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20,000日の人生…。第四章

    #創作大賞2026 #エンタメ原作部門 #ドラマ脚本

    駅の改札を出て、カスタマーセンターが入るビルへのエレベーターを待つ。
    足元には、私の左脚にぴったりと体を寄せているシロの温もりがあった。

    これまで美和子の同伴で、自宅とビルを往復する練習は何度も重ねてきた。けれど、いよいよセンターのフロア内へ足を踏み入れるのは、今日が初めてだ。シロが「お父さん、大丈夫?」とでも言うように、私の顔を何度か見上げて鼻先を寄せてくる気配がする。エレベーターのドアが開き、中から人が降りていく気配を耳で捉えてから、私はシロの誘導に従って静かに乗り込んだ。

    3階に到着し、目の前に職場のドアがある。
    その事実に、私の足が一瞬、すくんでしまった。暗闇の中で、どうしても次の一歩が踏み出せない。その時、シロがすかさず私の前へと回り込み、グッと体を張って私を前へ引く「逆誘導」をしてくれた。シロの頼もしい背中に背中を押されるようにして、私はついに、新しい職場の扉を開けた。

    「よし、みんな手を止めて聞いてくれ。今日から新しい部長が着任される。事前に通達した通り、紺野部長は全盲だ。盲導犬が同伴しているが、絶対に声をかけたり触ったりしないように。会釈をされても部長には分からないから、部屋に入ってこられたら、全員、拍手で迎えてほしい。それで大体の席の位置や人数を把握してもらうから」

    フロアの奥から、低く、一切の無駄がない、完璧にコントロールされた声が響いた。彼が、私の新しい部下であり、最大の壁となる遠藤課長だった。声の響きだけで、彼が周囲を小馬鹿にし、自分のルールに絶対の自信を持っている男だということが伝わってきた。
    遠藤課長の指示通り、フロア中から一斉にパラパラと拍手の音が湧き上がる。

    「紺野部長、おはようございます。今日から部長のアシスタントを務めさせていただきます、後藤です。どうぞ、よろしくお願い致します」
    すぐ目の前から、とても清潔感のあるシトラスの香りと、弾んだ優しい声がした。
    「ありがとう。こちらこそ、慣れるまではお荷物になってしまうかもしれない。後藤さんが気づいたこと、思ったことは、何でも遠慮なく言ってください。私のためになると思って、たとえ耳の痛いことでも、躊躇なくお願いしますね」
    私は声のする正確な位置へ向けて、最敬礼のお辞儀をした。今の私は、人の声だけで相手の立ち位置をミリ単位で把握する訓練を重ねていた。シロが向く方向に体を合わせれば、傍目には目が見えないとは思えないほど、スマートに振る舞えるようになっていた。

    後藤さんの丁寧な誘導で、フロアの前列にある机へと案内される。
    席に着くと、隣からカツカツと靴の音を響かせて、遠藤課長が近づいてきた。
    「今日からお世話になります、遠藤です。課長をしております。初日ですので、午前中はカスタマーセンターの全体のシステムや仕事の流れについて、私から大まかにご説明します。午後からは後藤が詳細を説明しますので、よろしくお願いします」
    丁寧な言葉遣いではあるが、その声の底には、隠しきれない棘と冷ややかな軽蔑が張り付いていた。
    「ありがとうございます。遠藤課長、よろしくお願いします」
    私が微笑むと、遠藤はフンと鼻で笑うような気配を残して、隣の自分の席へと戻っていった。
    本来なら30代半ばの彼がこのまま部長に昇進するはずだったのだろう。そこへ、本社から降ってきた全盲の元エリート。彼が面白くないと思うのは、至極当然のことだった。

    遠藤課長が席に着くなり、パソコンのキーボードを激しく叩く音に紛れさせて、低く冷徹な「つぶやき」が私の耳に届いた。
    「ハッ、盲導犬って言ったって、所詮は犬だろ。あー嫌だ、俺は犬が大嫌いなんだよ。なんでオフィスを犬小屋にされなきゃならないんだ。本社で敏腕だか何だか知らないが、現場の仕事とは180度違うんだよ。そもそも目が見えない人間に、ここで何ができるって言うんだ? 厄介払いでこっちに押し付けやがって。本社もお荷物が消えて、さぞや清々してんだろな」
    まるで心の声がそのまま漏れ出たかのような、人を小馬鹿にしたネチネチとした毒。
    遠藤は、私が「目が見えないから聞こえていない」と高を括っているのだろう。
    私の足元に常に寄り添うシロは、そんな遠藤課長の嫉妬心がこもったつぶやきを、本能で感じ取ったのかもしれない。シロはそっと立ち上がると、遠藤課長と私の間に割って入るようにして伏せをした。まるで私を守り、同時に遠藤課長を宥めようとするかのように。
    アシスタントの後藤さんは、そんなシロの意図を察したのか、あらかじめ用意してくれていたシロ専用のマットを、そっとそこへ移動させてくれた。
    シロは、遠藤課長が時折漏らす舌打ちやトゲトゲした動きが気になっているのだろう。遠藤課長が席を立ったり着いたりするたびに、じっとその様子を伺うように見つめていた。シロには、傷ついた人の心をそっと癒やす、セラピー犬のような不思議な気質が備わっているようだった。しかし同時に、彼がその犬嫌いと私への不満の矛先を、健気なシロに向けて危害を加えるのではないかという不安が、微かに胸をよぎった。

    午前中、遠藤からこのセンターの「完全制御システム」について説明を受けた。
    平日の9時から17時まで。17時ちょうどの為、16時59分59秒に滑り込んできた入電まではシステムが繋げるが、それを過ぎれば自動音声ガイダンスに切り替わる。最近はAIによる自動切断システムも導入されており、オペレーターへのセクハラや個人情報を聞き出そうとする悪質な理不尽に対しては、AIが「商品に関する内容以外はお答え致しかねます」と冷酷に言い放ち、強制的に通話を切る仕組みになっていた。
    「カスハラの時代ですからね。うちからは絶対に掛け直さない。理不尽な切断に怒って再入電してきた顧客には、『AIの自動切り替えで切れてしまいました』と言い切り、絶対に謝るな、と徹底しています。非通知は一切拒否。違う番号からかけてきて同じスタッフに繋がってしまった場合は、『先ほどはAIの自動切り替えで失礼いたしました。私では対応できかねますので、上司に代わります』とだけ伝えて、相手の話を聞かずに即保留。保留音の間も、相手の声をすべて録音して証拠を残します」
    遠藤は、その完璧なマニュアルを誇るように滑らかに語った。
    オペレーター10人に対して、監視するリーダーが6人。一日1人の対応数は10回程度。お礼の電話が2割、クレームが8割。希望が無ければ、スタッフ内で月毎にリーダーとオペレーターを入れ替える。オペレーター全員が電話対応をしていれば、自動音声で「ただいま電話が混み合っております。時間をあけてお掛け直し下さい」と案内アナウンスの後、自動切断される。

    聞いているだけで、胃が痛くなるような精神の削り合いだ。私はかつて開発チームで、自分たちが作った製品の後始末を彼らに押し付けていたのだと、改めて激しい感謝と申し訳なさを覚えた。クレームとは、凄まじいエネルギーを使う。並大抵の動力ではない。だからこそ、ここを守るスタッフを守るためのシステムは、何より強固でなければならなかった。

    午後、後藤さんの案内で、スタッフ一人ひとりの席へ挨拶に回った。ベテランから、まだ入社2ヶ月目の新人まで、みんなシロを見て顔を綻ばせながら、気さくに挨拶を返してくれた。

    怒涛の初日を終え、帰りの電車に揺られながら、私はドッと押し寄せる疲労感に脱力していた。本社とは全く違う、常に張り詰めた最前線の空気。彼らがどんな思いでこの席に座っているのか。私は、近いうちに行われる全員との更新面談に、必ず自分も同席しようと心に決めた。まずは、上司である私に、彼らが本音を言えるような信頼関係を築くこと。そこからだ。

    翌朝、出社すると、アシスタントの後藤さんがいつも通り明るい声で迎えてくれた。
    「部長、昨日の初日は疲れたんじゃないですか? 私もね、本社からここに異動させられたときは、本気で転職を考えましたよ」彼女はハハハと快活に笑った。
    「でも、カスタマーセンターの仕事も知らないで辞めるのは負けた気がして、踏みとどまったんです。今では、このセンターがあるからこそ会社が成り立っているって、胸を張って言えます。私たちは、届いたお礼と苦情を集計して月2回本社に送るんですけど。まぁ、開発部門の社員は『見てるだけ』でしょうね。自分たちの過去の商品には興味ないですから」
    後藤さんの何気ない言葉が、元開発部である私の胸にチクリと刺さる。確かにその通りだった。売れてしまった過去の商品への苦情など、新しい開発に躍起になっている人間にとっては「どうでもいい過去」なのだ。その傲慢さを、私は恥じた。

    出社2日目にして、私は遠藤課長にひとつの提案をした。
    「遠藤課長、今日の入電の音声を、私もリアルタイムで聴かせてほしい。それと、私ができる範囲で、オペレーターにその場で指示を出させてもらえないだろうか」
    遠藤はキーボードを叩く手を止め、眼鏡の奥の目を細めて私を小馬鹿にするように言った。
    「はあ? 聴くだけなら結構ですが、指示ですか? 本社のマニュアルとここの現場は違うんですよ。まあいいでしょう。じゃあ、誰の音声を聴きますか? ベテランの席にしますか?」
    「いや、入社2ヶ月目の、小林さんの席でお願いしたい」

    私は、まだこの空気に染まりきっていない新人の小林さんを指名した。小林さんの隣に席を設け、私のヘッドホンをシステムに繋ぐ。足元には、シロがちょこんと顎を乗せて伏せをした。
    全盲の私と、その足元の盲導犬に挟まれて、小林さんは、「可愛いですね」と口ずさんだ後、明らかに空気が青ざめているのが分かった。私がシロの顔を知らないのだということに気づいて、ハッとした気配が伝わってくる。私は彼女の緊張を解くように、優しく笑いかけた。
    「シロは可愛いですよ。私はこの子の顔を見たことはないけれど、私の想像以上に動いてくれる最高の相棒なんです。だから、顔だって絶対に可愛いに決まってます」
    私の冗談に、小林さんの緊張の糸がふっと緩む気配がした。
    「小林さんは、声のトーンがとても柔らかいね。相手を不快にさせない響きが、もう自然に身についている。自信を持って」
    「あ。ありがとうございます」

    その時、システムに鋭いアラート音が響いた。今日最初のコールだ。
    隣の席から、遠藤課長の冷ややかな声が飛ぶ。
    「小林さん、3コール以内でとってね。モタモタしない」
    プレッシャーをかける遠藤課長を無視し、小林さんが電話をとった。パソコンの画面には、音声認識AIが拾った会話が自動でテキスト化されていく。目が見えない私には、その画面は見えない。だが、代わりに、ヘッドホンから流れ込んでくる「すべての音」が、私の脳内に立体的な映像を結んだ。私は、ユーザーの言葉だけでなく、電話の向こう側の「背景の音」まですべてを限界まで聞き取ろうと耳を澄ませた。外の風の音、建物の静けさ、キッチンから聞こえる微かな音…。

    顧客は、時折発音が聞き取りにくくなる、70代とおぼしき女性だった。
    「あのね、久しぶりに、こちらの創業当時からのチョコレートを購入したのよ。でもね、全然味がしないの。薄らは甘みを感じるんだけど、前のような、あのチョコレート特有の、濃厚な甘苦さがなくなってしまった気がして…。製法を変えられたのかしら?」

    味がしない。製法は変えていないはずだ。小林さんがマニュアルを探して戸惑う気配がする。
    その時、私の耳が、受話器の向こうからかすかに聞こえる「パキッ」というプラスチックの音を捉えた。何かのシートから錠剤を押し出す音。そして、わずかに掠れるような、喉の渇きを潤す水の音。

    私は小林さんの肩をそっと叩き、小さな声で耳打ちした。
    「小林さん、そのお客様に、最近体調を崩されて新しいお薬を飲み始めたりしていないか、優しく聞いてみて」
    小林さんは驚いたようだったが、私の確信に満ちた声に押され、受話器に向かって言葉を紡いだ。
    「お客様、大切な思い出の味について教えてくださり、ありがとうございます。大変失礼な質問で、もし違っていたら本当に申し訳ないのですが。お客様、最近、体調を崩されたり、新しくお薬を飲み始められたりしたことはございませんか?」
    すると、電話の向こうの女性が、ハッとしたように息を呑んだ。
    「ええ? あら、どうして分かるの? 実はね、1ヶ月前から、高血圧の新しいお薬を飲むようになったのよ」
    私は、やはりと頷き、小林さんに次の言葉を指示した。
    「高血圧の薬の中には、副作用で一時的に味覚に変化を与えるものがあるんだ。当社の商品だけでなく、最近、ご家族から料理の味付けが濃くなったと言われたりしていないか、聞いて」
    小林さんがそのまま復唱する。
    「お薬のせいで? ああ、そう言えば! ここのところ、娘から『お母さん、最近おかずの味がずいぶん濃くなったわよ』って、何度も言われていたわ。そうだったのね。チョコレートのせいじゃなくて、私の舌のせいだったのね」
    申し訳なさそうに声を落とす女性に、私は小林さんを通じて、最高の敬意を伝えた。
    「とんでもございません。そこまで当社のチョコレートの味を深く覚えていてくださり、愛してくださっているお客様に出会えたこと、私たちは心から光栄に思います。教えてくださって、本当にありがとうございました」
    「こちらこそ、お騒がせしてごめんなさいね。また美味しく食べられるよう、お医者様にも相談してみるわ。ありがとう」
    女性は、とても晴れやかな、嬉しそうな声で電話を切ってくれた。

    クレームとは、相手がパニックになっているだけの場合も多い。理不尽な怒りの奥にある「本当の原因」を見つけ出し、お互いが納得のいく解決策へ導くこと。それこそが、この職場の本当のルールなのだ。

    電話が切れた瞬間、フロア全体が、水を打ったように静まり返っていた。
    隣の席を見ると、あのキレキレで人を小馬鹿にしていた遠藤課長が、ぐうの音も出ないといった様子で、口を真一文字に結んだまま、信じられないものを見るかのように私を凝視している気配が、痛いほど伝わってきた。

     
     

    KIYO

     
     
    ピアノを上達したい。頑張らず、日々是好日を楽しむが目標。

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