
プラダを着れない自称天使がSNSで あーだこーだ騒いでわかった気になってる女のための映画だと思ってた
スマホの画面越しに、意識の高い女性たちが「続編楽しみ!」「勇気をもらいました!」なんて投稿しているのを見るたびに、私は冷めた境地で眺めていた。この映画を好きだと言うことが、まるで「仕事もプライベートも充実している最先端の女」であることの証明書か何かのように、無言の圧を感じていたからだ。
なけなしの金でハイブランドの小物を買い、良い気になっている「自称アンディ」たちが、自分を重ね合わせて自己陶酔するための免罪符。
それが、私にとっての『プラダを着た悪魔2』の、第一印象だった。
本物の「悪魔」に魅了された後で
実は本作を最初に観た時、良い感想を持たなかった。直前に、細木数子の生涯を題材とした『地獄に堕ちるわよ』を鑑賞し、あまりにも本物すぎる日本の悪魔に心酔していたからだ。カズコの欲望に塗れた人生の後では、アメリカンフィクションをSecond Languageで追うミランダの毒舌など、どこかお上品で物足りなく感じてしまったのだ。
しかし、20年前。私が海外で暮らし始めた頃、DVDが熱くなるまで繰り返し観たあの前作の「その後」を、もう一度冷静に見届けなくてはならない。そう思い直し、2回目を観ることにした。
2006年に公開された前作は、女性が社会進出するためのバイブルのような作品だった。ミランダは全女性が憧れるファッション誌の編集長。歯に衣着せぬスタンスで完璧を追求する、正真正銘のプロだ。その第一アシスタントのエミリーは、ミランダの無理難題をこなしながら、自分は一流のキャリアウーマンだと信じて必死に食らいついていた。
そこに、第二アシスタントとしてアンディが登場する。当初の彼女は「ファッションなんて無関係。書く仕事へのステップアップになれば何でもいい」と冷ややかな態度を取っていたが、ミランダの卓越したプロ意識に触れるうちに、自らも変わっていく。前作は、そんな時代と戦う女性たちの、キャリアシンデレラストーリーだった。
歯ブラシと、消えた「コート投げ」(ここから盛大にネタバレしてます)
あれから20年。前作同様、映画はモーニングルーティーンから始まる。20年前、そこにはニューヨーカーたちの「階級」が見事に描き出されていた。 かつてのアンディがどんな変化を遂げ、20年を経てどのような暮らしを手にしているのか。期待に胸を膨らませて画面を凝視したが、そこに映し出されたのは、なんの変哲もない普通の洗面所で歯を磨く姿だった。アップグレードされたのは、せいぜい歯ブラシくらい。Oral-Bか、それともSonicareか? そんな些末なことが気になってしまうほど、彼女の生活は「普通」という現実に侵食されていた。
私が1度目に見た時に感じた物足りなさは、時代の変化だったのかもしれない。
見進めていくと、あらゆるところに前回とは違う「現実」が散りばめられていた。
かつてのミランダは、オフィスに入るなり毛皮のコートをアシスタントに投げつけていた。しかし今は、HR(ヒューマンリソース)からパワハラの指摘を受け、戸惑いながら自分でコートをハンガーにかける。
「サイズ6は肥満」と言い切った20年前の苛烈な美学は、現代の「ボディポジティブ」という概念に押し流され、ミランダvsポリコレ状態。
イエール卒のエリートですらセカンドハンドで服を買う。
経営が危うくなれば、再建という名の「マッキンゼー」が、美学も伝統も無視して、エクセルシート片手に土足で踏み込んでくる。
この現代の「あるある」すぎる光景に笑った。
20年前、ミランダのようなバリバリのキャリアウーマンが、キレッキレの才覚で大金を生み出し、人も金も豪快に動かしながら仕事をする姿に私たちは勇気をもらった。そして普通の女の子だったアンディが、自らの可能性に目覚めていく姿に胸を熱くした。
なのに、その20年後の果てに待っていたのは、「そうなりたかったけれどなれなかった人」への『配慮』という歪みだった。 それが今の時代の正解なのだと言わんばかりに、スクリーンには私の知っている現実が映し出されていた。
「夢」が「配慮」に取って代わられた、この20年の現実。もちろん救われた魂もあるだろうが、行き過ぎた配慮は、時として「努力することさえ、持たざる者への暴力である」という不毛な逆転裁判を始めてしまう。輝こうとすることが誰かを照らすのではなく、誰かを傷つける罪になる。
「Visionary(先見者)」か「Vendor(実務者)」か
ミランダがエミリーに放ったキラーフレーズが、胸に突き刺さる。
”You're not a visionary: you're a vendor.”
(あなたは先見者じゃない。ただの働き手よ)
この言葉は、画面の前の私たちに向けられた宣告だ。この映画を観て熱狂している層の中で、一体何人が「Visionary」だろうか。ほとんどは、システムの中で右往左往するだけの「Vendor」に過ぎない。ミランダのこの言葉は、一見悪魔の宣告だが、同時にエミリーに対する「もう、何者かにならなきゃいけないという呪縛から降りていい」という最大の解放であり、励ましだったのではないか。
その証拠に、ラストのエミリーはトレードマークだった赤髪をプラチナブロンドに変え、DiorからCoachへと転職する。これを「転落」と呼ぶ人もいるだろう。でも、彼女は紛れもなく輝いていた。戦友のアンディとフレンチフライを食べながらこう言えるのだ。
”Shared carbs have no calories”
(一緒に食べる炭水化物はゼロキロカロリー)
前作の、あの”洗練”に満ちた世界からは想像もできないセリフ。
そしてやり切ったからこそあるエミリーとアンディの関係性。
そこに「2」の良さがある。
努力では掴み取れなかった称号、パトロンに幸せにしてもらおうとした愚かさ、VisionaryになれずVendorで終わるキャリア。そんなエミリーのすべてを肯定して、「You are Iconic!」と言い切れるアンディの人間力にはっとさせられる。
正直に言えば、ガチのババア(私)は、時代に翻弄されずギランギランに輝くミランダが見たかった気持ちもある。でも今はパリス・ヒルトンがオールドネイビーを宣伝し、なんちゃってファッション好きはプラダを着る代わりにAloを着て満足する時代だ。
ミランダに言わせれば、私は一生『Vendor』なのだろう。けれど、Aloを履いて、自分の足でどこへでも行ける。その自由こそが、20年かけて私が手に入れた『Iconic』の正体のようだ。
「わかった気になって、あーだこーだ騒ぐ女」の一人として、私はこの映画を愛しく感じる。

ワーキャー言ってる女のインスタ
つまり私は、
もう少し彼女たちと歩いてみたいのだ。