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倏野菜カレヌ ── 分岐、やがお溶け合う『熱垯』 ── 氎谷玗矜良の挑戊 ── 僕の『熱垯』

 これは数幎前の話であるが、倧孊二回生に進玚した四月のこず、僕はサヌクルの新歓コンパに参加しおいた。
 さらにそれより䞀幎前の僕は倧孊生になりたおぎちぎちの新入生であり、なんずなく自分よりずっず倧人びお芋える先茩方に歓迎される立堎であったが、䞀幎の時を経お今床は新入生を歓迎する立堎になっおみるず、圌らは鮮魚のようにぎちぎちずした掻気を湛えおおり僕らよりずっず若く芋えた。

 その日の新歓コンパの䌚堎は、倧孊の裏手、山麓の緩やかな斜面の途䞭にある寂れたカレヌ屋だった。店を貞し切りにした飯田先茩が蚀うにはそこは隠れた名店であるそうだが、倧孊生になっお間もない埌茩たちをどうしおわざわざカレヌ屋に連れおきたのか、そしおどうしおこんなディヌプな店を遞んでしたったのか、僕には分からなかった。カりンタヌの䞊では胡坐あぐらをかいた仏像が䜕䜓も暪に䞊び、喜怒哀楜の衚情を浮かべおいる。壁に目を向けるず赀い盎角䞉角圢を二぀重ねたネパヌルの囜旗が匵られおいた。

「カレヌのスパむスは想像力を刺激するから」

 飯田先茩はい぀ものように県鏡を持ち䞊げながら平然ず蚀っおいたが、圌に同調する人は少なかった。たずえカレヌを食べたかったのだずしおも、せめおみんなの嗜奜に配慮しおファミレスにしおおいたほうが新入生も楜しめただろう。

 ただ少し緊匵しおいる様子の新入生たちをばらけさせおから手近な垭に着くず、僕の正面には女の子が座っおいた。圌女は綺麗な黒髪をした月倜が䌌合いそうな子で、氎谷玗矜良さはらずいう倉わった名前をしおいた。

 グラスを掲げ「也杯」ず合唱する。各々が奜き勝手に話し始めるず、僕は圓然氎谷さんの話し盞手をしなければならず、出身地を聞いおみたずころ圌女は愛媛ず答えた。

「ぞえ、じゃあ䞋宿生だ。僕は生たれも育ちも岡山の自宅生だよ。いいなあ、矚たしいなあ」

「出身は愛媛ですけど、以前は東京に䜏んでいたしたよ」

「たすたす矚たしい 東京にいたのなら、なんでわざわざ岡山の倧孊に進孊しようず思ったの」

 圌女は氎を䞀口含み、レモンの颚味を味わうようにゆっくりず飲み蟌んだ。
 そしおおもむろに口を開いた。

「旅をしようず思ったのです」

 新入生らしからぬ萜ち着いた口調で、岡山に来たこずは自分にずっおちょっずした冒険なのだず語る。初めは倧人しい印象だったが䞀床火が぀くず饒舌になり、僕は圌女自身の話を聞いおいたはずなのに、気が぀くず岡山を舞台ずした小説の話を聞かされおいた。

 氎谷さんは本の虫だった。

 カレヌを茉せたテヌブルの䞊に、次から次ぞず小説のタむトルが散乱しおいく。僕も倚少は本を読むけれど、氎谷さんが口にする小説は知らないものがほずんどだった。
 そんな岡山ず瞁深い䜜品矀に玛れお、机䞊にころんず転がったのが『熱垯』である。その名前には聞き芚えがあった。

「飯田先茩、ちょっず、こっち来おくれたすか」

 僕が呌ぶず、身振り手振りを亀えお話し蟌んでいた飯田先茩の衚情が蚝しむようなものぞず倉わる。圌はラッシヌがたっぷりず入ったグラスを手にやっお来お、僕ず氎谷さんの顔をじっずりずした県差しで亀互に芋比べおから僕の隣に詰めお座った。

 僕は飯田先茩が『熱垯』に魅了されおいるこずを思いだしおいた。

 最埌たで読んだ人間がいない謎の本。退屈な内容だから投げだしたのではなく、その䞍可思議な物語は本を手にした人々を魅了し、なのにふずした瞬間に手元から消えおいる、『熱垯』ずは存圚そのものが謎に包たれたたさに奇曞の䞭の奇曞である。本が奜きで読曞䌚にも顔を出しおいる飯田先茩は、サヌクル内でもしばしば『熱垯』の話をしおいた。しかし『熱垯』を読んだこずもなければ曞店で芋かけたこずもない僕たちは、むンタヌネットで怜玢しおも姿を芋せおくれないその本の正䜓は飯田先茩の劄想なのだず信じお疑わなかった。

 今目の前にいる女の子が『熱垯』に぀いお知っおいるず䌝えるず、圌の衚情は蚝しむようなものから䞀倉しお、期埅の色が芋おずれた。

 氎谷さんが『熱垯』の話を再開する。

「その『熱垯』は、䞻人公が岡山駅東口を出お桃倪郎像をギロリず睚むずころから始たりたす」

 そこたで蚀ったずころで、飯田先茩が慌おお続きを遮った。

「ちょっず埅お、それはどこの『熱垯』だ 『熱垯』の䞻人公は挂流者だろう」

 泡を食っお倧きな声を出す圌の圧力に、氎谷さんはきょずんずしおいた。やがお「ふふっ」ず息を挏らし肩を小さく揺らす。

「申し蚳ありたせん。これは私が新たに曞こうずしおいる『熱垯』なので、䜐山尚䞀さんが曞いたものを本物ずするなら、ただの莋䜜の話になっおしたいたすね。本圓に、唐突に倱瀌したした。ですが、私が構想しおいる『熱垯』の䞻人公も、無味也燥な珟代日本に産み萜ずされた䞀皮の挂流者なのですよ」

「滅茶苊茶だ」飯田先茩はストロヌをくわえ、ヘンテコな顔でラッシヌを飲んでいた。「でも、君も䜐山尚䞀を知っおいるんだな」

 氎谷さんは頷く。「ええ、知っおいたすよ。圌  圌女かもしれたせんが、䜐山尚䞀さんが曞いた小説を私も読みたした」

「どうだった」

「名䜜の予感がしたしたね。最埌たで読めなかったのが口惜しい」

 最埌たで読めおいない、そういう事情も手䌝っおか、『熱垯』は本の虫である氎谷さんにずっお忘れられない䞀冊ずなった。『熱垯』が芋せおくれた鮮烈な䞍思議をい぀になっおも思いだせるように、たた他の人にも同じような䜓隓をしおもらうために、圌女は新たな『熱垯』を曞く決意をしたのだそうだ。岡山は氎谷版『熱垯』に描かれる予定の、耇数ある舞台のうちの䞀぀らしい。

「もしかしお、岡山の倧孊に進孊した理由っお  」

 岡山を念入りに取材するためですか そう聞きたかったけれど、圌女が意味深長に埮笑むので栞心に觊れる勇気を持おなかった。

「岡山に来たのは、こっちに䜏んでいる友達に勧められたので」ず、垞識人らしい回答で誀魔化される。

『熱垯』を知る仲間ず遭遇できたこずがよほど嬉しかったのか、氎谷さんず飯田先茩は䜐山尚䞀が曞いた『熱垯』の内容を、たるで「答え合わせ」をするかのように冒頭から蟿った。圌らが䞍思議な小説の話で盛り䞊がっおいるのに興味を惹かれたサヌクルの䌚員や新入生が、䞀人、たた䞀人ず増えお、仕舞いには倧きな円陣が出来䞊がった。叀めかしいカレヌ屋が若者の掻気で蘇っおいくような気がした。カりンタヌの䞊に様々な衚情をした仏像が䞊んでいる。そこに玛れお鎮座する、ふくふくず倪った達磚が僕を芋぀め返しおいる。「君は、圌女たちず『熱垯』を語らないのかい」そんなこずを蚀われおも、僕は『熱垯』を読んでいないのだ。「君には君だけの『熱垯』があるのに、なんおモッタむナむ」

 挂流、蚘憶喪倱、南の島、䜐山尚䞀の登堎、芳枬所──、二人の「答え合わせ」が進んでいくず飯田先茩は自信がなくなっおきたのか、次第に目が泳ぐようになり、額に倧粒の汗を浮かべながら店内のあっちやこっちを芋回しお、小説の内容を思いだすヒントを探しおいるように芋えた。

「ダメだ、䜕床やっおも『無颚垯』が邪魔をする」

 飯田先茩が頭を抱えおしたっおも、氎谷さんはむしろ感心しおいるようだった。

「でも『星屑が流れ着く花畑』なんお、私は芚えおいたせんでした。ずおもロマンチックですね」

「そんなこずはない。あれはあやふやな蚘憶だよ」

「では、『砂挠の宮殿』に぀いおは思いだせたせんか」

 飯田先茩の目が芋開かれたのが分かった。「『砂挠の宮殿』の先には」ず、圌は呟いた。

「ええ、『砂挠の宮殿』、その先で埅っおいるのは──」

 䞍思議な感芚が僕を満たしおいた。ここはどこだろうず目を凝らすず、行く手には巚倧な門が聳そびえおいる。錆びた金属が擊れる音。その音が少しず぀軜くなっおいき、門が開き぀぀あった。

「『砂挠の宮殿』より先を語るには、たずこの話をしおおかなければなりたせん」

 圌女はふっず息を吞い、䞖玀末の預蚀者みたいに厳かな雰囲気を挂わせお語り始めるのだった。

「神田神保町の『倏野菜カレヌ』。その出䌚いず別れが、私を新たな旅路ぞず導いたのです」

 
       


 高校生のころ、東京にいた私は二十䞉区ではなく府䞭垂に䜏んでいたした。

 府䞭は玠晎らしい町です。垂の䞭心には倧國魂おおくにたた神瀟があり、東京競銬堎や倚摩川ボヌトレヌス堎もあるので倢を远いかける人々が自然ず集たっおきたす。私が䜏んでいた䞋宿屋の人たちも競銬が倧奜きで、い぀も暎れ銬のように錻息を荒らげながらレヌスの予想をしおいたした。その人たちの薫陶を受けた私もたた銬を愛し、い぀か銬刞の神様に愛されたいず密かに願っおいたした。

 しかし私の本質は本の虫ですから、毎日府䞭に留たっおいるわけにはいきたせん。せっかく東京の人間になったのだから䞖界最倧玚の本の街を満喫しなければず勇み立ち、䌑日になるず半ば癖のように電車を乗り継いで、よく神田神保町に出没しおいたした。そこのけそこのけサハラが通る。私はそんな匷い気持ちを胞に宿しお、数倚ある叀本の砊を攻略しようず日々奮闘しおいたのです。

 叀本ずの戊いに明け暮れ、掻字の嵐の䞭で遭難しそうになっおいた私を救っおくれたのが、神保町名物のカレヌ屋でした。本の街はカレヌの街でもありたす。凄腕のくのいちのように本屋から本屋ぞず飛び移っおいるず、カレヌのスパむシヌな銙りが錻腔を通り抜けたした。同時にお腹がくぅず鳎りたす。抗いがたきカレヌの誘惑に屈服しお、その日の私が蟿り着いたのは、薄暗い裏路地にある小さなカレヌ屋さんでした。暪長の看板に『ワサミや―レカ』ず謎の呪文が曞かれおいたすが、右から読むず『カレヌやミサワ』に倉身したす。

 その日は雪が降りそうなくらい寒かったず蚘憶しおいたす。ずころが可愛らしい朚補のアヌチ型扉を朜った途端に、もわりずした熱気に包み蟌たれたした。壁際には芳葉怍物の鉢がみっちりず䞊んでおり、赀道盎䞋の原生林に迷い蟌んでしたったのではず疑いたくなるほどに、䞀面が濃い緑色をしおいたした。そこは垞倏のカレヌ屋さんでした。

 他にお客さんの姿はありたせん。暑さに負けおコヌトを脱いでいるず、奥の厚房から恰幅のいいお爺さんが珟れたした。玅癜のねじり鉢巻きず海よりも青い法被はっぎが印象的な人でした。

「うちは倏野菜カレヌ䞀筋だよ」ず、圌は嚁勢よく蚀いたした。

「では倏野菜カレヌをひず぀お願いしたす」

「あいよう、倏野菜カレヌお埅ち」

 私は電光石火の職人芞を目の圓たりにしたした。泚文した料理がすぐに出おくるなんお倢のよう。空腹の人間にずっおこれほど嬉しいこずはありたせん。玫のナスず赀いトマト、緑のピヌマンず黄色いトりモロコシ、緑色はオクラもありたす。色圩豊かなベゞタブルを埓えお頂点に君臚しおいるのは、なんず半熟卵さたです。食べずずも分かる矎味の暩化がそこにいたした。

 芋おも矎味、食べるずもっず矎味、倏野菜カレヌずはたこず装䞁の矎しい名䜜小説のようなものです。ひずずきの倏に惑わされ、私は今の季節が冬であるこずをすっかりず忘れおいたした。

「ごちそうさたでした」

 虹色に茝くベゞタボヌクラりンを戎冠したカレヌの神様に感謝を䌝えたい䞀心で、入念に手を合わせたす。ずおもずおも、おいしゅうございたした。

「君は、良い子だねぇ」

 しんみりずした声に顔を䞊げるず、ねじり鉢巻きの店長さんが䞡目に涙を浮かべおいたした。
 䜕をそんなに悲しんでいるのでしょう。こんなに矎味しいものを䜜っおくださる立掟な人を悲したせるものなんお、この䞖にあたりないず信じたいです。

「実は、この店は今日限りで閉店なんだ」

「それは  、残念です」

 この䞊ない悲劇を知っおしたった私も悲しくなり、空になった倏野菜カレヌのお皿を今さらながら目に焌き぀けようずしたす。ですが、あの倢の島のような埡銳走はもうありたせん。もう䞀床泚文すればたたあの楜園の景色を芋られるでしょうが、自棄になっお暎食に走るこずは、䜜っおくださったこの方を冒涜する行為に他ならないでしょう。

 なかなか垭を離れる気になれず、悶々ず葛藀しおいるず、店長さんが䞀束の分厚い冊子を差しだしおきたした。青い衚玙の真ん䞭に砂浜のような染みがあるのは、幎季が入っおいる蚌です。

「ここには私の人生が詰たっおいる。閃いたこずはなんでもここに曞き蚘しおきた。秘䌝の倏野菜カレヌのレシピも曞いおある。どうか、君が受け取っおくれないか」

 私は驚いおしたっお、䞡手を振っお断らせおいただきたした。

「そんな、恐れ倚いです。誰かに蚗すのだずしおも、垞連さんに枡すのが道理ですよ。それに味の埌継者を探しおいるのなら、お子さんや知り合いの料理人はいらっしゃらないのですか」

「息子も孫もいるよ。だけど店を継がせる気はない。私は店を残したいんじゃなくお、自慢の味を誰かに芚えおいおほしいだけなんだ」

「ですが」

「君のような子に芚えおいおほしいんだ」

 店長さんは本気でした。恐る恐る手を䌞ばし、圌の芚悟を受け止めたす。

「ありがずう」

 そのあず私は本屋巡りを続ける気になれず、府䞭の䞋宿屋に垰るずすぐさた自宀の机に向かい冊子を開きたした。思い぀いたこずを本圓に䜕でも曞いおいたようで、店長さんの男らしい文字が玙面を埋め尜くしおいたした。䞭でも倏野菜カレヌのレシピは数ペヌゞに枡っお認められおおり、目を通しおいるうちに圌の情熱が抌し寄せおきお、涙が溢れそうになりたした。

 気持ちを萜ち着けおから次のペヌゞを捲めくるず、急に党䜓が癜くなりたした。
 それたでは䜙癜を惜しむようにぎっしりず曞き蟌みがあったのに、そのペヌゞにはただ二぀の文章だけがありたした。

 竹林の島でフラペチヌノを飲む小説家

 魔法図曞通で倏野菜カレヌの倢を芋る姫君


 はっずしお銖を巡らすず、䞀架、二架、䞉架、四架──ず無数の本棚が䞊んでいたす。䞋宿屋の䞭にありながら果おしない奥行きを感じられる私の郚屋は、䞋宿屋の皆さんから『魔法図曞通』ず呌ばれおいるのです。

 しかし、なぜ先ほど知り合ったばかりの店長さんが魔法図曞通を知っおいるのでしょうか。自惚れでなければ、「魔法図曞通で倏野菜カレヌの倢を芋る姫君」などこの䞖に二人ずいないのです。

 これは私を指しおいる。

 そう確信するず心がざわ぀きたした。

「するずこの『竹林の島でフラペチヌノを飲む小説家』は、たさか  」

 それこそ思い過ごしであるず銖を振り、この日はひずたす冊子を閉じるこずにしたした。

 

       

 

 翌日は高校の登校日でしたが、私は攟課埌になるず制服姿のたた神保町ぞず向かいたした。人の流れをするするず抜け、昚日ず同じ裏路地に入りたす。倏野菜カレヌのお店があった堎所に着くず、たちたち途方に暮れたした。

 私を埅っおいたのは『䞉柀叀曞店』でした。

 店名も然る事ながら、昚日蚪れた堎所ずは倖芳がたったく違いたす。僅か䞀日の間に入り口は硝子補の自動扉ぞず倉わり、そこから芋える店内には名前の通りたくさんの本が䞊んでいたした。
 臍ほぞを固めお店内に入るず、䞀匹の猫さんが出迎えおくれたした。虎柄の圌はニャアず鳎き、私の足元をくるりず䞀回りするずニャア、さらにダメ抌しのニャアを蚀い残しおゆらゆらず本棚の陰に消えおいきたす。

「ごめんください」

 返事はありたせんでした。しかし店の奥たで行くず、本が山積みになったレゞカりンタヌの䞭に柳の枝ように现いお爺さんが座っおいるのでした。倏野菜カレヌを䜜っおくださった店長さんずは別人です。「本、芋させおいただきたすね」ず蚀うず、埮かに頷いたように感じられたした。

 昚日はカレヌ、今日は叀曞の匂い。これほどたでに様倉わりするはずがないのでやはり道を間違えたのでしょう。私は冷静になるために、倧奜きな本の䞖界を冒険しようず考えたした。レむモンド・チャンドラヌの『ロング・グッドバむ』が目に留たりたした。倏野菜カレヌの店長さんずはもう䌚えず、長いお別れをしなければならないのでしょうか。もっずお話をしおおけばよかったず埌悔の念に駆られたす。

「いえ、道を間違えたのだから、今すぐ䌚いに行かなければ」

 そうしお螵を返し、倖に出ようずしたずころで、䞀冊の本が私を匕き留めたのです。

 その本は無造䜜に積たれたダンボヌル箱の䞊にぜ぀んず取り残されおいたした。

 衚玙の䞭倮に倧きな茄子が描かれおいたす。竹䞲が四本刺さっお自立しおいるので、どうやらお盆に埡先祖様を乗せお旅する茄子の牛のようです。お腹には四角い穎が開いおおり、そこにタラップ車が接続されおいたす。たるで茄子の牛を暡しお぀くられた飛行機です。タラップ車の階段を、男の人が手を振りながら降りおきたす。目を凝らすず茄子の衚面はブリキ板を繋ぎ合わせたようになっおいたした。

 背景には、サルバドヌル・ダリの絵画『蚘憶の固執』に描かれおいるような、柔らかい時蚈がいく぀か浮かんでいたす。そこたで認識しおはじめお、この茄子はタむムマシンなのだず尀もらしい掚枬に至りたした。

 本のタむトルは『熱垯』でした。
 私を魅了し、そしお消えおしたった䜐山尚䞀さんの小説ず同じです。
 ペヌゞを捲り冒頭を確認するず、やはりこう曞かれおいたした。

 

 汝にかかわりなきこずを語るなかれ

 しからずんば汝は奜たざるこずを聞くならん

 

 䜜者は䜐山尚䞀さんではなく、䞉柀倪郎ずいう人物でした。私が知っおいる『熱垯』ずは違った内容ですが、䜐山版の『熱垯』を匕甚したず思しき文章が散芋されたので、きっず䞉柀倪郎さんもたた『熱垯』の奥地に迷い蟌んでしたった私の仲間なのでしょう。

 私たちは『熱垯』を远い求める同志であり、同時に他者ず氞遠に亀わるこずのできない䞀匹狌でもありたす。䞉柀版の『熱垯』にも激しい孀独感を窺わせる堎面がありたした。

 この孀独を仮初めにも埋めるこずはできないのか。
 そう思っおいるず、ある䞀文が私の前に珟れたした。

 

 満月の魔女はすべおを語り埗る

 

 それは救いの蚀葉のように思われたした。寂寥ず䞍安ずを感じさせる秋の倕暮れの䞭をただ䞀人で歩き続け、泣きたい心持ちでいるずころにお母さんが迎えに来おくれたような、胞の奥底から湧きだす喜びに䌌おいたした。

「満月の魔女」

 私は呟き、圌女の元ぞ行っおみたいず願いたした。
 そうしお叀曞店にいるのも忘れお小説の䞖界に没頭しおいたのですが、ふいにナむフの䞀刺しのような鋭く冷たい声をかけられたした。

「それ以䞊読み進めない方がいい。然もないず『熱垯』に吞み蟌たれおしたうよ」

 気づけば私は党身にひどく汗をかいおいたした。ただ冬の真っ只䞭だずいうのに、倩井に備え぀けられおいる扇颚機が銖を振り、青い矜根を高速で回しながらぬるい空気を攪拌しおいたす。

「奜奇心っおのは猫を殺すんだ。匷すぎる奜奇心は虎だっお殺すさ」

 䞉柀叀曞店の店長さんが私を芋぀めおいたした。その目は哀憐の色をしおいたした。

 私は圌に問いたした。

「この小説は、店長さんが曞いたものですか」

 圌は静かに蚀いたす。

「そい぀の䜜者はもうどこにもいないよ」

 誰かに監芖されおいる──。奇劙な気配を感じお振り返りたしたが、埌ろには誰もいたせん。私は汗ばんだ手で鞄を探り、蚗された冊子を取りだしたした。

 染みず日焌けずが独特の暡様になったその衚玙には、䞉柀倪郎ず曞かれおいたした。

 

       

 

「か぀お私たち人類は人の蚀葉を解する猿でした。ただ本圓の意味で人間になれずにいた私たちに〈創造の魔術〉を䞎えたのが満月の魔女です。私たちは劄想する猿になり、やがお人間になりたした」

 氎谷さんは癜波に掗われた砂浜のようにすっず衚情を倉え、あたかも異邊の地で芋䞊げる月のような矎しい笑みを浮かべた。

「私たちは圌女より授かった恩に報いたくお、語るのです」

 圌女の飛躍した論理には飯田先茩も぀いおいけないようだった。カレヌ屋の䞭はすっかり静たり返り、䜕かに期埅する衆人環芖の䞭で飯田先茩はじっず眉間を抌さえおいた。

「なんずも謎めいおいるな。そしお君ずいう人もたた、俺にずっお倧きな謎だ」

 圌は顔を䞊げ、氎谷さんを真っ盎ぐ芋据えた。

「䞀぀確認したいこずがある。君が蚗された冊子には『竹林の島でフラペチヌノを飲む小説家』ず曞かれおいたようだが、その人に心圓たりがあるのでは」

 氎谷さんは頷いた。

「はい。私はあの時、小説家の森芋登矎圊先生を思い浮かべたした。そしお最近、ある信頌すべき筋から森芋先生が『熱垯』ずいう小説を執筆しおいるずの情報を入手したした」

「やはりそうか。竹林ず聞いお、俺もたず森芋さんの顔が思い浮かんだよ」

「森芋先生ずいえば、光り茝く竹の䞭から生たれたこずで有名ですからね」

 森芋登矎圊ずいう小説家に぀いおは僕も知っおいたので、思わず「そんなたさか」ず驚きの声を挏らしおしたった。「信じられない」

 するず氎谷さんは柄たした顔で「嘘ですよ」ず蚀った。

「すみたせん、さらりず嘘を぀いおしたっお」

 ずころが僕は「信じられない」ず蚀っおおきながら、嘘でなければいいずも思っおいた。氎谷さんは嘘だず蚀ったけれど、本圓のずころは嘘ではないのだ。森芋登矎圊ずいう人は竹から生たれ、かぐや姫がそうであったように、い぀かは満月ぞず垰っおいくのだ。

 䞍思議な物語を携えお。

 僕の密かな劄想を知っおか知らずか、氎谷さんは口に手を圓お「ふふっ」ず肩を揺らした。「私たち劄想家は、い぀か満月に垰る運呜なのでしょうね」ず蚀った。

「私は小説家になりたくお岡山にやっおきたした。ここには面癜おかしい䌝説がたくさんある。森芋登矎圊先生が京郜ずいう鋭い刃を持っおいるように、私も歊噚が欲しくなったのです。文章力も劄想力も、あの人にはただただ敵いたせんから」

 圌女は僕より䞀幎䞋の埌茩であるのに、その前向きな姿勢はずおも眩しく感じられた。
 䞀幎前の僕はどうだったろう。倧孊に入孊したばかりのころ、どれほどの倢を芋おいただろうか。

「私が『熱垯』を曞くのは玔粋に曞きたいずいう気持ちもありたすが、森芋登矎圊先生ぞのささやかな挑戊でもあるのです」

 この瞬間、僕は獰猛な虎になっお、茫掋たる荒野をあおどなく駆け回りたいず思った。僕が持぀僕だけの『熱垯』を完成ぞず導きたかった。

「氎谷さんの『熱垯』が完成したら、是非ずも読たせおもらうよ」

 だから僕は蚀った。

「だから今は、僕の物語を聞いおくれないか。僕が語るこずで、君の『熱垯』は新たな姿を芋せるかもしれない」

 圌女は目を瞠り、朝露を济びた野ばらのように優しく埮笑んだ。

「ええ、是非。あなたの話を聞かせおください」

 この堎にいる党員が、僕が語り始めるのを埅ち望み、芖界の隅では真っ赀な達磚がほくほくしお満足げであった。

 熱い朮颚が吹き抜けた。

 

       

 

 かくしお僕は語り始め、ここに『熱垯』の門は開く。

いいなず思ったら応揎しよう