
「行ってきな」と言えたのは、やさしさじゃなかった。
「行ってきな」と言えたのは、やさしさじゃなかった。
彼女が推し活で遠征に行く日の朝は、いつもより少し早く起きる。べつに見送りに行くわけじゃない。ただなんとなく、あの朝の 空気が好きだった。前日からそわそわしていた彼女が、当日になると急にきりっとする、あの切り替わりの瞬間が。リュックの中 身を確認して、またすぐ確認して、出がけに「チケット持った?」と自分に言い聞かせるように呟く。そういう人間を、悪い気持 ちで見られるわけがない。
正直に言うと、玄関まで来たとき、一瞬だけ黙っていようとした。なぜかはうまく説明できない。ただ、何も言わない方が楽だと
思う自分が、確かにいた。
それでも口から出たのは、こうだった。
「行ってきな。楽しんできて」
彼女は少し驚いた顔で受け取った。あとから「あのひと言が嬉しかった」と教えてくれた。照れくさかったし、そんなつもりで言
ったわけじゃないとも思った。
正直に言う。あれはやさしさじゃなかった。
最初は自分でもそう思っていた。推し活に理解のある彼氏、みたいな自己像が、どこかにあった。遠征を嫌な顔せず送り出せる、
大人な男。我慢できてえらい、みたいな。
でも違った。
彼女と話すうちに気づいたのだが、自分には「邪魔できなかった」という感覚の方が近かった。あの興奮を、知っていたから。
邪魔できない、というのは少し説明がいるかもしれない。やさしさとか配慮とか、そういう話じゃない。もっと手前の、ほとんど
反射みたいな感覚だ。あの朝の彼女を見て、止める気になれなかった——それだけのことだった。
ジャンルは全然違う。彼女は2.5次元の舞台が好きで、自分はというと——学生の頃、特定の監督の映画を追いかけていた時期があ
る。
新作が発表されると知ったときの、あの胸の高鳴り。前売り券を手に入れて、公開初日の朝に映画館へ向かって、エンドロールが
終わっても席を立てなかった夜が何度かあった。隣に誰かがいたわけじゃない。共有したかったわけでもない。ただその世界の中
に、もう少しだけいたかった。帰り道、街の音がいつもより遠く聞こえた。あの感覚だけ、今でも覚えている。
いつの間にかそういうことをしなくなっていた。大人になると、情熱に理由を求めるようになる。コスパとか、時間の使い方とか
、そういうことを考えるようになって、気づいたら「そこまでして行くか」と思う側になっていた。
彼女はそっち側じゃなかった。今でもあの側にいた。
それを見て、羨ましいとか懐かしいとか、そういう感情がぐちゃ混ぜになった何かが、胸のあたりにあった。うまく名前がつけら
れなかったが、悪い感情じゃなかった。
だから邪魔できなかった。やさしさとか理解とか、そういう話じゃなく。あの感覚を知っている人間が、それを削ごうとするのは
、なんか違う——という、ただそれだけだった。
「行ってきな」と言えたのは、結局そういうことだと思う。
それから、もう少し正直に言うと。
帰ってきた彼女は、少し疲れた顔をしていた。でも目が笑っていた。「めちゃくちゃよかった」と言いながら、グッズをひとつひ
とつ取り出して見せてくれた。そのひとつひとつに名前があって、思い出があって、話すたびに彼女の声のトーンが変わった。あ
の朝に見た「きりっとした顔」と、今の「はしゃいだ顔」が、同じ人間のものだと思うと、なんだかおかしかった。おかしくて、
嬉しかった。
彼女の推し活を通して、自分の中に眠っていた何かを思い出した気がした。何かに全力で熱くなれること。それをちゃんと持って
いる人が、近くにいること。そのことが、思っていたより嬉しかった。
彼女のことが好きになった理由は最初から変わっていないけれど、あの遠征の朝を境に、もう一枚深いところで好きになった感じ
がある。うまく言えないが、同じ側の人間だと気づいた、というか。
自分の中にもまだ、あの側が残っていたと気づいた、というか。
「行ってきな」は、やさしい言葉じゃなかった。
あれは、仲間に言う言葉だったのかもしれない。
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