
【後編 出る杭は打たれる】それは意地悪なのか果たして…※個人による感想です(草稿)
●はじめに
この記事の後編です。
●「命を大事に」それはそう
それは「命を落とすよりはマシ」ということかもしれません。
「命あっての物種」なのかもしれませんが、そこまでしてこだわる命とはなんなのでしょうか?
もちろん、命を粗末にしていいとは言いませんし言えません。
「個」としての尊厳、本来それを守るためにある「共同体」としての尊厳、どちらが優先されるべきか論じられるものではないと思います。
ただ、「共同体」のためにいくつかの「個」には犠牲になってもらおうという考え方は「本末転倒」ではないでしょうか?
本来は「ひとりで生きていけない」からこその「共同体」なのですから。
「自分が助かれば他人はどうなってもいい」という考え方(否定するわけではないです)だと、多少の犠牲で共同体が維持できるなら問題ないのでしょう。
ただ、いつ自分がその「他人」になるかはわかりません。
諸行は無常ですからね。
●杭の当番制?
まるで「犠牲者」を当番制にでもして、「昨日は〇〇だったから今日は君だよ」などと(不謹慎ですが)滑稽なことをしているようにもみえてしまいます。
人間が持つ「自分本位」な心理を否定するわけではないですが、その立場であったとしても、「いつもどこかの杭を打たなければならない」構図は不都合ではないでしょうか?
いつか自分が「打たれる杭」になる可能性はぬぐえないからです。
だからといって
「明日自分が打たれるかも…。それは嫌だ。そうだ、ならアイツを身代わりに打ってやろう」という行為を一生繰り返す生き方が安寧と言えますでしょうか?
●「業」「解脱」「涅槃寂静」
そんな堂々めぐりな呪縛じみた連鎖がいわゆる「業(カルマ)」と呼ばれるものかと思います。
そこから抜け出すのが「解脱」であり、その境地が「涅槃寂静」かと。
本来はもっと広くて深い意味があるのですが、「こういうの」もそれにあてはまるかと思った次第です。
個人で世界を変えるなどということは到底不可能ですが、変わるきっかけにはなりえるかもしれません。
そのためには「まず自分から」整えていくことが、その道への第一歩だと考える次第です。
それが一人でなく、十人でも百人でも、千人でもいれば、それは「大きな力」ではないでしょうか?
●あとがき
こういう話は結論ありきで語れるものでもありせんし、私ごときが「万人の納得する」回答を示せるはずもございません。
ですが、こういうことを「考えてみる」のはやってみて損はないと思います。
その蓄積が「生き方」の道標になると信じております。
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