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小説「クリームソーダの氷——僕は君が大好きだ」

    [あらすじ]
    大学生の「僕」には、誰よりも大切な恋人の「彼女」がいる。
    愛らしく、ショパンや美しいバラを愛する「彼女」と過ごす時間は、何ものにも代えがたい幸せだった。今日も二人は、喫茶店でお気に入りのクリームソーダとブラックコーヒーを注文。他愛ない話を語り合い、街を歩き、未来を夢見て、穏やかて甘酸っぱい時間を過ごしている。
    しかし、「彼女」の幼なじみで、二人の大学の同級生である陽菜は、「僕」を良く思っていないのか、事あるごとに無視をしたり、二人の仲を邪魔してくる。「僕」は、陽菜に対して腹を立てると同時に、ある違和感を感じ始める。
    愛する人との思い出。
    忘れられない過去。
    そして、誰も知らない心の奥底にある真実。

    [本文]
    僕は彼女が大好きだ。少し茶色がかった長くウェーブした髪、透き通るように白いが、頬の部分はうっすらと桜色の肌。全体的に色素が薄いのだろう、瞳も甘露飴のように茶色い。それでいてまつ毛は、漆黒で長い。
    大学の校門を一緒に出て、歩き出す。いつもの道。都会のど真ん中にあるキャンパスは、常に誰かしら歩いている。 
    「そんなに見つめてどうしたの?」ゆっくりと彼女が微笑む。優しい慈愛に満ちた微笑み。まるで、僕らの通う大学のキャンパス内にあるマリア像みたいに包み込むような笑顔だ。そして、彼女こそ僕のほうを真っ直ぐに見つめている。
    「いやあ、やっぱり君のこと、すごく好きだなあ、と思ってさ。」恥ずかしくなって僕は、うつむき、視線をそらした。
    「まあ……!」彼女も恥ずかしくなったのか、桜色の頬が桃色になり、長い指で覆う。そんな仕草を見て、思わず僕は、ほうっとため息をついてしまう。
    「…………。」
    二人で一瞬黙り、見つめ合う。
    「いつものところに行こうか。」
    僕が提案すると、彼女は黙って頷く。

    いつものところとは、僕達が通う大学近くの小さな喫茶店。僕はギイッと音を立てて、古びた木の扉を開ける。途端にコーヒーの香ばしい香りが鼻腔に広がる。「いらっしゃいませ」しわがれてはいるが、凛とした低い声が僕達を優しく出迎える。
    この店は、耳の遠い老紳士が一人で経営しているのだ。大手カフェのチェーン店なんかもいいけれど、いつも人が大勢すし詰めのごとくひしめき合っていて、好きじゃない。そもそも客によっては、コーヒー一杯で勉強やら仕事やらして何時間もずっと居座っていて、スペースを見つけるのが難しいことだってある。
    何より、僕の大切な彼女を他の客が、じろじろと見ているような気がしていて、落ち着かない。
    「やっぱり雰囲気いいよね、このお店。ここが一番だよな。」僕が囁くと、うんと彼女は、頷いた。
    「そうね、落ち着くわね。」
    店内は僕らの他にもまばらに客がいた。
    僕達と同じ大学と思われる若い男女や、生保レディと客、文庫本を読む中年女性……。
    僕達含め、いつもこの店の客たちは、互いに干渉し合わない。もちろん、どこの喫茶店でもよその人に話しかけることなど滅多にないとは思うが、それでもこの小さな喫茶店は、それぞれのグループがそれぞれの世界を持っていて、まるで自分たち以外が存在していないかのように振る舞っているように見える。
    だが、僕にとっては、それが大変居心地がいい。
    ここにいると、まるで世界が彼女と僕二人だけのものであるように感じられるから……。
    「ご注文は、何にしますか。」
    老紳士がウェイター役もこなす。
    だが、耳が遠いからなのか、男の僕の低い声では聞き取りにくいのだろう。彼はいつも、彼女に向かってのみ注文を尋ねるのだ。
    「クリームソーダひとつとブラックコーヒーをひとつ、お願いします。」
    彼女のほうでも心得たもので、僕の分まで注文をしてくれる。
    「かしこまりました。」老紳士が奥へ引っ込むと、僕は彼女に語りかけた。
    「また、クリームソーダ?本当に好きだねえ。」
    「本当に好きなものは、いつ飲んでも飽きないものよ。あなただってそうでしょう?そう思ったから、ブラックコーヒーにしちゃったんだけど」他のものがよかったかしら?と小首をかしげる。
    「ううん、そんなことはないよ。だって……。」僕は、口角をあげる。「『一度好きになったものは決して嫌いになれないし、ずっとずっと大好きなの。』君がよく言っているこの台詞、僕も全く同じ気持ちだよ。」
    「まあ」イタズラっぽい微笑みを浮かべた彼女。
    「ふうん、じゃあ、あなたは私のことも決して嫌いにならないし、ずっとずっと大好きってわけね。」
    「もちろんだよ。君だってそうだろう。」
    「ん……。」
    またまた白い肌を桃色に染めた。
    「一生……。」
    「ん?」今度は、僕が首を傾げる。
    「一生、そんな気持ちでいてもらいたいわ。私。」
    伏目がちだが、はっきりとした声で彼女は宣言した。逆プロポーズだと思ってもいいのかな……!?
    僕の胸は痛いくらいに踊っている。
    その瞬間、「おまちどおさまです。」
    老紳士が、クリームソーダとブラックコーヒーを持って、現れた。何故かどちらの飲み物も彼女のほうに置いている。最近は、足腰も弱いみたいだし、腰をのばして給仕するのが億劫なのだろう。
    ずっと、少なくとも僕らが卒業するまでは、このカフェを続けてもらいたいから、無理はしないでほしい。僕は、黙って彼女の前にあるブラックコーヒーを自分の元に引き寄せた。 
    ここのブラックコーヒーは、茶色というよりは文字通り、黒に近い。ずっと見ていると、この黒さに吸い込まれるような気になってくる。彼女に言うと、変に思われるかもしれないから黙っているけど、ブラックコーヒーが好きだが、実はなんか怖い。
    しばしコーヒーを見つめたのち、口をつけた。
    彼女は、僕がコーヒーをテーブルに置くのを待ってから、クリームソーダにトッピングされた真っ赤なさくらんぼをつんつん、とつつき、そしてソーダの上にぷかぷかと浮いているバニラアイスをすくって、口に入れた。
    「あなたも食べる?」
    「うーん、じゃあ少しだけ」
    「はい、あーん。」
    アイスの乗った細長い柄のスプーンを彼女は、僕に向けて突き出した。
    自分で掬うものだと思っていたから、恥ずかしいやら嬉しいやらで固まってしまう。
    「いやだわ、どうしたのよ。」ふふ、と彼女が笑う。
    「いや、ちょっと……。」恥ずかしくなって、僕はうつむく。
    「いやねえ。私達、恋人同士なんだからいいじゃないの。はい。」自分の手から食べるように、と彼女はうながす。
    複雑な気持ちで僕は、「あーん」と大きな口を開ける。途端に、冷たくて甘い味が口の中いっぱいに広がる。ふわふわのバニラアイスだけでなく、氷のかけらも入っていたようでざらざらする。
    僕は、その氷のかけら達をバリバリと噛み砕いた。
    「あなたったら、案外ワイルドなのよね。バリバリってすごい音だわ。」くすくす、と彼女が笑いながら、ソーダ部分をストローで吸う。その笑顔を見るためなら氷室に今すぐ体を突っ込んで、ありったけの氷をバリバリガリガリボリボリと貪ったっていい。 

    「あら」彼女が突然頬をほころばせた。喫茶店では、クラシックの曲が常に流れている。ショパンの「仔犬のワルツ」が流れ始めた。
    恋人のジョルジュ・サンドが飼っていた犬が自分の尻尾を追いかけてぐるぐる回っている様子からインスピレーションを受けたショパンが作ったというこの曲は、クラシック好きショパン好きの彼女の中でも、特にお気に入りの一曲だ。
    「君の好きな音楽だね。」
    「ええ、いつもこの曲を聴くと、ワンちゃんを飼いたくなるわ。」
    ちなみに前述のこの曲のエピソードについては、彼女からの受け売りだ。
    「犬かあ。いいよね。僕も好きだよ。」
    つられて、僕もにこりとする。
    「サンドは、どんな犬を飼っていたのかしらね。詳しい資料が残っていないみたいで、犬種は不明らしいわよ。」
    「へえー。」
    「私が飼うとしたら、ポメラニアンがいいな。名前は、何にしようかなあって想像するの、ちょっと楽しいかも。」
    「ポメラニアンかあ。」
    丸っこいふわふわとした、ポメラニアンを連れて、街をゆっくりと歩く彼女の姿が目に浮かぶ。
    想像の中でも、彼女は、ゆったりと微笑みかけてくれる。

    「あらあら、久しぶりじゃない。」
    僕の妄想が、甲高い声で一気に現実に引き戻される。
    声のする方を見ると、少し目と眉の上がった気の強そうな女性が立っていた。
    陽菜だ。
    「そうね。お久しぶり。」彼女が微笑む。
    「珍しいね。陽菜もこの喫茶店、よく来るの?」
    「ええ、そうよ。あんたも来るのね。」
    質問したのは僕だが、彼女に向かって答えた。
    「最近は、元気そうね。いいことだわ。」
    「え?ええ。」
    陽菜は、一瞬だけ釣り上がった目をゆるませる。
    どうも陽菜は、僕のことが苦手らしい。会ってもあまり目を合わせてくれないし、彼女とばかり話している。
    もっとも、陽菜は彼女の幼なじみで、小学校から高校までずっと同じだった。彼女によれば、家族ぐるみの付き合いだとか。僕らは、彼女を介しての知り合いにすぎない。
    「じゃあ、あたし、人と約束してるから。おじさま、おばさまによろしくね。」
    陽菜は、踵を返した。まあ、僕らの様子を見れば、交際しているのは明らかだからかな。
    クリームソーダをストローですすりながら、彼女が言った。「誰と待ち合わせているのかしらね。」
    「さあねえ。派手な子だから、おおかた男だろうよ。」
    「ま、意地悪な言い方するのね。あなた、陽菜嫌い?」
    「そんなことはないよ。あっちこそ僕のこと苦手なんじゃない?そんな気はする。」
    ブラックコーヒーをあおると、むせてしまった。
    「ごほっ、ごほ、ごほ!」
    服にまでコーヒーをこぼしてしまった。
    僕の服なんかどうでもいいけど、彼女の水色のワンピースまで台無しだ。
    「嫌だ、大丈夫?」彼女が眉をひそめ、おしぼりで服を拭いてくれる。
    「ごめんね、ありがとう。君の服こそ拭いた方がいいよ。」
    が、おしぼりがひとつしかない。この喫茶店は、いつも、そうだ。やはり老紳士も少し耄碌しているのかな……。
    彼女が老紳士を呼んだ。
    老紳士は、おしぼりをもう一つ持ってきてくれたが、僕とは目をあわせず、彼女に手渡した。
    老紳士もやはり男だな。かわいい女の子に渡したいってわけか。
    「本当ごめんよ。かわいい服が台無しだね。よく似合っていたのに。お詫びに代わりの服をプレゼントさせて。」
    「そんな……。いいのよ。」
    「いや、それでは僕の気が済まないよ。」
    「じゃあ、お言葉に甘えて、プレゼントしてもらおうかな。」彼女は、上目遣いに僕を見た。
    「うんっ。じゃあ、一緒に買いに行こう。」可愛すぎてブティックごと買い占めたくなるかもしれないけれどね。もちろん、貧乏学生にそんな甲斐性はないが。

    洋服は、百貨店に入っている彼女の好きなブランドのショップで購入した。桃色の花柄ワンピースだ。
    「ちょっと派手すぎないかしら」
    「そんなことないよ。」さながら花の妖精のようだ。
    ほら、あそこにいる若い女性店員もぼーっと彼女に見惚れている。僕のことは、目に入っていない様子だ。それよりさらに少し年上の女性店員は、彼女と目が合うと気恥ずかしそうに目をそらしてしまった。僕のことなんて一瞥もくれないのに。同性である女性から見ても、彼女は魅力的なのだ。
    「とってもよく似合っているし、綺麗だよ。花の妖精みたいだ。」
    僕が微笑むと、彼女は顔を耳まで真っ赤にした。
    「もう、お世辞は、よしてよ」
    「お世辞なんかじゃないよ」
    「わかったわ、これにする……。」
    会計を済ませ、この後どうしようかと尋ねると、バラが観たいと彼女が言った。
    今は五月。確かにバラも見頃の季節だ。
    僕らは都内でも有名なバラ園に行くことにした。
    新しく買った彼女のワンピースは、きっとバラに映えることだろう。

    平日の昼間だというのに、バラ園には人がたくさんいた。もっとも来場者の属性が、土日平日関係ないような人ばかりだったからかもしれない。定年退職ですらはるか昔のようなご老人達、現代のマリー・アントワネットと言うべきマダム軍団、僕らくらいの年齢のロリータファッションに身を包んだ女の子達、そして僕らと同じく大学生のカップル……。
    「空いてるかと、思ったのに混んでいるわねえ。」
    グレイヘアのマダムが連れのふくよかなマダムに話しかける。いやはや、同感です。
    「そうよねえ。一人で来てる人もいるんだわね。」
    「よっぽどバラがお好きなのね。じっくり見れていいのかもね。」
    「若いうちはねえ、一人でも映えていいわよねえ。」ねえ、そうねえ、と仲良くうなずき合う。
    へえ、一人で来ている人もいるんだ。マダム達じゃないけど、よっぽどバラが好きなんだろうな。

    ロリータファッション嬢達が、色違いでお揃いのフリフリとした日傘を差して写真を撮っているのを見て、僕は言った。
    「僕らもバラの前で写真を撮ろうか。」
    彼女は、うつむいた。
    「え、なんか恥ずかしいわ。」それより、と彼女は続ける。
    「せっかく来たんだから、バラの写真を撮って欲しいな。私、バラが大好きだから後から撮って見返してみたいの。」
    「本当にもう、奥ゆかしいな。君は。」
    僕は、彼女からスマホを受け取った。

    園の中ではいろいろなバラが咲き乱れていた。
    皇室や外国王室のプリンセスや往年の映画女優の名前を冠したもの、深紅やピンクだけではなく、クリーム色、紫、白、オレンジ色がかったもの、一輪で咲いてるものや小さい花がひしめき合って咲いているものなど様々だった。ピークを迎えた花々は、どれも見事で、まさに咲き乱れていると言った様だった。
    そのすべてのバラを一つ一つ、スマホカメラで撮影する。
    「一番好きなバラはどれなの?」
    「どれかなあ。どれもきれいで迷うけど……。」これかしら、と彼女が指差したバラは白地に中央が薄桃色に染まった品種だった。名前は、「初恋」。愛らしい姿は、まるで、初恋に心をときめかせ、はんなりと頬を染めた美しい乙女の化身のようだ。
    「そうなんだ。君にぴったりだね。名前といい、姿といい。とっても可愛いよ!」
    嬉しくなって、僕は言った。彼女は、ミルク色の肌をみるみるうちに頬を薄桃色に染める。可憐な様子は、本当にこのバラそのものだ。
    「あ……あなたは、どうなのよ。どのバラが好きなの?どれがきれいだと思うの?」
    「え、僕?」少し意地悪してみたい気持ちに駆られる。「教えてあげない。」とニヤリとして言ってやった。
    「まあ、意地悪ねえ。教えてよ。」
    「やーだよー。」
    「でも、どれもきれいね、本当に。将来庭付きのお家に住んだなら、バラを植えたいわ。家は真っ白な洋館風の家で、色んなバラを咲かせたいな。」
    目尻を下げて、うっとりとする彼女。
    「そうだね。」
    そうだね、でも……。
    でも僕にとっては、君という花が一番きれいだよ。

    バラ園を後にした僕らは、帰りの電車内で、また陽菜に会った。
    僕らが、杖をついたおばあさんと赤ちゃんを連れた女性に座席を譲り、立ち上がった瞬間に、陽菜から声をかけられた。
    「あら、今日はよく会う日だわね。」
    彼女は、にやにやしながら見たこともないような青年を連れていた。うちの大学の生徒だろうか。
    「そうね。こちらは……。」
    「この人は、あたしの彼氏よ。最近付き合いだしたばかりなの。」
    そう言って陽菜は、彼女を自分の恋人に、自分の恋人を彼女に紹介した。
    相変わらず、僕のことは完全に無視だ。
    驚いたことに、陽菜だけでなく恋人だという青年まで、僕の存在がないかのように彼女のほうばかり見ている。
    彼女が綺麗だからって、何てぶしつけなやつだ。
    恋人同士って似る者なのかな。
    ふん、いいさ。僕もずっと不機嫌に黙っていてやる。
    「どこ行っていたの?あたし達は映画を観に行ったの。」
    そう言って陽菜は、話題のアニメ映画を観たと続けた。
    「私達は、バラ園に行ったわ。すごくきれいだったの。彼にいっぱいバラの写真を撮ってもらった。」
    陽菜は、左眉を高々と吊り上げた。
    「私達?ああ……。彼、ねえ。」
    「あんた今、彼氏いるんだ?初耳だけど。」
    小声でつぶやくように陽菜は言った。
    本当に感じの悪い女!僕のことを何だと思っているのだろう。いつも彼女と一緒にいるんだから、察して欲しい。
    僕は、隣の車両に向かって歩きだした。
    僕達が座席を譲ってあげた、例の杖をついたおばあさんが、呆気に取られたように見ていた。他人がどう思おうと、今はどうでもいい。だが、せっかく譲ってあげたのに赤ちゃんを連れた女性は、立ちっぱなしで抱っこしていた。立たないと赤ちゃんがぐずるのかな……。そんなどうでもいいことを考えながら、足を早めた。
    「あ、ねえ、ちょっと!」
    彼女も慌てて立ち上がり、陽菜に別れを告げ、僕を追いかけてきた。
    「どうしたって言うのよ。」
    僕はカンカンになって、答えた。
    「あいつ、何だよ!僕が君の彼氏に決まっているだろう。意地の悪いことを言いやがって!」
    「悪気はないのよ、あの子。本当は、優しい子よ。」
    「悪気がなかったら、何をしたり、言ってもいいって言うのか?もともと気に入らなかったんだよ、あいつは。僕のこと、いつも無視してきて。」
    ぷんぷんと怒る僕に彼女は、肩をすくめた。
    「ごめんなさい。でも、配慮がない子なのかもね……。私は嫌いじゃないけど、あなたが嫌ならお付き合いはしないわ。」
    しょんぼりする彼女にため息をつく僕。
    なんてことだ、自分がイライラしたからって、大切な彼女を困らせてしまった。これでは彼氏失格だ。
    「僕こそごめんね。他人がどう思おうと関係ないよな。僕は、君さえいればいいんだから……。大好きだよ。」
    しかし、陽菜は何故僕をここまで良く思っていないのだろう。僕は、知らない間に陽菜を傷つける何かをやらかしてしまったのだろうか。
    彼女は、にっこりとした。
    「ありがとう、私もよ。」
    遠くで陽菜とその彼氏が、何事か言い合っていたが、もう気にならなかった。

    翌日の大学の講義は、一限からグループワークだった。
    科目は、心理学入門。議題は、他者から見た自分と自分から見た自分の相違。
    内容は、二人一組になって、自己紹介文を考えるのと同時に相手についての他己紹介文、相手が考えたであろう自分に対する他己紹介文を想定するといったものであった。
    陽菜がこちらに近づいてくる。
    そして彼女のほうを見て、言った。
    「あたし達で組みましょ。」
    ほらね、また僕のことは無視だ。別にいいけど。
    だが、彼女はやんわり断った。
    「私はいいわ、彼がいるから。」
    陽菜は一瞬固まり、
    瞳が大きく見えるカラーコンタクトの入った目玉を更に大きく見開いた。そして、ため息をついた。
    周囲がざわざわとざわめき出した。
    何を言っているかよく聞こえないが、
    「また……?」、「可笑しい」、「ひとりで」、「精神的に」といったような単語が聞こえる。
    そうして、はっきりと
    「陽菜もほっときゃいいんだよ」という誰かの声が聞こえた。
    「前から言おう言おうと思ってたんだけどさ」陽菜が怪訝な表情で僕らを見る。
    「何だ」たまらず、僕が口を開く。
    面倒臭い女だ。一体何だと言うのだろう。
    「ねえ、今誰と話しているの……?」陽菜が上目遣いで呟く。心なしかいつもの甲高い声が、うわずっている。
    「どう言う意味だよ」
    ワンテンポ遅れて、おっとりと彼女も口を開く。
    「どういうこと?陽菜」
    こんな女に馬鹿にされたような態度を取られる筋合いはない。誰と、とか本当に失礼なやつだな。何を言っているんだ。
    「"その人"、どこにいるの……?」
    陽菜が後ずさりをする。
    「え、あれ……?」
    陽菜が持っているペンケース代わりのポーチにミラーが付いていた。
    そこに写るのは、困惑して眉を八の字に歪める彼女ひとりだ。僕は何故だか写っていない。
    一体どうして……⁈
    試しに僕は手を振ってみた。
    すると、鏡の中の彼女もひとりで手を振りかえす。
    次に僕は頭をぶんぶん、と振ってみた。
    やっぱり、鏡の中の彼女もぶんぶんと頭を振る。
    「え、僕・・・私・・・?」


    私はただ、頭を抱えるしかなかった。
    「あ、あ……あ、あああーっ。」
    叫び、うずくまる私をクラス中の人間が見ていた。
    陽菜はその場に固まり、ただ呆然としていた。
    居た堪れなくなった私は、教室を逃げるように飛び出した。

    やっと、やっと見つけた理想の恋人だったのに……。
    立ち止まることを知らず、ただただ走りつづける私の脳裏に蘇ったのは、ある一人の男性だった。


    その時、私は高校二年生。その人は、一学年上の三年生だった。
    その日は……、思い出した。九月の文化祭後のことだった。

    「君が好きだ。」
    派手すぎず、地味すぎず、
    それでいて顔立ちの整った黒髪の眼鏡をかけた男子生徒。それが彼だった。
    「先輩……。」
    校舎裏に呼び出され、告白を受けた。先輩は、私が所属していた弦楽部で一緒だった。
    私がヴァイオリン、彼がチェロを担当していた。
    「私なんかのどこが……。」
    「外見が好みなのは言わずもがな、君の一生懸命なところが好きなんだよ。部活の朝練も一番早く来て、練習しているだろう。真面目な努力家。それでいて優雅でスマート。それが君の一番の魅力だ。」
    「そうですか、私……。」
    かあっと耳まで赤くなるのがわかった。
    いつも、そんなに見てくれているんだ。
    「君は、どうなの?」
    真っ直ぐな目で私を覗き込む彼。
    いつも優しくて、他の男子とは違って下品なジョークを言わない彼は私の憧れだった。一つしか違わないのに、まるで大人の男性みたいだった。
    「私……、私も先輩が好き!先輩が好きですっ。」
    叫ぶように言った。
    「よかった。断られたら、どうしようかと思ったんだよー。本当によかった!」
    先輩は、いつもの真面目そうな顔を崩してへにゃっと笑った。まだ十代なのに目尻に皺がよっていた。

    それからの私は、彼のために生きていると言っても過言でなかった。彼と一緒に帰宅するのはもちろん、大学受験のための予備校も彼と同じところに入塾した。
    まだ二年生なのに塾は早いのではないか、とのんびりと言う母親に父親は、「この子が勉強をやる気になっているんだから、いいことじゃないか。」と二つ返事で入塾させてくれた。
    学校の帰りも塾の帰りも、土日もずっと一緒だった。
    そんな私達を『夫婦みたい』、『ニコイチ』と皆は評したが、悪い気はしなかった。
    というか、とても嬉しかった。
    私の家庭……、官僚でいつも帰りが遅く、子育てはすべて妻に丸投げの父親、おどおどと夫や子ども達の顔色を見ながらも何を考えているかよくわからない母親、そんな母親から(父親からも、かもしれないが)溺愛されている優秀で生意気な有名進学中学に通う弟。表面上は完璧でも私は誰にも心を許せなかった。友人だって陽菜をはじめ、何人かいたけど、広く浅く付き合う私に心から親友と呼べる人はいない。そんな私にとって、彼は少し理屈っぽいが安らげる存在だった。あの笑い皺を見ると、いつでもほうっと胸が熱くなったものだった。

    部活もずっと一緒に練習していた。
    「どうしたの?今日、体調悪い?」彼が心配そうに顔を覗き込む。
    「え、どうして。」確かに弟の風邪がなんとなくうつったような気がしたところだった。
    「どうしてわかったの?確かになんとなく風邪気味なんだけど……。」
    でも家では誰も気づかず、両親ともに、ひたすら弟の心配だけをしていた。
    いつの頃からだろう。私は、自分が家庭で居ても居なくてもどちらでもいいような存在のように感じていた。さながら庭に咲いているが、だれも毟らず、そのままにしている雑草の束のようだった。
    「やっぱりね。音がこぼれていたから。」
    ふっ、と私は笑う。
    「あなたってお父さんみたいね。」
    「お父さん?君の?」
    「ううん、そういうことじゃなくて。お父さん全般って感じ。」
    「うわあー、なんだよ。おやじくさい、みたいな?」
    またも目尻に皺がよる。「まあ、よく言われるよ、俺は。」
    「いいえ。なんだかその」
    「ん?」
    「あたたかいきもちになるの。」
    優しい気持ちになって、私は言った。
    「ええっ?ふふ、なんだよ。」
    言われて悪い気はしないみたいで、彼の笑い皺が一層に深まる。
    そうね、彼はきっといいお父さんになるわ。厳しすぎず、甘すぎず、それでいて声を荒げたりしないし、いつも冷静に子どもに諭しそう。水のような愛情で、家庭を包んでくれる筈だ。私は、それをじっと優しく見守るお母さん。うちの父や母みたいにきょうだい差別なんてしないし、子どもを寂しい気持ちになんてさせないんだから。
    そう思って、私はにんまりとした。

    その年のクリスマスは、先輩と楽しい時間を過ごした。例年我が家のクリスマスといえば、父は帰りが遅いため当然のごとく、参加しない。母は料理の腕自慢だから、私達子ども相手にいつもローストチキンやらケーキを作ってくれるものの、会話が弾まずつまらないものだった。ちなみにその上、幼い時のクリスマスプレゼントだって勉強の本やら教材などに限られていて、陽菜や他の友達が、アニメの魔法少女をモチーフにした玩具を買ってもらっていて、羨ましかったっけ。
    その話を塾に行く道すがら先輩にしたところ、「へえ。なかなか堅い感じだね、君の家って。」と驚いていた。
    「先輩のところは?」
    「まあ、うちは両親とも自由人だからねー。うちはうちで変わっていると思うけど、皆別々に過ごすよ。小さい頃は、父母どちらかの実家で過ごした。」
    今年は、と先輩が切り出した。
    「もちろん、一緒に過ごすよね?」
    「えっ」
    「い、いやあ、もちろん、夕飯食べるだけなんだけどさ。」横に並んで歩いた彼の横顔は、心なしか赤いように感じられた。
    「塾の延長だから、いいでしょう?」
    「うん……。」私は。こくんと頷いた。

    その日、学校から一旦帰って、塾に向かうことにした。母には、ボーイフレンドと夕飯を食べると伝えた。
    母がどんな人か知りたがったので、同じ学校の部活の先輩であることとすごく真面目な人だと伝えた。
    「写真ないの?」と聞いてきたので、見せると、「あら、本当に真面目そうな人ね。うちのお父さんにちょっと似ているかな。」と微笑んだ。似ているのは学力が高いところと眼鏡をかけているところくらいじゃないかな、と思ったけど「いいわよ、あまり遅くならないでね。」と機嫌よく送り出してくれたので、特に何も言わないでおいた。
    塾の帰りだから、あまり華美な服装は出来ない。かと言って特別な日だし、ちょっとはおしゃれをしたい。私は、バーバリーブルーレーベルの可愛いチェックワンピースに黒いカーディガンを羽織っていた。
    塾でも陽菜とは同じクラスで、「いいじゃん、いいじゃん。似合ってるよー。デートっしょ?いやあ、いいですなあ。青春ですなあ。」と授業前に揶揄われた。
    「陽菜こそデートじゃないの?」と言うと、「あたし?こないだ別れたー。」と首をぐるぐる回しながら答えてくる。「てことでまあ、ひとつ、この陽菜ちゃんに合うような、先輩のカッコイイお友達を今度紹介してよねー。」
    「うふふ、言っておくね。」
    「お願いしまーす、奥様ー。」
    陽菜は私に抱きついてきた。

    塾が早めに終わったので、出入り口のところで先輩を待っていた。
    「ごめんね、お待たせ。」15分くらいしてから先輩が到着する。
    「ううん、大丈夫。」
    「早く終わったんだね。本当にごめん。さあ、行こうか。」
    先輩が連れて行ってくれたのは、少しおしゃれなこじんまりとしたイタリアンレストランだった。夫婦で個人経営しているようで、二人で切り盛りしているようだ。
    入口には、クリスマスらしくイルミネーションが彩っている。「わあ、かわいい」サンタクロースの人形が数体立っている。
    中に入ると、ピンクと薄いブルーを基調としたインテリアで溢れており、レストランというよりは、誰かのおしゃれな家に来た感じだ。
    一番安いコースだったが、前菜とパスタ、メインディッシュ、デザートまで出た。味はどれも上品でやさしい味わいであった。
    デザートのパンナコッタが出たところで、先輩がささやいた。
    「どうだった?」
    「どれも美味しかったわ。こんなに素敵なお店、よく知っていたわね。」
    「うん……。まあ、ネットで調べたんだ。女の子が好きそうな店って言うんで。」先輩は、小声で早口になった。
    「それから、これ。」先輩は、青紫色の小さな箱を取り出した。
    「何かしら。」
    「……クリスマスプレゼントだよ。」
    私は、はっとして、正面の彼を見た。
    「ありがとう。」
    中を開けると、星型のネックレスだった。
    「すごくかわいい!本当にありがとう。私、ずっと大切にするわね。おばあちゃんになっても身につけるわ。」
    彼は耳まで真っ赤になって、言った。
    「気に入ってくれて、よかった。女の子が好みそうなものってよくわからないから、さんざん迷ってしまったんだけどね……。」モゴモゴと口ごもる。そんな彼を見て、デパートのアクセサリー売場で右往左往しながら、ペンダントを物色する彼の姿を思い描いた。見るからに堅物の少年が華奢なシルバーの星型ネックレスを購入するシーンを目に浮かべ、くすりとした。
    「私からもプレゼントがあるのよ。」
    「えっ、あ……あ、ありがとう。」
    私は、少し大きな包み紙を取り出した。
    彼はゆっくりと丁寧にリボンをほどき、包み紙のセロハンテープを取る。
    「わあっ、すごいね。これ。」
    ブルーグレーの毛糸で編んだ手編みのマフラーだった。奇遇にも、星のワンポイントを編み込んでいた。
    「自分で?自分で編んでくれたの?お母さんにやらせたりしてないよね?ていうか、星柄じゃん!同じだね。」
    私は、こくんとうなずいた。手芸がさほど得意なわけではないが、嫌いではない。母が以前使っていた編み棒を拝借して、編み物の本と首っ引きで編み上げたのだった。
    「はは、本当にありがとう。ずっと大切にするよ。おじいちゃんになっても身につけるよ。」
    首にマフラーを巻いてみた先輩は、先程の私と全く同じセリフを言ってくれた。
    ああ、この人こそが私の運命の人なんだ。同じように感じて、同じような気持ちでいてくれる。寒い時は二人で寒さを感じ、暑い時は二人で暑さを感じる。
    これからもずっと、高校卒業しても、大学に行っても、社会人になっても、それこそおじいちゃんおばあちゃんになっても、だ。
    レストランのコースでお腹いっぱいだったが、心はそれ以上にいっぱいだった。
    会計は、先輩が支払ってくれた。
    「いいの?プレゼントだって高かったよね?」
    私が尋ねると、彼は「大丈夫だよ。だって、アルバイトしたんだから。」
    「えー。」
    勉強に私とのデートに忙しかったはずなのに一体いつそんな時間があったのだろう。
    「いつアルバイトなんてしていたの?ていうか私のためにそこまでしてくれたのね……。」
    目元がじいん、とした。
    「……と言っても大したことないよ。親戚で中学受験する子の勉強を添削してやっただけだよ。自分の経験が生かせたし、なかなか大学受験につながる内容もあったから面白かったよ。」
    相変わらず、笑い皺を作る先輩だ。
    小遣いをもらったようなものだからさ、と彼は言った。
    「さ、家の近くまで送るよ」
    「うん。」
    私は、目を細めた。
    夜空を見上げると、白い二つの星が浮かんでいた。

    ある日、学校で一緒に学食を食べている時に彼が言った。
    「もうすぐ本格的に受験勉強が始まるし、その前に思い出を作りたいんだ。」ソースのあまりついていないアジフライを食べながら、ささやくように彼は、言った。
    「思い出って?」私は、首を傾げた。「つまり、どういうこと?」
    「つまり、君と旅行に行きたいってことですよ。」
    こほん、と咳払いをし、かけていた眼鏡を整わせながら彼は言った。
    「旅行って……。私達、まだ高校生よ。そんな。」私は、心臓のばくんばくんとした鼓動を感じながら言った。
    「うん、そうだね。でも、それが何。近年、高校生の外泊は珍しいことではないさ。うちの両親は放任主義なのかもしれないが、学問さえ修めていれば、その点は何も言わないね。」ヒニン、にさえ気をつけていればと彼が続けたが、私にはヒニンが「避妊」のことだと理解するのにしばらく時間がかかった。かあっと顔が赤くなるのを感じる。
    「あ、ええ。考えてみるわね……。」
    「うん。ちょっと準備しておいて。」そう言って、彼は私の手を握りしめた。

    準備も何も、古風な我が家の両親が「好きにしなさい」という筈もなかった。かと言って、両親に嘘をついての外泊など私の性分からは、できなかった。とはいえ、さすがの私も両親双方に相談するほど子どもではない。まず、母親に打診した。
    「ええ、外泊ですって?」
    ハナエモリのエプロンをした彼女は、異国の言葉でも聞いたように戸惑った。彼女お得意のチキンのクリーム煮を作っていた途中らしい。クリームとバターの香りがぷんぷんとキッチン中に広がる。
    「それはちょっと、やめておいた方がいいわね。あなた達、まだ高校生じゃないの。」
    「そ、そうだよね……。」
    目線を下に泳がせながら、私は慌てて同意する。
    「ねえ、あなた大丈夫なの。同じ学校の学生さんで、しっかりした方だからいいと思っていたんだけど、外泊をせまる男の子ってちょっとどうかと思うわよ。」
    「う、うん……。」
    「大丈夫?ちゃんとお断りしなさいよ。」
    花みたいに鮮やかな黄色のサフランライスとアイボリーのクリームソースがかかったチキンを盛り付けながら、彼女にしては珍しくキッパリと言い放った。
    「はい……。」
    私はただただ、頭をうなだれるより他なかった。

    「ふむ」翌日、外泊の申し出を断った私に対して、彼はかなり冷静な態度であった。
    「なるほど、なるほど。君としては、僕との旅行について気が乗らないわけではないが、家庭の安寧のためにそこを回避しようってわけね。」彼は眉間のところでクイッと眼鏡を持ち上げた。「つまりは、僕との愛情より母親、ひいては父親との関係性を取った、と……。」
    「ちょっと待ってよ。そんなこと言ってないじゃない。確かに私達まだ高校生なのは事実よ。」
    「まあね、おっしゃる通り。高校生たるもの、学費を払ってくれているスポンサーである保護者の意向に沿うのは、何も間違っていないと思う。僕だって、君が君の親御さんの不興を買って、万が一君に退学されても今すぐには責任とれないし。」そう早口で捲し立てた後に彼は、校内のベンチから立ち上がった。
    「まあ、そういうわけで仕方ないよね。気にすることはないよ。」彼はにっこり笑ってから、一歩踏み出しかけて、止まる。そして、こちらを見ずに言った。
    「本当は少しだけ残念かもな。」僕が甘いんだけど、と口ごもる。
    「あ、うん。ごめんなさい……。」私はベンチに座ったまま、うつむいた。
    「なあに、それぞれの家庭の価値観および教育方針が違った、ただそれだけのことさ。」じゃあ、と彼が歩き出した。私は、その後ろ姿を見守る。
    「あ」突然彼が振り返って、私の方を見る。
    「本当に君が気に病むことは、ないよ。これまで通り、交際は続けようね。今日も一緒に帰ろうな。」と目尻を下げた。
    「ん……!」
    彼が気分を害していなかったと思われたため、私もニコッと微笑みを返した。それはそうだ、彼は、一緒に外泊できないからとて、ヘソを曲げるような狭量な男性ではない。きっと……!

    私が読んだ通りかどうかはわからないが、それから彼の態度は変わらなかった。
    変わらず、塾にも一緒に通っていたし、彼が引退するまで部活でも一緒だった。ただ、受験直前期には、インフルエンザなどにかかるといけないし、さすがに勉強に集中したいという理由で会うのを控えていた。
    私も湯島天神のお守りを渡すくらいで、こちらからは積極的にコンタクトを取らなかった。そうこうしているうちに受験は本番を迎え、彼が難関私立大学に合格したという報告を受けた。だが、引き続き本命の国立大学を受験したいという彼の意向で、これまで通り頻繁に会うのは避けていた。

    3月に入り、半ばに近づくと先輩の第一志望大学の合格発表があった。結果を尋ねていいものやら、どうやらそわそわとしていると、向こうから連絡があった。
    「久しぶりだね。僕もやっと受験勉強から解放されたよ。」どこか明るい声だった。
    「お疲れ様でした。」結果は……と尋ねようとする私に彼は、こうたたみかけた。
    「結果はね、補欠合格だったよ。」あそこの大学なら、滅多に辞退する人もいないし、実質不合格だよね、と彼は笑った。「まあ、でも仕方ないさ。」先に合格していた難関私立大学の名前をあげ、「十中八九こっちに行くと思ってる。」
    「そう……。でも、そちらの大学でもすごいわ。誰もが合格するわけではないもの。」
    「『でも』、ね……。まあ別に人にすごいって言われたくて選んだ学校じゃないからいいんだけど。」それより、と彼は続けた。
    「久しぶりにこれから、会わないかい?積もる話もあるし。場所は……。」
    先輩は、大手のカフェチェーン店で、私達の高校の最寄りの店舗を指定してきた。いつも落ち着かないと言っていた先輩が、そのような場所を指定してくるのは珍しいことだった。だが、その時の私には、そんなことどうでもいいことだった。
    やっと、先輩に逢える!
    電話で会話を終えた私は、嬉しさで部屋着のまま飛び出さんばかりの勢いだった。いけない、いけない。
    私は、髪をヘアブラシで丁寧に整え、ジバンシイのプチサンボンを身に纏った。お化粧はニキビが増えるからあまりしないけど、まつ毛をアナスイのビューラーで持ち上げ、マスカラを塗った。唇には、ドラッグストアで買ったドメスティックブランドのリップグロス。そして、お気に入りのブルーのセーターに黒いベロアのスカートを履いてお店へと向かった。

    店に到着すると、先輩はまだ来ていない。
    (まだかな、まだかな……。)
    抑えきれぬ想いを胸の中に無理矢理封じ込め、彼を待つ。
    先にコーヒーを注文しておく。ブラックコーヒーを二つ。当時は、先輩がコーヒー党だから、すっかり私も感化されていた。
    五分、十分、十五分……。コーヒーがすっかりさめて、生ぬるくなった頃、ようやく先輩は、現れた。
    「ごめんね、待った?」
    「いいえ、そんなことないわ。」
    先輩は、見たこともないようなグレーのジャケットを身につけていた。
    「そう、ならよかったんだけど……。」
    何となく元気がない気がする。やはり、本命の大学に合格できなかったのが原因だろうか。
    コーヒーをひとくち含んで、彼が苦笑いする。
    「やっぱり待ったんじゃない?随分ぬるいよ。」
    私は、肯定も否定もしない。
    「まずは先輩、受験お疲れ様でした。でもさすがだわ。やっぱり、先輩は……。」
    「えっ、ああ、まあ電話でも言ったんだけど、あっちの大学でもいいかなって。まあ別にいいんだ、受験のことは。」
    彼は、早口で捲し立てた。
    「それより今日は、話があるんだよね。」
    「あら、何かしら?」私は、くすくすと笑った。「楽しい話だといいな。先輩今度から私の家庭教師をしてくれるとか?」
    彼はちょっとだけ困ったように微笑んだ。
    「うーん、ちょっと、そういうわけにはいかないかなあ。実は……。」ぬるいコーヒーには、いつのまにかフレッシュミルクが入っているようで、薄いベージュ色をしていた。彼は、それをぐいっと飲み干した。
    「実は今まで通りの付き合いは、もうできない。」
    私は、黙り込んでひたすら、その意味を考えた。
    「どういうこと?」本気でよくわからなかったので、思い切って尋ねることにした。
    彼はまた、少し早口になった。
    「つまり、もう君とは、交際できないってことです。」
    「え……。」また私が、押し黙る。
    「何が?何で急に……?」
    「君にとっては急にでも、僕にとっては、そうでもないかも。ずっと前から違和感を感じていたからね。」
    「違和感?違和感って何。」
    胸が痛くなってきた。私の先輩への気持ちは、いつからか独りよがりだったというわけか。でも、いつから?いつから彼は「違和感」を感じ始めてしまったのだろう。少なくとも何ヶ月も前にはなってしまうが、最初は先輩のほうからアプローチしてきたのだから、最初から大して好きではなかったということは、ないだろう。では、いつ?では、何故?外泊を断ったから?受験勉強を重要視するあまりに遠慮しすぎて会わないでいたから?
    「ごめん。僕の言い方がわかりにくかったのかも。違和感、というのは価値観のずれやら、君を僕が好きな理由と君の実体が整合性取れているかとか、ああ、ごめんねー、逆もしかりだと思う。そういうのも含まれるよね。だけど、そういうことは僕らやうまくいっていないカップルだけではなく、うまくいっているカップルにも大なり小なりあることなんだよね。ただ、その違和感がかなり大きなものとして、僕には感じられたので、交際を終わりにしようと思うんだ。」
    ベラベラと淀みなく話し続ける先輩を見て、私は全く知らない人の話を聞いているように感じていた。
    私は、ぬるくなったどころか冷たくなったコーヒーのマグを両手で、そっと包み込んだ。
    「言っている意味がわかりません。……それは、私が悪いところを直したらいいのかな」
    「そういうわけでは、決してないよ」叫ぶように彼が言った。
    「こういうことは、誰が悪いとかじゃない。もちろん君が悪いわけじゃないし、だからと言って僕が悪いわけでも、受験が悪いわけでもない。第三者が悪いわけでもないよ。」
    理路整然と語る彼を初めて憎らしく感じた。
    「じゃあ、私が、私が明日死ぬって言ったら?」
    最後のほうは、少しヒステリックな言い方になっていたかもしれない。
    彼は、眼を見開いた。そしてすぐさま、目を細め、眉間に皺を寄せた。
    「命や極端な言葉を交渉の材料に使うことって僕は、最も卑怯で最低な行為の一つだと思っているよ。」
    それは、私が全く知らない彼の顔だった。彼という皮をかぶった何かに見えた。
    そして彼は、蝿かゴキブリでも見るような眼つきでこちらを見て、そして言った。
    「君がもし、本心からそう言ったんだったら、本気で僕は君という人を軽蔑するし、嘘だとしたら、それはそれでやっぱり僕らは別れるべきだと思う。」これ以上僕らの思い出を汚すのはやめにしないか、と先輩は立ち上がった。私は、うつむいて「はい……。」と言うしかなかった。
    「わかってくれたんだね、よかったよ。」彼は微笑んだが、もうその笑顔には、笑い皺はできていなかった。

    あれから、どうやって帰ってきたのかわからず、ただフラフラと自宅に着いた。
    夕飯ができたという母親の声も無視して、部屋に引きこもっていた。
    そんな私を誰も気に止めない。
    結局、それからずっと何日も部屋に引きこもることになる。幸いにして、その日から残っている三学期の登校日は、終業式と在校生代表として私達の学年が出席する卒業式くらいだったが、両日とも私は欠席した。だが、春休み中も勉強せず、部屋に籠りきりだった。
    母は一応は、そんな私を心配して生理痛がひどいのか、とか起立性調節障害じゃないのか、とか言って、おろおろとしていたが、当然それはどれも、的はずれな心配だった。
    そうこうしているうちに、そんな私の状態は多忙であまり家にいない父親の知るところとなった。
    私の部屋を執拗にノックする音が響いた。
    「……はい」
    無視をしたいところだったが、面倒だから、返事を返す。
    「母さんから聞いたぞ。お前、春休み中ずっと籠りきりだそうじゃないか。出てきて話そう。」
    「……。」本気でほっておいてほしい。
    「あと、陽菜ちゃんからも聞いた。男に交際を断られたそうじゃないか。」
    「……。」陽菜も随分と余計なことをはっきりと言ってくれたものだ。愛想がよくて、はきはきとした彼女は、私の父のお気に入りだ。しかも陽菜の父親は、父と同期で大変仲がいい。にしても、私と先輩が破局した話を知っていたたとは。先輩ったら、わざわざ陽菜に話したのかな。
    「お前、ちょっと情けないぞ。相手はもう新しい恋人がいるみたいだよ。」
    父親の声を聞いて、心臓を針で突かれたような痛みが走った。
    「……そう。」
    「うん、いいから出てきなさい。」
    私は自室のドアを開け、父に促されるままリビングに向かった。

    リビングの四人掛けテーブルには、父と母が向かいに座り、私の隣は空席だった。弟はきっと、自分の部屋にいて勉強でもしているのだろう。あるいは、友達と外出しているのかもしれない。
    「お前は、自分が情けないと思わないのか。そんなくだらない男のために打ちひしがれて。」
    心底理解できないと言ったように父はため息をついた。「だいたい学生の分際で、外泊したいって言ったんだって?随分とふざけた男じゃないか。」
    「……。」私は、目を細めて母親のほうを見た。
    彼女も真っ直ぐ私を見つめ返した。
    「何とか言ったら、どうなんだ。ん?勉強はどうなってるんだ。受験まであと一年もないだろう。」
    「勉強する気にならない。学校も行きたくない……。」
    私は、うなだれだ。
    「は!?」
    父の目が釣り上がる。
    「……お前、何をいっとんねや。ふざけんのもええ加減にしときや!」
    出た。関西人の父は良きにつけ、悪きにつけ感情が溢れ出すとお国言葉が出る。
    「春休みやったし、楽しくないなら無理に部屋から出ることない思とって、今までこっちがそっとしといたったら、お前は調子に乗ってそんなことを言うんか。
    だいたいなあ、高校生のくせに男にうつつ抜かして、いやらしいと思わへんのか。それも腐ったような男や。ほんまにお父ちゃん、情けないわ!」
    私は、口を精一杯曲げて、彼の弁論を聞いていた。
    「そんなに悲しくて悔しかったら、勉強で頑張ったらええんや!今時はな、女性かて、お父ちゃんの職場にいくらでも優秀な人はおる!そういう人達みたいになって、そんなクソくだらん男を見返すんや!あいつが落ちた国立大学、お前が頑張って受かったったらええんや!」
    根性論をベラベラと展開する父を見たことのない生物であるかのように私は、ぼうっとただただ眺めていた。言っていることがまるで、スポ根ドラマだ。
    だが、ただ黙って聞いているには限界で、つい口を開いてしまった。
    「お父さんは……。」
    「なんだ」
    「お父さんは、自分のことばっかりじゃない!」
    「なんやて!?どういう意味や!」
    「だって、そうじゃない。私の気持ちなんて、まるっきりどうだっていいのよね。自分の娘が『情けない』行動を取っているのが、腹立たしいだけだわ。私のことなんて、どうだっていいのよ!」
    「なんやと!!」
    父がバン!と机を叩いた。
    「お父さん!」母が小さく叫んだ。「やめてくださいよ。近所に聞かれたら、どうするのよ。」
    「じゃかあしい!こいつがアホなことを抜かすからや!」
    私は、母のほうを睨みつけた。
    「お母さんだって、そう!今だって近所への体裁とか、そういうことばかり気にしてるんだわ。いつもおどおどお父さんの顔色ばかり伺って本当にバカみたい!」
    「お前っ!お前、ほんまにええ加減にせえよ!」父が怒りのあまり立ち上がる。「母さんに謝れや!ほんま人の気も知らんと!」
    「お父さん、私はいいんですよ。そんなことより、落ち着いて。ねえ、やめてよ。」母が興奮して立ち上がった父に縋り付く。
    「ねえ、お母さんはいいけど、お父さんに謝りなさい。ね、明日からちゃんと勉強もするわよね?新学期から学校も行くわよね?」
    先輩と最後に会った日から堪えていた感情が、一気に溢れ出した。
    「もう、いい!もう、本当にたくさんよ!誰も私のことをわかっていない!」そう叫んで私は、自分の部屋へと駆け込んだ。
    誰ももう信じられない、結局私はひとりなんだ。
    後ろから私の名前を呼ぶ両親の声がした。
    あの人たちの望むような「優秀」で、「情けなくない」娘になんて到底なれそうもなかった。
    私は声もなくひたすら泣き続け、ベッドに顔を押し付けた。
    スマホが、ずっとぶるぶると震えて、音を鳴らしていた。
    陽菜から、メッセージがいくつか入っていたようだった。
    『大丈夫?』
    『悪いかなと思ったけど、おじさまに伝えちゃったよ。おじさま達も心配なんだよ。』
    私は、それらをすべて無視して、枕を抱えた。
    そして、どうやら泣き疲れて眠ってしまったようだった。

    ここは、夢か現実か……。
    ぼうっとした光の先に「彼」は、いた。
    黒い髪、濃いめの眉に高い鼻。男性にしては、少し白い肌。
    「先輩……?」
    先輩に似ているようだが、眼鏡をかけておらず、骨格も少し違う。先輩は中肉中背だったが、彼は少し痩せて筋肉質のようだ。
    「僕は君が大好きだよ。」
    彼は、優しく微笑んだ。
    「僕は君を裏切らないし、責めたりもしないよ。自分の理想に君を当てはめたりしないし、そのままの君が大好きだ。」
    ああ、彼こそが私の待ち望んでいた恋人だったのだ。
    「私も、私もあなたが大好きよ……。」
    私達は、ひしと抱き合った。

    「外に行ってみないかい?」
    私は、うんと頷いた。
    部屋を出て、両親へ形ばかりの謝罪をした。父親は、相変わらず何かぶつぶつと言っていたが、最早私には気にならなかった。
    父の小言が終わると、私達はまず、喫茶店に行った。
    私はクリームソーダ、彼はブラックコーヒーを頼んだ。

    それからは、いつでも彼がいた。春休み中も毎日のように一緒に出かけたし、新学期になって学校が始まっても、塾に行っても一緒だった。だが、誰も先輩と交際している時のようには、冷やかしては来なかった。

    傍目から見て「立ち直った」私を見て、両親達はひとまず安心したようだった。勉強もそこそこ頑張り、父の言うような難関国立大学は受験しなかったが、先輩の進学した大学とは別の難関私立大学に推薦入学した。
    両親の希望通りというわけにはいかなかったが、「そこそこちゃんとできる娘」として、よそ様に自慢しているようだった。でも、もはや彼らの評価など私には、どうでもいいことだった。
    だって、受験の時も大学進学時も私のそばにいていつも愛してくれていた「彼」がいたのだから……。
    時々皆が不思議そうな顔をしているのが、こちらとしても不思議ではあったのだけど。

    教室を逃げ出した私達、もとい私は、例の喫茶店に入った。老紳士から座席を案内され、おしぼりをひとつ受け取る。
    すっかり常連と認識されているようで、「いつもと同じでいいですか。」と尋ねられ、つい「はい」と言ってしまった。

    老紳士がすぐにクリームソーダとブラックコーヒーを運んできた。
    老紳士の後ろ姿を見送りながら、私は「彼」に話しかけた。
    「あなたは、私だったんだね……。」
    彼の眉毛がゆがんだ。
    「ごめん。」
    「失いたくなかったんだ、君を。大好きなんだよ」
    泣きそうな顔をする。
    老紳士は、食器を磨きはじめている。
    「もう会えないわね。」
    正体を知った以上、同じ気持ちになりようがなかった。
    「どうして……。僕ら、今まで楽しかったじゃないか。」
    私はケタケタと笑った。
    馬鹿みたい。
    それから涙が溢れ出した。
    次から次へと溢れてくる。
    「ふふ……。うふふふ」
    髪を鷲掴みにし、引っ張る。

    彼がしきりに私の名前を呼ぶ。
    よく聞き慣れた優しい声、穏やかな感触。
    私は、そっと瞳を閉じる。
    ああ、ああ……。

    クリームソーダの氷がからん、と溶けた。

    私は、莞爾と微笑んだ。
    ああ、やはり
    「僕は君が大好きだ。」

     
     
    旧名 バラとミモザ。 詩や小説を作るのが好きなワーママです。現在は、育休中。 ASDのある中学生のお姉ちゃん、定型発達で苦労人?の小学生のお兄ちゃんと、大きめで元気いっぱいの0歳児を育てています。 毎週火曜「わちゃわちゃ女子会」連載中!

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