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世界は荒野でできている

    【あらすじ】
    「図書館で本を予約したばかりの人は自殺なんてしないと思わない?」

    高校教師・伊東美緒の転落死は、自殺と思われていた。しかし、その死に違和感を抱いた四人の女子高校生は、それぞれの立場から静かに真相を追い始める。教師たちの証言。二年前に自殺した姉の存在。恋人と噂された同僚教師。残された調査資料。そして、見つからない黒い手帳。真相に近づくほど、彼女たちは知っていく。教師も、親も、友人も――私たちは誰のことも、本当には知らなかったということを。人は皆、表に見せている顔の奥に過去や傷を抱えた、生身の人間なのだということも。
    一人の教師の死をめぐる謎を通して、成長していく四人の絆を描く青春群像ミステリ。


    悠①

    「伊東先生が転落死したらしい」

    朝、LINEを開いて、思わず声がでた。
    「ウソ……」
    伊東先生といえば、来たばかりの若くて自信なさげなオーラの女の地学の講師。っていうか、つい昨日喋ったばかりなんだけど。急に話しかけられてびっくりしたんだった。

    学校関係のグループLINEがざわついている。追ってると母親が心配そうな顔になるので、慌ててスマホを伏せる。絡まれたくないから。

    中学の時はそうでもなかったのに、高校にはいってから、というより4月から父親が単身赴任で家を出てから、どうもわたしたちはギクシャクしてる。中学の頃は気にならなかったいろんなことが、気になってしまう。専業主婦で家にいるからか、わたしのことにかかりきりとは言わないけど、彼女にとってわたしのウエイトが高すぎる気がしてしまってそれも圧に感じる。単純に鬱陶しいって、思っちゃいけないのに思ってしまう。
    完璧に用意された朝食をなるべく残さないように黙々とたいらげて、洗面所にこもる。そしてなるべく顔を合わせないように、玄関を出る。中学生までは行ってらっしゃいって見送りに来てたけど、もういらないからやめてくれって言ったら来なくなった。でもわたしが玄関の鍵をめんどくさがってかけないから、行ったのを見計らって締めにくる。わたしが家を出たあと、カチリと鍵が閉まるのが聞こえる。冷たくて、硬い音。

    やっぱり気になるから、自転車乗る前にLINEを開く。
    みんな混乱してるのが伝わってくる。びっくりという内容の嵐。
    なんだろう、引っかかる。
    そして、いつものグループにLINE送る。
    「何か知ってる?伊東先生のことだけど」
    そして、自転車のペダルを踏み込む。急がないと今朝はすることあるのに結構ぎりぎりだ。

    恵梨香①

    う、やばい。寝過ごしてるかも。ぼんやりしたまま枕元のスマホを手に取る。
    え、なんで。未読数がやばいことになってる。ぎりぎりだから時間ないのに、気になって開く。
    他のトークはどうでもいいけど、まず大事なトークだけ。悠からだ。

    「何か知ってる?伊東先生のことだけど」

    え、何?何も知らない。仕方なく他のトークを開く。
    え、転落?死んだ?化学か物理、地学、なんだっけ?とにかく理科科目の先生だよね?
    若くて地味で顔立ち整ってるのにほとんどノーメイクな先生だったことくらいしか印象に残ってない。
    何も知らないけど、びっくり。

    とにかく返信はしとく。

    「知らない、今見てびっくり。何があったんだろう?事故?」

    ママはもう出勤してるから誰も急き立ててくれない。
    朝ごはん食べてると間に合わない。
    コンタクトいれてアイブロウとビューラーだけなんとか済ませて、とにかく行かないと。
    ママからパチったデパコスのペンシルで仕上げる。さすがにいい感じ。
    きれいに削れてるのはカウンターで削ってもらってるかららしい。
    ペンシル失くしたって騒いでたけどあたしがパチったことにはまだ気づいてないみたい。
    ビューラーだけは念入りに。ビューラーと下地で今日はいいか。

    戸締まりして、駆け出す。


    美冬①

    「もう噂入ってるかもしれないけど、美冬のところの講師、学校の屋上から転落して亡くなったみたいよ」

    母が唐突に朝食の席で言いだした。坂下家の朝食は早い。家族が顔を合わせるのは朝食だけだからということで、朝の6時過ぎにはみんなでリビングのテーブルを囲むことになってる。

    「おいおい、それ言って大丈夫なやつだったか?」

    父が口を挟む。うちの両親はマスコミ。母は地方紙の記者で、父はさらにローカルなミニコミ誌の記者。もともとは同僚だったけど父はわたしが小さい頃転職したと聞いたことがある。

    「このくらいなら大丈夫。どうせもっとひどい噂駆け巡ってるわよ」

    もっとひどい噂?ってか誰亡くなったのは!

    「その話初耳。誰?」
    「伊東美緒。24歳。講師。昨日の夜に葵高校の屋上から転落死。事件性の有無についてはまだ捜査中。わかってるのはこれくらいだけど現場が学校だし、生徒たちの中では尾ひれつきまくってるんじゃない?SNS見てみたら?」

    こういうところが母の怖さ。母はもしかしてわたしを情報源とでも思ってるんだろうかと疑いたくなる。

    「あなたそもそも新聞部よね?さっさと情報集めておきなさいよ」

    これだよ。うちは朝だけは豪華なんだけど、肉じゃが、きんぴら、いろいろ出されても、食欲なくなる…
    言われて開くのも癪なんだけど実際気になるのでスマホを開く。確かに情報早い人は深夜に送信してる人もいる。でも並んでるのは、そうらしいとかなんとかの曖昧な噂どまり。右往左往って感じの内容ばかりで誰もたいして詳しいこと知らないみたい。高校生の情報網よりマスコミのほうが確実だって。

    「みんなたいして情報もってないよ。でも、事故なのかな。自殺?だとしてもなんで学校で」

    「そこよそこ。まあいろいろありそうよ」

    母はなんだか思わせぶりな言い方をしておいて肉じゃがをぱくついている。不快。
    朝のルーティンいろいろ済ませてると通知音が鳴る。悠からだ。続いて恵梨香からも。

    「何か知ってる?伊東先生のことだけど」
    「知らない、今見てびっくり。何があったんだろう?事故?」

    「今の所、事件性があるかどうかはまだみたい」

    そう送って、とりあえず学校に向かう。


    透子①

    「何か知ってる?伊東先生のことだけど」
    「知らない、今見てびっくり。何があったんだろう?事故?」
    「今の所事件性があるかどうかはまだみたい」

    グループLINEに3人が送ってきてて、確認して驚く。
    何もつかめてないけど、伊東先生、確か地学の先生、が事故だか事件にあわれた様子。他の学校系のはほとんど登録してないから、そのほかには情報なくて、何も知らない以外送りようがない、実際。

    「今はじめて知った。事故なの?また後で教えてね」

    とだけ送って、登校の用意。
    階下では弟と妹の声が響いてる。朝からうるさくて、うんざり。
    なるべく顔合わせたくないから、ぎりぎりまで部屋で粘って、そして降りる。

    「朝ごはんは?」
    「いい。スープだけ飲むから」

    自分でインスタントスープ作ってオートミール投入してさっさと飲んで、さあ学校へ。今日はバイトもあるから、またしばらくの時間はこの家族ともお別れ。


    悠②

    想像以上に学校はざわついてた。ひそひそと事故の話が囁かれているようだった。早くゆっくりみんなと話したい。今日は急には無理だから、明日の予約を押さえておこうと、新館1階のカフェテリアに向かう。明日のメニューは、「ヤンソンさんの誘惑」がメイン。スープは「コンソメジュリエンヌ」。うちはカフェテリアのレベルがとっても高くてメニューもなかなかいけてる。朝一で寄ったおかげで、運良く予約とれた。4人分。事後報告だけどLINEいれる。

    「明日のランチ、カフェテリアの予約いれたんだけど大丈夫かな。メニューはヤンソンさんの誘惑とスープとかだけど」

    即、既読がつく。そして美冬と透子からOKの返信。
    恵梨香からも「ヤンソンさんの誘惑てなに?」というのんきな文面とともに了解のLINE。

    今日は課題研究の授業をとってるので7限までみっちり詰まってる。うちは単位制高校っていうのも一つの売りみたいで、わたしのようにみっちりコマを詰めてる生徒もいるし、茶道とか趣味系講座をあれこれとってる生徒もいれば6限以降は全曜日空けてるっていう子も。今日は準備がまだできてないので昼休みに図書室に寄って資料の手直しいれないといけないんだった。
    講堂で緊急の全校集会が開かれて、校長から一応の説明があった。伊東先生に不幸な事故があり、お亡くなりになったとのこと。噂どまりの話がはっきりしたってことで、悲鳴ともなんともつかない声が漏れる。クラスの子たちともその後、駐車場で遺体が見つかったとか、救急車が夜中にサイレンならして学校のほうに向かってたとかの噂話の交換が続く。いつもと違うクラスルームの温度。ざわざわした雰囲気はおさまることがない。
    昼休みは図書室で、調べ物プラス作業。一年からとってる課題授業のための作業。一年の時は、高校生ってこんな勉強するんだって新鮮で楽しかったしその流れでとった二年目の今なんだけど、なんかこういう授業の限界みえたっていうか、できることなんて限られてるよなって思ってちょっと乗れてない感じ。必要最低限やるべきことだけやって、一息ついて、そして思う。昨日、この時間この場所で、伊東先生と会話したんだった。あの時の会話を一字一句思い出そうとする。机の上には昨日と同じように文庫本を置いておく。この本のことで先生が話しかけてきたんだったな……。

    7限は視聴覚室に移動。一年と二年の課題授業とってる生徒たちがぱらぱら集まってくる。大西先生と千葉先生も来てて何か打ち合わせしてる。千葉先生を見るとちょっと安心してちょっと動揺する。ここのところ毎回。


    美冬②

    今日のランチタイムは学校のカフェテリア。
    「ヤンソンさんの誘惑」っていう謎の料理はグラタンだった。スウェーデン料理らしい。
    アンチョビの塩気がきいてて、表面のパリッとした焦げがとっても美味しい。
    食べながら、悠が衝撃の発言。スプーン持ったまま口元で手が止まる。

    「え、悠、伊東先生と話したの?それが一昨日ってこと?」

    思わず大きな声が出てしまう。

    「うん、そうなの、一昨日の昼休みに。それでなんかすごく気になっちゃって」

    恵梨香がいつもの口調で言う。
    「そりゃ気になるよー本当だったらうちの学年はあまり接点ないよね?伊東先生と」

    「そうだよ。だって地学見てるのは1年生だけだし、部活の顧問も天文部と化学研究会だったかな、基本的には絡みない先生だから周りは顔も知らないって感じの子結構いたもん。どんな感じだったの?その時」

    興味津々も品がないけど、知りたくてつい聞いてしまう。好奇心丸出しにしないように、スープ飲んでさりげなさ偽装。多分できてないけど。

    「それがね、図書室で資料作ってたんだけど、時間余ったら読もうと文庫本を机に載せてたんだ。そしたら伊東先生が通りかかって、その文庫の表紙を見て、『面白い?これ』って。それでわたしが、『まだ上しか読んでなくて今から下巻なんですけどものすごい面白いですよ、かなりお勧めです』って激推ししたら、『じゃ、予約いれとこう』って言ってにっこりとして立ち去ったの。ほんとそれだけなんだけど、でもなんか自殺説出てるよね?気になっちゃって」

    「うん、それ聞いた。争った形跡もないらしくてそうじゃないかって話が有力なんでしょ」

    「予約いれようって言って今から本読もうとしてるような人が、自殺する?確かに誰でも突発的にってことはあるのかもしれないけど、なんか腑に落ちない。事故にしては、夜に一人で柵越えて落ちる事故ってなにって思うし」

    「仲のいい先生方には一応ちょっとは聞いてみたんだよね。新聞部顧問の山田先生とかに。でも一様に驚いてショックうけてた。特に悩んでるとか困ってるとかの様子もなくて、担任は副担任だし問題かかえてたようにみえないし、静かな先生だけどとりたててトラブルなんてなかったようにみえたけどなって。まあ先生方ももしトラブルあっても軽々しく言えないだろうけど、とはいえ、含みがあった感じではなかったしとにかく何も思い当たらないって感じで」

    そこまで言って、昨日の朝の母の含みのある言い方を思い出す。何かあるんだろうか、伊東先生には。


    透子②

    ランチ食べながら3人を眺めてて思う。
    なんか不思議な顔ぶれで、不思議な縁のわたしたちだなって。

    佐野悠は、超優等生。学校でも一二を争うくらい成績優秀。難関大目指してるみたいだし、彼女なら行けるんじゃないかな。うちの学校のトップクラスならなかなかの大学に行ってるし。すごく真面目な子。本をたくさん読んでて、物知りで感心する。

    坂下美冬は、新聞部で部長。しょっちゅういろんなことに怒ってて、元気がいい。あと、情報通でびっくりする。校内新聞だしゴシップなんて載らないのに校内のゴシップにまで詳しくて笑える。誰と誰がつきあってるとか別れたとか。

    星恵梨香は、とにかく華やかの一言。うちの学校はばっちりメイクの子もいるけど全然濃くないのに綺麗だなっていつも思う。でも男っけはなくて、言われても振りまくってるみたいで彼氏はずっといないみたい。マイペースタイプで、人と付き合うとか無理って言って笑ってる。

    あたしは、悠ほど成績もよくなく、美冬ほどキャラもたってなく、恵梨香ほど華もない。成績は下のほうかな、進路は真面目に考えたくなくて現実逃避中。学外でバンドやっててキーボード弾いてる。あと、いい楽器買いたくて、バイトを放課後いれまくってる。本当は禁止なんだけどばれないし。

    高校にはいって、すぐに宿泊研修があって中学もクラスも違うあたしたち4人が同じコテージで泊まることになった。はじめはみんな手探りしながらよそよそしく振る舞ってたのに、いつの間にか打ち解けて、親しくなれた。悠はよく言ってた。

    「わたしたち4人には何かがあるよね」
    って。

    みんな結構違うキャラだし学校でずっとつるんでたりはしないのに、何かあるっていうのはわかるなって思った。その「何か」が何なのかはいまいちうまくいえないんだけど、アニメのマーニーだったかな、輪の外側内側って話が出てきたけど、あれの内側にすんなりはいっちゃう関係とでも言うのかな、もっとシンプルに言えば、「うまがあう4人」ってところかも。頻繁にあったりランチしてるわけじゃないけど、気になることがあったりどうしても聞いてほしい話ができたら招集かけて、こうやって集まって、あーだこーだ言い合ってすっきりする、そういう関係。居心地がよくてあたしにとっては3人ともすごく大事なんだ。


    恵梨香②

    ヤンソンさんの誘惑美味しすぎ。グラタン大好きだけどママは滅多につくってくれないし、冷凍グラタンにはちょっと飽きがきてるから、こうやって学校のカフェテリアで食べれるのはラッキー。うちの学校の隣にパン屋さんがあって、カフェテリアのパンはそこの焼き立てが運ばれてくるから、このランチについてる塩パンも半端なく美味しい。幸せ。

    美冬はとにかくピリピリしてる。あたしにとっては伊東先生は知らない先生だしいまいちピンとこないんだけど、悠は、死んだ当日に話してるらしいし、美冬は新聞部部長ってことで情報に異様に執着する子だからこの件はほっとけない感じ。

    悠が言う。

    「ね、だから何かわかったら教えてもらっていい?もうちょっと詳しいこと知りたいんだよね。わたしの交友範囲で知ることができることなんて知れてるんだけど、ほらキミたちはいろいろあれだから」

    なんだっけあれって。美冬はそりゃ新聞部だしご両親も確か記者さんとかだから、あれでもいいけど、あたしと、透子はなんだっけ。

    「あたし、学校の情報はまじで弱いよ?多分この中で学校に滞在してる時間一番短いもん」

    透子が早速口をはさむので同調してうんうんと大きくうなずいておく。

    「いいのいいの。わたしが頼りにしてるっていう意味だから。あと、聞いてもらえてすごく楽になったしね」

    そう言って、悠は微笑んだ。かわいい。


    悠③

    話聞いてもらえて気持ちが落ち着いた。もやもやしてたけど、軽々しく適当に誰かに言うのも嫌だったから。彼女たちに会ってちょっとでも話せると本当に癒やされる。なんでだろう。

    今考えてることは一つ。今日はちょうど、司書の先生が午後不在の日で、っていうことは代理をつとめるのは多分、千葉先生。千葉先生なら、頼みを聞いてくれるかもしれない。

    6限が終わって、図書室へ。何度もどう持ちかけるかシミュレーションしてみたけど、うまく切り出せる気がしなくてちょっと足取り重くなる。知りたい好奇心と不自然だなと思われて失敗したら詰みだっていう不安感がのしかかってくる。
    図書室のやや重い引き戸をぐっと引くと、低めのカウンターにやたら不似合いの大きな姿が視界にはいる。その大柄な存在感ですぐ、千葉先生だってわかる。とにかく当たって砕けてみよう。

    「先生」

    「早いな。一番乗りだ」

    「はい。ちょっとご相談というかお願いがあって」

    「ん?課題研究の話か?」

    「いえ、全然違って」

    どう切り出そうと考えに考えて、直球が一番いいと思った。先生はいろんなこと見透かしそうで小手先でおかしなことしてもうまくいかない気がして。

    「実は、伊東先生のことなんです。つい先日、伊東先生が、私が今借りて読んでる本、次に借りたいっておっしゃってたのがすごく気になってて、本気だったのかリップサービスっていうか単なる会話の流れだったのか、あの時のあの雰囲気がどっちなのかどうしても知りたくて。だから、先生が予約いれてるかどうかって見てもらうことできませんか?」

    千葉先生はちょっと戸惑った顔をした。

    「何の本を読むか借りるかっていうのは大事なプライバシー。それを調べるのはすべきじゃないことだからね」

    そう言いながらキーボードを叩き、ディスプレイ画面をわたしのほうにちょっとだけ向けてくれた。

    『ケインとアベル』 上・下  ジェフリー・アーチャー   9月18日 予約済み

    9月18日。先生が亡くなったその日だ。


    透子③

    言うべきだったんだろうか。
    伊東先生についてあたしが知ってること。
    隠し事するつもりは全然なかったけど、あの場ではとっさに何も知らないって言ってしまって、嘘付いたみたいな嫌な気分。

    厳密には嘘じゃない。
    あたしは学校内の情報には本当に疎い。あの3人以外特に親しくしてる子もいないし。
    でもね、学校外のことは、ちょっとだけ、ね。
    とりあえずあたしが見たことが、別に伊東先生の急死と関係があるって決まった話でもないし、
    ただでも動揺してる悠を更に動揺させたくなかった。
    この情報は多分、きっと誰にとっても無意味だ、多分。

    6限が終わったらさっさと帰らないと、今日は6時から、鹿鳴館でバイト。
    鹿鳴館なんて大層な名前だけど、うちの街でまあまあ有名な料亭で、
    ここで配膳スタッフのバイトしてる。
    まかないが豪華で美味しくて、女将さんも優しい。ここでバイトしてもう1年半になるかな。
    黒糖プリンが絶品で、いつかみんなにも食べさせたいな。


    美冬③

    カフェテリアでみんなと話してて思い出した。
    比較的にだけど伊東先生に近い人物と知り合いだったこと。

    新聞部の部室は北館の三階の端っこ。クラスからは遠いので行き来するといい運動になる距離。
    引き戸を開けると、目当ての人物はもう来てた。

    「雪彦早いね」

    入り口に背を向けてパソコンをいじっていた雪彦が振り向く。

    「美冬先輩も今日は早いじゃないですか」

    そう。毎回一番乗りの雪彦と二人で話したくてダッシュできたから若干息上がってる。

    「珍しく二番乗りか。ね、雪彦って天文部と掛け持ちじゃなかった?」

    この牧雪彦が天文部だったことを思い出したの。伊東先生のことわたしたちよりは知ってるはず。牧雪彦はさらさらヘアの小柄な一年生。この街の有力企業の牧産業の一人息子。

    「ええそうですよ、っていっても天文部じゃなくて天文同好会です。あまり活動してないからほとんどこっちばかりに入り浸ってますけど、天体ショーが見られるときなんかは不定期で観測会やったり一応ほそぼそとは活動もあるんですよ。ま、会長もあまり熱心じゃないししかも次に会長やれよって言われてて、なんとか逃げ切りたいなとは思ってます。」

    「え、それは困るわ、雪彦うちの重要戦力だし」

    雪彦は笑った。

    「お世辞でも嬉しいですよ美冬先輩。で、天文同好会のことがなにか?」

    う、いざ切り出すとなるとなんか無神経になりそうだし難しいな。言いよどんでしまう。言葉選ばないと。

    「うん、あの新聞部部長としての質問なんだけど、雪彦は伊東先生のことどう受け止めてる?もしこの話題が精神的にきついなら、雪彦のいるところでは避けたほうがいいかなとかも配慮したいし」

    「大丈夫ですよ、僕もそんなやわじゃないんで。とはいえショックすぎてまだ整理できてません。伊東先生は顧問ですから4月から同好会でも地学の授業でもお世話になってきましたし、もちろん何度も話したこともあります。ただおとなしい先生だしすごく親しいとかではないままだったんですが、でもやっぱりショックなのは間違いないです。優しいいい先生でしたよ」

    少しうつむいてるから表情はよくわからないけど、動揺の気持ちは伝わってくる。

    「そうだよね、ショックだよね、接点がほとんどないわたしだってショックだし学校全体がまだ動揺してるもの」

    「僕むしろ美冬先輩に聞きたいです、何か事情ご存知だったりしませんか?あと、結局その、事故なのか事件なのかとかの情報とか」

    「ごめん、そのあたりのことまだ全然聞けてなくて。さぐりはいれてみるけど、事件ってことはないんじゃないかな。いい加減なわたしの主観でしかないけど。警察関係の人の出入りが激しかったり、先生たちが聴取されてたりって感じもないし、事故か、もしかしたら自殺なんてことも考えられるのかも」

    「自殺……、それはちょっと信じられないです。明るい感じの先生ではなかったですけど、でもそれにしても」

    雪彦はそのまま黙り込んだ。そのタイミングで他の子達が部室に来たので話はそこで途切れてしまった。


    恵梨香③

    帰宅。当然のごとくママはまだ。
    うちはシングル家庭で、ママは公務員。朝はあたしより早くて、帰りはあたしより遅い。あたしが小さい頃離婚したらしくその頃のパパのことはぼんやりとしか覚えてない。今でも年一くらいでご飯食べに連れて行ってくれるけど、パパっていうより他人のおじさんって感じ。

    早く帰宅したほうが炊飯器は仕掛けることになってるから必然的にそれはほぼあたしの役目。無洗米を量って水をそそいで、これでやるべきことは済んだって感じ。あとはいつママが帰ってくるか。
    早い日は7時くらいだけど遅いときは9時くらい。もう慣れっこなんだけどうちは夕食の時間はいつもバラバラ。LINEくれるわけでもないから、予定たたないけどママも働いてるんだし仕方ないよね。放任されてるのはいい面と悪い面がある。ママは放任してる自分を、子供を信頼してるいいママだと思ってるみたい。でもそうかな。

    一息ついて、今日のカフェテリアの話を思い出す。

    伊東先生、か。

    そう言えば、なんか引っかかってたことがあったの思い出した。
    伊東先生、すごく地味だったのに、最近ちょっとメイクに気合はいってた。服はいつもワンパターンのモノトーンのパンツとシャツ、ジャケットの組み合わせばかりだったけど、メイクはいつ見た時に気づいたのか忘れたけどハイライト入れ始めたんだこの先生って思ったの覚えてる。あと、グリッター。いつ頃だっただろう。わりと最近な気がする。すれ違ったとかじゃなくて間近で過ごした時だ、あれいつだったかな、何の時だったんだっけ。

    伊東先生に何か心境の変化でもあったんだろうか?


    悠④

    玄関のドアを開けると、煮物のにおいがする。また、大根とスネ肉を煮たのかな、最近、母は圧力鍋を買ってからやたら煮物に凝ってる。
    居間は覗かずに、二階の自室にあがる。最近は、ただいまもおかえりもあんまり言わない、言われない。

    わたしの中でどうしても納得がいかないのは、わたしだったら読みたくて予約するような本がもしあったのだとしたら、とにかくそれ読んでからにすると思う。もし死にたいって悩んでたとしても、読んでからにする。馬鹿げてるけど本当にそう思う。だから、自殺じゃないと思う。
    自殺じゃないなら、事故か事件。でも誰が、あんなおとなしそうな人畜無害っぽい控えめな先生を殺すっていうの?
    わたしの中では、自殺じゃないっていうのはゆるぎない感覚なのに、あんなところであんな時間帯の事故も理解できないし、事件、殺人だってとてもありそうには思えない、ってことは?
    何ならありえるんだろう……


    千葉先生には驚いたな。駄目だって口では言いながら予約画面をこっそり見せてくれた。
    一年の時、はじめて課題研究の授業で千葉先生の指導をうけたときは、随分大きい先生だなってだけで何も感じなかったのにな。でも、最初のまともな会話はまだ記憶にしっかり残ってる。



    「佐野、ゆう?はるか、かな?」

    「あ、ゆうです」

    「佐野ゆうさんか。うん、大丈夫、ちゃんと漢字で読みますから」

    わたしは自分の名前結構好きで、音も漢字も両方好きなので、だからちゃんと漢字で読むって言われてちょっとドキッとした。そういう気持ちを見透かされたみたいで。

    多分、その日から、わたしは千葉先生のことが好きなんだと思う。


    美冬④

    母の帰宅はいつも遅いけど今日はまた特に遅かった。

    「お疲れ様、忙しいの?連日遅いね」

    「忙しい忙しい。議会もあるし人手も足りないしでてんやわんやよ」

    そういいながら、母は買ってきたものをテキパキと冷蔵庫にしまっていく。うちは朝がメインで、夜は各自が好きなものを食べるという家庭で、母は、これがドイツスタイルなんだと言い張っている。なんでもドイツでは夜は火を使わないものを簡素に食べるんだそうだ。そのために常時、冷蔵庫にはプチトマトにスプラウト、千切りキャベツや、生ハムに魚肉ソーセージ、チーかま、納豆、温泉卵、豆腐などそのまま食べられる素材がストックされてるし、冷凍庫にもいろいろ。夜はそんな感じで超軽いのが我が家なんだけど、とはいえ、母はこんなに遅く帰っても朝は早起きしてあれこれ料理する人だから、本当に頭が下がる、でもその分、行動が早く、帰ったかと思うとあっという間に就寝してるので、話すタイミングは非常に限られてる。

    「ね、なんか伊東先生についての情報持ってるんでしょ?何なの?」

    「うーん」
    と言いながら、母はスーツ脱いでハンガーにかけてジャケットに衣類用スプレーを噴射。そして言った。

    「まあいいか、この話は知ってる人はみんな知ってることなんだし。あのね、今回の件は事件性なしとして処理されることになったみたい。遺書はないけど、争った形跡なし、争ってる目撃証言もゼロ、伊東先生の周辺にもトラブルらしいトラブルなし、柵についていた指紋も伊東先生のものがべったりってあたりで、事件と考える要素がない。身内は叔母さんがいるくらいで、ご両親は早くに亡くなられてて叔母さんが親代わりなんだけど、彼女が遺体の確認をして引き取ったみたい。で、警察はともかくわたしたちのほうでも多分自殺だろうなって思ってた理由は、伊東先生にはお姉さんがいたの、伊東志保さん。先生の3つ上で小学校の教師だった人」

    「うん、それで?お姉さんがいることなんてまるで知らなかったけど、それが何?」

    「彼女もね、2年前の春に自殺してるの。その時はちゃんと遺書もあったし問題なく自殺で処理されてるんだけど」

    「え、びっくりなんだけど」

    「榊公園、わかるでしょ?あそこの桜の木で首を吊って亡くなったの、伊東先生のお姉さん」


    ……絶句。


    透子④

    バイト終了。今日も疲れたな。
    うちの街の繁華街なんてしょぼいからこの時間でもそう人通りは多くないんだけど
    先生方に出くわすと厄介だからキャップにマスクしてさっさと自転車で帰宅。

    そう言えば、夏休みの最中にこの通りで伊東先生を見かけたんだったな。

    あぁ、もうなんかもやもやするから、言っちゃいたい。
    「そういえばね」って何気なく言えばすむことじゃないか。
    うん、そうだ。明日のお昼、カフェテリアはとれなくてもどこかで一緒に食べたらいいんだし、その場で言っちゃおう。
    そう決めて、LINE開くと、松田からLINE来てる。松田はバンド仲間で一応彼氏。

    「明後日の練習来る?」

    「そのつもり」

    それだけ送って、3人へのLINEを打つ。

    「明日昼、一緒に食べない?新聞部の部室で食べてもいい?」

    家に帰ると、3人から返信来てた。美冬からもいいよって。
    明日、話してしまおう。


    恵梨香④

    新聞部の部室は遠くて運動不足のあたしにはやたらときついんだけど、でも運動も大事なので、よしとしよう。
    パン持って半ばふらふらな気分でたどりつくと、もう3人とも来てた。みんな健脚すぎ。

    「遅いよ」と美冬がからかってくる。
    美冬はいつもあたしの体力のなさをいじるんだけどあたし的には美冬が体力おばけだと思ってる。

    みんなで持ってきたお弁当とか広げて食べ始めるんだけど、なんかみんなが話したくてうずうずしてる感じ。この口火切るのは誰?

    「昨日ね、図書室で調べてもらったんだけど、やっぱりあの日、伊東先生、わたしと話した後に、その本の予約入れてたの」

    悠がトップバッター。

    「えー?悠が読んでいた本の予約を18日、先生が亡くなった日にしてたってこと?ますますなんでって気持ちが強まるね。警察としては調べた結果、事件性なしの線でいくみたいよ。で、自殺だろうって噂が濃厚」
    と、美冬。

    悠がむくれる。
    「もう、なんで?絶対信じられない。読みたい本がある人は自殺なんてしないって思うんだけどな」

    正直、この件の悠のこだわりは共有できないな、そう?いやそんなの人それぞれじゃない?って思う。だって急に気持ち変わることなんていくらでもあるよね?でも悠にとってはきっとこれは絶対譲れないところなんだろうな。

    「いろんな状況証拠とか一番近い親族として育ての親の叔母さんの聞き取りとかあった上で、自殺の線が濃厚ってことみたいなんだけど、うちの親が言うにはね、伊東先生のお姉さんも小学校の先生してて、自殺されてるんだって」

    みんな沈黙のまま顔を見合わせる。重すぎるよこの話。

    「びっくりだよね、榊公園で2年前に首を吊って亡くなってるって。この話聞いたことある?」

    ない、ない全然ないや。

    悠が言う。
    「メンタルで落ち込みやすいとかって家系とかでそういうのもしかしたらあるのかもしれない、それに今の話だと先生まだ20代なんだし親御さんだってそう高齢でもないはずなのに叔母さんが育ての親だなんて、早くにご両親亡くされたりで苦労なさってきたのかもしれない。だからって、お姉さんが自殺してるってことと、伊東先生個人の死因って、全然関係ないよね?安易に結論出しちゃうのは納得できない」

    「だよね、わたしもそう思う。だからやっぱりもうちょっと調べてみる。悠の話聞いて、タイミング的になんだかしっくり来ないのは確かだし」

    透子がぽつりと言う。
    「あたしたちって、結局先生方のこと何も知らないんだよね。彼らの見せる顔って、教師としての外向けの作った顔なわけじゃない?でも内心はいろいろ抱えてて、生身の人間なんだよね。つい学校でしか先生の顔見ないわけだから、そのことを忘れてしまう」

    ちょっとどんよりとした空気。みんなお弁当を食べる手が止まってる。

    「ねえ、ちゃんと食べないと昼休み終わっちゃうよー。うちのママ、今、教育委員会の事務方だから、伊東先生のお姉さんの件、何か知ってるか聞いてみるね」

    そう言って、サンドイッチからこぼれ落ちてたミートボールを口に放り込む。甘っ。


    悠⑤

    帰り道自転車漕ぎながらもやもやが止まらなかった。
    透子の言ったことを考えてしまう。
    先生だって生身の人間なんだって、ホントそうだ。
    わたしは先生たちのこと何も知らない。そして……。

    家について門の閂開けて自転車を停める。うちの庭は整然としていつもきちんとしてる。家の中もそう。だって母は毎朝6時前に起きて掃除を始めるから。
    半ば強迫観念のように家事をこなしてる。
    小さいころちょっとでもだらしなく出しっぱなしとか脱ぎっぱなしとかをするとひどく叱られたな。
    片付けないことは悪だっていうのがすごく押し付けに感じられてストレスだったってことに最近気づいた。

    そう、伊東先生の生い立ちで思い出したけど、うちも母方の祖父母は早くに亡くなってるみたいだから会ったことない。父方は祖父母とも元気で元気すぎるくらい。父は三姉弟の末っ子でこれまた元気のいい伯母が二人いるけど、母は一人っ子でほんとに親族がいない。親戚づきあいとかも全然なくて、親族の話も全く聞いた記憶ない。伊東先生のこと、苦労なさったのかもって言ったけど、うちの母はどんな風に育ってきたんだろう、どんな風に育ったから、あんな人になってるんだろうか。

    母だって、生身の人間なんだ。でもわたしは彼女のこと、たいして知らないのかもしれない……。


    美冬⑤

    ちょっと情報集めててわかったこと。
    伊東先生がうちの高校で一番親しくしてたのは同世代の古文の吉岡先生。
    伊東先生と仲が悪かったか揉めてたことがあるのは化学研究会で一緒に顧問してた目黒先生。
    伊東先生は夏くらいに彼氏ができてたらしくどうもそれはうちの教師の誰からしい。相手は諸説あり。

    まず、吉岡先生から聞いてみよう。


    新聞部ですと取材申し込みをしたら、はっきり迷惑な顔をされた。
    記事にできるかは未定ですが、もし記事にする場合でも顧問の山田先生のチェックは受けますのでと言うと、やっと応じてもらえた。

    「でもね、本当に何もわからない。親しくみえたかもしれないけどあくまで数少ない同性同世代ってだけでそこまで仲が良かったわけじゃないから。悩んでたことがあったとか、何か困ってたとかは何もわからない。自殺願望とか聞いたことも一切ないし。ただ差し障りのない話をしてただけ」
    「ご家族のこと?お姉さんのことは知ってる。同業者だし噂で聞いたから。でもお姉さんの話は彼女の口からでたことないしご両親の話なんかも聞いたことない。だって言っても4月からの半年のつきあいよ?前の学校の同僚の方のほうでもっと親しい人いるんじゃないかな。ただ、彼女は壁をつくる人だったから、誰とも特に親しくなりたくないって雰囲気はあった。そういう意味で同僚としてやりやすい人ではあった」
    「つきあってる相手?それは本当にプライベートなことだし、言う必要ないと思う」

    吉岡先生から聞き出せたのはこのくらい。



    目黒先生はなんか嫌な予感したんだよね、風貌からしても雰囲気からしても嫌な感じでその嫌な予感的中。

    「新聞部?こういうタイミングで好奇心丸出しって恥ずかしくないのか?きみ」

    「確かにタイミングの問題はあると思います。みなさん一様にショックを受けられている時にお聞きすることはデリカシーに欠けてます。でも新聞部としてはこの事件を見過ごすこともできないので、ご存知のことがあればお聞きできればと思ってます。」

    「ふん、義務感って体?まあ、いいけど。あとで山田先生に嫌味言われるのも嫌だしな。で?何が知りたい」

    「伊東先生の転落死に関連がありそうなことでご存知なことはなんでも」

    目黒先生は嫌な笑い方をした。内心カチンと来たけど表情に出ないように頬の筋肉に力入れて、両足に力入れる。

    「どうせ、揉めた話でも聞きつけて来たんだろ?いやあの先生、亡くなった人のこと悪く言うのもなんなんだけどおとなしそうな顔してたいした人だったよ。うちの先生方はみんなぬるま湯で事なかれだからって、来てすぐなのに好き勝手してたからな。天文クラブだってあれだろ?地学の主任があんな爺さんなのをいいことに、自由にクラブの望遠鏡使って遊んでたしな。部員がいない日でもしょっちゅう屋上で観測してた。結局あの日も望遠鏡が現場に残ってたみたいだから星でも見てたんだろ。だから自殺じゃなくって事故だって。あれが自殺するようなキャラか。」
    「ああ、揉めたのはこっちのクラブでも随分勝手なことしてて腹がたったんだよ、試薬は勝手に使うしさ。なんなのこいつって思ったけど、そこまでの話でもない。ちょっと文句言っただけなんだけど、どこから聞きつけた?山田先生か?」

    「違いますよ。でも複数から聞きました、仲悪いって」

    「仲悪いねえ、そこまで大げさな話でもない。なんかでもいろいろ調べてて変な子だなと思ったね。かなり熱心に調べてたのにここに放り出したままにしてたから、ちょっと黙って拝借してた資料まだ持ってるわ。持ってっていいよ。これどうしたもんか困ってたから適当に言って山田先生に渡しといて。正直、何かのトラブルっていうのならこっち方面だと思う。俺は関係ないからな。首突っ込みすぎたんじゃないの、知らないけど。あと、彼女、ちょこちょこメモしてたよね、黒い手帳に。あれ見つかってないの?見つかってるならあれに全部書いてるだろ。ちらっと覗き見したけど日記みたいにいろいろ書いてたよ。誰からも手帳の話聞いてない?へー、うちの先生方ってみんな揃いも揃って本当に事なかれだな。悲しんでる顔してたくせに誰も言ってないのかよ、事情にしても遺書にしてもおそらくあれに書いてあるだろうに。ちらっと盗み見しただけだから何書いてたかなんて覚えてないよ。もういいかな、まだこっちは仕事あるんだよ」

    丁寧にお礼を言って化学室を出た。
    疲れたー
    目黒先生ほんと感じ悪いしきつかった。でも感じは悪いってほどでもない無難な吉岡先生より目黒先生のほうが無茶苦茶情報くれたのはどうなの。でもどうしようこの資料。
    A4の茶封筒抱えて立ち尽くす。


    恵梨香⑤

    「ねえ、伊東先生って知ってる?この前亡くなったうちの先生なんだけど」
    台所でレタスむしって水切りしてるママに聞いてみる。

    「何よ突然。その件は聞いてるけど?」

    「その先生のお姉さんもね、自殺なんだって。あ、伊東先生は自殺って噂でさ」

    「ふーん、何年か前よね?知ってると言えば知ってるけど、だから何?」

    だから何?そう来ると思わなかったから、困惑。

    「だから何って、なんでお姉さんが自殺したかとか知ってる?」

    「知るわけないでしょ、そんなこと。何、急に。」

    そう言いながら、ママはリビングに、サラダボウルにレタス盛って味のり散らした得意料理と、ポークチャップを運んできて並べる。なんか心なしか置き方が荒っぽいというか刺々しいんだけど。

    「早く食べてよ」

    と急き立てられて、これ以上聞きにくい。なんか、無理に話題切ろうとした?この話嫌がってるような感じだったのは気のせいなんだろうか。



    透子⑤

    美冬の招集で、週明け早々にまた新聞部の部室でランチ。
    目黒先生、あたしも苦手、目つきが嫌い。
    その目黒先生がくれたっていう封筒には、某水質調査研究所からの伊東美緒様宛の封筒や、地図やデータなんかが入ってて、美冬がみんなに回す。

    「で、これはどういうことになるの?」
    悠はざっと資料に目を通して美冬に聞く。

    美冬が地図を広げる。
    「これが大野川で、ここが地点A、ここがB、ここがCね。Aの数値は問題なし、Cもなし、でもBだけはほら、シアンの数値が高いの、わかる?」
    地図と、封筒に入ってた分析結果の数値を見比べる。
    「うん、ほんとだ」
    「でね、ちょうどBのこのあたりが、封筒の住所、先生の自宅みたい。だから異臭なのか何なのかはわからないけど先生が何かに気がついて川の水を調べてみたのかなって思ってるの」
    「この数値ってまずいの?大問題になって誰かが口封じしなければって思うような大変な話なのかな」
    「ほら、こっちの資料見て?この数値だと基準値の10倍だから、行政指導とかは入る値なんじゃないの?わかんないけど工場の操業停止とかになる数値なのかも」
    「え、どこの工場の話なの?」

    「ごめん、先走っちゃったね、このB地点のほらここ、ここが牧産業の大野工場。ここでは主に塗料とか樹脂製品作ってるみたい。ここからの排水って考えたんじゃないかな、伊東先生。だってほら、地図のここに薄くマークついてる、この工場のところに」

    「わ、ほんとだ、え、これってやばい話?よく目黒先生あっさりくれたね」

    「うーんでも、牧産業なんてうちの自治体にとっては大事な企業だよ?指導が入ったとしてもたいした処分になんてならないと思うし、そんな大事とも思えないんだけどなあ。やっぱりこの線が無関係かどうかもふくめて、ちょっと、牧雪彦に聞いてみないわけいかないかな。でもお父さんの工場の排水とか河川の汚染について聞いたって何も知らないと思うんだけど」

    「あ、牧雪彦ってあの美冬のお気に入りの後輩か」

    「もう。別にお気に入りじゃないって!とにかく優秀な後輩ってだけだよ。わたしの中での次期部長候補なんだけど、彼と揉めることになったらどうしよ。で、あとは伊東先生の彼氏の話と、いろいろ書いてったって手帳の話も気になってる。つきあってた相手は誰かってのは諸説あるみたいなんだけど夏休みくらいによく二人で歩いてるところ見られてるみたい」

    あ、今言わなきゃ言う機会をまた逃しちゃう。
    「うん、あたしも見たよ、バイト帰りに二度ほど。伊東先生が二人で歩いてるところ」

    「え?なにそれ、で、相手は誰?」

    「二回とも千葉先生と、だった」

    悠が固まる。

    だから、言いたくなかったんだ。


    悠⑥

    わかってたつもりだ。
    自分の感情なんてふわふわしたぼんやりしたもので
    この前痛感したように、わたしたちは先生たちのことなんてまるで何も知らない。
    千葉先生のこと、遠くからあのおっきな身体を見つけて喜んだり、ちょっとした一言に舞い上がったり、その台詞を何度も何度も反芻してみたって、それは全然千葉先生本体とはあまり関係ない、独りよがりの感情でしかなかったってこと。
    だから当然彼女がいたり、そのうち知らない誰かと結婚して子供つくってパパになってっていう生身の人間ぽいルート歩んでいっても、わたしは全然関わることはないって、薄々というかまあわかってた、つもり。
    つもりなんだけど、こんな形で知るなんてな。
    これもわたしが伊東先生の死に納得できなくてあがいてる罰なのかな。

    午後の授業は全く身に入らなくて、切り替えよう切り替えなきゃってしてみても、頭の中はぐっちゃぐちゃ。
    別に、本気とかだったわけじゃないんだけどな。言い訳かな……

    ああ、明日千葉先生の顔見るの嫌だな。でも、ここまで美冬が頑張ってあれこれ調べてくれてるんだから、任せっきりじゃなくて私が聞いてみないと駄目だよね。
    気が重いな、なんで知りたがってしまったんだろう。なんで人の死の理由にこんな好奇心抱いてしまったんだろう。知らなければ、昨日のわたしのままでいられたのに。もうしばらく、片思いでふわふわ舞い上がっていたままでいたかったのにな。


    美冬⑥

    7限終わって部室に向かう。気が重い。
    雪彦はもう来てて記事のスクラップをしてた。

    「ちょっといい?」

    屋上への階段の踊り場で、話すことにする。

    「こんな資料が手に入ったの、何か知ってる?」

    封筒を渡すと雪彦は黙ってそれを開け、中身を確認する。

    「ああ、この件ですか」
    そう言ったまましばらく黙り込むので、雪彦が話し始めるまで待つ。

    「お互いのためにあまり気持ちいい話じゃないので言いたくなかったんです。隠してたつもりはなくて、でもすみませんでした、前回お話できなくて。僕はこの件について実は詳しくは聞いてなくて、でも伊東先生がうちの会社の悪い情報で父とコンタクトをとりたがってるってことで、頼まれて、先生が父と顔を合わせる機会を作ったのは僕です」

    「え、伊東先生はお父様と会ったの?この中身の件で?」

    「要件まではわかりませんけど多分その話なんじゃないかな。僕はその場に同席してなくて、ただ時間と場所を伝えただけなんで。後で、伊東先生はあの時は無理いってごめんなさいと謝ってきましたし、父は父で、伊東先生と会った後に、拍子抜けするくらいたいしたことじゃなかったと言ってましたし実際、工場も何も困ったことにもなってなかったしどこかにこの件が漏れたとかもない様子です。この件は先生の死と関係あるとは思えませんけど」

    「そうだよね、もちろんそうだと思う。伊東先生がこの内容で万が一でも脅すとかにしてはあまりにネタが小さすぎて、事件と結びつくような厄介そうな話にはみえないし、操業停止とかになってるとか行政指導みたいな話も出てなかったし見てないから。でも一応、何があったのかは知っておきたくて」

    雪彦はなんだか不穏な言い方をした。
    「好奇心は猫をも殺す。美冬先輩もなんだかんだ知りすぎていってませんか?」

    なんだか背筋がゾクッとした。


    恵梨香⑥

    悠は千葉先生のこと好きだったんだよね。
    何回かそれでいじられて、そんなんじゃない、ファンなだけって言ってたけど
    ファンと好きってまあ似たようなものだし。
    ファンでもショックはショックなんだろうな。

    思い出した、そうだ夏休みにあった創立記念日の式典で受付した時、伊東先生と一緒に担当したんだった。その時、メイク変えたんだなって思ったの。地味でほぼノーメイクだったのに、ちゃんとハイライトとか入れるんだこの先生、今日は式典だからかなって。
    その頃、千葉先生とつきあいだしてたからなのかな。
    でも、二度一緒に街を歩いていたからってつきあってるかどうかはわからないけどなあ。
    つきあってなくても、一緒に出歩くことはあるしね。

    下足入で、松本くんとすれ違う。
    松本くん、田尾さんと帰るんだ。一ヶ月前に告ってきたのに、切り替え早いなあ。
    別にいいけど。
    同じクラスでもないし絡みもないし好きになられる意味がわからない。
    中学まで乱視のきつい眼鏡してて全く歯牙にもかけられないって扱いだったのに
    コンタクトにしたらとたんに扱いが変わった。嬉しいというより不思議だった。
    なんだこんなもの?って。
    不思議だったけど、前とは自分の外見への向き合いかたも変わって、中学まで全然興味なかったのにメイク系のインスタばかり見てしまう。矛盾してるよね。

    人は、他人のどこを見てどうして好きになれるのかな。
    悠は千葉先生の何が好きだったんだろう。
    そしてあたしは誰かを好きになれるのかな。


    悠⑦

    放課後は千葉先生はだいたい職員室か、社会科準備室にいる。後者だったら話しやすい。南館の2階だから比較的教室から近いのでとりあえず寄ってみる。気が重すぎてもうなにも考えたくなくて、出たとこ勝負という心境。なんでも聞いちゃえ。

    「失礼します」
    と声かけて引き戸を開ける。
    運良くなのか運悪くなのか、千葉先生は社会科準備室に一人だった。パソコンに向かって作業してる様子。千葉先生が振り向く。わたしはいつも動揺したり高揚したりするのに、今日のわたしは千葉先生の姿見たくらいでは無反応。

    「あの、先生、伊東先生と親しかったんですか?」
    単刀直入にぶつけてみる。千葉先生はちょっと戸惑った顔をした。

    「警察に聞かれたこと誰かに聞いた?」

    警察に聞かれたんだ。知らなかったな。

    「まあ。いろいろと。友達も一緒にいるところ見たとかいう話もあったりで。個人的にこの前図書室でお聞きしたように、なんかすごく気になってるので、何かご存知でさしつかえなかったら、伊東先生のこと、どういう事情なのか教えていただけないでしょうか」

    随分不躾かつ厚かましいなと言いなが我ながら思うんだけど、他に言いようもなくて。

    「学校でも噂になってるらしいけど、別につきあってるとかじゃなかったんだけどな、伊東先生とは。彼女が妙に積極的にいろいろ誘ってきて、それで一緒に飲んだりはしたけど、彼女には結構はっきりした下心あったわけで。そういうのもわかってのつきあいだから、心配するような話はなにもない」

    心配?心配してるように見えるかな、わたし。

    「下心ってなんですか?」

    「知ってるかもしれないがうちは教育一家でね、伯父は市の教育長だし、父も祖父も叔母も教師。あれこれツテはなくはない。そんなのを知って声かけてきたんだろう」

    千葉先生の話がまったく見えない。そんなわたしの様子を察したか補足してくれる。

    「彼女のお姉さんの話は聞いてる?」

    「ええ、亡くなられたっていう」

    「お姉さんは小学校の先生でね、トラブルがあったのは確からしい。そのトラブルの経緯を知りたがってたんだよ。学校っていうところはそういう情報を漏らさないから、僕のツテでなんとか調べてもらえないかっていうのが彼女の下心」

    美冬が言ってたお姉さんの話、あの話がここにつながってたんだ。想像してなかったな。

    「それで何かわかったんですか?」

    「せっかくだし彼女も思いつめてたからいろいろ聞いてあげたよ。ただやっぱりみんな口が重いから、知ってる人は少なくてほとんど噂どまりの不確実な話しかはいってこなかった。とはいえ、小学校でトラブルがあったことは確かで、ほとぼりさまそうと異動させた先の教育委員会でもトラブルがあったらしい。小学校のことは僕のツテだと全然詳細は探れなかったけど、教育委員会ではお姉さんがおられた部署の、学校教育課初等教育担当の女の係長と折り合いが悪かったという話は聞いた。ただそれが直接自殺に至った経緯と言い切れるほどとは思えないって話みたいなんだけど、聞いたまま教えてあげたよ」

    伊東先生はお姉さんの死のことで思いつめてたんだな、わざわざ千葉先生に頼むほど。でも、それでどうして彼女まで死ぬことになったんだろう。

    「千葉先生は、伊東先生が自殺されたって思ってますか?」

    千葉先生はしばらく考え込んでいた。

    「正直、彼女のキャラクターがつかめなくてね、警察でも聞かれたけどわからない、心当たりはないというしかなかった。強いものを秘めてるんだなとは感じてた。なんらかの下心もって人に近づいていけるくらいの神経で、そういう必死さを持っているわけだから。その強さが、衝動的な行動に出る要素なのかもしれない。でもやっぱりわからないとしか言いようがない。あの日、図書室で本の予約を入れてたわけだから、生きるつもりはあったんじゃないかと僕も思いたい。だからただの事故か、それとも衝動的な何か引き金となる出来事があったのか、そのどちらかなのかなと考えて自分を納得させてみたものの」

    先生はそこで一度言葉を切った。

    「佐野さんは大丈夫?デリケートだといろいろ神経に来るんじゃないか?」

    そして、スマホをいじりながら何かをメモして渡してくれた。

    「これ追加用URL。連絡先、追加して」

    えっ、えっ、予定外の展開なんだけど……。


    美冬⑦

    結局わたしも厚かましくも雪彦に頼んで、雪彦父、牧産業社長の牧達彦と会わせてもらうことになった。雪彦は予期してたみたいで嫌な顔一つせず、父の都合きいてまた連絡しますけど、うちまで夜に来てもらうとかできますか?と気さくな感じだった。もちろんと応じたけど、雪彦の家とうちって結構遠いし、夜になりそうだしなってことで、この人に相談。

    「ねえ、ちょっと今調べてることがあってちょっと遅い時間帯に牧産業の牧社長の家に行くことになりそうなんだけど、送ってもらえないかな」

    父は、リビングに資料撒き散らしつつパソコンでカタカタ何か打って仕事中みたいだったけど、手を止めて言った。
    「ふーん、鶴が台だよな、自宅。いいけど?いつだ?」

    「まだ未定なんだけど、もし都合あえばでいいから。夜になりそうだし遠いしさ」

    「遠い時間なら心配だし、できるだけ送るけど早めに言ってくれよ。この話母さんは知ってる?」

    「わざわざ言ってないだけで隠してるわけでもないけど、面倒だから聞かれない限り言いたくない」

    父は微妙な表情をした。わかると同意してるようにもみえるし、困ってるようにもみえる顔。

    「何の用なんだ?」

    「うーん、まだ言えない。取材中だから」

    と、悠からグループLINE。

    「明日、またお昼部室使っていい?」

    了解、と送っとく。悠、千葉先生から何か聞けたのかも。


    恵梨香⑦

    また新聞部部室に招集かかる。カフェテリアのほうが嬉しいんだけど急だと予約とれないのとちょっと込み入った話だから、こっちのほうが気楽っていうのはわかるんだ、でも遠いー、息あがるー。

    3人とももう来てる。あたしを待ってたみたいな感じですぐ悠が話し始める。

    「千葉先生が言うにはね、伊東先生は千葉先生から、教育関係の事情を聞きたがってたみたいなの」

    「事情って?」

    「やっぱりお姉さんの自殺の原因とか経緯を調べてたみたい。千葉先生は教育界に顔が広いからって頼まれてたんだって」

    「うーん、じゃ、伊東先生はお姉さんの自殺の話と、あとは牧産業の工場排水と、2つの話にこだわってたってことになるのね、この2つは結びつくんだろうか」
    美冬が疑問をなげかけるけど、全然わからない。結びつくような話かなあ。

    悠があたしのほうを向いて言う。
    「でね、千葉先生が言うには、小学校で何か人間関係のトラブルがあったらしくてその後に異動した教育委員会でもトラブってたらしいんだけど、何かおかあさんから聞けた?なんでも、学校教育課初等教育担当の女性係長と折り合いは悪かったって話があるみたい」

    固まる。
    それ、ママじゃん。


    透子⑥

    悠の台詞で、恵梨香が固まった。横で見ててはっきりわかる。
    普段暢気で明るい恵梨香が、動揺しながら言う。

    「それ、ママのことかも……」

    美冬が必死にフォローする。
    「そんな、教育委員会の女性係長なんて何人もいるでしょ、そんなわけないよ」

    「教育委員会にはいるけどママの部署はそんないないよ、顔ぶれだいたいわかるもん。折り合い悪かったっていう人ママだったらどうしよう。言われてみたら人当たり悪いし愛想ないしツンケンしてるし、若い女の教師とかをいじめるまではいかないにしても冷たくしてたのかも。ママだったらどうしよう」

    悠まで動揺してる。

    「ごめん、もうホントごめん。わたしのくだらない好奇心でこんなみんなに嫌な思いをさせるなんて。わたし何もわかってなかった。知りたがるってことが、こんないろんなことを巻き起こすなんて。美冬にしてもすごく煩わせてしまって。いろいろ調べて聞いて回ってくれてホントにありがとう。でも、もうこの話やめない?警察が事件性なしって言ってるなら、それはそれでいいんだよ。本の予約のこと、わかってたけど、わたしの馬鹿なこだわりでしかないんだから、もうやめよう、この話にこれ以上首突っ込むの。ごめんね恵梨香。恵梨香にこんな嫌な話きかせて不快にさせるつもり全然なかった。もちろん、千葉先生の話が勘違いとか、別人の話だとか関係ない話だとは思う。それでもとにかく、わたしには自分の好奇心より、恵梨香のほうがずっと大事だから」

    泣きそうな顔で恵梨香が言う。

    「ありがとう悠。でも、伊東先生の理由はともかく、ママが関わってるなら、この話はもうあたしとママの話になってるから。あたしは知りたい。このまま蓋をしてしまうなんて気持ち悪くて無理。あたし自身は伊東先生の話が知りたいっていうより、ママがどう関わってるのか関係してるのかしてないのか、聞かないといられないよ」

    ふわふわ生きてると普通に楽しい。でも、何か知ると、何かを知りたいと思うと、こんないろいろ波風たってしまうのかな、こんな普通の高校生のあたしたちでも。


    悠⑧

    恵梨香がショックうけてた表情が頭から離れない。
    教育委員会にいるとはきいてたけどまさかその課だったなんて全然思ってなくて安易に言ってしまった。
    でもそんなわけない。恵梨香のおかあさんのことよく知ってるわけじゃないけど、ちょっと会った感じでは、できる女性って感じで綺麗で素敵でそれでいてサバサバしたきさくな感じの人だから。なにかの誤解か誤って伝わっただけだと思う。別の人の話なんじゃないかな。
    早く、恵梨香の抱いてるもやもやした誤解がとけるといんだけど。

    みんなの前でも言ったけど、ちょっとした違和感抱いたことで、何が起きたのか知りたいって思ってしまっただけなのに、こんなにいろんなことが起きちゃうものなんだなってなんか怖くなる。知りたいって思うのはけして悪い感情じゃないはずなのに、予期してないことに出くわしたり、耳にしたり、知りたくないことまで知る羽目になった、みたいな。

    期待してる時って、多分期待してる間の時間が実は一番楽しいんだと思う。
    何か事態が動くと、あれ?ってなる。こういうのだめだと思うけど本当になる。
    うちの高校は教師と生徒が個人的につながることは禁止だから。生徒のほうも、教えるな先生と交流するなってしつこいくらい指導で言われてる。だから、千葉先生が連絡先渡してくれたその瞬間はちょっと舞い上がるというか高揚感はあったけど、やっぱりどちらかというと、ショックのほうが大きい。身勝手だよね、いろいろと、自分の身勝手さにうんざりすることばかり続いてる。

    でも、理屈じゃないから、ショックっていうのはでも制御できなくて。会話の流れ思い出しても、千葉先生はわたしの好意を感じてて、それであんな感じだったんだって思うと、なんだかな。失望に近いのかなこの感覚。勝手につくりあげた先生像があって、それと違う面をみせられて、勝手に失望して、そして勝手に失恋までした、みたいな。独り相撲ってこういうこと?もう、高校生にもなってわたし、何やってるんだろう……。



    美冬⑧

    牧雪彦の家は、高台のちょっといいお家が並んでるエリアにある。当然といえば当然だけど、いわゆる高級住宅街で、田舎だからそんなたいしたものでもないとはいえ、立派なお家が並んでいる一帯。夏の花火大会の時、よく見えるからどうぞって招いていただいて、新聞部のメンツでお邪魔した時にはじめてうかがったんだけどさすがに気後れしそうな立派なお家だった。
    今日が都合がいいってことで連絡もらって、父の車でお邪魔する。雨だから父の予定が空いてて助かった。ゲートでインターホン押すと自動的にゲートが開く。
    「父が、よければお父様もご一緒にどうぞって。雨だし車でおまたせするのも申し訳ないし、お茶くらいだしますよ」
    ってLINE来たから父に見せると、父はふむとうなずいた。

    二人で車から降りて玄関に向かうと、ちょうど雪彦が玄関のドアを開けて顔を出した。

    「いらっしゃい。遅くにわざわざすみません、どうぞ」

    父と二人で雪彦の家にお邪魔するという謎のシチュエーション。

    リビングというより応接間っぽい部屋に通される。雪彦はコーヒーでいいですか?とわたしと父に聞いて、その場を離れる。なんとなく見たことはあるけどこうやって雪彦父、牧達彦とがっつり顔を合わせるのははじめてで、ちょっと緊張するなあ。父はそれなりに顔見知りらしく、大人の挨拶交わしてる。ご無沙汰ですだのご活躍でだのなんだの。

    「きみが坂下美冬さんですね、おかあさんのほうに似てるのかな?」

    「あ、よく言われます。今日は本当にお忙しいのにお時間割いていただき申し訳ございません」

    「いえいえ。息子のクラブ活動の関係ということだし、今日は特に予定もなかったし、大丈夫だから。わざわざお越しいただいてすまなかったね」
    雪彦父は鷹揚に言う。そう言っていただけると本当に助かるんだけど、どこからどう切り出そうか迷うな。でも迷ってる時間もなく。

    「えっと、単刀直入にお聞きさせてください。伊東先生ですが、伊東先生の残された資料がなぜか新聞部のほうにまわってきまして、それがこちらの工場からの排水による河川汚染についての調査資料なんです。雪彦くんから、伊東先生とお会いになってお話されていると聞いたので、その内容など教えていただけませんか?」

    雪彦父はすらすらと語った。
    「排水の件は単純にきっかけという感じでしょう。わたしとしても雪彦から顧問の先生ってことで何度か名前は聞いていたし、便宜をはかってほしいと頼まれれば、いくらでもきいてあげることはできたので、むしろあの件を持ち出してきたのは彼女の失策だと思ってますがね。排水装置の故障で濾過凝縮システムがうまく機能してなかったことと、それがなぜか見過ごされていたってことで、指摘もらってすぐ改善しました。たいした問題じゃないのは彼女もわかりそうなものなんですが、まあきっかけがないとなかなか頼めなかったんでしょう」

    「ごめんなさい、その便宜とか頼みっていうのは……」

    「彼女は結局、自殺されたお姉さんの、その亡くなった経緯について調べていたみたいでね。お姉さん、伊東志保さんがお勤めだった第二小学校でいったい何が起きていたのかを知りたがっておられた。そこで、第二小の誰か、できれば教頭などの管理職を紹介してほしいっていう話だったんですよ。随分顔が広いと思ってくれてたようで。まあツテをたどれば紹介することはできたでしょう、実際にちょっと誰かいないか探してくれと親しい人間に頼んでたところなんで、こんなことになってわたしも驚いている状態でね」
    「不躾なと腹をたてるには彼女は若すぎたし、線が細くはかなげな感じが早くに亡くなった雪彦の母、うちの死んだ家内にもなんとなく似てましてね、力になってあげたいと思っていたもので、とても残念に思っています。聞いたところ、遺書はないものの自殺だろうという話もあるようで。近い家族もおらずお姉さんにも先立たれて、不幸な女性だったんだと思うと、なんだかね。このくらいの年齢になってくると余計に若い人の急死は刺さってね。何かできなかったのだろうかと」
    雪彦父はしんみりと語った。

    結局伊東先生は、千葉先生にも雪彦父にも同じことを頼んでる。彼女がこだわってたことはお姉さんの死の経緯なんだ。お姉さんの時は遺書はあったってことだけど、詳しいことは書き残されてなかったんだろうな。わたしにはあまり伊東先生が線が細いかどうかまではわからなかったけど、そういう頼みをもちかけられたらそう感じるものなのかな。でも、千葉先生は「強いものを秘めてる」って評してて、目黒先生は「たいした人で」「自殺するような人じゃない」って言ってた。伊東先生への印象が全然違いすぎて、どれが伊東先生の本当の顔なんだろう、わからなくなる。
    雪彦父とうちの父は市政についての雑談がはじまってる。私はもう聞くことないなって思ってると、雪彦がコーヒーを持ってきてくれた。雪彦も腰をおろしてざっくばらんな雑談になっていく。もうこれ以上雪彦父に聞くこともなさそう。

    「ではそろそろ」
    と父が言ってくれて退散のきっかけになる。

    「一応確認なんですが、牧社長は、9月18日、先生が転落したその日なんですが、夜はどうされてましたか?」
    帰ろうと腰をあげていた父がいきなり聞く。雪彦父は考え込む。
    「どうでしたかね、ちょっとまってください」
    手帳を開いて、言う。

    「その日の夜はたいして予定がないので、8時くらいには家に戻っていたはずです。どうかな雪彦?」

    「そうだよ、その日はチェスを2試合してどっちも僕が勝った日だから」

    「お、そうだったか。最近ちょっとチェスに凝ってましてね、雪彦につきあってもらってたんだが、まだまだ下手でね」

    雪彦父はそう言って笑った。


    帰り道、父に聞く。
    「なんで帰り際にあんなこと聞いたの?牧社長のこと疑ってるわけじゃないよね?」
    「まあな。ただ念の為だよ。この仕事で念の為に聞いておくことが何に役に立つかわからないからな」

    母じゃなくて父がこういう言い方をするのは珍しい。助手席に乗り込むと何かが視界にはいる。何か落ちてる。助手席の足元から拾い上げると、手帳、それも黒い表紙の。
    開こうとする前に父の手がそれをスッと引き取った。
    「ここにあったのか、探してたんだ」

    黒い手帳。まさか、ね。


    恵梨香⑧

    風呂上がりにソファでネイルの手入れしてるママに単刀直入に聞く。

    「この前、何も知らないって言ってたけど、伊東先生のお姉さんってママの課にいたんでしょ?知らないわけないよね」

    ママは片手に持ってたマニキュアの小瓶をテーブルに置いて、あたしを見つめ、問い詰めてくる。

    「何?誰から聞いたの?」

    「誰でもいいでしょ。知らないはウソでしょ?」

    ママはしばらく黙ってた。そして言った。

    「そうねウソになるのかも。でもウソではないのかも。彼女がなんで自殺したかはわからないもの」

    「そうなの?ママがいじめたせいじゃないの?」

    はっきりわかるくらいママの頬が紅潮した。

    「なにそれ、なんでそんなことを恵梨香が言うの?誰から何を聞いてきたのか知らないけど。恵梨香に何がわかるの?」

    「何がって何もわからないから教えてくれって頼んだのに。何も教えてくれなくて隠してるなら、何か悪いことしたんじゃないの?」

    「悪いこと?悪いことってなに?ねえ、こんな話本当に聞きたいの?職場で仕事でこんなしんどいことがあってこんなやりきれない苦しい思いしてその上周囲からこんな目でみられてるなんて、そんな親の話、本当に聞きたいの?」
    「彼女がうちに異動になったとき、前の学校での噂もいろいろ聞いていたし実際精神的にボロボロなことは誰がみても明らかだった。うちの部署でわたしは直属の上司みたいな立場で、わたしが彼女を引っ張り上げることを求められてたかもしれないしそうすべきだったかもしれない。でもそうはしなかった。自分なら構われたくないから。彼女には時間が必要だった。今あれこれ世話を焼いて母親のように優しく面倒をみることよりも、せかさず見守ることが必要だと思った。彼女に興味なくてほっといたんじゃない。それがいいと思ってたからそれを選んだの。あえてそうしたの。わたしのプライドにかけてそれが正しいと思ってしてたことなの。結果的には失敗だったのは明白だけど」
    「そうよ。わたしが彼女の直接の上司だったとき、あの春に彼女は自殺したのよ。そのことで結果論で責める人、陰口を叩いてた人、いろいろいた。きみがもっと優しくよりそってやればこんなことにならなかったのではと、直接、上から言われたりもした。でも、それでも堂々と言える。わたしはあえてそれが正しいと思ってした態度で、結果的に、彼女に対しては正解じゃなかったとしても、恥じたりしない。失敗したのかもしれないけど、責められることだとは思わない。わたしが間違えたのは、わたしと彼女は違うってことをわかってなかったの。わたしならそうしてほしいことでも、彼女は違うのかもしれないってことをもっとよく考えてみるべきだった。でも、それは悪いこと?娘にまで責められるようなこと?彼女の自殺の責任は私にあるの?あるかもしれない、たしかにそれは否定はできない。彼女が苦しんでるその苦しみをほぐすサポートや手助けはもっとできたかもしれない。でも責められるようなことじゃない。もっとできたっていう後悔だけ」

    ママが怒涛のように続けるから口も挟めない。もういいよ、ごめんって言いたいのに。

    「いじめた?無視した?そんなわけないじゃない。わたしを誰だと思ってんのって言いたいわ。そんなことするわけないじゃない。知らない人が言うのはいいけど、親しい人にまでそういう言い方されたのは正直当時はちょっと傷ついたけど、今は全然傷ついてない。あれは一つの経験だった。人ってものがまた一つわかった。彼らは、犯人を探したいの。理由を知りたいっていう好奇心と、誰かを断罪したいって気持ちで手ぐすね引いてるの。悪い人じゃなくてもそれは人の本能みたいに、普通の人でもそうしたがってるんだってことがよくわかったわ。一つ学べたとも言える。でも、どこから聞きつけたのか知らないけど娘にまでいじめたって疑われるのは心外。あなたわたしのどこ見て育ってきてんのよ」

    「ごめん、ママごめん、何も知らなくてごめん」

    なんか泣きたくもないのに涙出ちゃうよ。
    そしたらママの目も真っ赤で。

    「謝られてもね。そりゃどこかで聞きつけたら、事実なのかどうか知りたくなるのも問い詰めたくなるのも仕方ないよね。でも堂々と言えるから大丈夫。悪いことはしてない。もっとできたかもしれないという後悔は確かにある。失敗はしたかもしれない。それだけ。だけど、あなたがママを恥じるようなことは何もないから」

    そっか。そうだよね。人は失敗するよね、あたしがママをちゃんと信じたうえで事情を聞かなかったことが失敗だったみたいに。ママも外の社会で失敗するんだよね。でも、それをいちいちあたしにぶちまけたりしないで、全部抱えてオトナやってるんだよね。
    ホント何も知らなくて、しっかり信じてあげれなくて、ごめん、ママ。


    透子⑦

    悠も美冬も昼は都合が悪くて、みんな揃うのは7限のあとってことになって、今日は放課後はバンドの練習だけだからあたしも余裕ある。みんなで中庭のベンチで集合。まだこの時間でも暑くて、用務員さんが草刈りした直後みたいで緑の匂いがムッと空気中に充満してる。

    美冬が、牧家訪問の流れと内容を教えてくれる。牧父は、うちの店の上得意で、あたしも何度も見てる。息子さんと同じでちょっと小柄。全然偉そうじゃなく感じいい紳士だって評判は良いんだよね。

    「やっぱり伊東先生の話はそこに行き着くんだね。お姉さんの話」

    「そう。そこなの。でも、教育委員会の話が出てたのは、千葉先生の話では夏でしょ?牧社長と会ったのは9月にはいってのことでホント最近の話で、そこで求められたのはその前の第二小学校の人との接点なんだよね。だからやっぱり問題のトラブルは小学校のほうなんだろうなって思う」

    恵梨香が口を開く。
    「ママだから擁護してしまうのかもしれないけど、ママが言うには、結局、教育委員会に異動になったのは小学校でのトラブルがすごく大変で、だから緊急避難的な異動みたいなの。だから、ママがあまり面倒みなくて結果的に教育委員会在職中に自殺っていうのは事実みたいだけど、追い詰められてたのはその前の出来事ってことだって話。あくまでうちのママの言い分だけどね。第二小学校の人間関係はなんかいろいろ複雑らしくて、伊東先生のお姉さんの異動のタイミングで、何人も異動してて、トラブルに関わった教師たちを分けるっていう意図の異動があったらしい。でも、そのトラブルの首謀者?関わった人とかは処分があったわけじゃないし、何があったのかは明確にされないまま異動でお茶を濁したってことみたいで」

    「よくある話なのかもね。なかなか強い処分までにはならないって話はきいたことある。でも、もし伊東先生がお姉さんを追い詰めた人を探しててなんとか突き止めていたとしても、屋上でその人と争ったとかはないんだよね、だって争った形跡とかはなかったんだし。事件性が考えられない以上、わたしたちが伊東先生に対して抱いてた、おとなしそうでトラブルなんてなさそうでなんでそんな選択したのか全く理解できないっていうイメージのほうが誤ってたってことなんじゃないかな。千葉先生が言うように、実際は、おとなしいどころか必死だったわけだから。とはいえ、天文同好会や化学研究会とか副担任していた1年のクラスのほうでもいろいろ話を聞いてみたんだけど、物静かな先生だったってくらいしか出てこなかったんだけどね。突発的に思いつめてたがゆえの行動って考えるのが一番自然なのかも。それだと、本の予約の話とも矛盾はしないといえばしないし」

    うん。そうだよね、人は見た目ではわからない。
    おとなしいイメージなんて、口数が少ないと同義かもしれないけど、内心何を考えてるかなんてわからないんだから。物静かだってそう。心の中ではどれだけ葛藤してても、それを表に出さないでなんでもない顔して生きていってる人がほとんどなんだと思う。
    口に出さないから苦しんでないなんて誰が言えるの?誰にも言えなくて、だからこそ苦しくてっていうのは、いろんな人が心の奥底で抱いてる感情なのかも。外で人前でそんなみんな出せないで隠しているんだろうな。いろんな悩みや苦しみを。本当の伊東先生もきっと、お姉さんの自殺の原因を、知りたくて、知りたくて、苦しんでた。必死だった。当たり前だけど、あたしたちは部外者だからそれが伝わってこなかったってだけ。でも……

    「でも、手帳は?」

    美冬が少し考え込んで、そして言う。
    「確かにね。でも手帳の話なんて話題に出したの、目黒先生だけだからね。信憑性どこまであるのかなって気がしてきた。よく考えたら手帳の話って、他の誰からも聞いてないし」

    確かにそうなんだよね。でも、手帳の話なんてデマだっていい切れるのかな。それに、何かがひっかかってる……。


    悠⑨

    あれから千葉先生とは顔を合わせてない。
    結局、連絡先は登録しなかった。やっぱりできなかった。
    今日これから課題研究だから、当然顔を合わせることになる。
    感情的にはすごく気まずい。
    でも、授業の前に急いで移動して、一番乗りすれば聞きたいことが聞けるかも。
    こんな時、気まずさより好奇心が勝つんだな、私って。
    早足で、視聴覚室に急ぐ。

    「先生」

    いつものように早く来てた千葉先生がゆっくり振り向く。普段どおりの表情でちょっとホッとする。

    「ん?」

    「あの、伊東先生の手帳のことなんですけど」

    千葉先生が眉をひそめる。

    「なんでそんなことまで知ってるんだ。まだ見つかってないのか?警察でも聞かれたが何も知らないしもちろん持ってないから」

    伊東先生の手帳、目黒先生のデマじゃなくてちゃんとあって、その上、本当に紛失してるんだ。驚き。
    いったいどこにいったんだろう。伊東先生が自ら衝動的に、突発的に死を選んだというのなら、どうして色々書き込んでたっていうその手帳が消えてしまったんだろう。


    恵梨香⑨

    学校帰り、なんか急に、またグラタンが食べたくなった。
    インスタで美味しそうで簡単そうなレシピ調べて、作ってみることに。
    シーフードミックスとマッシュルーム、シュレッドチーズだけ買って帰ったら、あとは家にある材料でいけそう。

    絶対失敗しないって紹介されてたレシピ。まず、玉ねぎと小麦粉を一緒にバターで炒めて、それから牛乳を投入。これだとホワイトソースがダマになっても気にならないのかも。ダマできてるのかもしれないけど見えないからないって思っとこう。
    料理するの久しぶりだな。中学までは家庭科の宿題とかでたまに作るとかあったけど、高校はいってからは全然。久しぶりに作るとなんか楽しいし、やる前に考えてたよりグラタンって全然簡単かも。あとはチーズのせてオーブンで焼くってところまで作ってから、ママにLINEいれる。

    「なんか急に食べたくなってシーフードグラタン作ってみたから」

    しばらくしてママから、あっさりした返信が来る。

    「食べたい」

    珍しくママが、笑顔マークつけてる。
    なんか、あたしも笑顔になっちゃう。


    透子⑧

    今日はバイト。
    鹿鳴館の社員のなっちゃんは、あたしと年齢たいして変わらないけど仕事ぶりは全然違ってさすが社員っていう有能そのもの。あたしたちはバイトだけど、なっちゃんの名字じゃなくてなっちゃんって呼んでて、仲良くしてもらってる。

    「なっちゃん」

    パソコンで予約情報さわってるなっちゃんに声をかける。

    「何?」

    「ね、18日って、あたしは9時半にはあがったんだけど、あの日って、牧産業の接待はいってたよね、月の間で。あの日のお客さんってたしか、インドネシアだったかマレーシアだったか忘れたけど、外国のお客様で、ヴィーガン用にしてくれって言われて板前さんが四苦八苦してた日だよね?」

    「そうだよ。でもすごく喜んでもらえたみたいで、山さんも、女将さんもほっとしてたわ」

    「その日って、牧社長は早めに帰ったりしてた?」

    「まさか。だって社長が一番英語お上手だし、もちろん最後までいらっしゃったよ?なんで?」

    「だよね、最後って何時だったかな」

    「11時くらいだったと思う。お部屋も11時までって予約だったし、牧社長はそのあたりきっちりなさってるから、そんな延びたりはなかったはず。だから何よ」

    「ごめん、なんでもないの」

    なっちゃんは怪訝そうな顔をしてる。美冬から聞いた話でどうしても気になったの。伊東先生がお亡くなりになったあの日、牧父が予定がなくて8時には帰宅してたってことはまずありえないから。だってその日あたしもバイトにはいってた。勘違いだったかなって思って帰ってからスケジュール確認したけど間違いなくバイトはいってる日だった。普通にその日も月の間に配膳したはずで、牧社長を見てる。なんで牧社長はウソをついたんだろう。これってどういうことなんだろう。


    美冬⑨

    透子からのLINEを何度も読み返す。
    やっぱりもう一度話す時間を作らないとだめみたい。
    気が重いけど、乗りかかった舟だから、わたしが決着つけるしかない。
    何かに手をつけるって、結局そういうことなんだよね。

    もうちょっとで下校のアナウンスが鳴り響くっていうくらいの時間まで待って、屋上にあがる。日が沈んで暗くなってきてる。今日は少し風が強い。

    先生が転落したって言われてるあたりのほうに向かう。やっぱり、いた。

    牧雪彦が、望遠鏡で西の空を眺めていた。

    雪彦は足音に気づいたのかゆっくり振り向く。驚いた様子もなく。

    「美冬先輩」

    「何観てるの?」

    「さっきまでは金星を。角度的に観づらくなったので、そろそろ帰ろうかと」

    「雪彦、伊東先生とあまり喋ったことないって言ってたけど、伊東先生が天体観測してる時、よく雪彦が一緒に観測してたって天文同好会の子から聞いた。実は結構親しかったんじゃないの?」

    「親しいの意味にもよりますけどね。まあ、親しいでもいいですけど。伊東先生は蠍座のM7が特にお好きでなんだか思い入れもあるらしく、夏の間はよくここで観てたんですよ。僕も先生の影響で好きになって、それで一緒に」

    「そう。じゃ、チェスの話は?あの日の夜、お父様は会社の食事会だったんでしょ?なんで予定がなかったなんて嘘ついたんだろうって思ったの。でもお父様は夜遅くまで仕事関係の人たちと同席してるわけだからアリバイなんていらないはず。だったら、その嘘はきっと雪彦のためだよね?で、あなたもそれに合わせた。それってどういうこと?」

    雪彦は微笑みながら、言った。

    「やっぱり、美冬先輩は知りすぎちゃってますね。言ったでしょう?好奇心は猫をも殺すって」

    殺す。なんて禍々しい言葉。雪彦のこと怖いなんて思ったことなんて一度もなかったけど、もしかしてわたし、ここに一人で来ちゃいけなかった?
    そんな気持ちを見透かすように、雪彦は続けた。

    「なんてね、好奇心は猫をも殺すってのは、単なる自嘲です。知りたくて知りたくてたまらなくなってしまったことがこんな結果をまねいたこと、後悔しているので」

    こんな結果?結果って……。

    「伊東先生は、出会ったときから優しくしてくれました。なんとなく特別なものを感じてしまうくらい。だから僕は先生の態度や一挙手一投足が気になってしかたなかった。なんでこんなに気にかけてくれるんだろう、誘ってくれるんだろうって。でも父と会いたいって言われた時、ああこの先生もそうなのかって。僕を通して父を見てる大人は今までも結構いたので、それでこんなに優しくしてくれたのかって、ある意味納得でしたけど、それでも割り切れなくて。本当にそれだけなのか。どうしても知りたかったんです。そうじゃないっていう答えがほしかった。それで」

    雪彦はちょっと言い淀んだ。

    「それで、これを先生のバッグから盗んだんです」

    制服の内側のポケットから、何か出す。例の手帳だ。

    「これにいろいろ書き込まれてること、知ってましたから。メモっていうより日記みたいだなって前から気になってて。悪いことだってわかってました。人の日記を読むなんて。でもどうしてもはっきりさせたいっていう気持ちを押さえられなくて。で、全部読んで、伊東先生がどんな風に生きてきて、何を抱えてて、そして僕のことをどう見てるのか、全部わかっちゃったんです。」

    雪彦は顔を歪めた。

    「読まなきゃよかったな。読んで、伊東先生の人となりや過去、何を考えていたのかを知って伊東先生に近づけたけど、それは僕が勝手に思ってた伊東先生とは全然違ってた。そして僕についても、はっきり書いてました。利用しようって。薄々そうだって知ってましたけど、父とのセッティング頼まれた時にそれは明白になってましたけど、はっきり書いてあることは、一つの形ですから。僕と先生の関係は、書かれたことで形になって刻印されてしまいました。淡い感情でも甘い感情でも優しさですらなく、『利用』なんだって。自業自得ですよね。それで、手帳を返しに来たんです、あの日。」
    「あの日は久々に天気がよくて、ずっと曇りが続いてたから、先生はきっと長い時間天体観測してるんだろうなって思ってました。夜に学校に戻ってここに来たらやっぱりそうでした。僕が手帳を差し出すと先生は別に、驚いた様子もなくて」

    雪彦はちょっと遠くを見るような目をして語り始めた。あの日、9月18日の夜のことを。


    9月18日 伊東美緒

    雪彦くんが、手帳を差し出す。
    もしかしたらそうかなって思ってたけどやっぱり彼だったのか。
    読まれたら困るようなことをこの手帳にいっぱい書いてたにもかかわらず普通に持ち歩いてたんだから、誰かに読まれるリスクはわかってたはず。わたしは随分前から、いろんな感情を麻痺させてしまってる。

    「いいの、もういらない。それ、雪彦くんにあげる」

    彼は戸惑って、差し出した手をどうしていいか困ってる。
    もういいんだ。もう疲れた。
    彼はきっと傷ついただろう。彼が好意をむけてくれてるのは気づいてた。でもわたしにとっては彼は駒だった。千葉先生もそう。真実に近づくための駒。
    わたしは志保ちゃんの自殺で傷ついた。傷ついたんだから何をしても全ては許されるって思ってやってきたけど、彼の表情を見て改めて思う。そんなわけないって。千葉先生はまだいい。成人だし、プライドが傷つくかもしれないし傷つかないかもしれない。どうでもいいし興味ない。でも雪彦くんは、わたしが守って育ててあげるべき生徒なのに。こんな振る舞いしていいわけなかった。

    「傷つけてごめんね。先生、余裕がなくて。だめな教師だよね」

    雪彦くんは謝られてますます困惑してる。手帳のこと、怒ると思ってたのかな。怒れるわけがない。わたしがしたことや書いていた内容を思えば。彼のこと、便利な手駒を見つけたって手帳に書いた記憶あるもの。彼はその箇所もきっと読んだんだろうな。本当になんてことしてしまったんだろう。

    わたしたち姉妹はどこで道を間違えてしまったんだろう。あの日、父と母が事故死したあの日から、わたしたちは誤った道を進んできてしまった気がする。志保ちゃんは、いつも必死にわたしを守ろうとしてくれた。叔母さんは両親を失ったわたしたちをひきとってくれたけど、中学から志保ちゃんを寄宿学校にいれたからわたしたち姉妹は引き離されてしまった。でも志保ちゃんは頻繁に手紙をくれてわたしが大丈夫か気遣ってくれた。ずっと、ただ寂しがるだけの幼いわたしを守ろうとしてくれてた。だからわたしは志保ちゃんがずっと大好きで、志保ちゃんみたいになりたくて、志保ちゃんみたいな教師になろうと思ってこの道を選んだ。だけど、わたしたちの関係は一方的に、志保ちゃんがわたしを守る関係だった。わたしには心を開けるのは志保ちゃんだけだったのに、志保ちゃんはわたしに打ち明けることなしに逝ってしまった。わたしは志保ちゃんを守ってあげられなかった。守ってあげたかった。一緒に泣きたかった。いつもわたしには笑顔しか見せてくれなかったね。だから、せめて、何があったのか何で苦しんでたのか知ることが、わたしがすべきことだって思ってやってきたのに。なりふり構わず知ろうとして、それで生徒の心を傷つけるなんて、志保ちゃんに叱られちゃうな。なにやってんの美緒ちゃんって。そんなことやめなさいって。もういいからって。

    ここから、飛び降りたら、全て終わらせられるのかな。もう疲れちゃった。



    美冬⑩

    「『今のわたしが怖いのは、いろんな感情を麻痺させてこんなことになってしまってる自分自身なのかもしれない。この怖いものを消してしまうには、もう自分自身を消さないと駄目みたい。全てのことを終わりにして自由になりたい。だって、もうどうやって元の自分に戻っていいのかわからない。何を頼りにどうやって生きていけばいいのか全然わからない』。伊東先生はそう言って、この柵を乗り越えてしまいました。僕はどうしていいかわからなかった。先生は僕が手帳を読んでしまったことにすごくショックを受けてて、僕が読んで傷ついたと思って、それで思い詰めちゃったんだと思います」

    そんな……、辛すぎる。なんでそんな。

    「先生はスレスレの端っこに立って、それで、ごめんねって僕にいっぱい謝ってくれて。僕はそんなこともういいですから、僕は大丈夫なんで、気にしてないから、だからこっちに戻ってきてくださいって何度も言ったんだけど、先生は、もう無理、もう疲れたって。でもそのまま足がすくんだのか動けなくてしばらくそのまま立ち尽くしてる状態でした。で、先生が言ったんです。『雪彦くん、怒ってるでしょ?怒っていいの。わたしは酷い教師だから。だから、押して?』って。足がどうしても動かないから、背中を押してくれって僕に頼んだんです。」

    え、それって、それって。

    「僕は迷いませんでした。手帳を全部読んでいたから。先生はいっぱいいっぱいで、とても辛そうで、孤独で、僕は怒りよりもただ助けてあげたかった。開放してあげたかった。だから」
    「押してあげたんです、先生の背を。トンって押しただけで先生は、落ちていきました。そうです。あれは僕がやったんです」

    言葉が出てこない。

    「それが美冬先輩が知りたがってた、9月18日の真相です。これが全部。まだ何か聞きたいことありますか?」

    やっぱり、言葉が出てこない。
    雪彦は、黙ってるわたしを見つめ、そしてあの手帳を、わたしに握らせた。

    「これ、僕がもらったんですけど、もういらないんで先輩にあげます。それでは望遠鏡をしまって帰りますね。」

    そう言って望遠鏡を片付け始めた。

    「僕、先輩のこともちゃんと好きでしたよ」

    帰り際に一度だけ振り返るとそう言って、雪彦は立ち去った。

    何も言えないまま、ただその後ろ姿を見つめながら、ポケットに入れていた取材用レコーダーのレックボタンをオフにして、そしてしばらくその場に立ち尽くす。
    動けなかった。


    手帳(一部抜粋)

    榊公園はわたしたちの幸せの象徴。
    毎年春がきたら、公園そばのパン屋で好きなパンをたくさん買ってもらって、パパとママはコーヒー、志保ちゃんは大好きなコーヒー牛乳、わたしはジュースで、レジャーシート敷いて、桜を眺めながらみんなで食べて、のんびり過ごした。榊公園はそういう場所。

    志保ちゃんは、その場所で逝ってしまった。わたしに何も言わず、全部抱えてひとりで逝ってしまった。

    事情はだいぶ掴めて、誰がどう関わってるかは見えたんだけど、で?
    ここからわたしはどうしたいんだろう。
    問い詰めて、謝らせたら、志保ちゃんのお墓の前で謝ってもらったら、終わりにできるんだろうか。そんなことできるかもわからないし、できたとして、そしたらすっきりできるかもわからない。だって志保ちゃんは帰ってこないもの。
    少し事情がわかってきたら、かえって、どうしていいかわからなくなってきてる。何があったかまるでわからなかったときは、何が起きたかを知りたくて必死だったから、後先考えなくて済んだのに。今は、見えてきたがゆえに、行き止まりで立ち尽くしてるような心境。確かに彼らに怒りはある。でもどこかこの怒りに虚しさもある。ほしいのは志保ちゃんを返してもらうことだけど、それはけして叶わないもの。
    わたしのこの怒りとやるせなさのほとんどは結局、志保ちゃんを追い詰めた誰かに対してではなくて、志保ちゃんが頼ろうと思えなかったわたし自身に対しての感情なんだと思う。自分と志保ちゃんとの関係が結局、関係とはとても言えない一方通行の庇護でしかなくて、それに甘んじて、あの頃何も気づけずにいた役立たずな自分に腹を立て怒りを溜めているんだと思う。だからきっと、今のこのしんどさは、何がどうなっても変わらない。だってもうあれは過去だもの。わたしはずっと過去の、取り返せないことに囚われて抜け出せないでいる。

    志保ちゃんはしっかりしてたけど、今思えばちょっと不器用だったよね。だから、同世代の中でももしかしたらちょっと浮いてたのかなって思う。寄宿学校生活は大変だったんじゃないかな。何も聞いたことないから実際のところはわからないけど。わたしたちは突然ふたりっきりの家族になっちゃって、他の子たちとは環境がまるで違うものになってしまった。それで、ふたりともずっと周囲に心を開けないまま打ち解けることができずに今まで来てしまったのかもね。わたしも、今の、うちの高校生たちを見てると、キラキラしてて眩しくて、羨ましくて、自分のあの頃を思い出しては時々苦しくなってしまう。

    わたしたちにとって、世界は荒野にすぎなかった。

    わたしにとって、世界は荒野にすぎない。


    恵梨香⑩

    美冬が手帳の内容をかいつまんで話してくれた。

    「世界は荒野にすぎないって、どういう意味なんだろう」

    悠が教えてくれる。
    「『友がいなければ世界は荒野にすぎない』。フランシス・ベーコンの言葉だと思う。なんかもう胸が苦しくなる。ほんと、きつい」

    悠の鼻の頭がちょっと赤くなってる。あたしもなんか涙出そうになるので喉の奥をきゅっとしめてこらえる。

    「牧くんはどうなるの?」

    「多分、家裁送致の後、逆送になるだろうって。幇助の罪になるからって。」

    美冬の表情も沈痛そのもの。ほんとみんなとにかく今回はいろいろあったよね。だから、言ってみる。

    「ね、この金曜さ、うちに泊まりに来ない?ママに聞いたらいいよって。ママは幼なじみのところで夜通し飲むから、家好きに使ってって」

    「マジ?行く!なんかもう語り明かしたいよ。いろいろありすぎて、お腹の中にいろんな気持ちたまりすぎてパンパンだもん。吐き出したい」

    うんうんわかる。同じ気持ちだ。だから、あのコテージ以来のお泊りで、みんなで過ごしたい。今のあたしたちにはそういう時間が必要だと思うんだ。


    透子⑨

    鹿鳴館に、お願いしてた黒糖プリンを受け取りに寄る。女将さんは不在だったけどなっちゃんがいて、包んでくれる。4つなのに、えらく大きな紙袋。

    「これね、今日、透子ちゃんがお友達とお泊まり会って言ったら、女将さんと山さんがいつも頑張ってくれてるからって用意してくれてた。食べてね。手まり寿司みたいよ」

    うわ、嬉しい。鹿鳴館でバイトしたことで、ステキな大人たちに会えたなって思う。やりたいこと見つからなくて模索中のあたしだけど、この出会いはホントに大収穫。なっちゃんにいっぱい感謝の気持ちをつたえて、恵梨香の家に自転車で向かう。

    みんなもう来てて、バームクーヘンや、シュークリームなんかのスイーツに、飲み物とか、スナック菓子とかいろいろ持ち寄ってる。早速いろんなものを開封してあれこれつつきながら、飲みながら、トークが進む。っていうか美冬がもう泣いてるんだけど。早いよ、美冬。

    「わたし、これからどうしていいのか全然わからなくなっちゃった。雪彦のこともダメージきつくって。好奇心抱くって、いいことばかりじゃないじゃない。わたし本当にこれが好きなのか全然わからないんだけど」

    普段クールでしっかりものの美冬が、荒れてる。大荒れ。

    「だってね、よく考えてみたら、わたし、両親がそれ系の仕事でなんとなく自分もその道が当たり前っていうかそれが自分の好きなことって思いこんでたけど、それってだめじゃん?だってさ、わたしみたいに流されやすいっていうか問題意識も反骨精神もなくて、それが当たり前って進んじゃうような人間が一番、選ぶべきじゃない道だと思うの。そう思ったらね、何がしたいのか何が好きなのか、もう全然わからなくなっちゃったよ。これからどうしていいのかわかんない」

    悠が優しく言う。

    「ねえ、今までの美冬が、はっきりやりたいことがある子だったってだけだからね?みんな同じ。みんなわかんないんだよ。何をしたいのか、これから何が待ってるのか、わからないし、先生たちも成績とか進学先の偏差値のことくらいしか言わないから、とりあえず成績あげるか、みたいなのが普通。だから、それでいいじゃない。ゆっくり見つけようよ。わたしだって、実はなんにも考えてないんだよ?」

    「そうなの?悠も?」

    「そっ。今までの美冬が羨ましかったくらい、なんにもないの。なんとなくこっち方面が好きだから大学で勉強するならこっちかな、でもそれって就職とか将来とどうつながるのって、実はあまりぴんと来てない。ちゃんと計画的に進んでる子もいるしそれはそれで立派だと思うけど、仕方ないから、一歩ずつ、進むしかないのかなってのがわたしの現状。」

    そうだそうだ。あたしなんて多分みんなの中で一番ふらついてる。美冬だけじゃないよ。そう言ってみんなで泣いてる美冬をなぐさめる。

    「美冬元気だしてよ。ほら、これでも飲み比べしてみて」
    恵梨香が、りんごジュースの瓶を三本抱えてキッチンから戻ってくる。

    「こっちがふじ、これが王林、これがジョナゴールドね。どれから飲んでみる?」

    「えーりんごジュースの飲み比べ?意味わかんない」
    美冬が泣き笑いしながらも、王林を選んで栓を抜く。コップにそそぐと綺麗な優しいイエロー。
    「未成年だからアルコールはないけど、でも王林飲んで、元気だしてよ」
    恵梨香がそう言って元気づける。

    あたしたちはそれからいっぱい喋っていっぱい食べた。大騒ぎしながらオーダーしたピザ食べて、手まり寿司食べて、黒糖プリン食べて、バームクーヘン切って食べて、シュークリーム食べて、口がとにかく甘くなってて、そしたら急に恵梨香が言った。

    「ね、口、甘くない?あたし今からグラタン作るから」

    「え?今から?もう11時だけど?」
    冷静に悠が突っ込む。

    「だって口が甘いし、この前つくったから材料全部あるし。いいよね?誰か食べるよね?」

    「食べる!恵梨香のグラタン超食べたい!」
    美冬が言う。

    「えーこんな時間だよ?でも作ってくれるなら食べるよ。深夜のグラタンってなんか歌にありそうなんだけど。そういえば子どもの頃お気に入りだった本に、空飛ぶグラタンの本があったような」

    「空飛ぶグラタン???」

    美冬が素っ頓狂な声をあげる。悠は笑いながら言う。
    「ごめん、うろ覚えだから、空飛ぶパイだったかも」

    「どっちも変、変過ぎる」

    なんだこの深夜テンション。あたしたちは、泣いたり笑い転げたり、飲んだり食べたり大忙しで、そして疲れ切って、3人は眠ってしまった。


    * * * * *


    3人の寝顔見ながら考えてしまう。
    世界って本当に荒野にすぎないのかな。
    世界は荒野でできてるのかな。

    そうなのかもしれない。
    あたしはしょっちゅう家族にイライラしたり反発したりもしてるけど、まだ高校生で家族に守られてる。でもひとたび外に飛び出したら、世界は荒野でできてるって、痛感するのかもしれない。

    伊東先生はきっとあたしの名前も顔も知らないままだっただろうけど、でも、手帳に先生が書いてたあの言葉を忘れずにずっと覚えておきたい。そうしたら、あたしと、伊東先生と、先生のお姉さんは、その言葉でずっとつながっていられるんじゃないかな。そんな気がする。悠が言葉をちゃんと記憶してるから、悠とフランシス・ベーコンがつながることができてるみたいに。

    先生、あたしはちゃんと覚えとくね。世界はきっと荒野でできてるんだ。だから、だから、この3人とか、鹿鳴館の大人たちとか、もちろん家族とか、それにこれから出会う人や事と、なるべくちゃんと向き合って、信頼したりされたり時にはぶつかったりもしながらも、覚悟を決めてなんとかやってみるから。

    荒野を、なんとか頑張って歩いてみるね。



    悠⑩

    納戸にもぐる。納戸には古いダンボールがいっぱい積んであってかなり狭い。恵梨香の家で思い出した空飛ぶパイの本をどうしても読みたくなって、子ども時代の本を探してるんだけど、どれかな。確かこのあたりだったと思うけど。開けてみた箱には、幼稚園の時のグッズがいろいろ入っていた。通園バッグにベレー帽とか。
    通園バッグとベレー帽をどけると、幼稚園の頃に使っていたランチョンマットが出てきた。赤、青、緑、黄色、紫の5枚のランチョンマット。隅には果物のアップリケ。母のお手製。母はきっちり揃えるのが好きで、曜日によって色が決まってて、同じ色のガーゼのハンカチも母のお手製だった。そういう決められてるきっちりしたやりかたが自分にはわずらわしく思えるんだって自覚したのは、小学の高学年くらいだったかな。幼稚園の頃は、言われたままで何も考えてなかったと思う。ランチョンマットを手にとって眺める。あの頃は気づかなかったけど、このアップリケのつけかた、控えめに言っても上手じゃないんだな、今だからわかるけど。縫い目がガタガタ。わたしのほうがまだうまいかも。

    階下に降りると、母がリビングで本を読んでいた。母に聞く。
    「タイトル忘れたけど、昔よく読んでた空飛ぶパイの出てくる本、どこにあるか知らない?急に読みたくなって」
    母が顔をあげる。
    「昔の本はまとめてお父さんの部屋の本棚のほうに移したから。探してみて」

    「わかった」
    わたしはついでに聞いてみる。

    「ね、裁縫って実は苦手だった?幼稚園の頃の手作りのもの見つけて思ったんだけど」

    母は笑いながら言った。
    「小さい頃は気づかないよね。そう、実は裁縫って大の苦手」

    「なんで苦手なのにあんなにいろいろ手作りだったの?今だから言うけど、友達のキャラクターものの市販のランチョンマットとか実はちょっと羨ましかった。あんなに手作りじゃなくてもよかったのに」

    「そっか。そうだよね。でもあの頃は、悠にちゃんとした幼稚園生活送ってほしくて、恥ずかしくないように頑張って揃えなきゃって、悠が何が好きか何を喜ぶかよりもそれで必死だったんだよね、ママ」

    母が自分のことをママって呼ぶのは久しぶりだ。わたしがママって呼ぶのをやめてお母さんって使いだしたら、それにあわせて、ママは自分のことをママって呼ぶのやめたはずなのに。

    「実はママ、幼稚園に通ったことないの。保育園もね。ママのお母さん、要するにあなたのおばあちゃんだけど、生活に疲れ切ってておまけにアルコールの問題も抱えてて、今考えてもまともに子育てできるような人じゃなかった。ママは多分、あなたの幼稚園生活に自分がこうしたかったっていうものを詰め込んでしまってたんだと思う。入園前、幼稚園用品のソーイング系の本を何冊も買って、下手で不器用なのに必死でいろいろ作ってたのを思い出す。でも、あの頃はそれが楽しくてしかたなかった。自分ができなかった幼稚園生活をあなたが過ごせるって思うと、それだけで嬉しかった。あんなのもこんなのも欲しい、作りたいってね。あれは自分のためのソーイングだった。ごめんね、エゴ丸出しで。」

    はじめて聞いた。幼稚園通ってなかったなんて、知らなかった……

    「高校でいい先生と巡り合えて、うちの家計の状況とかも全部わかってくれて、それで働きながら大学に行く道を考えようって協力してくれて、自宅から通う範囲に適当な大学なくて、ママは地元から出て夜間の大学に行くことにしたの。高校出て働きながら二部の大学に通った。こんな話、したことなかったね。うちの家の話は結構重いので、悠に伝えるタイミング逸しちゃったのかもしれない。年に数回だけ実家に帰るとね、母は自分がどんな悲惨な暮らしぶりなのかを見せつけてきた。母を置いて大学に行ったことを責めるかのように。あれがトラウマで、悠に片付けのことをうるさく言ってしまうんだと思う。自分にも悠にもあの血が流れていると思うと怖くて未だに神経質になってしまう。足の踏み場がないっていうのはあの家のことを言うんだと思う。家って言ってもアパートの二間だけの家だったけどね。帰省するとまずすることはゴミ出しだった。昔はゴミ袋も有料じゃなかったから、とにかく山ほどゴミ出しをして家をなんとか片付けてると帰省は終わる。そして母はまた家をゴミ溜めにして、母を置いて未来を掴もうともがいて出ていった娘に復讐するの。そんな母も大学4年の時に急死してね、その頃はもう、母を愛してるのか憎んでるのかわからなくなってたな」
    「悠が大きくなるにつれ、あなたがいろんなことに苛立ってるのは感じてた。ママがあれこれ家事に必死なのを疎ましく思ってたよね。わからなくはない。だってこれはママのエゴだもの。あなたのため、お父さんのためとかじゃなくて、ママは自分ができなかった、ちゃんとした子供時代、ちゃんとした高校生活、ちゃんとした家庭生活、それをあなたが過ごしていってくれることが、ママにとってとても大事なことだった。そんなの、それはそれは鬱陶しいだろうなって思うわ。勝手にこどもで追体験しないでよって思うよね。でも、悠が、人並みでちゃんとした楽しい高校生活を送ってるだろうなって思うだけで、ママの気持ちは救われたの。しんどかった自分の学生生活がなんだか報われる気がして。ごめんね、自分勝手で」

    そんな子供時代だったんだ、そんな大学時代だったんだ。今のママからは想像つかない。

    「悠は、自分のために頑張りすぎって思えてしまって不快なんでしょ。でも全部言っちゃったからわかったよね?ママが朝から掃除して家をきちんとしておきたいのも、朝からパン焼いたりしてしまうのも、全部ママがやりたいことなの。こういう生活をずっと夢見てたから、ママがしたいの。まげわっぱのお弁当箱、嫌だっていうからもう使ってないけど、ああいうお弁当、ママが高校に持って行ってみたかった。全部ママのため。だから、嫌だっていうことはなるべく控えるけど、そうじゃないなら、こんな年になってもまだ割り切れてないママのこと笑っていいから、許してほしい。しばらく、納得いくまで好きにさせて?駄目かな」

    駄目じゃないよ、駄目じゃない。人はいろんな過去や感情、屈折を抱えてて、年齢重ねてオトナになったとしても、そう簡単に過去を割り切れずに抱えたまま生きていくのかもしれないね。オトナになるってことや親になるってことは、すべてのわだかまりを解消させる魔法なんかじゃないんだ。こんなに近くにいたのに、いろいろ知らなくて、わかろうともしなくて、なんかごめんなさい。


    「ね、わたしたちさ、わたしが高校にはいったくらいから、なんだかしっくり来てないよね。あれって、わたしがママって呼ぶのもうやめるって思って、お母さんって呼ぶことにしたあたりからだと思う」

    「そう?そうだったかな。そんな話なの?」

    「そんな気がする。で、『お母さん』がどうしてもしっくりこないんだ、前から感じてたけど。だから、呼び方変えていい?」

    「呼び方なんて悠の好きにしたらいいよ」

    「じゃね、何がいいかな。うーん。ほら、宗介はリサって呼んでるでしょ?だから、美禰子は?」

    「宗介ってなんだっけ。でも、美禰子ねえ。お父さんにも呼ばれないのに」

    「いいじゃん。呼び捨てはなんだかしっくり来ないから、美禰子ちゃんで行くわ、いい?」

    「いいよ。悠の好きに呼んで」
    そう言うと、母はティッシュをとろうとして立ち上がる。わたしは今、ずっと抱えてたもやもやがようやく晴れたような気分になってる。


    * * * * *


    「美禰子ちゃん行ってくるね」
    朝、玄関で声をかけると、美禰子ちゃんがリビングから出てくる。
    「気をつけてね?」
    私達は笑顔を交わしあい、そして家を出る。閉じられた向こうからカチリと鍵が閉まる音。

    なんていい朝!


     
     
     
    書くことが好きなので、思いついたものを少しずつでも投稿していこうと思います。よろしくお願いします。

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