
選ばなかった犬と、今
高校を卒業する三月、母が倒れた。
脳梗塞。
四十五歳だった。
それまで当たり前だった日常は、音もなく形を変えた。
四月から短大に通い、帰りには病院へ向かう毎日。
忙しそうに動く看護師さんと、ポタポタ落ちる点滴をただ見ていた。
私は、どこかで現実を受け止めきれていなかった。
なんとなく進学して、
なんとなく通って、
なんとなく日々が過ぎていく。
十九歳の春。
3回目の母の手術が決まった。
ひと月以上は入院する。
私は就職活動をしなかった。
——そういう理由にしていた。
本当は、私には何もなかった。
やりたいことも、行きたい場所も。
ただ、時間だけが過ぎていった。
気づけば、季節は少しだけ進んでいた。
そんなある日、ふと思った。
——犬を飼おう。
理由はなかった。
ただ、その一瞬だけ、何かが少しだけ動いた気がした。
タウンページをめくり、地図を広げる。
静かな部屋で、本のページを何度もめくった。
最後に残ったのは、チワワとマルチーズだった。
どちらかを選ぶということは、どちらかを選ばないということ。
どちらもかわいかった。
どちらでもよかったのかもしれない。
ページの中で、ひとつの言葉が目に留まった。
「チワワは自立心が強く、あまり甘えてこないこともある」
その一文を、私はそのまま受け取った。
そばに来てくれること。
触れたときのぬくもり。
それだけで、十分だと思った。
私はマルチーズを選んだ。
たった一冊の本の、たった一行。
それが選択になるとは、思っていなかった。
十九歳の秋。
まめたろうが家族になった。
腕の中の体は軽くて、温かかった。
その重さだけが、確かなものだった。
気づけば、視線の先にはいつもまめがいた。
それまで遠くにあった世界が、いつの間にか自分の中にあった。
私は、ゆっくりとそこに沈んでいった。
やがて、もう一匹。
ナナが来た。
生活は、完全に犬の時間になった。
それでも、不思議と苦しくはなかった。
むしろ初めて、自分で選んでいる気がした。
それまでの私は、ずっと流されていた。
でもその時、はじめて思った。
——好きだ。
その感情だけが、はっきりとした輪郭を持っていた。
このままで終わらせたくないと思った。
犬に関わる仕事がしたい。
そう思った時、初めて足りないものを知った。
資格がいるらしい。
だったら、取ればいい。
それだけだった。
二十二歳。
私は横浜でひとり暮らしを始めた。
見慣れない街と、まだ空っぽの部屋。
それでも、不安より先に来たのは、わずかな高揚だった。
うまくできないことのほうが多かった。
それでも、少しずつ近づいている気がした。
あの頃の私は、まだ何者でもなかった。
それでも、ひとつだけ確かなものがあった。
——犬が好き。
今になって思う。
あの時、あの一瞬の思いつきがなければ。
私はきっと、あのまま動かなかった。
理由はなかった。
ただ、好き。
それだけで、十分だった。
それでも時間は続いていく。
気づけば、
あの時選ばなかった小さな犬が、
今は当たり前のように隣で眠っている。