メインコンテンツへスキップ
見出し画像

玄関の軒先で話しているつもりだった

    自分が文章を書いたり、何かを作ったものを外に出したい、見てもらいたいという気持ちは、みんな少しは持っているものだと決めつけていた。

    でも、そうじゃない人もいる。

    最近それに気づいた。

    身近な人に、書いてほしいなと感じたことがある。
    その人が何を見て、何を考えて、どう感じているのかを、もっと知りたかった。

    でも本人には、それを外に出したい欲があまり湧かないらしい。

    へえ、そうなんだ。

    それが不思議で、他の人にも聞いてみたら、同じような話をほかにも聞いた。なんなら妹たちもそうだった。

    何も感じていないわけではない。
    考えていないわけでもない。
    ただ、それを文章や作品や投稿として外に置いていないだけ。

    私はどうしても、自分が見ている世界は、表現したい人であふれているように見えていた。

    でもそれは、表現している人だけが目に入っていたからなのかもしれない。

    SNSなんて特にそうだ。
    書いた人、撮った人、作った人、投稿した人だけが見える。
    外に出さない人は、そこにいても見えない。

    見えないから、いないように見えていた。

    作る人が偉いわけじゃない。
    書く人のほうが深いわけでもない。

    外に出さずに、自分にしかわからない言葉で、自分とだけ深く対話を続ける人もいる。誰かに伝えるために整えたりしないその時間は、外側からは決して測れない。むしろ、そっちのほうが豊かなのかもしれない、とさえ感じる。

    ただ、私はそれを見たくなる。
    その人の考えていることや、感じていることを知りたくなる。

    それは好奇心でもあるし、情でもあるし、私のわがままでもある。

    「書いてほしい」
    「感想を聞かせてほしい」
    「考えていることを残してほしい」

    私にとっては、玄関の軒先で少し話すくらいのつもりだった。

    でも相手にとっては、リビングにづかづか踏み込まれるくらいのことだったのかもしれない。

    自分だって、全部をさらけ出しているわけじゃない。

    書く。
    投稿もする。
    気持ちも出す。

    でも、出す場所も、角度も、深さも、自分で選ぶ。
    見せてもいいところだけを、見せてもいい形にして外に置く。

    それなのに、人には「もっと出して」と求めてしまう。

    そこに気づいて、ちょっと立ち止まった。

    いや、ほんとに。
    みんな外に出したいわけじゃないんだな。

    その前提が、少し変わった。


     
     
    好きなものと、忘れたくない感覚のそばで。 短すぎず、重すぎない文章を置いています。 編み物、写真、ことば、そして日々の観察。

    あなたへのおすすめ