【完結】第八弾:吾輩は犬(ケン)である ― 雨にも負けて、風にも負けて――、それでも吾輩は『しゃんとして』生きる
雨にも負けて、風にも負けて――
吾輩は犬である
名前は既にある 犬(ケン)だ
飼い主などいない
名付け親は、公園に群がるガキ共だ
吾輩の承諾無しにして……
勝手に付けられ――、
いつしかケンと呼ばれている
朝……いつものように、用を足しに、いつもの電柱へと向かう。
「いつものように」という、この何気ない日常がどれほど幸せなことなのか、改めて吾輩は感じたのじゃ。
……いつものようにという日常は、決して、揺るぎないものではない。そのあたりはこれからもちゃんと、注意を払わねばならぬ。
そんな平穏と思える日常と、怪しい影が忍び足で訪れる不穏の狭間を、吾輩はこの敏腕な嗅覚で嗅ぎ分け、今日まで生きてきたのじゃ――。
寝惚眼(ねぼけまなこ)でたどり着いた電柱に、ゴツンと頭をぶつけ、吾輩の目は完全に覚醒した。ぼうっとしていたのは束の間、ハッとして我に返る。またしても良からぬ気配を感じさせる空気が、電柱をぐるぐると巻き込み、不吉な上昇気流を発生させておった。
「な! なんじゃ――。またしても……吾輩のモンタージュ画が電柱に貼られているではないか!」
「おいおい……今度は何事じゃ!」
ただ、今回の吾輩らしきモンタージュは、この前と違って実に威風堂々としておる。頭には鉢巻が巻かれており、そこには『断固反対!』と書かれておった。
公園で命を張って治安を守り、さらにはガキ共の安全と成長を見守る吾輩は、この公園の、いや、周辺住民地域の「平和の象徴」として確立されておるようじゃ。そんな気配が感じとれる、実に凛々しいモンタージュであった。
我ながらその姿にうっとりしつつ、景気づけに小便を引っ掛けた。
ただ、一体何に対して『断固反対!』――なのかが気になった。また……吾輩に降りかかろうとする、良からぬ、予期せぬ出来事の始まりなのか……。
ある日曜日、朝っぱらから少し騒々しい。
「なんじゃ、なんじゃ――、何の騒ぎじゃ! 騒がしくて目が覚めたわい」
公園に老若男女の住人達が大勢集まって来た。集まって来た者達は皆、頭に鉢巻を巻き、そして全員がプラカードを掲げていた。鉢巻には「断固反対!」、そしてプラカードには、それぞれ怒りの訴えが書き殴られている。公園は物々しい雰囲気と熱気に包まれておった。
「ケ〜ン!」
ガキ共が、公園に着くやいなや吾輩を探し、駆け寄って来た。
駆け寄って来るといきなり、吾輩の首に巻き付かれたあの輪っか(あの騒動以来、首に付けられたままじゃった)を力任せに引き寄せた。
「な、なんじゃ! また―― ……何があったのじゃ!」
吾輩の金玉がまたしても硬直しかけた……。
抵抗する吾輩は、ガキ共に羽交い締めにされた。そして、頭にあの鉢巻を巻かれた――。電柱に貼られた、あのモンタージュと全く同じ姿にさせられたのじゃ。
「おい! 何があったのじゃ? 説明しろ。吾輩は公園を守る治安部隊隊長じゃぞ!」
事の騒動はこうじゃ。
どうやら……この公園一帯に、とある大企業の計画案が浮上したらしいのじゃ。その計画案とは、外資系日本法人のインバウンド向け「総合型高級リゾートホテル」の建設だという。
よう聞き慣れぬ言葉の羅列じゃが、ただ、はっきり分かるのは、この計画案が実施されれば、この公園が跡形もなく消え去ってしまうということじゃ。
それはあまりにも不味い話じゃ。吾輩が長く住み着いたこの場所が無くなってしまうということは、吾輩の塒(ねぐら)が消えてしまうということじゃ。「不味いまずい。それはまずいぞ。絶対に阻止せねばならぬ! いざとなったら、吾輩のこの鋭い犬歯を剥き出しにし、その大企業とやらの奴らに噛み付いてくれるわ! 先日、狂犬病の予防接種も済ませたばかりじゃ、案ずることは無い!」
ここにはインバウンド向け高級ホテルなど必要ない。
金持ち相手に、企業を潤そうなどあってはならぬ。
必要なのはむしろ、もっともっと公園を増やすことじゃ。いざ、という時の災害時に、皆が避難できる場所が必要なのじゃ! 災害は無差別に襲いかかる。皆平等の課題じゃ! 誰一人として置き去りにされるようなことはあってはならぬのじゃ!
その日を境として、決定事項をただ淡々と推し進める大企業と役人達の権力に対し、吾輩たちの意地をかけた抵抗が続いた。
そこに集まる大勢の者達は一致団結していた。そこには何の垣根も無かった。あの鼻につく、よう分からぬ座敷犬も、周りの雰囲気に合わせキャンキャンと吠えて必死に訴えていた。皆どこかに、自分の力が微力だと分かってはいるものの、必死に抵抗し訴えているのじゃ。
座敷犬を抱えるあのババァ達も、普段は資本主義という仕組みの中で働く夫の稼ぎに余念がないが、いざ身の回りのこととなると話は違うようじゃった。
そんな抗議デモを繰り広げている日々の中、その日も朝から夕暮れまで、声が枯れるまで訴え続けていた。日が傾き、夕暮れを迎え暗くなると……
作業服姿の、工事関係の者だろうか。公園の入り口付近にバリケードを一つ、無慈悲に置いた。
大勢の者達が帰って行くと、その日、最後まで吾輩の傍らにいたガキが、バリケードを置こうとした作業員に「置くな!」と必死の抵抗を見せた。
だが……作業員は、その小さな手を冷酷に振り払い、無造作にバリケードを置いて立ち去って行った。
大勢の者達が自宅に戻って行った後の公園には、虚無感を含ませた冷たい風が、吾輩の顔の脇を舐めるようにグルリと一周して、吹き去った。吾輩は夜空を見上げ、月を眺めながら、いろんなことを思い、考えた……。
春、地表がもこもこと動きだし、芽を出す草花。
桜の枝に蕾を宿し、柔らかな陽射しを浴びると少しずつ、躊躇しながら表情を露わにする。
幾人も見届けてきた、初々しい真新しいランドセルを背負った、新一年生を思い出した。
襟で顔を覆い、手をポケットに突っ込み俯き、吾輩の脇を素通りしていた会社員も、春の訪れとともに自然と陽気さが戻り始める。
提灯の灯りが、ビル群の明かりと調和する都会の風景。オールナイトの桜の舞踊。
夏、吾輩の肝を、初めはヒヤリとさせたあの腹に響く音と大輪の花火。涼し気な金魚の団扇を背の帯に挿んだ浴衣の艶姿。
親子が皆、空を見上げ歓声を上げる姿は、どんな未来を重ねて見上げておったのじゃろうか……。
吾輩の度肝を抜く、霹靂閃電(へきれきせんでん)の自然の怒号と篠突く雨。それすらも、ガキ共はキャッキャと騒ぎ、どしゃ降りの中を元気よく駆け回る。
秋、ビル群に反響し、勇壮な響きがこだまする神輿を担ぎに向かう益荒男(ますらお)。そんな益荒男どもも、小さい頃の思い出がそれぞれあり、ここで逞しくなってきたのじゃ。
秋風に運ばれ鼻腔をくすぐる金木犀の香りは、すっかり成長した女の香りを連想させた。
公園に積もる金秋の銀杏の葉には、人生の集大成を感じた。
冬、空気が澄み切った公園に、透き通った声が逞しく交錯する、無邪気で活気に満ちたガキ共の声。時々姿を見せる、汗をかいた雪だるまの必死さが可笑しかった。
今の吾輩には、首が痛くなる程に見上げねば全貌が見えぬ、あの冷徹で、温もりのないリゾートホテルというコンクリートの塊は、どうしても想像出来なかった。
ガキ共の声を、ブルドーザーに掻き消されるようなことはあってはならぬのじゃ。だが……
その日の空は、どんよりとした鉛色で塗り殴られていた。
台風が近づく日本列島。日本列島に睨みを利かした、自然の鋭い眼光がこの場所に照準を絞る。荒れすさぶ風が、不穏な空気を伴って忍び来る。
……騒がしい声が、風上からの強風に乗って、吾輩の耳元にザワザワと届いた。
「やばいぞ! 荒川が氾濫危険水位に達しそうだぞ!」
道路には避難を急ぐ者達で、激しい渋滞が発生しているようだ。吾輩は天を仰ぎ、神に祈った。
幸いにも、この時は危機一髪で難を逃れた。
吾輩は案じた。
災害の多い日本に、これから必要なのは、未来あるガキ共に安全を提供できる環境整備だ。
あと、……自然災害以外にも…… いやいや、ないない……。口にし出したが、吾輩はその不吉な予感を飲み込んだ。
なんだ……? うん……、吾輩の脳裏に、あのコンクリートの「シェルター」という構造物が、はっきりと色濃く、鮮明な概念として浮かんでいた。
夜空には、吾輩の思いを無視するかのように、いつもと変わらぬルーティンで欠けた月があった。
「ケーン……、ケーン……」
月が白みを帯びて来た、夜明け前の時間帯だった。
「どうしたんじゃ……」
ガキは吾輩に覆いかぶさると、「ケーン……」と顔を背中にうずめて泣いていた。
「さては、寝小便でもして母親に叱られたな〜。見せてみい――」
どれどれ……うん? 寝小便はしておらぬようじゃな……。鼻をガキの股間に押し付け、匂いも確認したが、どうやら違うようじゃった。
「悪い夢でも見たか……」
すると、「ケン、生きててよかった」と、ガキは吾輩を背中から強く抱きしめてきた。
「吾輩は死んでなどおらん! 勝手な想像をするではない――」
「早う家に戻れ。母親が心配するじゃろ」
また今日も朝から区役所の職員と作業服姿の者が……さらに今日は、ビシッとスーツを決めた者も数人いた。開発の手は止まらない。
日曜日、いつもより大勢の老若男女が、いつものように鉢巻を巻き、そしてプラカードを掲げ公園に集まって来た。今ではすっかり顔馴染みとなり、結束力が一段と深まった強固なコミュニティとなっていた。張り上げる皆の声は、既にすり減り、掠れていた。
とある、月曜日の夕方。一台の大型トラックが公園の入り口に止まった。
荷台には、ふてぶてしい態度をした重機――ブルドーザーが鎮座していて、吾輩を小馬鹿にするような笑みを浮かべていた。
ガキ共が、この光景にランドセルを放り投げ、吾輩に向かって駆け寄って来た。
雨がポツポツと降り出して来ていたが、ガキ共はただただ立ち尽くし、自分たちには「化物」にしか見えないブルドーザーを、ただ見つめていた。いや、見つめることしか出来なかった。
ガキ共は、小さいながらにも直感で感じとっていたのじゃ。抗えきれないこの世の中の仕組みに対して、圧倒的な無力感を。
雨が強くなりだして来たが、誰ひとりそこを動かずにいた。
「雨が強くなってきたぞ……」
「雨になど負けない!」
「風も吹いてきたぞ……」
「風になど負けない!」
「そうか、吾輩は……雨に負けっぱなしじゃ……風にも負けっぱなしじゃ――」
ガキ共の叫びを聞きながら、吾輩は心の中で語りかけた。
『ガキ共よ、逞しく生きるのじゃ! ただ、良いか。逞しく生きるとは、決して勝ち続けることではない。時には負けの経験も大事じゃ! 負けて逞しくなることもあるのじゃ! 負けて初めて、人の優しさも覚える』
『吾輩はこれからも、いつだってガキ共を見届けておるぞ。この敏腕な嗅覚でな』
雨上がりの雲の隙間から、いつものルーティンで欠けた月が顔を出した。吾輩はそれに、無言の挨拶をした。
――その時じゃった。
ケンの脳裏に、あの懐かしい、切ない声がリフレインした。
『そうちゃん、かんにんしてや……。しゃんとして、生きるんよ……』
突如――あの大津波を引き起こした大地震をも超える、あるいは――人間が作り出した「本当の恐怖」がこの街を襲った。
地響きと共に、大勢の老若男女がパニックになりながら公園に押し寄せて来た――。彼らは次々と、頑強なコンクリートの「地下シェルター」へと雪崩れ込んでいく。
ガキ共も必死に走って来て、地下へと入っていく。ただ皆、着の身着のままだ。あの座敷犬のババァか? いつも抱きかかえている座敷犬がいないと、よく分からなかった。いつものように着飾っておらず、寝間着のままで化粧もしていなかったのじゃ。
「ケーン!」と、地下への階段からガキ共が吾輩を呼んだ。
一人のガキが顔を出し、「ケン、早く入れ!」と叫んだ。
だが、吾輩は咄嗟に、その入り口から一歩引いてガキから離れた。
「どおした!」と、ガキは吾輩の首元に手を伸ばし、あの輪っかに必死に手を掛けた。ガキが吾輩を地下へ引き寄せようとする。しかし、吾輩は全精力を込めて四肢を踏ん張り、必死に抵抗した。
さらにガキは入り口から体半分を乗り出して、吾輩を引き寄せようとした。
吾輩は尻に力を込め、四脚をぐっと地面に押し付け、渾身の力で踏ん張った。
すると、吾輩の後ろ足が、シェルターの重厚な鉄板のフチにガチリと掛かった。ケンの体重と、凄まじい踏ん張りの抵抗力が加わったことで、鉄板の下の巨大な滑車が、静かに、しかし確実に動き出した。
ガキが「ケーン、早く!」と泣き叫びながら引き寄せようとするが、吾輩は決して動かなかった。吾輩の抵抗する力がさらに鉄板に加わり、滑車は一気に動きを早めて閉じていく。
ついに、ガキが輪っかを掴んでいた手が、閉まる鉄板の勢いで弾かれ、外れて下へと落ちた。
――ガシャァァン!!!
重厚な鉄板が、ガキどもを完全に守るように、巨大な遮断音を立てて閉ざされた。
次の瞬間。
この世で見る景色ではない、言葉では到底言い表すことのできない、恐ろしくも、とても綺麗な、巨大な閃光が空一面を一瞬にして覆い尽くした。
「ケ ー ン ―― !!」
地上の光の渦の中で、吾輩の魂の奥底に、あの人の声が優しく響いた。
『そうちゃん、かんにんしてや……。しゃんとして、生きるんよ……』
吾輩は、最後の最後まで、誰よりも格調高く、しゃんとして生きてみせたぞ。
ガキ共よ、逞しく生きるのじゃ。
(完)