う気持ちが、ここにまことの形となるのだ。
君は、教団のために、自ら進んで、毒をあおったということにしてやろう。君の家族は、君が我が教団に属することを、良しとしていなかったようだからね。
これから君は、以下の言葉を残すことになる」
倉光はここで、一通の書状を取り出してきた。
「『お父様、お母様、私はこの教団の素晴らしさを全世界に広めるために、これまで心を砕いて参りました。しかしながらそのことが少しも伝わっていなかったことを、本当に残念に思います。
だから、このような形をとりました。私の遺骨は、すべて教団に寄贈します。私の大きな遺影が、教団の発展のための礎となることを、私は心から、誇りに思います。見当違いな怒りを、教団に対してぶつけたりしないように、どうかどうか、お願い致します』
どうかね。私が君の為に精一杯に考えた、君本人の遺書だよ。君の遺影と共に、この言葉は、永久に残り、語り継がれるのだ」
寺島は、すでに事切れていた。まったく、普通の感覚ならば、まことに迷惑千万な話であり、これ以上理不尽な殺され方はないであろう。
倉光の考えた遺書の内容とやらが、どこまで寺島の真意に近いものなのか…もはやそれを知ることも叶わなくなってしまった。仮に寺島本人がこのような結末を受け入れたとしても、彼がこの組織の哀れな犠牲者であることに、変わりがあるはずはないのだが。
「さすがは尊師。見事なお手並みです。寺島君にも、感謝しなくては」
そう言った最高幹部の大きな拍手は、会場全体の大きな拍手へと繋がった。これを皮切りに、周囲の幹部、信者達が、勝鬨のように声を上げたのだった。
「真元教は、永遠に不滅です。求道会真元教、万歳!」
「万歳!」
「万歳!」
これから先、この狂ったカルト教団は、いったいどこへ向かって行くのだろう。心に闇を持ち、それを制御するすべを持たない者が生み出され続ける限り、この化け物は、アメーバのように形を変えながら、日本のみならず世界中を侵食し続ける運命にあるのだろうか。
その答えは、真に善意に満ちた人々の、未来の何世代にもわたる働きに、委ねられているのかもしれない…。
啓一と和佳は、その日もブラブラと、人影もまばらな商店街で、当てもないデートを楽しんでいた。
「事件は、終わったといえるんだろうか」
「まさか。事件なんて永久に終わるわけがないわよ。やっと何とか、束の間の安息は得られたかな、って感じはあるけど」
「裁判の時に、話題にしてた人達を初めて目にできて、俺もう感動しちゃったよ。話はできなかったけど、何だか不思議と、あの人達に、縁を感じちまったんだ」
「私もそうよ。縁って、本当に不思議。どこでどう繋がるか、全然予測がつかないものね。どこでどう切れるかも、分からないけどね。
ねえ、啓一、以前私、こんな話を聞いたことがあるんだ。人間って、一人一人が、みんな川の流れみたいなものだって。
素直に流れる川ばかりとは限らない。時として淀みを作り、流れることをやめてしまう川もある。あるいは流れる先で渇水し、川自体がなくなってしまう場合もある。
あの人達とは、今はまだ交わらない、一つ一つの並走する支流かもしれない。でも、いつか…そう、いつになるか分からないけど、必ずどこかで交わって、というか、別の川と合流して、新しい流れを作っていく…そんな気がするんだ。
そして、その川は、さらに大きな川の流れ、つまり本流へと繋がっていく。大河の様相を呈する、その本流の正体は、決して誰にもわからない。
もしかしたら、まったく訳のわからない、ただの『混沌』かもしれない。あるいは浄化された清流なのかもしれない。どちらの可能性も秘めているのよ。人間っていうものは」
「すごいな…そういうことを語る和佳は、俺にはもう女神様に見えてしょうがないぜ」
啓一からそう言われ、フッと唇に笑みを浮かべた和佳は、自分の下腹部を撫でさすりながら、さらに続けた。
「そして…ここにまたもう一つ、小さな流れが生まれたわ」
「え…?」
啓一はすぐにピンと来た。
「そうか…やったな、和佳!」
「生理がなくなって、やっと検査薬でわかった段階だから、病院にはこれから行くつもりなんだ。啓一も一緒に行く?」
「当たり前だろう!て言うか、もっと早く、検査薬でわかった時点で教えてほしかったなぁ…」
啓一は、即座に和佳と籍を入れることに決めた。プロポーズはその場で、つまり人のごった返す商店街の中で、前振り一切無しで、啓一はいきなり和佳に対し「結婚しよう」などと大声で宣言したのである。
ちょうどその場に居合わせた、商店街にいた大勢の人々から、驚きと共に、拍手と指笛を交えた多くの歓声を贈られたことは、二人にとって、とても得難い経験と感じられたことだろう。
昔ながらの人情味が残る東京の下町での、夕暮れ時の一シーンであった。
璃夢が仮設住宅に戻り、介護士検定を受けるために勉強を始めていた矢先、開いたパソコンから、彼女が登録していたSNSに、ある者から、かなりの長文のメッセージが届いていることを知った。
送信者からは、登録していたハンドルネームの他にも、自分の本名が、きちんと添えられており、それは彼女自身、よく見知っている人物だった。
メッセージの内容からも、すっかり人への気遣いができるようになった彼女自身の人柄が伝わってきて、璃夢はもう嬉しくて仕様がなくなってしまったのである。
璃夢さんへ
お久しぶりです。お元気でしょうか。このSNSでは、うす明かり姫なんていうハンドルネームを使ってますが、私、大友瑠香です。憶えておいでかと思いますが、突然のメッセージ、きっと驚かれたでしょうね。
璃夢さんとは、震災直後に初めてお会いし、その後、思いがけない形で再会できました。何だか、ただならぬ縁を感じないわけにいきません。
今日は、幸いにも私と同じSNSに参加されていた璃夢さんに、ここしばらくの私の近況を、というか、私自身を知ってもらいたいと思い、メッセージを送ることにしました。
私は今、本来なら高校を卒業している年なのですが、いろいろあって、長い間不登校だったため、この年の春の卒業は、残念ながら叶わなかったのです。
以前から、当時クラスの担任だった高柳先生から、フリースクールを強く勧められていましたが、それを利用する決心がつくまでにも長い時間がかかり、ようやく今、一年目です。
フリースクールとは、NPO法人、ボランティア団体、あるいは個人が運営し、不登校やひきこもり、発達障害など、さまざまな事情を抱える生徒を、幅広く受け入れています。学習面よりも、生活面や精神面での支援に重点を置いているんです。
何よりも、学校でただ漫然と授業を受けていた頃には、まったく思いも寄らないことでしたが、高柳先生という人がこんなにも、私一人のために動いてくれたことに、本当に心を打たれずにはいられませんでした。
勉強については、学校を休んでいた分の遅れを取り戻すために、スクールの補習や自習の時間を使って、計画を立てて勉強しています。
最初は何をどうしたらいいかわからなくて、すべてが手探りでした。が、先生から私の得意・不得意を一緒に整理してもらい、また日々やるべきことのリストを作ってもらったおかげで、ようやく先が見えてきたところです。
特に苦手だった数学は、基礎からやり直していて、今は問題を解くコツが少しずつ掴めるようになったかな、って感じです。国語に関しては、読書感想文などが課題になってますが、文章を書くこと自体は元々好きだったので、楽しく続けられています。
先生方の協力もあり、学校の勉強が「要領よくこなしていくもの」ではなく「自分に大きく関連したもの」として考えられるようになったことが、自分にとってとても大きな収穫だったような気がします。
スクールで出会った人達とは、休日に一緒に図書館へ行ったり、カフェで授業で学んだことの復習を一緒にしたり、今まで意欲がわかなかったことに対して積極的に取り組もうとする自分がいて、自分自身ちょっと驚いちゃっています。
アルバイトも始めました。近所の小さな本屋さんで、レジと棚出しを手伝っています。本に囲まれている時間が思ったより心地よくて、お客と本の話を少しできた時は、ちょっと嬉しくなります。
働くことで生活リズムが整い、何だかようやく自己管理みたいなことができるようになりました。収入は少なくても、自分でお金の管理ができるようになったことに、すごく達成感を感じられるようになりました。
将来のことについては、まだ漠然とですが、人の為に、世の中の為になる仕事がしてみたいなと思っています。
何故なら、最近になって、自分にコミュニケーション障害、ASD、ADHDといった発達障害…複数の障害があることが分かったんです。
心というものは、目には見えません。それだけに心の障害というものは、体の障害と違って、その実体がわかるまでに、とても長い時間を要してしまいます。
これまでは、家族を含めた周囲の人達も、自分のことをただ変に思うというだけで、正しい指摘をしてくれる人は、一人もいませんでした。
それも仕方のないことです。これらの障害は、今現在に至るまでも人々の理解、関心度、周知度といったものが、まだまだ十分とはいえないんですから。
私自身、いろいろな本を読むなどして、自分が「健常者」といわれる人達と比べ、そもそも何が欠けているのかを、時間を掛けて、ようやく知ることができました。自分に欠けているものが、形として見えるようになったこと…これは自分にとって、とても大きな強みになったのです。
形として見えてきたもの…それは一体何でしょうか。愛、思いやり、誠実さ、いろいろな言い方ができると思います。誰かのための仕事がしたい…そう思うようになったのは、本当に自然な成り行きだったと思います。
就労支援の方々からいろいろと選択肢を提示され、図書館司書、教育に関わる仕事、相談支援などという仕事を知り、今とても夢が広がっています。
高柳先生から、以前言われていたことを思い出したので、書いてみます。
お金を稼ぐ「目的」は、自分が幸せになること。でもお金を稼ぐ「手段」は、他の人を幸せにすることでなければならない。それで初めて、仕事になる。もしもお金を得ることで他の人が不幸になるとしたら、それは犯罪と呼ばれるものになる。
なるほどなぁ、と思いました。
家族とは今でも距離をとるようになっています。特に母親からは、見捨てられ、裏切られたという感覚が今でも拭えません。私自身もあの人のことが、最初から好きではありませんでしたから、そこは別にいいと思っています。
血の繋がった家族より、今多くの時間を共有している、スクールの仲間の方が、ずっと信頼できるし、安心できる存在なんです。
正直のところ、今でもトラウマはあります。あの大震災だけでも、ものすごい脅威だったのに、その時私は、あのカルト教団の施設の中にいました。
その後のことは、璃夢さんもよくご存じでしょうから、あまり言いません。しかし、皮肉なことに、あの忌まわしいはずの事件が、私達を結びつけたという事実に、私はつい、苦笑してしまいます。
璃夢さんは私より年上ですけど、何だか、世代を超えて、仲良くなれそうな気がしているんです。いえ、これは私の、ただの勝手な思い込みですよね。失礼しました。
何だか書きたいことがあまりに多かったので、まとまりがなくなってしまいましたが、最後まで読んでくださって、本当に感謝します。寒い日が続きますが、どうか風邪などひかぬよう、日々ご自愛くださいませ。
大友瑠香
うす明かり姫こと、瑠香へ
メッセージありがとう。私のことを覚えててくれたこと…いえ、それだけじゃなく、こうやって丁寧に自分のことを振り返って、私なんかに一生懸命伝えようとしてくれたこと、本当に涙が出るくらい嬉しかったです。
何より気づかされたのが、文章の狭間狭間から、瑠香の人間性というものに、最初に会った当時の印象と比べて、格段の進歩があったことが、本当に透けて見えたことです。
フリースクールに通い、自分のペースで少しずつ勉強ができているということでした。日々の勉強を、自分の血肉になるように消化していくということは、本当に大変な作業だけど、瑠香はきちんとやり遂げられている。私なんか、昔どうだったかな…と反省させられます。
アルバイトの仕事で、生活のリズムが整ってきたことに加え、世の中との関わりを持つ喜びが持てるようになったこと、メンタルケアの習慣を持ち、自己管理ができるようになったこと——どれも瑠香が努力して得た、本当に貴重な成果だと思います。
決して、あなたの思い込みなんかじゃないよ。私達は絶対に、世代を超えて、仲良くなれるよ。
ここで私の話をします。私は最近になって、長く連絡が途絶えていた父と会うことができました。その際に、弟も連れて行きました。
瑠香もニュースで見て知ったかもしれないけど、あの日、事件が起きました。弟が事件で報道ネタになったのは、それが初めてではありませんが、その日は、ようやく会うことができた実の父が、亡くなってしまうという、初めの時とは比較にならぬくらいショックなことが起こりました。
亡くなったのは、確かに私の父です。しかしその背景には、私が知らない、遥か大昔にまで遡った頃の、何かとてつもなく暗い流れのようなものが感じられて、本当に仕方がなかったのです。
私は今でも時々、そんな闇に飲み込まれそうになる自分を感じることがあります。そこは、瑠香が自分の家族に対して感じてたことと、すごく重なるような気がするんだ。年の違いは関係なく、私達って、本当に似ているのかも。
ここで聞いてほしいです。かつての私だったら、ここで絶望的で投げやりな気持ちになり、荒れた気持ちで、本当に何をやってたか分かりません。だけど、この時の私は、そうはなりませんでした。
「震災復興のお手伝いをさせてもらいたい」という人達に、県外から何人も来てもらって、被災者の方々から、心が折れそうになったところを何度も何度も励まされ、生活再建のための大きな力になってもらったことは、これから先も、決して忘れてはいけないことです。この町で生まれ育った一人として、私一人がいじけてどうなる、という気持ちでした。
平凡な一日一日を取り戻そうとすることが、どれだけ難しく、また尊い事か…瑠香だったら、きっとそれが分かってくれると思う。
さて、まだまだ寒い日が続きます。いつでもまた、連絡ちょうだいね。私からも、何かあったらすぐに送信フォームを立ち上げます。
あ、そうか、ラインの方がいいよね。忘れてました。以下に私のラインのIDを記します。登録お願いね。そして、必ず連絡してね。
瑠香も、どうか風邪をひかないように…いつまでも、お元気で。
奥平璃夢
瑠香への返信を終え、久々に爽やかな気持ちになることができた璃夢は、パソコンを閉じると、玄関から外へ出て、大きく深呼吸をした。
震災から十回目の夏がやって来る。そこから川は見えないが、いつか見た大きな川と、その遥か先まで連なる故郷の街並みを思い、有名なあの恋歌を口ずさんでみる。
執行猶予付きの刑の判決が下った秀直と、もうすぐ会える。唯一の身内となった彼とは、今のトレーラー型の個性的な住宅で、むろん保護観察付きで、しばらく一緒に暮らすことになる。
判決では、刑期、執行猶予期間、それぞれ五年だが、特に何事もなく、保護観察官の心象も良ければ、刑期の大幅な短縮もあり得るだろう。
一寸先は、闇ではなく、光。今もどこかで生まれている命が、震災当初からは想像もつかないくらい復興が進んだこの町と同様に、様々な障害に負けない、人々の愛と信頼を繋ぐ堅牢な礎となってくれることを、璃夢はもはや、信じて疑わないのであった。
終