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Photo byikeda_takumi

会社を嫌いになる前に、辞めることにした。

    #創作大賞2026 #オールカテゴリ部門

    会社を嫌いになる前に、会社を辞めることにした

    これは、私が2回目の転職をした時の話。

    私は、新卒で入った会社を辞めた。周囲からは勿体ないとも言われた。
    それでも、自分なりに考えた末の決断だった。

    そして転職した先で、私は4年働いた。

    楽しかったこともある。成長できたと思う事もある。
    沢山のお客様と出会ったし、今でも感謝している。

    だからこそ、辞めるつもりは全くなかった。
    少なくとも最初の3年間くらいは本気でそう思っていた。

    年間休日日数105日。私はそれを疑わなかった。
    社会人として働く以上、多少の残業も休日出勤も当たり前だと思っていた。

    でもある日、転職活動の面接でこう言われた。
    「えっ、それって本当に年間休日105日ですか?」

    私は返答に困った。
    年間休日は105日のはずだった。

    けれど、実際に休めていた日数を数えたことは
    なかった。
    だから、面接の後に数えてみた。

    結果は、私が想像していたものとは
    少し違っていた。

    これは会社を告発する話ではない
    誰かを悪者にする話でもない

    むしろ、自分が正しいのか会社が正しいのか
    その答えを探し続けた4年間の記録。

    第1章 辞めるつもりはなかった

    1-1 新卒カードを捨てた日

    冒頭にも言った通り
    私は新卒で入った会社を1年で辞めた。
    理由としては、明らかにおかしい勤怠記録と
    勤務形態だった。
    当時は物流センターに勤めていた。
    最初こそ、高卒での就職だったため日中勤務で
    手取りは16万円弱ほどの仕事だった。
    それが20歳を迎えたあたりから
    夜勤業務が急に始まる。

    深夜0時に出勤し、仕事が終わるのは翌日の13時。
    家に帰って寝て、またその日の0時に出勤する。
    そんな生活が続いていた。
    夜勤専業であればまだ分かる。
    だが日中勤務も混在していた。
    相当な残業時間だったはずだが、会社は稼働して
    いるだけで赤字を垂れ流すようなセンターに
    残業代はほとんど出さなかった。
    さらに後から管理者が勤怠区分を調整できる
    システムだったこともあり、勤務実態と給与は
    一致していなかった。
    目まぐるしい勤務形態と
    それが反映されない給与。
    そしてそれを「当たり前」とする職場。

    結果として体調を崩し、医師に診断されたのは
    「急性ストレス障害」だった。

    当時はすでに令和だった。
    「こんな働き方がまだ残っているのか」と
    本気で思った。
    医師からは真顔で
    「人間やめる前に仕事を辞めた方がいい」と言われ
    退職を決意した。
    退職時には部署変更などの引き留めもあったが
    次が決まっていたこともあり、退職を選んだ。

    1-2 だからこそ、この会社で頑張ろうと思った

    仕事を辞める数か月前から転職活動を進めており
    退職の1か月前には現在の会社から内定をもらっていた。
    複数社を受けていたが
    多くはオンライン面接だった。
    その中で、今の会社だけは対面面接
    (かつ、面接官がこちらに来る形式)
    だった。それは珍しく、強く印象に残っている。

    当時はまだ雪が降っていた。
    履き慣れた安全靴を革靴に履き替え
    不慣れなスーツを着て6駅先の町へ向かった。
    緊張のあまり、30分以上も早く到着してしまい
    駅前広場で時間を潰していた。

    しかし、面接時間になっても相手は現れなかった。
    日付や時間を確認したが間違いはない。

    不安になり、担当者へ電話をかける。
    するとすぐに電話が繋がった。
    「雪の影響で、まもなく到着します」
    その言葉に安堵した。

    やがて面接官が到着し
    駅前に座っていた私に声をかけた。
    「遅くなってすみません」
    「いえ、天候の悪い中ありがとうございます」

    喫茶店へ移動し
    温かいコーヒーを飲みながら面接が始まった。
    当時の私はブラックコーヒーが苦手だったが、所作を見られている気がして、砂糖やミルクを入れる
    余裕はなかった。
    面接では、これまでの経験や価値観について
    深く聞かれた。
    これまでの面接とは異なり、人の内面に踏み込む
    ような時間だった。
    その後、福利厚生や働き方について説明を受け
    1時間ほどで終了した。
    「結果は後日ご連絡します」と名刺を渡された。
    そして約1週間後、あっさり内定の連絡を受けた。

    新卒で入った会社を1年で辞めた経験があった私は、自信を失っていた。
    だからこそ、この会社では長く働こうと思った。
    少なくともその時は、本気でそう思っていた。

    1-3 長く働くつもりだった

    入社してからの日々はあっという間だった。
    気づけば外は、あの吹雪から
    夏の空へと変わっていた。

    異業種ということもあり、覚えることは多かったが、先輩の助けもあり
    何とか業務に慣れていった。
    接客や提案、店舗応援など業務は多岐にわたったが
    お客様から感謝されることは素直に嬉しかった。

    大変なこともあった。
    繁忙期は忙しく、成果が出ずに悩むこともあった。
    それでも、働いた分の給与が出る。残業代も出る。
    そうした「当たり前」がある環境は、自分にとって安心できるものだった。
    私はこの会社で長く働くつもりだった。
    新卒での離職経験があったからこそ、次は続けようと思っていた。
    気づけば1年、2年、そして4年が経っていた。
    その頃の私は、再び転職する未来など
    想像していなかった。

    1-4 それが普通だと思っていた

    今思えば、違和感は確かにあった。
    休日出勤もあり、有休も思うようには
    使えなかった。
    人手不足を感じることもあった。
    新人が入っても
    気づけばいなくなっていることもあった。

    それでも当時の私は
    それを問題だとは思っていなかった。
    正確には、問題だと認識する方法を知らなかった
    という方が近い。
    前職が極端に厳しい環境だったこともあり
    今の職場はそれよりはるかに良かった。

    給与が出る。残業代が出る。
    会話ができる。感謝される。
    それだけで十分だった。
    だから多少忙しくても、休日が少なくても
    有休が思うように使えなくても、
    「社会人とはこういうものだ」
    と思っていた。
    周囲も同じだった。だから疑う理由がなかった。
    今振り返れば、その時点で違和感の種は確かに存在していた。
    ただ、それはずっと土の奥に埋まっていた。
    いや、正確には自分で埋めていたのかもしれない。
    少なくとも、転職活動を始めるその日までは。

    第2章 違和感は静かに積みあがる

    2-1 休みのはずだった

    入社してしばらく経った頃、翌月のシフト表を確認するのが毎月の習慣になっていた。
    休みはどこだろう。
    連休は取れるだろうか。取れたらどこへ行こうか。
    そんなことを考えながら眺めていた。
    求人サイトには「週休二日制」と書かれていた。
    年間休日105日。
    これは他の転職サイトやハローワークにも同じように記載されていた。
    だから当時の私は何も疑わなかった。

    しかし実際のシフトを見ると
    少しずつ違和感があった。
    休日とされている日のうち
    1日は最初から出勤前提になっていることも
    珍しくなかった。

    もちろん、その分は割増賃金として支給される。
    制度として成立していなかったわけではない。

    だから当時の私は、
    「そういう働き方なのだろう」
    くらいにしか思っていなかった。

    むしろ給与が増えることを前向きに捉えていた
    部分すらある。それでも気づけば、週に休める日は一日だけになっていた。

    ただ、それを問題だとは思わなかった。
    周囲も同じだったからだ。
    先輩も上司も同じように働いていた。
    だから私はそれを「普通」だと思っていた。

    今思えば、その頃から休みは少しずつ減っていた。
    しかし当時の私は、その事実を深く考えることはなかった。

    2-2 減らない有休


    社会人になった頃の私は
    有給休暇の制度自体は理解していた。
    休みたいときに休むもの。
    休んでも給与が支払われるもの。
    その程度の認識だった。
    だから最初の頃は
    残日数を気にしたこともなかった。

    しかしある時ふと気づく。
    有休が全く減っていない。むしろ増えている。
    使っていないのだから増えるのは当然だが
    思った以上に使う機会がなかった。
    先輩や上司の中には、体調不良時の欠勤補填として有休を使う人もいた。
    幸い私はほとんど体調を崩さなかったため
    使う機会も少なかった。
    当時の私は、それを少し得をしているように
    感じていた。

    「おぉ、結構残っているな」
    その程度だった。

    まさか後になって、その有休の一部が
    消えていくことになるとは思ってもいなかった。
    今振り返ると不思議でならない。
    休みが欲しくなかったわけでもないし
    旅行が嫌いだったわけでもない。
    有休取得が難しい雰囲気があったわけでもない。
    実際、申請すれば休むことはできた。
    ただ、人手不足は常態化していた。
    その空気の中で、いつの間にか「今はやめておこう」「また今度でいい」と考えるようになっていた。
    有休を使うという発想そのものが
    少しずつ遠ざかっていた。
    それが、私にとっての「普通」になっていた。
    そしてその「普通」は、私だけのものではなかった。


    2-3 「○○が退出しました」


    業務連絡用のLINEグループがあった。
    新しく入社した人は、まずそこに招待される。
    「○○店に配属になりました××です。よろしくお願いします!」
    先輩社員のスタンプや「よろしく!」という返信が飛び交い、その瞬間だけは業務連絡が少し賑やかになる。

    しばらくすると、売場やランキングでその人の名前を見かけるようになる。
    「昨日教えていただいた内容を活かして頑張ります」
    そんなやり取りが続く。
    しかしある日、通知が表示された。
    「○○さんが退出しました」

    ああ、辞めたのか。
    最初の頃は少し驚いた。理由も分からず、ただ戸惑った。
    だがその通知を見る回数は次第に増えていった。
    新人だけではない。
    ベテラン社員もいた。異動してきた人もいた。
    教育担当だった先輩の名前もあった。

    長く働いている人もいる。自分もその一人だった。
    だから当時はこう思っていた。
    「仕事とはそういうものなのかもしれない」
    理由は分からない。

    家庭の事情かもしれないし、より良い環境を選んだのかもしれない。
    深く考えることはなかった。
    今思えば不思議だ。
    休みの少なさも。
    有休の扱いも。
    人の入れ替わりも。
    目の前には確かに違和感があった。
    それでも私は、それを拾わなかった。
    拾う必要がないと思っていた。
    それが「普通」だったからだ。


    2-4 比べるものがなかった


    今振り返ると、違和感はいくつもあった。
    休みの日数。
    有休の扱い。
    人の入れ替わり。
    今なら「おかしい」と思える。
    しかし当時の私は、それを問題とは思わなかった。

    理由は単純だった。
    比べるものがなかったからだ。

    私の社会人経験は2社目だった。
    1社目は、医師から退職を勧められるような環境だった。
    それと比べれば今の環境ははるかに良かった。
    働いた分の給与が出る。残業代も出る。
    上司や先輩と会話ができる。相談もできる。

    それだけで十分だった。

    むしろ感謝していた。

    だから多少忙しくても仕方ない。
    休日出勤があっても仕方ない。
    有休が使えなくても仕方ない。
    そう考えていた。

    周囲も同じだった。だから疑う理由がなかった。
    それが社会人の普通だと思っていた。
    そして何より、私はこの会社で長く働くつもりだった。
    少なくともこの頃までは。
    しかし、その「普通」を揺らす出来事がやってくる。
    それは大きな事件ではない。
    ただ、自分の中に小さく芽生えた違和感だった。
    私はただ、自分の市場価値を知りたくなっただけだった。


    第3章 市場価値を知りたかっただけだった



    3-1 転職する気はなかった


    時の私は、本当に転職する気がなかった。
    会社を辞めたいと思っていたわけでもない。
    人間関係に悩んでいたわけでもない。
    仕事そのものも嫌いではなかった。
    むしろ、このまま働き続けるものだと思っていた。

    だから転職サイトを開いた時も、転職のためではなかった。
    ただ、自分の市場価値を知りたかったのである。

    今思えば少し不思議な行動だ。
    市場価値を知る方法なら、資格取得でもいいし
    上司に評価を聞くこともできる。

    それなのに私は、なぜか転職サイトを開いた。

    転職活動をする人は、転職を考えている。

    そう思う人は多いだろう。
    しかし当時の私は違った。

    「今の自分は、他の会社からどう見えるのだろう」
    ただそれだけが気になっていた。

    新卒で入った会社を1年で辞めた経験。
    それは当時の私にとって小さくない挫折だった。
    周囲に責められたわけではない。
    それでも、自分の中では引っかかりとして残っていた。
    だからこそ、今の会社では長く働こうと思った。

    気づけば4年。
    接客、提案、売場づくり。
    後輩教育や改善提案にも関わるようになっていた。
    では、そんな自分は外からどう見えるのか。
    純粋に、それが知りたかった。

    もちろん転職する気はない。
    求人を眺めて「こんな仕事もあるのか」と思う程度のつもりだった。

    軽い気持ちで登録した転職サイト。
    今振り返れば、それが最初の分岐点だった。
    当時の私はまだ知らなかった。
    自分の“普通”が、外では“普通ではないかもしれない”ということを。
    そして最初にそれを知らせてきたのは、エージェントでも求人票でもなく、一通のスカウトメールだった。


    3-2 最初のスカウト


    登録した翌日、通知はすぐに埋まっていた。
    「あなたに興味があります」
    「前職給与以上を保証」
    「特別選考(書類免除)」
    どれも似たような文面だった。

    正直なところ、あまり真剣には読まなかった。
    いかにも機械的に送られた印象が強かったからだ。
    その中にだけ、少し違うものが混ざっていた。
    プレミアムスカウト。
    表示も内容も、他とは違っていた。
    職務経歴書に書いた内容  接客経験や店舗運営の経験  に触れていた。
    少なくとも“それっぽく作られただけ”には見えなかった。
    もちろん半信半疑ではあった。
    本当に見ているのか。
    それとも大量送信の一つなのか。
    それでも、少しだけ気持ちが動いた。

    新卒で辞めた自分。
    特別な資格もない自分。
    そんな自分に対して、
    「一度お話ししませんか」
    と言う会社がある。
    それは、少しだけ嬉しかった。

    同時に、こんな考えも浮かんだ。
    自分の経験は、思っていたより価値があるのかもしれない。
    気づけば、いくつかのスカウトに返信していた。
    まだ転職する気はない。
    その考えは変わらなかった。
    ただ、話は聞いてみたかった。
    そしてそのクリックが、静かに流れを変えた。


    3-3 カジュアル面談のつもりだった


    数日後、オンラインで面談を受けることになった。
    正直なところ、この時点でも転職する気はない。
    会社説明を聞くだけのつもりだった。

    だから相手が社長だと知った時は少し驚いた。
    とはいえ当時の私は、採用の一般的な流れを知らない。
    「そういうものなのか」くらいに受け止めていた。

    面談は自己紹介から始まり、会社説明へと続いた。
    事業内容、働き方、給与制度、福利厚生。
    形式的な説明のはずだったが、気づけば時間は延びていた。
    気づけば会話になっていた。

    これまでの仕事の話。
    接客の考え方。
    店舗運営で意識していたこと。
    社長はときどきメモを取りながら聞いていた。
    一方の私は、面談であることを忘れかけていた。
    ただの対話だった。

    終わり際、社長が言った。
    「もしよければ、一度面接に来ませんか」
    最初は聞き間違いかと思った。
    私はまだ、話を聞きに来ただけだった。
    それでも、少しだけ嬉しかった。
    自分の経験が、否定されなかったことが。

    選考は2回。
    1回目はオンラインでも可能だった。
    普通なら、それで十分だったはずだ。
    それでも私は、現地に行くことを選んだ。
    理由は単純だった。
    この会社を、ちゃんと見てみたいと思ったからだ。
    その時点で、もう“聞くだけの人”ではなくなっていた。


    3-4 オンラインではなく


    本来ならオンラインの方が楽だった。
    距離もある。費用もかかる。時間も必要だ。
    それでも私は現地を選んだ。

    気持ちが少し変わっていたからだ。
    カジュアル面談で感じた空気。

    人の考え方。
    仕事への向き合い方。
    それらを直接見たかった。

    ホテルに泊まり、前日はほとんど眠れなかった。
    緊張というより、落ち着かなさだった。
    夜、外を少し歩いた。
    翌日の道を確認するためでもあった。
    今思えば、準備の方向がすでに“本気”だった。

    面接当日。
    街の人の流れや空気が、妙に印象に残っている。
    人は普通に生活している。
    自分もその中にいる。
    それだけのことが、少し新鮮だった。

    面接は3名体制だった。
    社長、営業部長、店舗責任者。

    内容は質問というより対話に近かった。
    半導体市場の話。
    営業の考え方。
    現場の改善。
    気づけば評価されているというより、仕事を一緒に考えている感覚に
    なっていた。

    そして終盤。
    自分の働き方について、何気なく話した時だった。
    その空気が少し変わった。


    3-5 105日のはずだった


    「週に1日しか休めないこともあります」
    そう話した瞬間、空気が止まった。
    営業部長の手が止まり、店舗責任者の視線も動かない。

    「毎週ですか?」
    「繁忙期は、そんな感じです」

    事実を話しただけだった。
    だが反応は想像と違っていた。

    やがて営業部長が言った。
    「年間休日って、何日でしたっけ」
    「105日です」
    即答した。
    求人にも書いてあった数字だ。

    その後、小さな声が落ちた。
    「105って、割りますよね…」
    意味はすぐには分からなかった。

    そして社長が言った。
    「それ、本当に105日ありますか」
    言葉が詰まった。

    ないわけがない。
    そう思う一方で、数えたこともなかった。
    その場で簡単な計算が始まった。
    そして社長が言った。

    「70あるかないか、くらいじゃないですか」

    その瞬間、頭が静かになった。
    否定できなかった。
    理由は単純だった。
    心当たりがあったからだ。
    帰りの電車でも、飛行機でも、その数字が離れなかった。
    そして自宅に戻ると、シフト表を開いた。


    3-6 間違いであってほしかった


    自宅に戻ると、すぐにパソコンを開いた。
    間違いであってほしかった。
    社長の勘違いかもしれない。
    営業部長の計算ミスかもしれない。
    そう思いたかった。

    勤怠システムにログインし、シフトを開く。
    1ヶ月では足りない。
    数ヶ月でも足りない。
    結局、数年分をすべて確認することになった。
    気づけば印刷していた。

    プリンターが何度も止まる。
    紙が積み上がっていく。
    少し笑ってしまうほどだった。
    だが止まれなかった。
    机の上に並べて、一枚ずつ確認する。
    休みに印をつける。
    休日出勤を数える。
    月ごとに記録する。
    途中から、ただの作業ではなくなっていた。

    思ったより休んでいない。
    いや、かなり休んでいない。
    それでも手は止まらなかった。
    どこかで間違っているはずだった。
    電卓を叩く。
    スマホでも確認する。
    何度やっても同じだった。
    数字は変わらない。

    72日

    何度見てもそれだけだった。
    105日ではなかった。
    70日を少し超える程度だった。
    4年間で、33日ずつ足りなかった。
    月にすれば数日。
    しかし積み重ねれば、想像以上に大きい。
    気づけば私は、4か月分の時間を失っていた。


    第4章 当たり前は当たり前じゃなかった



    4-1 72日という現実


    72日。
    どれだけ計算しても変わらない。
    それが、私が実際に休んでいた日数だった。
    数字そのものは単純だった。
    小学生でも読めるし、電卓があれば誰でも計算できる。
    しかし、その数字を目の前にした私はしばらく動けなかった。

    机の上には数年分のシフト表。
    赤ペンで書いた休みの日数。
    そして電卓。
    何度確認しても、72日という結果は変わらない。
    それでも私は、その現実をすぐには受け入れられなかった。

    72日。
    年間休日は105日のはずだった。
    もちろん会社から説明を受けていなかったわけではない。
    求人サイトにもはっきりと書かれていた。
    だからこそ混乱した。
    では、この33日はどこへ行ったのだろう。
    そんなことを考えていた。

    不思議なことに、怒りはなかった。
    会社に騙されたと思ったわけでもない。
    今までお世話になった上司や同僚への感謝が消えたわけでもない。

    むしろ逆だった。
    私はこの会社で多くのことを学んだ。
    お客様との向き合い方から、接客の仕方。
    提案する楽しさや仕事のやりがい。
    それらは間違いなく本物だった。

    だからこそ困った。
    72日という数字と、今まで積み上げてきた4年間。
    その両方が、私にとっての事実だったからだ。


    4-2 比べて初めて気づいた


    72日という数字がわかってからも、翌日になれば普通に出勤する。
    お客様対応もする。売場も作る。
    世界は何も変わらない。会社も変わらない。
    しかし、変わったのは自分自身だった。

    今まで何とも思っていなかった休日出勤。
    当たり前だと思っていたシフト。
    それらが急に気になるようになった。
    例えば来月のシフトを見ると、また休日出勤が入っている。
    以前なら「そういうものだ」で終わっていた。

    しかし今は違った。
    これは本当に普通なのだろうか。
    他の会社でも同じなのだろうか。
    なぜ今まで疑問に思わなかったのだろう。

    それでも、会社は嫌いじゃない。
    信頼できる上司、同僚。
    そしてお客様もいる。
    助けてもらったこともたくさんある。
    だから「やめよう」とはならなかった。
    ただ一つだけ変わったことがあった。
    「なにも気付かなかった頃の自分」には、もう戻れなくなっていた。



    4-3 嬉しいはずだった


    そんなことを考えながらも仕事をしていたある日。
    いつものようにスマートフォンを開いた。
    転職サイトから通知が届いていた。
    またスカウトメールだろう。そう思っていた。
    登録してからというもの、毎日のように届いていたからだ。
    しかし差出人を見た瞬間、手が止まった。

    面接を受けた会社だった。
    少し緊張しながらメッセージを開く。
    そこには選考結果が書かれていた。
    最終面接結果  合格
    その二文字を見た瞬間だけ、時間が止まったように感じた。

    嬉しかった。

    市場価値を知りたかったはずの自分が、遠く離れた会社から評価された。
    新卒で入った会社を一年で辞めた自分。
    特別な資格があるわけでもない自分。
    そんな自分に対して「一緒に働きたい」と言ってくれる会社がある。
    それは素直に嬉しかった。
    何度もメッセージを読み返した。
    見間違いではないかとも思った。
    それでも不思議と、飛び上がるほどの喜びではなかった。
    むしろ浮かんだのは別の感情だった。

    「どうしよう」


    4-4 それでも辞める理由が無かった


    内定をもらった。
    年間休日も数えた。
    実際の休日日数もわかった。
    普通に考えれば、答えは出ているようなものだった。

    それでも私は、すぐに退職を決断することができなかった。
    理由は単純だった。
    今の会社が嫌いではなかったからだ。
    むしろ感謝していることの方が多かった。
    接客は好きだった。
    お客様から名前を覚えてもらうこともあったし、「またお願いね」と
    言われることもあった。

    売場を変えたり、提案や運営を工夫したりする中で、結果が数字として
    返ってくることもあった。
    先輩や上司との関係も悪くなかった。
    意見がぶつかることはあっても、困った時には必ず手を貸してくれた。
    だからこそ迷いが消えなかった。

    もし人間関係が最悪で、毎日会社に行くことが苦痛だったなら
    もっと簡単に決断できたかもしれない。

    しかし現実は違った。
    仕事は嫌いではない。会社そのものを憎んでいるわけでもない。
    だからこそ、72日という数字だけで辞めることに迷いがあった。

    そしてもう一つ。
    私はこの会社で長く働くつもりだった。
    新卒で入った会社を一年で辞めた経験があるからこそ
    次は続けたいと思っていた。
    続けるために努力もしてきた。信頼も少しずつ積み上げてきた。
    それを手放すことへの怖さもあった。
    内定をもらった今でも、気持ちはまだ揺れていた。
    会社に残っている自分と、新しい世界へ向かう自分が、どちらも同じ場所に立っていた。


    4-5 自分は何を求めていたのか


    72日。
    その数字を知ってから、よく考えるようになった。
    休みが少ない。それは事実だ。
    しかし不思議と、感情は穏やかだった。
    会社を恨んでいるわけでもない。
    誰かを責めたいわけでもない。
    むしろ、答えが出ないことに気づいていた。

    私は何が不満なのだろう。
    何を変えたいのだろう。
    何を求めているのだろう。
    休みが欲しいのか。
    給与なのか。
    評価なのか。

    何度考えても、答えはまとまらなかった。

    やがて気づいた。
    私は休みそのものが欲しかったわけではない。
    たとえ休日が増えたとしても、それだけで全てが解決するわけではない。
    本当に考えていたのは、その先だった。

    これから先も今の働き方を続けていけるだろうか。
    そして、それを続けたいと思えるだろうか。

    結婚したいと思う相手がいる。
    いつか家庭を持ちたいとも思う。
    趣味もある。友人もいる。両親も年を重ねていく。
    その未来を想像したとき、ふと立ち止まった。
    できないわけではない。
    実際にそれを両立している人もいる。
    それでも私は、自信を持って「できる」とは言えなかった。

    それがすべてだった。
    会社が悪いわけではない。
    私が悪いわけでもない。
    ただ、自分の思い描く人生と、今の働き方が少しずつ噛み合わなくなっていただけだった。
    だからようやく理解し始めていた。
    転職するかどうかを悩んでいたのではない。
    私は、自分がこれからどう生きていきたいのか
    その答えを探していたのだと。


    第5章 それでも私は決めた



    5-1 日常は何も変わらないのに


    内定をもらったあとも、私はこれまでと同じように働いていた。
    朝はいつも通り出勤するし、仕事の内容も変わらない。
    お客様と話し、売場を見て、一日が終わる。

    表面上は何も変わっていない。
    ただ一つだけ、明確に違っていたものがあった。
    それは「見え方」だった。

    同じ景色を見ているはずなのに、どこか違って見える。
    以前は何とも思わなかったものが、少しずつ引っかかるようになっていた。
    例えば、他社の求人情報。
    以前ならただ流れていくだけの情報だったものが、
    「こういう働き方もあるのか」と立ち止まるようになっていた。
    それは比較ではなかった。
    ただ、選択肢として“存在するもの”として見えるようになっただけだった。

    そんな中で、ふとした習慣の変化にも気づく。
    ブラックコーヒーだった。
    昔は飲めなかった。
    苦くて、正直あまり好きではなかった。
    それでも面接の時は、なぜか普通に飲めていた。

    気を張っていたのか、余裕がなかっただけなのかは分からない。
    それが今では、何も考えずに手に取るようになっていた。
    気づけば砂糖もミルクも入れないまま、毎朝の一杯になっている。
    お湯を沸かし、コーヒーを淹れて、トーストを焼く。
    それだけのことが、いつの間にか習慣になっていた。

    特別な理由はない。
    ただ、それが自然だった。
    小さな変化だと思う。

    けれど、その小さな変化がいくつか積み重なっていく。
    気づけば、自分の中の「当たり前」が静かに形を変えていた。
    それでも仕事は続いている。
    会社も辞めていない。
    ただ、同じ場所に立っているはずなのに、
    ほんの少しだけ違う景色を見ているような気がしていた。


    5-2 気づけば、もう戻れなかった

    いつからだったのかは、はっきりとは覚えていない。
    気づいた時には、もう戻れない場所に立っていた。

    転職を決めたわけではない。
    誰かに背中を押されたわけでもない。
    大きな出来事があったわけでもない。
    ただ、選択肢が一つずつ減っていった。
    残っていたのは、どちらかではなく「どちらが自然か」
    という感覚だけだった。

    仕事は相変わらず続いていた。
    朝も同じ時間に起き、同じ時間に車に乗る。
    決まった時間に踏切に差し掛かり、いつもの時間の特急列車が
    通り過ぎていく。
    お客様の顔も、売場の空気も変わらない。
    それでも、どこかだけが少しずつずれていた。

    以前なら迷っていたはずのことに、迷わなくなっていた。
    以前なら躊躇していたはずのことに、違和感がなくなっていた。
    その代わり、何かを続ける理由だけが薄くなっていった。
    ふとした瞬間に思う。
    「このままここにいる理由は何だろう」と。
    答えは出ない。
    けれど、不思議と焦りはなかった。
    ただ一つだけ、はっきりしていた。
    もう“あの頃の場所”には戻れないということだった。
    内定をもらった日から、何かが劇的に変わったわけではない。
    むしろ、何も変わっていない。
    それなのに、立っている場所だけが違っていた。
    同じ景色のはずなのに、わずかに外側へ出てしまったような感覚があった。
    戻れるはずの距離だったのに、その一歩だけが最後まで出なかった。
    それが「決断」だったのかどうかは、今でも分からない。


    5-3 言葉にするだけのことだった


    退職を伝える日も、特別な準備はなかった。
    少し前から、そうなることは分かっていたからだ。
    朝はいつも通り出勤した。

    いつもと同じ時間に店に入り、いつもと同じように業務が始まる。
    何も変わらない日常。
    その一日は、特別なものではなかった。

    昼を過ぎた頃、上司に声をかけた。
    少しだけ場所を変えて話をすることになった。
    特別な部屋でもなければ、重い空気でもない。
    ただ、少しだけ業務から離れた時間だった。

    自販機で買ったブラックの缶コーヒーを片手に、私は静かにこう言った。
    「実は、退職を考えています」

    言葉にした瞬間、何かが変わるかと思っていた。
    けれど、何も変わらなかった。
    相手は少し驚いたあと、理由を尋ねた。
    引き止める言葉もあった。
    人が足りないこと。
    今の評価のこと。
    これからのこと。
    どれも、これまで何度も聞いてきた話だった。

    私はただ、これまで見てきたものを順番に並べただけだった。
    72日という数字も。
    内定をもらったことも。
    戻れなくなった感覚も。
    どれも理由というより、経過だった。

    気づけば、答えはすでに出ていた。
    私は決断したのではない。ただ、それを言葉にしていなかっただけだった。
    話が終わる頃には、すべてがいつも通りに戻っていた。
    業務に戻る。
    同じ売場。
    同じ時間。
    ただひとつだけ違っていたのは、
    その場所に残る自分の未来だけが、すでに静かに消えていたことだった。
    それだけのことだった。


    エピローグ


    退職の意思を伝えてから、数日が過ぎていた。
    週明けには、上司が二人ほど遠方から来るらしい。
    引き留めのための面談になるのだと、淡々と伝えられていた。

    それでも、不思議と焦りはなかった。むしろ静かだった。
    72日という数字を、現実として見たときの感覚は今も残っている。
    驚きというより、遅れて理解が追いついてくるような感覚だった。

    なぜあの時、迷っていたのか。
    今になってみると、その理由はうまく思い出せない。
    迷いというより、少しずつ醒めていく過程だったのだと思う。

    仕事は今も変わらない。
    ただ、意味の持ち方だけが変わっていた。
    成果を出すことよりも、
    それをどう続けていくかに意識が向くようになっていた。

    同じ業務のはずなのに、どこかだけが違って見える。
    まだ、答えは出ていない。
    転職が終わりなのか、始まりなのかも分からない。
    ただ、そのどちらでもない場所にいることだけは確かだった。
    選んだという感覚も、あまりない。

    気づけばここに立っていた

    そんな方が近い。
    まるで、少し離れた場所から自分の背中を眺めているようだった。

    もしあのまま働き続けていたら
    私はお世話になったあの会社を憎んでいたかもしれない。
    嫌いになる前に、感謝の記憶のまま歩き出せたことは
    せめてもの救いだったのかもしれない。

    気づけば、春はもう終わっている。
    桜はとうに散り、雨の音だけが残っていた。

    テレビは、梅雨入りを淡々と告げていた。


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