
凡人の時には力を発揮しないものは大切に保管しておく
失敗も成功も全部記事にする。
そういうスタイルで記事を書き始めた。
でも、すぐに失敗を書く事はしなくなっていった。
失敗しなくなったから?
いや、失敗は色々としてきた。
失敗を隠したいから?
いや、失敗を隠す意味はない。
別に全てさらけ出しても問題は無い。
けれど、意味が無いと思ったから失敗を書くのはやめた。
失敗を書いても評価が上がる実感が湧かなかったからだ。
失敗の価値

凡人の私が失敗を書く、すると一番多いのは「共感」
次に熱意に対する「応援」だったと思う。
共感って難しい。
凡人の話題に共感したところで、それはただのあるあるだ。
共感で特別になるには、先に「何者か」が確立していないと成立しない。
「特別な誰か」というのが先にあって、それに共感できるからこそ特別感が生まれる。
共感が力を持つのはそういう時だと感じた。
そして応援は、失敗に価値を見出したのではなく、熱意に価値を見出したからくれたものだ。
じゃあ、凡人の失敗に価値が生まれる瞬間っていつだ?
それは、失敗から何か学んだ時。
でも、それって本当に「失敗」の価値だろうか?
失敗から得た「学び」が価値となっている。
そう、凡人の失敗は学びのための添え物でしかない。
それに気付いたから「失敗を書く」という意識は消したのだ。
「失敗」は学びの添え物として書く事はあっても、失敗を書くと意識することはなくなった。
凡人の失敗は対比などと同じ、あくまでメインを彩る為の手段だ。
売るものと売らないもの

他にも凡人の時には分析だって評価は低かった。
最初の頃から様々な分析をやってきた。
しかし、凡人の頃の私が頂けた評価の中で多いのは「凄い」ではなく「面白い」だ。
まあ、興味を持ってくださっている事に変わりないが、この場合の「面白い」は少し上から目線で評価しているからこそ出る言葉だと感じた。
どうやら立場が違えば受け取られ方も大きく違うらしい。
そこで私は考えた。
「失敗」が大きな価値を持つのは、評価が得られるようになってからだ。
大物の失敗はそれだけでギャップなど感じてもらい、評価を受ける事ができる。
その先に学びが無くとも、「失敗」だけで価値が生まれる。
だったら、その「失敗」は記録して温存しておいた方が良い。
ここで「失敗」を使うのはあまりにも勿体ない。
逆に分析は続けていって良い。
分析記事は、自分が凡人のうちから書いておいても腐らない。
記事という資産は残るし、後から分析が正しかったと評価されれば、時間の差分だけ伏線として見られて評価が高くなる。
どれだけ早く、何が見えているかが重要なのでその時の価値など気にせずに早く出すのが正解だ。
今売っていいもの、今売ると損するもの
これをちゃんと分けて考えておくと、今書くべき事が見えやすくなる。
最近は評価されるようになってきたものの、まだまだ私は凡人だ。
「失敗」が最大の価値を持つまでは、まだかかる。
その日が来るまで、「失敗」は大事に心の中に仕舞って育てておくのだ。
