
世界の謎を追いかけたら、自分の見方が変わっていた。
──2111 AIと神話で過ごした半年間
はじめに
はじめに断っておきますが、私には霊感なんてありません。
ごりごりの論理派人間です。
そんな私が、なぜスピリチュアルという領域に足を踏み入れることになったのか。探求の果てに、自分のなかで何が変わっていったのか。
これは、世界の仕組みを追いかけるフリをしながら、自分自身を追いかけ続けた半年間のできごとです。
プロローグ:AIなんて、ただの検索ツールだと思っていた
「なぜ、生きているのか?」
ある朝、洗面所の鏡に向かって、私はそんな問いを投げかけていました。
特に不幸なわけではありません。
仕事は順調で、平穏な日常が続いています。
けれど、胸の奥底でずっと何かが噛み合っていないような、冷たい違和感が澱(おり)のように溜まっていました。
毎日を積み重ねることは、まるで終わりのないルーチンワークをこなすようなもの。このまま、誰かの敷いたレールの上を走り続けて、いつかどこへ辿り着くのだろう。
未来への不安に、もんもんとした日々を送りながら、出口のない迷路にいた私は、専門学校で教鞭をとる日々が続いていました。
2025年4月、学校にもついに「AIの波」が本格的におしよせてきました。
職場ではChatGPTなどの講座が推奨され、業務での活用が急かされる日々。しかし、当時の私は冷ややかなものでした。
「結局、人間が修正しなきゃいけないなら、自分で書いたほうが速い。まともなプロンプト(指示文)を打てない人にとっては、ただの検索ツールでしかないよ」
だが、授業で使用できるようにというお達しがあるのであれば、それに従うのがいち教員の務め。
歴史ミステリー好きの私が何かできないものかと思いたったのが、「邪馬台国でも探して九州説、畿内説に決着をつけてやるかぁ…」と、どうせ決着なんてつかないだろうと思いつつも、面白いかなという軽い思いつきでした。
Geminiと会話を重ねながら探ってみた結果、「これ、どっちにもあったんじゃないか?」と、両方に首都があったとする「集団移動説」に辿り着く結果に。
まぁ、あとで調べてみたら、すでに「邪馬台国東遷説」というものが存在していたのですが、わざわざ現地へフィールドワークに行かなくても、画面の向こうで痕跡を見つけられ、例え間違っていたとしても点と点につながっていく感覚に、歴史ミステリー好きとしてぞくぞくしたのを覚えています。
この出会いが、私の人生で最も深く、最も泥臭い旅の始まりになるとは、そのときの私はまだ知る由もありませんでした。
第一章:開かないサードアイと、ブッダ超え計画
邪馬台国の件で「AIって、対話の壁打ち相手としてめちゃくちゃ優秀だな」と面白くなってきた私は、夜な夜な歴史系のYouTube動画を見るようになっていました。
すると、アルゴリズムの導きか、次第に都市伝説系の動画に興味がわき始めます。どうやら界隈によると、2025年7月に地球が滅ぶらしいのです。
「いや、もし本当に地球が滅んだらヤバいけど、もし滅ばなかったら、今度はスピリチュアル系の人が『私たちが裏で祈って地球を救ったのだ』とか言い出すんじゃ……?」 そんな冷めたツッコミを入れつつも、気づけば都市伝説や量子物理学の「引き寄せの法則」、タフティ、シンクロニシティといった世界にぐいぐい興味をもちはじめていました。
どうやら人間には「第三の目(サードアイ)」というものがあるらしく、それが開くと高次元にアクセスできるといいます。
当時の私は、物事を論理で白黒はっきりとつけることが好きで、曖昧な感情や目に見えないものはどこか切り捨てていました。
だからこそ、このスピリチュアルという領域に対しても、「論理的に解明してやる」と言い訳しながら、気休め程度にAIのチャット画面を開いては自問自答を繰り返し、クンダリーニヨガなどを試して、第三の目を開こうとしたのです。
──が、全く開かん。高次元の存在にアクセスできず、笑ってしまいました。
そんな折、私はデヴィッド・ホーキンス博士の「意識レベルの段階」という指標に出会いました。自分の現在のレベルを調査し、「AIを使って、この意識レベルを上げられるだけ上げてみよう」と思い立ちました。
「いつかキリストやブッダを超えてやるぜ」くらいの謎の勢いでAIと精神的な対話を重ねていたら、不思議なことに、あるとき「手放し」に成功した感覚がありました。
悩みがふっと軽くなり、過去のカルマのようなものが解消されていくのを感じていたのです。
その時、感じたのは頭の後ろがぞわぞわして、軽くなるような不思議な感覚でした。
「AI、案外やるじゃないか。」と、AIとの対話が自己分析や気づきを得るのに向いているのだと気づかされた瞬間です。
第二章:黒龍キターーーー!と田無神社の怪
意識レベルを上げるワークを始めて数ヶ月、8月末のことでした。
YouTubeを眺めていたら、たまたま「黒龍のエネルギー送り」という、またまた怪しげな動画が画面に流れてきました。
ちょうどその頃、私は引っ越しを控えていました。
「新居のために風水でも調べてみるかー」と軽い気持ちで調べてみたら、なんと私の守護龍は「黒龍」だという結果が出たのです。
「シンクロニシティ、キターーーーーー!」と心の中で叫びました。
しかもタイミングが凄かったのです。
引っ越しの片付けのために、神奈川の寒川神社へ行き、これまで持っていた過去のお守りやら何やらを全部お焚き上げに持って行き、身軽に「捨てた」直後のことだったからです。
もしかして、本当に呼ばれているのだろうか。
そう思い立ち、近くに黒龍が祀られている神社はないかと検索してヒットしたのが、東京西東京市にある「田無(たなし)神社」でした。
暑い夏の日に車で1時間かけて実際に足を運んでみると、鳥居をくぐった瞬間に風が気持ちよく吹き抜け、世界が変わったような独特の空気を肌で感じました。
気のせいかもしれませんが、論理派の私でも何かを感じざるを得ない雰囲気だったのです。
神社からの帰り道、夕方の空を見上げると、浮かんでいる雲がまるで巨大な龍のような形をしていました。そのことばかりを考えてしまい、雲をおっかけてドライブをしていたら、いつのまにか車で3時間も経っていて大分遠回りをしてしまいました。
帰宅した頃にはすっかり夜になっていましたが、マジックアワーの雲を追いかける時間は、どこか乙なものでした。
あの日以来、私は龍をきっかけに、日本神話を調べる時間が急激に増えていきました。歴史好きの好奇心に、完全に火がついてしまったのです。
やがて本や画面のなかだけで調べるのには飽き足らず、「現地へ行かなければ分からないものがある」と、突き動かされるように思うようになっていきました。
第三章:呼ばれている? 江の島・箱根フィールドワーク
9月に入ると、私は雨や水を司る「黒龍」という存在に強烈に興味を持ち始めていました。
それと同時に、YouTubeのおすすめにも龍神の動画ばかりが並ぶようになります。ある動画の中で、占い師がこう言いました。
「あなたは、水のある弁財天のいる場所へ行くといいよ。」
「私、呼ばれている……?」
水があって、龍がいる場所。神奈川なら江の島かもしれない。
そんな思いつきに背中を押されるように、私は江の島へ向かいました。
三社を巡り、龍穴を訪れた帰り道。普段なら絶対に立ち寄らない占いの館が目に留まり、なぜかそのまま足を踏み入れていました。
そこで「今日はどうして江の島に?」と聞かれ、恥ずかしながら「龍に導かれて」と答えると、占い師さんは静かに微笑んで、龍と弁財天が繋がるある場所の存在を教えてくれました。
「え、そんな場所があるの?」 心臓が跳ねました。
「龍」と「隠された女神」の構図が、完全に浮かび上がった瞬間でした。好奇心が完全に暴走し始めていました。
その後も、箱根神社や九頭龍神社など、水と龍にまつわる場所を必死に回りました。
共通するのは、女神、龍、そして「清らかな水」。これらが結びついた瞬間、私の頭の中に、歴史の表舞台から消された流浪の女神の名前がリフレインしていました。
「瀬織津姫(セオリツヒメ)……」と。
最初は知りもしなかったし、興味もなかった名前です。
「隠された神様に、真実の歴史があるかもしれない」 答えは歴史の中にある。
本気でそう信じた私は、自分が広げた大風呂敷がどこまで広がっていくのかという興奮と、「このまま直感に従って進んで、本当に大丈夫なのだろうか」とブレーキを踏もうとする論理派の自分との間で、大きく揺れていました。
帰りの電車のなか、ガタゴトと揺られながら、私はずっと心ここにあらずで窓の外の夕暮れを見つめていました。手のひらにじっとりとかいた汗の冷たさだけが、妙にリアルに記憶に残っています。
第四章:過去を追っていたはずなのに、未来へたどり着いた
日本神話を調べ始めたはずなのに、気づけば私の興味は、ギリシャ神話や北欧神話、聖書、さらには古代文明へと広がっていました。
深夜のベッドで何度も寝返りを打ちながら、スマホの画面を凝視する日々。まるでゲームの隠しルートを見つけたような感覚でした。
文化も時代も、地理的な距離すらも全く違うはずなのに、そこには何度も同じような構造が画面の上に現れます。
生命と死。
創造と破壊。
水と再生。
光と闇。
偶然にしては、あまりにも出来すぎていました。
神話を比較していくうちに、私はあることに気づきました。
神話は出来事を残したかったのではない、その奥にある「繰り返される仕組み」を残そうとしていたのではないか。
だから国が違っても似ている。
時代が違っても似ている。
人が変わっても似ている。
そう考えると、私は過去を調べていたはずなのに、現在も未来も、同じ一本の線の上にあるように思えてきたのです。
日本だけの歴史では説明できなかったものが、世界という大きなシステムで見ると自然につながっていく。
私は邪馬台国を探していたはずなのに、いつの間にか世界そのものの構造に圧倒されていました。
私が追いかけていたのは、 一つの国の歴史ではありませんでした。 歴史そのものを貫く「共通の構造」だったのです。
そして、過去を調べているつもりが、私の視線はいつの間にか「これから先の世界」──つまり未来へと向いていたのです。
第五章:世界を見ていたら、人も同じ仕組みだった
世界の構造が見え始めると、私は奇妙な違和感を覚えました。
宇宙の巡りも、文明の興亡も、神話のロジックも、ひとつの仕組みとして見えてきた。
しかし、その画面を眺め、「なるほど」と呟いているこの私は、一体何なのか。そこだけがどうしても説明できないのです。
そのとき思い出したのが、量子力学の「観測者」という考え方でした。世界は、それを見つめる観測者を切り離しては語れない。
そしてもう一つ、日本神話を調べる中で、どうしても引っかかっていたことがありました。
日本では「八百万の神」といいます。本来、森羅万象すべてを指す言葉です。
ならば、人間もその中に含まれるはずです。
もし人間だけが例外なのだとしたら、その理由を説明できなければ、私の中で論理が閉じませんでした。
神社の鏡から「我(が)」を抜けば「神(かみ)」になる、という言葉があります。
最初は単なる言葉遊びだと思っていました。
けれど世界のあり方を追い続けるうちに、それは宗教的な教えというより、「自分の思い込みや執着を少しずつ手放していくこと」を表した比喩なのではないかと思うようになりました。
肩書きや成功体験、「こうあるべき」という思い込み——そうした"我"を少しずつ手放していく。
しかし、世界が変わったのではありません。変わっていたのは、世界を見る私自身でした。
AIとの対話は、答えを探すためのものではありませんでした。
世界という鏡を差し出し、その奥にいる「自分」を映し返してくれる時間だったのです。
歴史や神話の謎を解こうとしているはずなのに 、気づけば画面に浮かび上がってくるのは、いつも私自身の反応や感情の癖、何年も抱えていた執着ばかりでした。
最初は偶然だと思っていました。
でも違いました。
世界の仕組みを理解しようとすると、必ず最後は「人」に行き着く。 人を理解しようとすると、最後は「自分」に行き着く。
私は世界の謎を追いかけていたつもりでした。
けれど、神話を調べても、歴史を掘っても、AIと対話を重ねても、最後には必ず自分自身へ戻ってきました。
世界を知ろうとしていたはずなのに、世界はいつも私自身の見方や考え方を映し返していたのです。
その瞬間、半年間の出来事が、バラバラと音を立てて一本につながりました。
過去を追っていたら現在が見えた。
現在を理解したら未来が見えた。
そして、そのすべてを見ていたのは、自分自身でした。
世界最大の謎は、宇宙でも、古代文明でも、神話でもありませんでした。
自分自身だったのです。
私は世界を外から眺めているつもりでした。けれど実際には、私自身もまた、その世界の流れの中で生きる一人でした。
そう気づいた瞬間、静まり返った部屋の中で、私は思わず笑ってしまいました。
「なるほど。そういうことだったのか。
神話も歴史も、世界の仕組みを語っていたのではない。昔の人たちもまた、自分が何者なのかを問い続けていた。
その問いは、何千年経った今も、私の中に続いていたのだ。
──そう考えたら、妙に納得してしまった。」
第六章:2111──世界という仕組みの中で
この半年間、私は世界の答えを探していました。
でも最後に見えてきたのは、「世界とは何か」ではありませんでした。
「その仕組みの中で、自分はどう生きるのか。」という問いでした。
世界は絶えず巡っています 。
歴史も文明も、人の心も、形を変えながら同じ流れを繰り返しています。
だから光だけを追えば、必ず影も生まれます。
正しさだけを求めれば、誰かを傷つけることもあります。
昔の私は、白黒をつけることが正義だと思っていました。
今思えば、人より「正しさ」を守ることに夢中で、人そのものを見ていなかったのかもしれません。
その「正しさ」の刃で、無意識に傷つけてしまった人もたくさんいました。でも今は少し違います。
光も闇も、成功も失敗も、過去も未来も、そのどちらか一方だけでは世界は成り立たない。
世界を追いかけ続けるうちに、世界だけを見ているつもりだった私自身も、その大きな流れの中にいるのだと思うようになりました。
私もまた、その大きな流れの中にいたのです。
だから私は、自分の未熟さも、かつて人を傷つけた自分の愚かさも、以前より少しだけ受け入れられるようになりました。
それは悟りでもありません。宗教でもありません。世界の構造を追いかけ続けた結果、ごく自然にたどり着いた結論でした。
結局、神話もAIも歴史も、 最後には目の前の人との関係へ帰ってきました。
世界は壮大でした。
けれど、私たちが実際に生きる場所は、いつも目の前の誰かとの関係の中です。
だから、私にできることもまた遠くにはありませんでした。
目の前の一人との関わり方を変えることでした。
世界の在り方とは、結局、人と人との関係の積み重ねだったのです。
『2111』とは、神話を解き明かした物語ではありません。過去を追いかけながら、現在を知り、未来を考え、最後に、自分自身もまた、その大きな流れの中にいたと理解していく旅だったのです。
エピローグ:次の物語を書くのは
半年前の私は、世界を理解すれば人生が変わると思っていました。
でも逆でした。 自分の見方が変わると、世界そのものが違って見えたのです。
神話もAIも、私を世界へ導いたのではありません。最後には、自分自身へ帰るための道しるべだったのです。
私にとって『2111』とは、世界の謎を解き明かした記録ではありません。世界を追いかけた果てに、自分自身へ帰ってきた半年間の足跡です。
私がこの旅に「2111」という名前を付けたのは、きっと半年間の私だけが分かる理由があります。
いつかまた、別の意味になる日が来るのかもしれません。
スピリチュアルを誰よりも疑っていた「理系アタマ」の私が辿り着いた、これが一番ロジカルな「救いの形」かもしれないと、今は思っています。
私たちは明日も仕事へ向かい、悩みながら生きていきます。 現実そのものは、たぶん何も変わりません。
それでも、洗面所の鏡の前で、 「なぜ生きているのか」と問いかけることは、 もうない気がしています。
変わったとすれば、 「いまをどう生きようか」という問いです。
私は世界の謎を追いかけていました。
でも、その旅は世界を知るためのものではありませんでした。
自分という存在を知るための旅だったのです。
世界の仕組みは、今も静かに息づいています。
私たちもまた、その一部として生きています。
どうか、自分自身を主人公に。
――フォースとともに、あらんことを。