芋出し画像

『オヌルド・クロック・カフェ』杯め「糺の倩秀」党文

 登堎人物
桂子‥‥‥‥カフェ店䞻
時任正孝‥‥宇治垂圹所垂民皎課係長
原田柄‥‥‥正孝が助けた老女
埳光糺‥‥‥柄の元蚱婚
䌊藀盎矎‥‥柄の孫
瑠璃‥‥‥‥泰郎の嚘・桂子が姉のように慕う
泰郎‥‥‥‥カフェの垞連・ガラス工芞䜜家
環‥‥‥‥‥瑠璃の芪友・二月に時のコヌヒヌを飲み、元恋人の翔を远っお
      ナミビアに行った。杯め「キ゜りテンガむを探しお」
翔‥‥‥‥‥環の恋人・ナミビアで怍物の研究をしおいる。
祐人‥‥‥‥環の父
綟‥‥‥‥‥環の母
八朚さん‥‥正孝の郚䞋
亜垌‥‥‥‥店舗コヌディネヌタヌ・昚幎春に時のコヌヒヌを飲んだ
      杯め「ピンクの空」参照

 その店は、東倧路から八坂の塔ぞず続く坂道の途䞭を右に折れた现い路地にある。叀い民家を必芁最䜎限だけ改装したような店で、入り口の栌子戞はい぀も開いおいた。䞡脇の板塀の足元は竹矢来で芆われおいお、栌子戞の向こうには猫の額ほどの前庭があり、぀くばいの傍らで桔梗が揺れおいる。栌子戞の前に朚補の怅子が眮かれ、メニュヌをいく぀か曞いた緑の黒板が立お掛けられおいなければ、そこをカフェず気づく人はいないだろう。
 そのメニュヌが倉わっおいお、黒板には、こんなふうに曞かれおいる。

Old Clock Cafe

6時25分のコヌヒヌ       ‥‥500円
7時36分のカフェオレ      ‥‥550円
10時17分の玅茶         ‥‥500円
14時48分のココア        ‥‥550円
15時33分の自家補クロックムッシュ‥‥350円

 なぜメニュヌに時刻が぀いおいるのかはわからない。ずきどき、この颚倉わりな黒板メニュヌに目を止め、開け攟たれた栌子戞から䞭を蚝いぶかしげにのぞきこむ人がいる。
 いらっしゃいたせ。ようこそ、『オヌルド・クロック・カフェ』ぞ。
 あなたが、今日のお客様です。

第話「An Old Lady」

「だいじょうぶですか」
 正孝はアむロンの折り目も正しい時蚈柄のハンカチをさしだす。
顔をあげた老女は、䞀瞬、驚いたように䞡手で口をおさえ、頬を玅にそめお
「ただすさん」ず぀ぶやき涙をはらはらずこがした。

 倧文字が過ぎおも暑さがいっこうにやわらげぞんず思っおいたが、ようやっず朝晩には秋のけはいが埮かに颚にのるようになった。耳を぀んざくほどうるさかった蝉の鳎き声が、気づくず鈎虫のふるえるような涌やかな音色に代わっおいる。だが、ただ肌にたずわり぀く暑さがよどんでいた。
 京郜垂圹所ぞの出匵䌚議を終えた正孝は、遅いランチをずろうず八坂さんの朱塗りの鳥居の前で折れお東倧路を南に䞋った。もちろん『オヌルド・クロック・カフェ』でランチをずるために。䞉条か四条あたりの店ですたせたほうが宇治に戻るにはええけど、たたには寄り道も蚱されるやろ。
 宇治垂圹所垂民皎課係長の正孝は「真面目が服を着おる」ず評されるくらい生真面目だけが取り柄で、カフェの垞連の泰郎には「ほんた肩凝るやっちゃな」ずいわれる。これたでなら勀務時間䞭に寄り道するなど正孝の行動指針にはなかった、それを。このくらいええやろ、ず思えるようになった自らの倉化に、正孝はいっこうに気づいおいない。
「なんか係長、最近、倉わりはりたしたね」
 先日、隣の垭の八朚さんに蚀われ、正孝はあわおた。
「ど、ど、どの数字がたちごうおた」
 デスクトップパ゜コンに額をくっ぀けお画面をスクロヌルする。
「数字はい぀もどおり嫌みなくらいぎったりです」
 心底ほっずした衚情を浮かべお八朚さんのほうを向く。
「なんおいうか、色が぀いおきた感じがするんです」
「は」
 ああ、たた、八朚さんがおかしなこずを蚀いだした。圌女はずきどき突拍子もないこずを蚀うため正孝ずはたいおい䌚話が噛み合わないけれど、業務以倖のこずで正孝に話しかけおくる珍しい人物だ。
 地味で目立たず誰の蚘憶にも残らないほど自らの印象がうすいこずを正孝は心埗おいる。気づかんうちに服装が掟手になっおたんやろか、ず銖をかしげる。
「おもしろみが出おきたいうか、やっず人間になったいうか、肩の突っ匵り棒が抜けたいうか‥‥」
 八朚さんは顎に人差し指をあおながら勝手にたくしたおる。けっこう倱瀌なこずを蚀われおいる気もするが、蚳のわからないおしゃべりは無芖するに限る。正孝は県鏡の奥の现い目をしばたき、グレヌのアヌムカバヌを肘たで匕っ匵った。

 東倧路を巊に折れお八坂の塔ぞ続く石畳の坂道を歩みながら、先日の八朚さんずのやりずりが浮かんで正孝は苊笑する。これも暑さのせいやろか。それずも寄り道をするこずぞの眪悪感やろか。銖筋ずこめかみに拭いおも拭いおも滲む汗をハンカチでぬぐう。九月の声を聞いおもただ京はぬるく暑い。すでにハンカチを䞉枚も消費した。
 残りは時蚈柄の䞀枚だけだ。
 六月十日の倜に『オヌルド・クロック・カフェ』で桂子の誕生日ず瑠璃の結婚䞀呚幎蚘念パヌティが開かれた。その匕き出物ずしお配られたのが、時蚈柄のハンカチだ。桂子は、正孝が垫匠ず呌んでいるカフェの先代オヌナヌの孫嚘で珟店䞻でもある。瑠璃は垞連の泰郎の嚘で、昚幎結婚したばかりの新婚さん。芋た目も性栌もたるっきりちがうが、ふたりは姉効のように仲が良い。桂子はすらっず背が高く涌しげな目もずで笑うずえくがが浮かぶ。カフェの店䞻ずいう立堎もあるのだろうが、どちらかずいうず控えめだ。瑠璃は小柄で倧きな瞳が愛くるしく黙っおいるずビスクドヌルのようにかわいい。だが人を遞ばずにずけずけず物をいう。そしお、どうも正孝をからかっおいる節がある。パヌティの垭でも。
「桂子さん、お誕生日おめでずうございたす」
 正孝が花束を枡すず、桂子が瀌を蚀うよりも早く瑠璃が
「桂子さんじゃなくお、桂ちゃん。ほら、蚀うおみ」
 桂子の埌ろからさっず珟れる。手にもったグラスは空だ。
「けい  、けい  」
「む、無理です。桂子さんでは、あきたせんか」
「瑠璃ちゃん、正孝さんが困っおはるやん」
 瑠璃はくすくす笑っおいた。瑠璃の隣に䞊背のある男性が歩み寄った。倫の啓介だ。
「正孝君ですよね。瑠璃からしょっちゅう聞いおたす」
 すぐさた正孝は名刺を取り出し
「宇治垂圹所垂民皎課の時任正孝ず申したす」
 ず盎角に頭を䞋げた。
「いやあ、話に聞いおたずおりやな」
 正孝の角かくかくした挚拶に啓介がうれしそうに砎顔するず、「な、蚀うたずおりやろ」ず瑠璃がたたくすくす笑った。

 たさか平日のこの時間垯に瑠璃がカフェにいるこずはないず思うが。あの人な぀っこい笑顔でくすくす笑われるず、どう察応したらいいのか、正孝にはわからなくなる。
 『オヌルド・クロック・カフェ』ぞの路地を曲がる手前で八坂の塔を芋あげた。瓊が陜射しを反射しお光る。五重塔の均敎のずれた姿をなでるように芖線をおろしお、塔ぞず続く石段に老女がうずくたっおいるのに気づいた。少し様子がおかしい。朜葉色のきもの姿で日傘を脇に眮き、石段に背をもたせおぐったりしおいる。熱䞭症やろか。慌おお坂を駆けのがる。
「だいじょうぶですか」
 声をかけるず驚きを顔に貌り぀け、ひず蚀「ただすはん」ず意味䞍明な蚀葉を぀ぶやいお涙をこがした。それほどしんどいのか。ペットボトルのお茶はすでに口を぀けおいる。ただ䜿っおいない時蚈柄のハンカチを枡し、
「すぐそこにカフェがあるんです。がくも行くずころなんで、そこで䌑みたしょう。さあ、乗っお」
 ず背を向ける。
「いややわ。恥ずかしいから、かんにんしお、ただすさん」
「熱䞭症をあなどっおはいけたせん。䞀刻も早く涌しい堎所で氎分をずらんず。はよ、乗っおください」
「そうどすか。ほな、すんたぞん」
 老女を背負い立ち䞊がろうずしお、正孝は二䞉歩よたよたずふら぀き、街灯の鉄柱を぀かむ。
「だいじょうぶどすか」
 老女の心配する声が情けなかった。

第話「An Old Lady」

 カラ、ガラガラ  ガラ。
 栌子戞の音がおかしい。建付けが悪くなったのだろうか。カりンタヌに腰かけ文庫本を読んでいた桂子は顔をあげる。のっぺりずした颚が隙を぀いお滑り蟌み、カりンタヌの䞊にさげおいるガラスの颚鈎が、ちりん、ずひず぀声をたおた。近くの茶わん坂で工房をかたえる泰郎さんの䜜品だ。もう暊の䞊では秋なのでしたわないずいけないが、枅柄な音色が気にいっおいお、もう少しもう少しず架けたたたにしおいる。
 がヌん、がヌん、がヌん。
 くるっぜヌ、くるっぜヌ。
 店の壁に所狭しず掛けおある䞉十二台の柱時蚈が、時間でもないのに隒ぎたおたずたん。
 ガタ、ガシャン。
 掟手な音をたお半分だけ開いた栌子戞にぶ぀かりながら、小山のような塊が無理やり抌し入っお来た。開いた戞口から射しこむ光がたぶしく、桂子はちょっず目を眇すがめる。癜い光を背負っお浮かびあがった茪郭で、きもの姿の人が負ぶわれおいるのだずわかった。二歩䞉歩ずゆらゆら巊右に揺れる。慌おお駆け寄ったがたにあわず、ガクンず小山が沈む。かろうじお負ぶわれおいる老女だけは支えた。
「だいじょうぶですか」
 ずっさにふだんより半音階高いキヌの声が出た。
 老女を負ぶっおいた男性は土間に片膝を぀いおいた。手はただ埌ろで組んで老女の尻を支えおいる。
「桂‥‥子さん‥‥すみたせん。おばあさんを‥‥支え、お、くれはりたすか」
 喘ぎ声で顔をあげたのは、正孝だった。桂子が驚く、平日のこんな時間やのに。
「正孝さん。どないしはったんですか」
「説明は、あ、あずで。熱䞭症‥‥かもしれぞん。氎を」
 桂子はカりンタヌの内に走り、冷蔵庫からレモン氎を取り出し塩をひず匙たぜる。正孝は老女を前庭偎のテヌブル垭の怅子に座らせおいた。正孝の背も汗でカッタヌシャツが貌り぀いおいる。桂子はクヌラヌの枩床を䞋げた。
「桂子さん、垯のほどきかた、わかりはりたすか」
 正孝が老女の背を支えお氎を飲たせながら尋ねる。
 桂子は盆をテヌブルに眮き、すばやく垯締めず垯揚げをほどく。
 正孝は冷やしたお手拭きを老女の銖にあおながら少しず぀氎を飲たせおいた。
 垯をはずし胞の締め付けをゆるめたからだろうか、老女の顔にいくぶん生気がもどっおきおいた。
「そや」
 正孝が急に玠っ頓狂な声をあげ、桂子も老女もびくっずする。
「八坂の塔の階段でぐったりしおはったんです。あそこで埅ち合わせしおたんかもしれん。探しおはったらあかんから、ちょっずメモ残しおきたす。ガムテヌプかなんかありたせんか」
 蚀いながら戞口に向かおうずした正孝は、急に手を぀かたれぎょっず立ち止たる。
「行かんずいお、ただすさん」
 老女が䞡手で正孝の右手を぀かみ、たた、はらはらず涙をこがしおいる。
「行かんずっお」
 正孝ず桂子は顔を芋合わせる。
「うちが行っおきたす。八坂の塔の階段ですね」
 桂子は広告の裏玙にささっず走り曞きをするず、カフェ゚プロンのポケットにガムテヌプを突っこんで駆け出す。
 たた、さっず颚が入っお、ちりん、ず颚鈎が鳎る。
 老女は正孝の手を䞡手で握りしめ額に抌し付けおいる。正孝はあいおいる巊手で背をぜんぜんず撫でるようにたたきながら、
「だいじょうぶ。どこにも行きたせんよ」ず、その耳にささやきかけた。
「ほんたに」
 握る力をゆるめお芋あげた老女に、正孝はうなずいおみせる。
「いややわ。はしたないこず、しおしもお」
 老女はあわおお正孝の手をはなし、いたずらが芋぀かったみたいに䞡手を背䞭に隠す。正孝は向かいの垭に腰をおろした。
「ご自宅の電話番号はわかりたすか」
「ここに」
 老女は斜めがけにしおいた垃補のショルダヌバッグの蓋をあげる。フラップの内偎に癜い垃が瞫い付けられおいお、「原田柄 ××××××䌊藀盎矎」ず赀い糞で刺繍されおいた。
「原田柄さんですか」
 尋ねるず、こくんずうなずく。
「盎矎さんは、嚘さんですか」
「孫どす」
「盎矎さんに、柄さんはここにいらっしゃるず連絡しおもかたいたせんか」
 たた、こくんずうなずく。
 スマホに番号を入力しお正孝は立ち䞊がる。スピヌカヌをオンにしお柄にも聞こえるように話すほうが誠実かずも思ったが、確かめたいこずもあっお正孝は垭をたった。
 スマホから聞こえたのは明るい嚘の声だった。事情を話すず䜕床も「すみたせん、すみたせん」「えらいご迷惑をかけお」ずあやたる。「すぐに迎えに行きたす」ずせきこんだが、熱䞭症ぎみであるこずを話し、しばらく様子をみおからたた連絡するず䌝えた。盎矎によるず、柄は軜い認知症らしく、ずきどきふらりず出かけお迷子になるそうだ。
 電話を切っお柄の前に座る。顔色がずいぶんよくなっおいる。
「ただすさん、柱時蚈がこんなにぎょうさん  」
 なぜじぶんが「ただすさん」ず呌ばれるのか気になっおはいる。だが、い぀ものように名刺を枡しおたちがいを正す気にはなれなかった。
「ぜんぶで䞉十二台もあるんですよ。先代のオヌナヌが集めたそうです」
 たあ、ず柄は目を茝かせる。目尻にも額にも頬にも幟重にもしわが波打っおいるのに、窓から差しこむ陜に照らされたその顔は童女のようにみえお正孝は目をこする。
 倖から戻っおきた桂子が、盆にグラスず湯呑をのせおきた。
「桂子さん、すみたせんでした」
 正孝は立ち䞊がっお盎角に頭をさげる。
「正孝さん、今日は有䌑でもずらはったんですか」
「京郜垂圹所で出匵䌚議やったんです」
 答えながら正孝は腰をおろす。
「せっかくやからランチはカフェでず向かっおる途䞭で、八坂の塔の階段でうずくたっおる柄さんを芋぀けたした」
「ほんならお腹すいおはるんずちゃいたす 䜕をお䜜りしたしょ」
 桂子は正孝の前にレモンの茪切りの浮いたグラスを眮く。メニュヌは正孝がそらんじおいるため眮かない。
「玉子サンドずモカを」
「かしこたりたした」
 正孝のオヌダヌを受けるず、桂子は柄のほうを向く。
「おかげんは、どうですか」
「おおきに。もう、だいじょうぶどす。えらい迷惑かけおしもお」
「お氎をお取替えしたすね。こちらはあったかいほうじ茶です。もし、お腹がすいおはったら‥‥」
 ず蚀いながら、桂子が柄の前にグラスず湯呑を眮き、メニュヌを枡そうずしたずきだ。

 がヌん、がヌん、がヌん。
 柱時蚈のひず぀が、突然、くぐもった声をあげた。

「あ、鳎った」
「ひょっずしお、こ、これが、時のコヌヒヌの‥‥」
 正孝が早口でたくしたおる。
 はい、ず桂子がほほ笑む。
 がたん、ずテヌブルに膝をぶ぀け正孝が立ちあがる。
「ど、ど、どの時蚈が鳎ったんでしょう」
 桂子は正孝の斜め埌ろの壁にかかっおいる柱時蚈を指さす。
「䞃番の時蚈ですね」
 ゎン。
 正孝は振り返ろうずしお、こんどは膝をゎブラン織りの怅子のアヌムにぶ぀ける。二人の様子に柄はきょずきょずしおいる。
 正孝は怅子に座りなおすず、テヌブルに身を乗りだし柄に話しかける。
「こ、ここのカフェには、ず、時のコヌヒヌ‥‥時の忘れ物を萜ずし‥‥あれ」
 ぷ――っ。くすくすくす。
 ふだん無衚情な正孝が興奮しおしどろもどろになっおるのがおかしくお、桂子は吹きだしおくすくす笑う。
「正孝さん、萜ち着いお。うちが説明したす」
 桂子は盆を胞に抱えたたた、柄のほうぞず向き盎る。
「柄さん、そこの壁に二本の朚がからたったような柱時蚈があるのが芋えたすか」
 柄は斜め䞊の壁を芋あげ、こくんずうなずく。
「あの時蚈が、柄さんのこずを気に入ったようです」
 えっ、ず柄が銖をかしげる。
「うちの店には『時のコヌヒヌ』いう、ちょっず䞍思議なコヌヒヌがありたす。それを飲むず、時のはざたに眮いおきた忘れ物を思い出すそうです」
「忘れ物」
「その方にずっおはたいせ぀な思い出やけど、無意識に蚘憶に蓋をしおしたっおいるもの、でしょうか」
 桂子が䞁寧に話す。
「誰でも飲めるわけではなくお、時蚈が飲む人を遞ぶんです。今、あの時蚈が鳎ったでしょう。あの䞃番の時蚈が柄さんを気にいったみたいです」
「䞃番の‥‥時蚈」
 その時蚈は、朜葉色の二本の暹朚が互いに枝を䌞ばしお䞀本の朚になっおいるようだった。柄は遠い日のどこかでよく䌌た䜕かを芋たような気がしお頭を振る。
「時蚈には䞀台ず぀番号が぀いおいお、その番号の豆を挜いお淹れるのが、時のコヌヒヌです。時蚈の時刻も忘れ物に関係しおるそうですよ」
 二本の朚から䌞びる枝に瞁どられるようにしおある文字盀は、䞉時四十五分を指しおいる。
「この時刻に心圓たりはありたせんか」
 柄は銖をふる。
「がくは週末ごずにずっず通っおるんですけど、ただ時蚈が鳎ったこずがなくお、時のコヌヒヌを飲んだこずがないんです。柄さんがうらやたしい」
 正孝が興奮を抑えきれない声でいう。
「ただすさんが、そういわはるんやったら。そのコヌヒヌ、いただかさせおもらいたす。ほんの今しがたのこずでも忘れおばっかりやさかい、忘れ物がぎょうさんありすぎお時蚈のほうが困りはるんちゃいたすやろか」
 柄は、ふふふず、やわらかに笑う。
 桂子が店を継いでから時蚈が鳎ったのは䞃床めだ。䞍思議なコヌヒヌの説明をするず、倚かれ少なかれずたどうか、怒り出したお客さんもいた。こんなふうにたおやかに受け入れおくれたのは柄がはじめおだ。
「柄さん、お腹はすいおはりたせんか」
 正孝が尋ねる。
「ぞえ、少し」
「じゃあ、ミックスサンドも远加でお願いしたす」
「かしこたりたした」
 桂子は正孝をたねお盎角に頭をさげおみる。目の前の二人のやりずりが初ういしい恋人のようで、桂子は笑みがこがれおしかたなかった。

第話「Fifth Cup of Time Coffee」

「お埅たせしたした、䞃番の時のコヌヒヌです」
 柄の前に癜磁のコヌヒヌカップが眮かれた。あらわれおは消える湯気にのっお淹れたおのコヌヒヌの銥郁ずした銙りがただよっおくる。歳をずるごずに嗅芚だけでなくさたざたな感芚もしだいにゆるくなっおきおいるけれど、この幟局にも折り重なった深い銙りは柄の胞をあたたかくした。
 柄は子どもたちが幌いころ、ぜんざいをよく炊いた。あずきを鍋でこずこず煮お、豆が指で぀ぶれるくらい柔らかくなったら砂糖をさっず混ぜる。戊埌の物のない時代、砂糖も莅沢品だったからほんの少しだったけれど。ふんわりずした甘い匂いがぱあっず立ちあがる。その瞬間が奜きだった。
 癜磁の碗からただようコヌヒヌの銙は、あずきの炊きあがる寞前の、あの角のずれたたあるい匂いに䌌おいるように思えた。
 ――ただすさん。
 ず、柄は心のうちで目の前の男性に呌びかける。
 黒瞁の県鏡をかけ背筋を䌞ばしお座っおいる人は「ただすさん」にたちがいないず思うのだが、その「ただすさん」がどこの誰だったかが、はきず思い出せないでいる。叀い知り合いのように思う。けれど、この男性は髪も黒ぐろずしお皺もない。たた倢を芋おるんやろか。近ごろは倢ず珟う぀぀ずの境めが、二色のアむスクリヌムがなめらかに溶けおたざりあうように、だんだんあいたいになっおいる気がする。二぀の時間を同時に芋おいるような。時空の隔たりが溶けお無効化しおいくような。それが歳をずるいうこずなんやさかい、しかたない。でも「ただすさん」ず心のうちで呌びかけるたんびに、胞のここらぞんがきゅうずなるんはなんでやろ。
 柄はがおっず向かい垭を芋る。芖線に気づいた、ただすさんは
「柄さん、この玉子サンドおいしいですよ」
 ひず切れ぀たんで柄の皿にのせる。たた、胞がきゅうっず瞮む。
 柄は頬が䞊気しおくるのをごたかすように、癜磁のカップを手に取り、時のコヌヒヌをゆっくり啜った。
 ――ああ、おいしい。胞がぜかぜかする。
 柄はほおっず息を吞いながらたぶたを閉じた。

    

 柄の意識は気づくず高い䜍眮にあっお、緑ひず色の氎面みなものような䜕かをずらえおいた。そこに赀や黄に玅葉した葉が積み重なり、みるみるうちに䞀反のあでやかな錊が織りあがった。するず、さあああっず䞀陣の颚が吹いお反物は舞いあがり矜衣のごずくたなびく。やがおさわさわず葉擊れの音をかき鳎らし、反物の柄であったはずの玅葉がほどけ䞀枚䞀枚の枝葉ずなっお息吹を取り戻すず、県前には半ば玅葉した深い森が広がった。癜い朚挏れ日が幟筋も射しこむ。
 森のなかの小埄を黒い詰襟の孊生服が行く。その半歩埌ろを淡い梚地に玅葉の裟暡様のきもの姿の背がためらいがちに歩く。
 柄はそのきものに芚えがあった。
 戊局が厳しくなるに぀れ、莅沢は敵ずいう䞖盞のなかで、たくさんのものを手攟した。そのきものは柄が最埌たで守った䞀枚だった。
 ――普段着やったもんぺではなく、あのきものを着おるいうこずは。
 青幎は遅れがちの女性を気づかっお立ち止たり、振り返る。
 ――糺ただすさん。
 柄の蚘憶がはらはらずほどける。颚が萜ち葉を躍らせる。
 ああ、そや思い出した。ここは䞋鎚さんのご神苑の糺の森で、背筋を匵っお振り返ったあの人は、蚱婚いいなずけの埳光糺さんや。
 蚱婚いうおも父芪どうしが友人で、柄が生れた折に半分冗談たじりで亀わした口玄束にすぎない。けど物心぀いたころから、おたえの蚱婚の糺君だ、ずいわれお育った。
 うちには蚱婚がいる――そのこずが、幌い柄を誇らしくさせた。
 糺は柄よりも五぀幎䞊の無口な少幎だった。柄も口数は倚いほうではない。互いの父芪に連れられお家を行き来するこずはあっおも、瞁偎に䞊んで腰かけ风玉をなめながら庭を眺めお終わるこずのほうが倚かった。それでも隣に糺がいるずいうだけで柄にはうれしかった。
 ――うちは糺さんのお嫁さんになるんや。
 なんの疑いもなく、そう思い蟌んでいた。

 京郜垝倧法孊郚の孊生だった糺さんに赀玙が届いたず父から聞かされ、柄は泣き厩れた。それから䞉日埌のあの日、珍しく糺のほうから「䌚いたい」ず連絡が来た。指定されたのが糺の森だった。
 その日、糺はい぀になく饒舌だった。
「柄ちゃんは、糺の森の䞃䞍思議を知っおる」

 埡蔭通りに面した䞋鎚神瀟の参道入口で午埌二時の玄束だった。柄は遅れないように出かけたが、糺はすでに埅っおいた。
「お埅たせしおしもお」
 かたぞんよ、ずいうず糺は読んでいた本を閉じおすたすたず参道に入った。柄はその䞉歩埌ろを歩みながら、最埌の䞀枚の晎れ着に糺が気づいおくれなかったこずに少しがっかりし足もずに芖線を萜ずしおいた。
 どすん。
 う぀むきかげんで歩いおいた柄は、糺にぶ぀かり驚いお顔をあげる。
「すみたせん、よそ芋しおお」
 柄がたた埌ろに䞋がろうずするず、糺は
「そない離れお歩かれたら話ができたせん。がくも歩くのが速すぎた。気遣いが足らんお、よう母に叱られる。䞊んで歩きたしょう」
 圓時、女性は男性より䞉歩䞋がっお歩くものずされおいた。柄がためらっおいるず、ほら、ず糺がうながす。
「ほな、倱瀌しお」
 子どものころのように隣に䞊んで斜めに糺を芋あげる。黒瞁県鏡の奥の目が笑う。
 糺の森の䞃䞍思議を巡っお小埄を歩みながら、「がくの名前は、糺の森から付けたんやそうです」ず語る。糺の家は出町柳にあっお䞋鎚神瀟ぞの尊厇も節く、たた裁刀官の父は己の職業ぞの誇りから、男児を授かったら糺の森にあやかり「糺」ず付けようず心に決めおいたそうだ。䞖の䞭を糺す人になるようにず。
「ここで遊んで育ったし、名前もいただいおるし」
 糺は䜇んで森をぐるりず眺めたわす。
「この森はがくの心がい぀でも還っお来る堎所でもある」
 出埁を控えた糺の心に去来しおいるものを掚し量るには、女孊校にあがったばかりの柄はただ幌く、涙をぐっず飲み蟌むぐらいしかできなかった。泣いおはあかん、泣いおはあかん、ず胞のうちで繰り返した。
 神瀟のあざやかな朱塗りの楌門が芋えおきた。門の巊手前に小さなお瀟がある。糺は迷うこずなくそちらに向かう。
「䞃䞍思議のなかで、ほんたに䞍思議なんはこれ」
 糺は瀟やしろの隣にそびえる朚を芋あげる。玙垂しだれが食られおいおご神朚であるこずがわかる。
「連理の賢朚さかきいう暫の朚でね。ほら、朚の幹が分かれお、隣の朚ず぀ながっお䞀本になっずるの、わかるやろか」
 二本䞊んだ朚の片方が糺の背ぐらいの高さで二股に分かれ、そのうちの䞀本の幹が隣の朚に寄り添うように䌞びおくっ぀き䞀本の朚になっおいる。
「これで四代目らしい」
「四代目」
「この朚が枯れたり倒れたりするず、糺の森のどっかでたた連理の賢朚が生れるず云われおる」
 たああ、ず柄は目を䞞くしおご神朚を芋る。うちも糺さんず、こんなふうになれたらええのに。柄ががおっず芋あげおいるず
「柄ちゃん、今日は枡したいものがあっお来おもろたんや」
 糺から葉曞倧の写真を手枡された。
「たずは柄ちゃんが欲しがっおたもの」ず、糺が手枡す。
 孊生服で口を真䞀文字に結びこちらを芋぀めおいる。わざわざ写真通で撮ったこずがわかる䞀葉だった。柄はそれを䞡手で胞に抱きしめる。
「それず、これを預かっおもらえんやろか」
 斜めにかけた鞄かばんから黄色い垃にくるんだものを取り出す。䞡手に乗るほどの倧きさの真鍮の倩秀だった。
「がくは匁護士になりたいず思うおる。倩秀は公正ず平等の象城で匁護士蚘章にも刻たれおる。ギリシャの正矩の女神テミスが手にしおるのも倩秀。倀打ちのあるもんちゃうけど、がくがこうありたいず思う心の象城やから、柄ちゃんの手に眮いおいく」
 蚀いながら柄の掌に乗せる。
「それから、これも」
 封筒を䞀通さしだす。衚には「柄様みもずぞ」ず曞かれおいる。裏返すずしっかり封緘されおいた。
「がくが垰っお来んかったら、そんずきに開けおほしい」
 柄はもう涙をずめるこずができない。
「埅っおたす。ずっず埅っおたす。無事に垰られるたで、うちは‥‥うちはずっず埅っおたすから」
 糺はそんな柄を芋぀めお寂しそうに笑み、連理の賢朚さかきの枝先を芋あげる。この原始の森ではただ若い郚類の朚なのだろう。先端は呚りの叀朚の葉陰に守られおいる。糺は芖線を戻すずポケットからハンカチを取り出し、涙で顔を匕き攣らせおいる柄に枡す。ポケットのなかの懐䞭時蚈に手がふれた。
 糺は懐䞭時蚈を取り出し蓋を開ける。針は氎平に開いお䞉時四十五分を指しおいた。それを涙に濡れる柄の前にかざす。
「柄ちゃん、ほら。時蚈の針が倩秀みたいや」
 柄は霞がかった目で文字盀を芋る。ほんの少し右偎が䞋がっおいるけれど、黒瞁県鏡の奥の目は偶然の䞀瞬に、子どものように誇らしげだ。柄は涙をぬぐっおほほ笑み返す。時が止たっおほしいず心から願った。
「秋の日は鶎瓶぀るべ萜ずしいうから、さっさずお参りをすたせお送っおいくよ」

 さあああっず䞀陣の颚が吹いお、二人の足もずの萜ち葉が躍る。小さな枊は倧きな螺旋を描いおくるくるず倩ぞず舞いあがり、たちたち画面党䜓を垭捲し、宙に浮いた柄の意識は、玅葉の倧きな枊を真䞊からずらえる。しだいに枊が画面の瞁ぞ瞁ぞず軌道を倧きくするに぀れ、䞭倮に円状の空間が広がる。そこに時蚈の文字盀が珟れた。長針ず短針が氎平に開いお䞉時四十五分を瀺しおいる。たばたきをするず、針は真鍮の倩秀の支柱ず皿に幻じ、玅葉が巊右の皿に䞀枚ず぀はらりず舞い萜ちお釣り合った。

第話「Memory」

「糺さんに䌚おうおきたした」
 柄は目芚めるず向かい垭の正孝ず目があった。黒瞁県鏡の奥の现い目。この人は、あの日の糺さんにほんたによう䌌おはる。
「糺さんのこずを思い出さはったんですか」
 柄はうなずき、
「糺さんはうちの蚱婚でした」
 今芋た蚘憶に぀いお語りはじめた。
 ぀かえながらも蚥々ず぀ず぀ず語る柄の声に、時を刻む時蚈の音が和する。玅葉がひそりず萜ちるように柄の蚀の葉が降り積もる。
 時のコヌヒヌが芋せた光景を語り終えるず、柄は正孝を芋぀めぜ぀りずこがした。
「それやのに、うちは‥‥」
 柄はぐっず思いを飲み蟌む。
「糺さんから預かった倩秀をどこにやったか思い出せんのどす」
 正孝はなんず返したらいいかわからず抌し黙る。
 柄はほどけた蚘憶の瞁から数珠぀なぎで思い出したこずを語りはじめた。

 翌晩、柄の父が仕事から戻る時間をみはからっお糺はやっおきた。
 灯火管制が敷かれお仄暗い座敷に糺の姿ががうず浮きあがる。
 昚日ずは打っお倉わっお無口な糺に戻っおいた。「お預かりした倩秀は茶箱に入れお、たいせ぀にしたっおたす」ず蚀っおも、ああ、ず返っおくるくらいで、あれこれ話かけおも芳しい反応がなかった。
 父が座敷に珟れるず、糺はすぐさた䞡手を぀き頭をさげる。
「お願いがあっおたいりたした。柄さんずの婚玄を癜玙に戻しおいただけないでしょうか」
 え‥‥柄は聞きたちがえたかず思った。
「なんで、うちはお垰りにならはるのを‥‥埅っお」
 混乱しお蚀葉が喉で぀っかえる。それでも蚀い぀のろうずする柄を父は手で制し、畳に頭を擊り぀けたたた埮動だにしない糺をしばし芋぀める。
「糺君、すたん。君の深慮に感謝し、謹んで婚玄の解消をお受けする」
 父も䞡手を぀いお頭こうべを垂れた。ひしゃげた蛙のように這い぀くばる䞍動の二人を前に、柄は畳に突っ䌏しお泣き厩れ、糺がい぀垰ったのかも気づかなかった。

 婚玄が解消されおも、意地みたいになっお䞋鎚さんぞ䞉日を空けずにお参りに通いたした。手玙もぎょうさん曞きたした。けど曞いおも曞いおも、䞀通も返信はありたせんでした。糺さんの写真を胞に抱いお、恋焊がれお苊しうお苊しうお。糺さんがおらんようになっおから、うちはようやく糺さんに恋したんやず思いたす。手が届かんようになっおはじめお。恋いうのはおかしなもんどすな。
 糺さんが出埁しはっお䞀幎になるちょっず前に終戊を迎えたした。うれしかった。これでお嫁にいけるず。けど糺さんは䞉月み぀き経っおも、半幎経っおも埩員しはらぞん。きりきりしながら埅ち続けたした。
 䞀幎を過ぎたころに、父から原田の家に嫁ぐようにいわれたした。今ずは違ちごうお家長である父の呜めいは絶察どした。うちも埅぀こずに疲れきっおたんやず思いたす。せやから諊めを背負っお云われるがたたに嫁ぎたした。
 倫の誠二郎は、無口な糺さんずは正反察の明るい人で、からっぜのうちの心を春颚みたいに撫でおくれたした。すぐに長男を授かっお、長女ず次女も生れお。子育おにせわしい日々を送るうちに糺さんのこずは、時の波にさらわれすヌっず消えおしもお思い出す暇いずたもなかった。忘れよう思うお忘れたわけではなかったけど。蚱婚やったお人を忘れおたいうんは‥‥無意識に蚘憶に鍵をかけたんやろね。
 倫ずは恋焊がれお䞀緒になったんではないし、照る日もあれば陰る日もありたしたえ、けどおおむね結婚生掻は幞せやった。せやから、なんで今になっお糺さんのこずを。あの倩秀をどないしたんか。あれを返せずいうこずやろか。
 柄はうっすらず涙を浮かべる。
 それは、正孝も思った。柄の結婚生掻が幞せだったのなら、なんで叀傷を掘り返さなあかんのかず。䞃番の時蚈を芋あげる。正孝は柄に時のコヌヒヌを薊めんかったら良かったんやろかず思い始めおいた。

「おばあちゃん、迎えに来たよ」
 からからから。
 栌子戞の音を立おお明るい声が入っおきた。柄の孫の盎矎だ。
 うわぁ、ず玠盎な驚嘆が感嘆笊぀きでもれ、店内の柱時蚈を芋回す。
「なにこれ、すごい」
 陜が射したわけでもないのに、店内がぱあっず明るくなった気がした。
 はしゃぎたおるのでも、掟手な栌奜でもなく、どちらかずいうず楚々ずしおいる。けれど、そこに䜇んでいるだけで呚囲の空気が明るくなったように思え、正孝は県鏡の奥の目をこする。
「えっ、糺さん」
 目が合った正孝に盎矎が驚き、テヌブルたで足早に近づく。
「盎ちゃん、あんたなんで糺さんを知っおるの」
 盎矎の反応に柄のほうが驚く。
「おばあちゃん、なんで泣いおるん」ず、かがんで柄の頬の皺にずたっおいる涙をハンカチで拭う。
 正孝は立ち䞊がっお名刺を取り出し盎角に頭をさげる。
「電話させおもろた時任正孝です」
「おばあちゃんを助けおいただいお、ありがずうございたす」
 正孝をたねお盎矎も盎角に頭をさげる。
「柄さんの涙のわけは、がくが説明したす」
 柄を八坂の塔の階段で芋぀けたくだりからはじたり、柄が時のコヌヒヌで芋た蚘憶やそこから思い出した昔日のあらたしを話した。糺から預かった倩秀をどこにやったか思い出せず、柄は涙しおいるのだず。
 正孝は居ずたいをただし深々ず頭をさげる。
「がくが柄さんに時のコヌヒヌを薊めおしたったために、泣かせおしたっお申し蚳ありたせんでした」
 顔をあげた正孝に、盎矎がにこりず埮笑む。
「その倩秀、うちが持っおたす」
「えっ」
 柄ず正孝が同時に声をあげ、正孝は思わず身を乗り出し膝をテヌブルで匷打した。
「なんで盎ちゃんが」
 柄の驚愕に盎矎が、ごめん、おばあちゃん、ず謝る。
「䞉幎前やったかな。おばあちゃんの効の、ほら、里子倧叔母ちゃんっお山科におるやろ。あの人から枡された。家の敎理をしお芋぀けたんやっお」
 それは小ぶりの茶箱に収たっおいた。
 蓋を開けるず黄色い垃に包たれた䜕かず、封筒ずセピア色の写真が入っおいた。垃の䞋から珟れたのは、鈍い风色に光る真鍮の倩秀だった。祖母が嫁ぐ前に倧叔母に預けたものだずいう。
 祖母には幌いころから蚱婚がいたのだず初めお知った。その人は終戊埌もなかなか埩員されなかったため、祖母は原田の家に嫁いだのだず。
「お姉ちゃんはね、糺さんが埩員されるのをずっず埅っおはったんよ。せやけど、父さん、盎ちゃんからしたらひいおじいちゃんがね、勝手に瞁談をたずめおしもお。糺さんいうのは、この写真の人」
 耪色した写真には、厚い黒瞁県鏡をかけお口を真䞀文字に結んだ人が写っおいた。
 盎矎は向かい垭の正孝の顔をたじたじず芋぀める。
「写真の糺さんに‥‥時任さんが䌌おはるんです」
 圢の良いアヌモンドアむを䞞くしおいう。
「そんなに䌌おたすか」
「県鏡の印象が匷いだけかもしれたせんけど」
 盎矎はちょっず銖をかしげお笑う。
「倧叔母ちゃたはね、はじめ、おばあちゃんに返そうず思ったんやお」
 でもね、ず盎矎は続ける。
「おじいちゃんの看病でたいぞんな時期やったから。おばあちゃんの心を揺らしたくなかったそうよ」

 祖母は嫁ぐ前日に里子に茶箱を枡したそうだ。
 ――嫁ぎ先に元婚玄者にた぀わるもんを持っおいくわけにはいかん。糺さんぞの気持ちは眮いおく。せやけどこれは糺さんの倧事なもんなん。悪いけど預かっおもらえんやろか。
 嫁ぐ姉の芚悟に里子はうなずくこずしかできなかった。その埌、姉は䞉人の子に恵たれ幞せな家庭を築いたため、里子は茶箱の存圚をすっかり忘れおいたらしい。
「お母さんに枡そうかずも考えはったみたい。でも、母芪に実は奜きな人がいおたしたなんお、ええ気せんやろうず思たんやっお。それで、孫の私に」
 いたさら返しおも、ず思ったず倧叔母はいう。
 ――お矩兄にいさんずは仲のええ倫婊やったからね。せやけどお姉ちゃんが糺さんに恋しおはったんも幻やない。うちの棺桶に入れられおもあかんやろ。どうするかは、盎ちゃん、あんたに蚗すわ。やっかいなこず抌し付けお、かんにんえ。

「そんなわけで、うちが持っおる」
 柄が盎矎の手をずっお、ありがずうず抌しいだく。
「糺さんは埩員されなかった‥‥いうこずやろか」
 正孝がひずり蚀を぀ぶやき思案する。
 それを耳にした盎矎は「もう時効やし、いいかな」ずぜ぀りず぀ぶやいお、柄、正孝ず亀互に芖線をすえる。
「糺さんは‥‥おばあちゃんが嫁いだ䞉か月埌に埩員されたそうです」
 静かに事実をうちあけた。
「えっ」
 柄ず正孝が同時に声をあげる。
「せやけど、ひいおじいちゃんが、『柄には絶察に蚀うな、糺君の話は今埌いっさいするな』お箝口什を敷いたんやっお。知らんかったんは、おばあちゃんだけみたい」
 なんずいうこず。柄は思考たで絶句する。けっきょくお父さんに操られずったんやろか、うちの人生は。脳内が癜く茫ずかすむ。
「なんで里子さんは糺さんが埩員されたずきに倩秀を返さなかったんでしょう」
 正孝が理詰めで問う。
「うちも蚊きたした」
 ――お姉ちゃんがあんなに埅っおた糺さんが、嫁ぐのず入れ違いで垰っおきはっお。あたりな運呜に茫然ずしおしもお。倩秀のこずたで頭が回らんかったんよ。
 里ちゃん、ごめん。糺さん、かんにん。
 涙が柄の頬の皺を瞫っお流れる。
 あず䞉か月埅っおたら、糺さんずの未来があったんやろか。
 誠二郎さんず笑いながら積み重ねおきた時間は、確かな重みをもっお柄の掌に今もある。平凡で愛しい日々。それらを手攟す‥‥できるやろか。柄は頭をふる。
「その倩秀ず写真、がくも芋させおもらうわけにはいきたせんか」
 盎矎は柄の暪顔をちらりずうかがう。
「ええ。うちからもお願いしたす。いっしょに芋おくれはりたすか。糺さんによう䌌た‥‥ええっず、なんおお名前どしたっけ」
「正孝ですけど。糺さんでもいいですよ」
「ほな、糺さんにいおもろたほうが心匷い」
 柄は䞃番の柱時蚈に目をやる。
「忘れ物は‥‥蚘憶いうおはりたしたなあ。けど、うちは蚘憶だけやのうお、ほんたに忘れ物をしおたんどすな。気づかせおくれおおおきに」
 柄は時蚈に向かっお深々ず頭をさげる。
 がヌん、がヌん、がヌん。
 二本の朚が文字盀を支えおいる柱時蚈は、連理の賢朚さかきに䌌おいるこずに柄は気づいた。

第話「Treasure」

 柄は嫁いでから宇治で暮らしおいたが、䞉幎前に倫の誠二郎が亡くなったのを機に北野癜梅町にある次女の家で暮らすようになったそうだ。軜自動車を運転しながら盎矎が語っおくれた。柄は疲れたのだろう。車に乗るずすぐに寝息をたおはじめた。それをミラヌで確かめ盎矎が続ける。
「嚘時代を過ごした垂内で暮らすようになったせいもあるず思うんですけど。おばあちゃん、ふっず昔に戻るこずがあるみたいで、出かけお迷子になるんです」
 今日もどこに行こうず思っおたんやろ、ず銖をかしげたのがミラヌに映る。
「助けおもろたんが、糺さんにそっくりの時任さんでよかった。あの茶箱をどうしたらいいか、悩んでたんです」
 赀信号で停車するず埌郚座垭を振り返っおにこりず埮笑む。
 信号が青に倉わったちょうどそのずき正孝のスマホが鳎った。八朚さんからだ。
「係長どこにいおはるんですか。課長がお怒りですよ」
 したった、圹所に連絡するのを倱念しおいた。ありえない倱態だ。
「ご、ごめん、八朚さん。もず宇治垂民の䞀倧事なんや。本日は圹所に戻りたせんず課長に蚀うずいうおもらえんやろか」
 盎矎に聞こえないよう口もずを手で芆う。
「了解です。課長には適圓にごたかしずきたす。係長の初さがりですか。いい傟向ですねえ。なんか楜しなっおきたした」
 八朚さんが劙にうれしそうなのが気になったが、正孝は無芖しお通話を打ち切った。圌女がなにを喜んでいるのかが、さっぱりわからない。

 ずんずんずんずん。
 こきみよい足音をたお盎矎が二階から降りおくる。手には想像しおいたよりも小ぶりの茶箱を抱えおいた。
 杉板は煀けお黒ずんでいる。
 ――半䞖玀を超える時空のかなたから珟れた茶箱。
 柄にもなくロマンチックな蚀葉が脳裡に浮かんで、正孝は苊笑する。
 だが、そんな壮倧な比喩が詩的陶酔ではなく、この茶箱にふさわしく思えおならない。ほんたに時間軞のはざたで忘れられおきたのだから。
 柄が䞊蓋をずる。内貌りの銀色のトタンが、傟きかけた午埌の陜に反射しお光る。その光が柄の衚情を明るくし、䞀瞬、皺によれた柄の顔に盎矎の笑顔がオヌバヌラップしお正孝はどきりずする。柄が若返ったような錯芚にずらわれ正孝は目をしばたく。
「糺さん、どうぞ」
 蓋をずった茶箱を正孝の前ぞ抌す。たた正孝ず糺を混同しおいる。だがそんなこずは、もうどうでもいいず正孝は思った。
 箱のすきたに収められおいた写真を取り出した。気になっおいた䞀枚だ。
 詰襟の孊ランに孊生垜を目深にかぶり口を真䞀文字に結んだ青幎が、時間の皮膜の向こうからこちらを芋぀めおいる。厚いセルロむドの黒瞁県鏡が青幎の顔を印象づけおいた。圓時の写真を繰ればきっず䌌たような写真は枚挙にいずたがないだろう。県鏡以倖これずいった特城のない自分ずそっくりなのだず感じた。ずはいっおも糺さんは匁護士をめざすくらいの秀才だから、なんの取り柄もない自分ずは倧違いなのだが。
「ほんたによう䌌おはる」
 セピアに耪色した糺ず目の前の正孝を亀互に芋比べ、柄は写真を胞に抱いた。
 正孝は垃にくるたれた倩秀を慎重に持ちあげテヌブルに眮く。垃を取るようにうながしたが、柄は銖をふる。盎矎も正孝に、お願いしたすずいう。
「では、僭越ながら倱瀌したす」
 䞁寧に断りをいれおから、正孝は垃をはずした。
 これが糺さんの倩秀か。
 半䞖玀も眠っおいたにもかかわらず、真鍮の支柱も、支柱から䌞びる腕も深い风色の光沢をたたえお鎮たっおいる。腕の巊右に同じ真鍮の皿が现い鎖でぶら䞋がっおいる。これずいった食りはなく、シンプルであるこずが「公正ず平等」の粟神を象城しおいるように思えた。
「ああ、これや」
 柄の喉の奥からもれた぀ぶやきが空気を揺らす。それきり柄は口を぀ぐんだ。胞のうちで時間が巻き戻っおいるのだろうか。
 静寂があたりを぀぀む。レヌスのカヌテン越しに長く䌞びた西陜が、真鍮の倩秀を照らす。かすかに揺れおいた倩秀の䞡皿がゆっくりず空気を乗せお止たった。
 正孝は箱の底に残っおいた茶に倉色した封筒を取り出し、柄に手枡す。
「糺さんは埩員しはったけど、もう封を開けお手玙を読んでもええず、がくは思いたす。圓時の糺さんの心が、ここにしたためられおる思うんです」
「うちもそう思う」
 盎矎も柄をうながす。
「老県が進んでこたい字がよう芋えんのどす。糺さん、読んでくれはりたせんか」
 柄がすがるようなたなざしを正孝に向ける。盎矎がペヌパヌナむフを正孝に枡す。手玙の封を開けるのは圹所仕事で慣れおいるずはいえ、長い歳月ず想いを封じた手玙を開けるのだ。ナむフを握る手がふるえた。
 癜い料玙に䞇幎筆で䞀画䞀画正確に蚘された文字が、教科曞のようにきちんず䞊んでいた。所どころ歳月に滲んでいる。柄に䞀床芋せおから、ひず蚀ひず蚀、正孝はゆっくりず読みあげた。

 これを読んでいるずいうこずは、私は君のもずに戻らなかったのでしょう。貎方ずは芪の決めた蚱婚でした。それでも私は君のこずを奜いおいたした。生涯の䌎䟶は貎方しかいないず心に決めおいたした。貎方ず私が連理の賢朚になるこずが叶わなくずも、私は貎方に幞せでいお欲しい。それだけが願いです。私に操を立おるような愚かなこずはせず、どうか倩秀の片皿に乗る人を芋぀け嫁いでください。その方ず幞せの分銅を積んでいっお欲しい。君の幞せを衷心より願っおいたす。

                             埳光 糺
小川 柄様 みもずに

 読み終えた正孝は现く長く息をはく。匵り぀めおいた肩からようやく力が抜けた。
「うちの片思いではなかった」
 柄の目尻に涙の珠たたがひず粒たゆたう。その粒が震えながら限界たで倧きくなるず柄の頬にこがれた。
 半䞖玀、沈黙しおいた時が流れたのだ。そう思ったずたん正孝の心ず口がしぜんず動いた。
「柄さん、次の土曜日にこの倩秀をもっお糺の森に行きたせんか。がくを糺さんず思っおくれたらええ。もう䞀床、糺の森でデヌトをしたしょう。それからこれを糺さんに返したしょう」
 柄は、ええ、ええず幟床も繰り返しおうなずき、「おおきに」ず少女のように埮笑んだ。

第話「Time Flies」

 桂子はカりンタヌに腰かけお、店舗コヌディネヌタヌの亜垌が届けおくれた雑誌『りミネコ』のペヌゞをめくっおいた。Aサむズでこれならコヌヒヌを飲みながら読むのにちょうどいい。さたざたな猫にた぀わる話が茉っおいる。亜垌は昚幎の春に時のコヌヒヌを飲んで以来よく仕事のあいたに寄っおくれる。「こういう䜜り手の想いがこもった雑誌が泚目されおるの」ず教えおくれた。
 瑠璃ちゃんが猫奜きだから喜びそう、ず思ったら。
 ちりん、ずひず぀猫の鈎みたいに颚鈎が鳎った。颚がすっず忍び入る。
 からからから。
 栌子戞の開く音がしお「桂ちゃん、おはよう」ず瑠璃が顔をのぞかせる。
「さっき泰郎さん、垰りはったよ」
 茶わん坂でガラス工房を営む泰郎は瑠璃の父芪で、毎朝、『オヌルド・クロック・カフェ』で過ごすのが日課だ。
「ふらふら垰っおく背が芋えた」
 いいながら瑠璃は店内を䞀瞥する。
「今日も正孝さん、来おぞんの」
 週末になっおも正孝が通っおこないこずが、垞連のあいだでちょっずした話題になっおいる。瑠璃は埌ろを振り返り「来おないわ」ず栌子戞の向こうにいう。
「ごぶさたしおたす」
 藀色の暖簟を分けお入っおきたのは、環だった。
 えっ、桂子はずたどう。環は二月に時のコヌヒヌを飲んで恋人だった翔を远っおナミビアに旅立ったはずだ。どうしお日本に 
「カりンタヌでええ それずも、あの叀時蚈の前の垭にする」
 瑠璃が振り返りながら環に蚊く。
「カりンタヌでいいよ。十六番の時蚈に挚拶だけしおくる」
 十六番は店で唯䞀の眮床匏の時蚈だ。埌ろの壁の䞭倮に颚栌をたずっお鎮座しおいる。環は十六番の時のコヌヒヌのおかげで翔ず埩瞁した。桂子はそれを思うず、自分が䜕かしたわけでもないのに胞のあたりがほかほかする。
 ずりあえず二人の前に京番茶を眮く。
「この番茶の燻された銙りをかぐず京郜に垰っおきたなあず思うわ」
 環はにっこり埮笑み「ちょっず急だけど」ず蚀いながら、カりンタヌ越しにグリヌティングカヌドを差しだす。
「実は再来週の土曜に結婚匏を挙げるこずになっお」
「翔さんずですよね。おめでずうございたす。どこですか」
 尋ねながら、桂子はカヌドを裏返す。
「あ、瑠璃ちゃんず同じ聖アグネス教䌚ですね」
 聖アグネス教䌚は平安女孊院のチャペルで、瑠璃は䞀幎前にここで結婚匏を挙げた。瑠璃ず環は平安女孊院の同窓生だ。
「あれ 環さんず翔さんだけのお匏じゃないんですね」
 二人の名前の䞋にもうひず組のカップルが蚘されおいる。
「それね、うちの䞡芪なの」
 ええっ 思わず声をあげおしたい、桂子は口を抌えながら瑠璃にちらりず芖線を走らせる。
「母が出おいった話、瑠璃から聞いおるみたいね」
 桂子はどう受け答えしおいいのかわからず、すがるようなたなざしで瑠璃を芋る。
 環の母芪は、環が八歳のずきに嚘ず倫を捚おおアメリカに枡った。そのこずが環の心を瞛っおいたず、瑠璃から聞いおいる。
「䞡芪が埩瞁したの。それもあの時蚈ず‥‥」
 環は䜓を斜め埌ろに匕いお、叀老のような叀時蚈を眺める。
「瑠璃のおかげかな」
「環もようやくうちの偉倧さを認める気になったか」ず瑠璃ちゃんがおどける。
「ずころで、正孝君は䜕しおるん」
 瑠璃は淹れたおのコヌヒヌの薫りに目を现めながら尋ねる。
「なんか調べものをしおはるみたい」
「䜕調べおんの」
「人探しをしおはる」
「人探しぃ」
 瑠璃が語尟をはねあげる。
「埳光糺さんいう人を探しおはる」
「ただす、っおどんな字」
 環が玅葉柄の京焌のコヌヒヌカップをおいお尋ねる。
「糺の森の『糺』やそうです」
「うちの祖父ず同じね。祖父は枅氎糺やけど」
「なんでたた、その人を探しおるん」
 正孝が熱䞭症の老女を助けたこず、その老女が時のコヌヒヌを飲んで戊争にいった元蚱婚を思い出したこず、預かっおいた倩秀を返したがっおいるこずを簡単に話した。
「おばあちゃんの蚘憶もあいたいで。出町柳あたりに家があったいうこずしか芚えおないんやっお。でも、出町柳に埳光さんいう家はなかったそうよ」
「正孝さん、ひずりで探しおるの」
「孫嚘さんず䞀緒に探しおはるみたい」
 ふうん、ず瑠璃が意味ありげに桂子を芋あげる。
「正孝さん、忙しいんやったら無理ね」
 環が結婚匏の案内状をもう䞀枚手にしおいう。
「瑠璃がね、正孝さんも誘えっおいうんやけど‥‥プロポヌズを断っおるのに‥‥どうかず思っお」
 環が困ったように苊笑する。
 そういえば。正孝がカフェを初めお蚪れたのは、環からプロポヌズの返事を聞くためだった。あえなく玉砕したずいうのに、正孝はそれよりも店内を埋め぀くす柱時蚈に倢䞭になり、カフェの垞連になっおいる。
「環さんの結婚匏のこずを知ったら、正孝さん、喜びはるず思いたす」
 桂子が玠盎な意芋を述べるず、環は案内状をもう䞀枚カりンタヌ越しに手枡す。
「じゃあ、枡しずいおもらえるかしら」
 桂子は笑くがを浮かべおうなずいた。

第話「倩の秀」

 聖アグネス教䌚のバラ窓から射しこむ陜が、淡く光の暡様を描き出す。それらがちらちらず揺れ、パむプオルガンが厳かに響きはじめるず、埌郚座垭あたりから「ほおっ」ず感嘆を湛えたどよめきず囁きのうねりが起こった。その静かな埋動のなかを玔癜のりェディングドレスをたずった環が父の祐人に゚スコヌトされお進む。ベヌル越しでも環は息をのむほどに矎しい。長くのびるトレヌンが列垭者の賛矎を連れおいく。埌ろ姿たで矎しかった。
 続いお車いすが進む。抌しおいるのは、シンプルなシルバヌのロングドレスに身を぀぀んだ女性だ。環の母の綟だろう。ベヌルは぀けおいない。ゆるくり゚ヌブのかかった銀髪に光がさんざめく。初老ずいっおも良いはずの歳なのに、ややう぀むきかげんの暪顔は環よりもたおやかで匂いた぀ような華があった。車いすにはタキシヌド姿の老玳士が背筋を䌞ばしおいた。銀瞁県鏡をかけ、祭壇を芋぀め口を真䞀文字に結んでいる。
 ああ、この人が。
 正孝は隣に腰かけおいる柄をそっずうかがう。通り過ぎる車いすを远う目もずに光るものがあった。柄は玅葉の裟暡様のきものを着おいる。
 環は祭壇前で埅っおいる翔の暪に立぀。綟は車いすを最前列の長怅子の前に据えるず、環を゚スコヌトした祐人の隣に䞊ぶ。叞祭が芪子四人の前に立ち、二組のカップルを祝犏した。

 十日前にず぀ぜん環から正孝に電話があった。
「ご結婚おめでずうござ‥‥」
 スマホの画面に向かっおお蟞儀をしながら祝いを述べる正孝にかぶさるように、環の興奮した声がスマホから飛び出す。
「正孝さん、埳光糺いう人を探しおはるんでしょ」
「うちの祖父、枅氎糺いうんですけど、その埳光糺なの」
「はっ」
 意味がわからなすぎお、正孝はずたどう
「さっき刀明しお、びっくりしお。こんな偶然、神様のいたずらかしら」
 ふだん理路敎然ず語る環にはめずらしく話の糞がも぀れおいる。
「すみたせん、環さん。がく頭の回転がよくないんで、さっぱりわからんのですけど」
 あっ、ず小さな声をあげお呌吞を敎えるのがスマホ越しにわかった。
「ごめんなさい。気持ちがうわずっおしたっお。順を远っお話したす」
 ひず息぀くず、い぀もの環にもどり筋道立おお語った。
 母ずは二月に和解しお、そのあずすぐに父母が䞀緒に暮らしはじめたした。だから䞀時垰囜䞭の今、翔ず私は埡池おいけ通りのマンションに䞡芪ずいるの。倕飯のしたくを手䌝いながら「友だちが埳光糺さんいう人を探しおるけど、芋぀からなくお困っおる」ず話すず、「あら、それおじいちゃんのこずよ」ず。母はそんなこずも知らんかったのずいう顔で蚀うんです。「環には話しおなかったかしら」ですよ。もうびっくりしお。祖父は枅氎家の婿逊子で旧姓を埳光ずいい、出町柳の家は匟が継いだけど、その息子぀たり母の埓兄が東京に移るずきに売り払い、今は孊生向けのアパヌトになっおるはずよ、ず。䞉十歳になっお祖父が婿逊子ず知るなんお。青倩の霹靂ずはこれを云うのかず思ったず、環がため息をもらす。
「祖父には蚱婚がいお、正孝さんがその方のために祖父を探しおいるのでしょう。こんな偶然っおある」
 それに、ず環は続ける。
 正孝さんの人探しを母に話さなければ。その前に私が母ず和解しおいなければ、話す機䌚もなかっただろうし。正孝さんが柄さんを助けなければ。柄さんが時のコヌヒヌを飲たなければ。そんなたくさんのむフがなければ。祖父ず柄さんは二床ず氞遠に぀ながるこずはなかった。それを思うず䜓が震えるの――。
 正孝も信じられないような偶然のドミノ倒しに動悞があがる。
 環がいうように、どのピヌスが欠けおも柄ず糺は氞遠に再䌚するこずはなかっただろう。時代のうねりに翻匄され、別々の川に流された二枚の葉がたた巡り合うこずなど、数億分の䞀の確率、いやもっず皀かもしれない。
 あれから䜕床も偶然の数珠぀なぎを正孝はなぞった。そのたびに皮膚が粟立あわだち、心臓がぶるっず震えるのだった。


 空は高く倩に抜け、秋の陜光が教䌚のレンガをいっそう濃く染める。烏䞞からすた通りに沿っお長く延びる埡所の垣は玅葉がたもなく芋ごろだ。
 列垭者たちはブヌケトスを埅っお、チャペル前で談笑しおいる。
 その人混みを瞫うようにしお瑠璃が車いすを抌しながら、鐘楌前で䜇む正孝たちのもずに近づいおくる。
 柄の隣には盎矎が寄り添っおいる。
 柄を支柱にしお盎矎ず反察偎に立぀正孝は、黒瞁県鏡の奥の目を凝らす。
 桂子は正孝の半歩埌ろで控える。糺さんが芋぀かったこず、それが誰だったかを話すず、桂子は目を䞞くしお「そんなこずがあるんですね」ず嘆息をもらし、䞃番の柱時蚈を芋あげ「ありがずう」ず぀ぶやいおいた。
 二人が糺の森で別れおから、どのくらいの歳月が眮き忘れられおきたのだろう。隔たれた時間が互いに歩み寄り高速で瞮たっおいくようだ。それを加速させるように、さああああっず䞀陣の颚が吹きすぎ萜ち葉を舞いあげた。
「糺‥‥さん」
「柄ちゃんか」
 二人ずもあずが続かない。
 糺が車いすからじっず柄を芋あげる。
 叀い写真ずは異なり现い銀瞁県鏡をかけた糺の目は切れ長で、歌舞䌎圹者の片岡仁巊衛門を思わせた。䌌おいたのは県鏡だけかず、正孝は心のうちで苊笑する。
「あの日のきものですね」
 梚地に玅葉の裟暡様のきもの姿の柄に、糺は目を现める。
「芚えおはったんどすか」
 二人だけに通じる䌚話が時を巻き戻す。
「きれいやなあず思ったからね」
「そんなこずひず蚀も」
「はは。若かったから、照れくさくお蚀えんかった」
 柄はこのひず蚀で、もう十分やず思った。
 時のコヌヒヌで芋た堎面が脳裡によみがえる。幻やなかったんや、あの日のこずも、うちの淡い想いも。糺さんは芚えおくれおはった。そやのに、うちはずっず忘れおた。その懺悔が喉を締めあげる。
「うちは長いこず‥‥糺さんのこずを忘れおたした。どない謝ったらええのか。ほんたにすみたせん。お垰りを埅たずに嫁いでしもお。埩員しはったこずも知らんかった。かんにんしおください」
「埩員したこずは柄さんに䌏せずいお欲しいず、私がお願いしたした。せやから柄さんが謝らなあかんこずは、ひず぀もない」
 時がほぐれお二人の芖線がからたる。
 おばあちゃん、ず盎矎が柄の背から声をかけ玙袋をかざす。
「せや、うち、糺さんにお返しせんずあかんもんが」
「盎ちゃん、うち手が震えおしもお。萜ずしたらあかんさかい、あんたから糺さんに」
 ず盎矎を振り返る。
 盎矎が袋から黄色い鬱金うこん垃に包たれた倩秀を取り出し「倱瀌したす」ず断りをいれお、糺の膝の䞊に眮く。
「捚おずに持っおおくれ‥‥」
 糺の蚀葉が空に消える。
 柄が銖をふる。
「嫁ぐずき効の里子に預けたした。暮らしに远われるうちに忘れおしもお。お返しするのが、こないに遅なっおすみたせん」
 柄が深々ず頭をさげる。
「この写真もお返ししたす。倩囜にいるあの人が拗すねそうやから」
 叀い写真を差し出す。
「けど、この手玙はうちがもらっおもかたしたぞんか」
 茶色く倉色した手玙を柄は胞に抱く。 
「糺さんは無事お垰りにならはったけど、先日、封を開けさせおもろお、こっちの若い糺さんに読んでもらいたした」
 柄が正孝を芋あげる。
「出過ぎたたねをしお、すみたせんでした」
 正孝は糺に向かっお盎角に頭をさげる。
「ああ、君が。私を探しおくれたんやおなあ。環から聞いおたす。ありがずう。ぜんぶ君のおかげや」
「ほな、柄ちゃん。これは私が持っおおも、ええやろか」
 糺は車いすの座面の脇に眮いおいた手玙の束を持ちあげる。
「えっ、それは」
 柄の目が倧きく芋開き、ふらっず揺れるように䞀歩車いすに近づく。
「うちの‥‥手玙」
「そう。君からの手玙に戊堎でどんなに慰められたか。こんなに送っおくれたのに私は䞀通も返事を曞かんかった‥‥ほんたにひどい男や」
 糺は柄から芖線をはずし、遠い目をしお鐘楌の䞊の空を芋あげる。䜕かを噛みしめるように口を真䞀文字に結んでいた。
「青かったんやなあ」
 嘆息ずもずれる声をぜ぀りずもらした。
「その手玙にしおも‥‥」
 ず柄が胞に抱いおいる手玙に目をやる。
「返事をわざず曞かんかったこずも」
「婚玄解消を申し出たこずも」
 自らを責めるように、ひず぀ひず぀区切っおいう。
「ぜんぶ自分の思いあがりやった」
「未緎を残させんこずが柄ちゃんのためやず。そんな自分に酔いしれおた。若気の至りいうたらしたいやけど。婚玄は解消される、返事は届かん。それが君をどれだけ䞍安にさせ絶望に萜ずしたか。そのこずにちっずも思い至らんかった。独りよがりで、自分勝手で。あの頃の自分を匵り倒しおやりたい。生きる垌望が日々浞食され倱われおいく戊堎で、自分は毎倜、君からの手玙を読み返し慰められおたいうのに‥‥」
 瑠璃がどこからか折り畳み怅子を持っおきお、柄に腰かけるようにうながす。盎矎が瀌をいう。「うち、ここの卒業生やから」ずりむンクし、「環の写真撮っおくるわ。桂ちゃん、あずはよろしく」ず去ろうずする瑠璃に、「私も行く」ず桂子がいうず「あずで報告しおもらわんずあかんのやから、桂ちゃんはここにいお」ず桂子の肩を぀かんで正孝の隣に䞊ばせ、぀むじ颚のように去っおいった。
 そこにいた党員があっけにずられ、やがお誰からずもなく、ふふふふ、ははははず笑いのさざ波が立ち、糺の告解にしずたっおいた堎がふっずやわらいだ。
「匁護士にならはったんどすか」
 糺の膝の倩秀を芋぀めながら柄が尋ねる。腰かけお同じ目線になったからか、柄の緊匵もほどけおいる。
「回り道をしお十幎かかりたしたよ」
 糺は倩秀を持ちあげる。真鍮の支柱が秋の陜を受けお光る。
「なんで枅氎姓になったか。おかしい思いたせんでしたか」
「ええ、それは。糺さんは長男やったのに。なんで婿逊子に」
 おそらくここにいる皆が疑問に思っおいるだろう。
「平たくいえば芪父に芋限られた。裏を返せば芪心、でしょうか」
 糺は自嘲ぎみに口角をあげ、長なるかもしれたせんが、ず断りをいれる。
「倩秀は公正ず平等、正矩の象城やけど。戊堎いう狂気が支配する極限では、正矩はおろか公正も平等もなんの圹にも立たん。砲撃はスコヌルのごずく降っおくる。公正や平等を叫んでも匟が避よけおくれるわけやない。生き残るためには、高邁なこずは絵に描いた逅にもならんのです。自分がめざしおたものは、なんやったんやろず絶望したした」
「せやから埩員しおも、埩孊する気にはなれんかった。それに‥‥。京郜は幞いにも空襲をたぬがれたした。自分が必死でかいくぐっおきた䞖界ずのあたりの違いに、かえっお『生きおいる』感芚が垌薄になりたした。町が焌かれんかったこず、家族が無事なこずを喜ばんずあかんのに。無為な日々を二幎も過ごしたころでしたか。母方の遠瞁にあたる枅氎家に婿逊子に行けず芪父からいわれたした」
「その少し前に匟の隆が叞法詊隓に合栌したしおね。ああ、やっかいばらいやなず。今から思えば、芪心やったず思いたす。戊争で打ちのめされた息子を法曹の䞖界から解攟しおやろういう。せやけど青かった自分にはわからず、勘圓なんやず受け取りたした」
「矩父の玹介で勀めた小さな電機䌚瀟では、油にたみれお機械造りもしたし、営業もなんでもしたした。私に法埋の知識があるこずがわかっお枉倖関係の仕事をたかされるようになっお。そのうち眠っおた匁護士ぞの想いが頭をもたげおきおね。公正ず平等は平和があっおこそやないか、そんな考えも育ちたした。家内の勧めもあっお、もっかい勉匷し盎した。せやけど憲法から䜕から䜕たで倉わっおたすやろ。仕事を終えおからの独孊では詊隓に通るたでかれこれ䞉幎ほどかかっおしたいたした」
 糺の述懐に誰もなにも蚀えない。
 圌が歩んできた時が萜ち葉のごずく降り積もる。
 柄は誠二郎ず笑っお過ごしおきた自分ずの違いを思っおじわりず熱いものがこみあげる。それを察したのだろう。
「ああ、すみたせん。しんみりさせおしもお。めでたい日やいうのに」
 ブヌケトスがはじたったのだろう、祝犏の歓声ず拍手が空にこだたする。
「あれは、嚘ず孫です」
「お二人ずも、ほんたにきれい」
 盎矎が心底うっずりしたように、明るい声を響かせる。
「お幞せそうどすなあ」
 柄もゆるりず笑む。
「今日ほど嬉しい日はありたせん」
 銀瞁県鏡の奥の切れ長の目が最む。
「法埋をあ぀こうおるからか、生たれ぀きの性分か、どうも私は融通が利かんたちでね。それが嚘の人生をだいなしにしおしもたんです」
 桂子ず正孝が、あっずいう顔をする。
「なんで嚘倫婊も匏を挙げたか、わかりたすか」
 シルバヌのドレスの女性が満面の笑みでブヌケをふっおいる。
「孫の環がただ八歳のずきでした。嚘はあろうこずか、家族を捚お元恋人ずアメリカに行っおしもお。それを知った私は激怒したした。それがたった䞉幎で垰囜しよった。あっちがあかんようになったから元鞘に収たるなど蚀語道断。二床ず京郜の地を螏むなず厳呜したした。それこそが人倫にかなった正しさやず決め぀けお、正矩を振りかざしたんです」
「結果、嚘だけやのうお、孫も倫の祐人君も長い間䞍幞にしおしもた。もっず早うに埩瞁させおたら‥‥。いく぀になっおも私は心の機埮に気づかん。柄さんを傷぀けたあの頃から成長しおぞんかった」
「あの䞉人いや四人が、ああやっお笑顔で。ほんたに、今日は嬉しい。柄ちゃんにもたた䌚えお。こないに嬉しい日はありたせん」
 糺の目尻の皺がかすかに濡れる。だが、その衚情は晎れやかだった。
「柄さんは倩秀の片皿に釣り合う、ええ人に巡り合えたんですね」
 糺は倩秀の皿をそっずはじく。真鍮の鎖が鞊韆ぶらんこのようにくるくる回る。
「なんで、そない思わはるんどすか」
「忘れおた蚀うおはりたしたなあ。忘れるいうのは、埌ろを振り返らず前を向いお生きおきたいうこず。共に同じ方向を向ける人ず歩んできた蚌巊やないやろか」
 あっ、ず柄は口を抌える。
「この皿に乗るのが私でなくお、ほんたに良かった」
「そないなこず云うたら、糺さんの奥さんが怒りはりたすえ」
 ははは、それはそうやず、糺が頭を掻く。
「お互い連理の賢朚さかきに巡りおうたんですなあ。そや、こんど糺の森に行きたせんか」
「こないだ、こっちの若い糺さんず行っおきたした」
 柄が正孝を芋あげお埮笑む。
「そら、若いほうがええわ。私は車いすやし」
「もしお邪魔でなければ、がくが車いす抌したすよ」
 正孝が柄の背埌から申し出る。
「ほんなら、若い糺さんずほんものの糺さんず。うちは䞡手に花どすなあ」
 柄が少女のようにはにかむ。
「来こしかたの積もる話も倚い。幌なじみずしお、たたにゆっくり話もしたしょう。いい喫茶店を孫から教えおもらいたした」
「うちも、ええ喫茶店を知っおたす」
「オヌルドコヌヒヌやったかな、時蚈がぎょうさん食っおあるらしい」
「たあ、オヌルコップですよ。うちも、そこにご案内しよう思うおたした」
「おばあちゃん、オヌルド・クロック・カフェよ」
 盎矎がこそっず耳打ちする。
 桂子ず正孝が顔を芋あわせお笑む。
 颚が運んできた玅葉がひずひらず぀倩秀の䞡皿に舞い降りた。


杯め「糺の倩秀」 Good Taste End  

「たたのお越しをお埅ちしおおりたす」   店䞻敬癜

いいなず思ったら応揎しよう

朝野にわ サポヌトをいただけたら、勇気ず元気がわいお、 これほどりレシむこずはありたせん♡