
彼と彼女の儀式
【あらすじ】
彼が最後に送ってきた原稿をどうしても読めないでいる瞳子の物語。
大学時代の後輩、瞳子がスキャンダルに巻き込まれているのを心配する雪乃。 そんな雪乃に瞳子は心配しないでと告げる。 その少し前、大学時代の文芸部で出会った森崎と瞳子は、長い年月を経て再会していた。 小説を書き続ける森崎と、その作品を読み続ける瞳子。 言葉を大切にしすぎた二人が、伝えられなかったものとは何だったのか。 作中作の『ライムグリーンの月と僕』にのせた森崎の真意は? 森崎の儀式、そして瞳子の儀式。失っても失われない二人の物語。
雪乃
彼女と初めて会ったのは大学の文芸部の部室だった。
当時、わたしは三年で彼女は新入生。お決まりのサークル見学の喧騒の中、覗きに来た冷やかしの一人だろうくらいの感覚でいたのだけど、彼女のことは印象に残った。うちの部に来る子はだいたい二パターンに分かれていて、オタク気質が強く対人コミュニケーションに癖がある子と、それ以外。後者はわりと少ないから気になったのかもしれない。個性的な顔立ちだけど黒目がちの大きな瞳でまっすぐに人を見るので、人を惹きつける雰囲気のある子だなと思った。少し会話して、この子がうちに入ったらトラブルになるかもなと思ったのも覚えてる。結果的にそうはならなかったけれど。
なぜ急に彼女のことを思い出したかというと、病院の待合でなんとなく眺めていたテレビのワイドショーで有名タレントの不倫スキャンダルを取り上げていて、週刊誌の記事で不倫相手とされていた一般女性が、彼女に見えたからだ。顔にはモザイクがかけてあったし画像は粗かったのでどこがどうとはうまく言えないけれど妙に似てるなと思って、デジタル記事で写真をチェックしてみて間違いないと思った。背景はぼかされていたけど彼女が肩からかけているバッグ、あれは彼女のハンドメイドのバッグだ。最後に会った時も持っていたもの。ターコイズのネックレスもピアスも彼女がよくつけていたお気に入りのもので、あれも確か彼女のハンドメイド。販売サイトも持っているしそれ用のインスタもやっている。たまに見に行っているからすぐわかった。
最後に会ったのはあの奇妙な依頼をされた春かな。「雪乃先輩にしか頼めない」とかなんとか調子良いことを言ってきて、でもいつになく切実な目をしていたから断れず引き受けたのだった。あれは、なんだったんだろう。難しいことじゃない。ただ手書き原稿を打ち直すだけの作業。なぜ自分でしないのかと、喉元まででかかった。でも、聞けなかった。彼女が、何も聞いてくれるなオーラを出していたから。それにしても、あれから彼女に何があったのだろう。なぜ、20歳も年上の既婚者との不倫騒ぎになんて巻き込まれているんだろう。
わたしたちは気が合ったのだと思う。部といってもやたらと癖が強くてめんどくさい人間の集まりで、わたしは誰とも気が合わないなと思ってそのあたりは諦めていた。それでたいして困ることもなかったのだけど、学年は違うのに彼女とははじめから波長が合いそうな予感がしていた。彼女もそう感じていたのかもしれない。明らかに他の部員よりわたしに懐いてきた。わたしと彼女はどこか似たもの同士で、二人ともいっこうに恋人を作る気配がなかった。厚かましいかもしれないけどお互い並以上の容姿だったと思う、特に彼女は妙に雰囲気のある、相当に綺麗な子だった。でも、部の男たちには受けがよくなかったというか、うちの部の男たちは自分でも受け入れてくれそうな相手を好む傾向があったからか、その手の浮いた話はわたしの知る限りなかった。
「瞳子は誰かとつきあいたいとかないの」
二人でチェーンの居酒屋で朝まで飲みながらそんな話もたまにした。
「ないですね。そもそも人を好きになることがほとんどないです。バレンタインデーにチョコを渡したこともないし、なんとか先輩かっこいいとか言ってキャーキャー言ったりの経験もないです」
「珍しいよね。ま、わたしも似たようなもんだけど。ただ、瞳子はそれなりにモテるでしょ?」
「それもたいしてないです。ちゃんと、興味ないですオーラを出して他人を巻き込まないようにしてましたから。男の人ってそういうのに割と敏感なんですよ」
「なるほどね。じゃ、一度もない?結構しっかり誰かを好きになったなんてこと」
そう聞くと、彼女は少し答えるのをためらった。
「なりかけてるのかもな、と思ったことはありますね。一度だけですけど」
「その人とはなりかけて進展しなかったの?伝えたりとかさ」
「しなかったです。彼女がいる人だったし、別につきあいたいとか振り向かせたいとかは思わなかったですし。好きかもしれないと珍しく思った相手に、向こうから求められたら何かが始まったかもしれないけど、求められないなら別にいらないかな、みたいな。この感覚わかります?」
わかるわかる、と軽く同意した。でも、瞳子の感覚とわたしの感覚は多分違うなと思った。
瞳子に連絡とろうかなと考えなくはなかったけれど、物見高いみたいにみえるのも嫌なので今はそっとしておこうと思った。ただ、彼女の関わっているスキャンダルの話題はついつい追ってしまっていた。ミーハーな気持ちと、なぜあの子が?という違和感の両方のせいだったと思う。人を好きになることが稀なあの子が何故よりによってという気持ちは強かった。SNSや、掲示板といったアングラなところでも、情報を求めてチェックを続けていた。
件のタレントにはきれいな娘が三人いて理想の父親みたいなポジションだったので、世間の衝撃は大きかった。妻もタレントでワイドショーのコメンテーターでもあった。彼女は番組を一週間休んでいる。世間の同情は妻や娘たちに集まり、男性タレントとその不倫相手である彼女に非難が集中していた。瞳子はまことしやかに「プロ彼女」のような呼ばれ方をしていたけれど、わたしが知っている彼女からはそんなイメージはまるでない。でも、彼女には、あの子が本気で落とそうと思ったら落とせない男はいないだろうなという何かがあった。とはいえ、あのタレントが彼女が本気で落とそうと思った男なのかと考えると、あまりにしっくり来なかった。メディアを通した彼はたいした個性のないつまらない男にしか見えなかったから。勿論、生身の彼を知っているわけではないから、瞳子が惹かれる何かを持っていたのかもしれないけれど。
火に油を注いだのは男性タレントの取材対応のまずさだった。囲み取材にはじめは平身低頭の素振りをしていた彼は、相手女性のことを持ちだされたことで激高しはじめた。
「あなたたちに何がわかる。ぼくはこの歳になって何もかも捨ててもいいくらいの真実の愛をみつけたんだ」
絵に描いたように逆上せたこの動画は拡散されて、そのせいで「真実の愛不倫」などとますます騒がれ、魔性の女として瞳子にも注目が集まった。そして、SNSの特定ごっこが始まり、気づいた時には彼女のインスタやハンドメイドの販売サイトが見つけられてしまっていた。
・絶対これ。だってこのブレスレット、この画像のと一緒だし爪もほら同じじゃない?
・ほんとだ。すごい!これで確定だね
・え、この◯◯ってアカウントが例の新魔性の女のものってこと?
・あーほらこの三月の画像、これ、◯が舞台の時にもらってる花束がうつってる。真っ黒だ
・うわ、気持ち悪いの見つけた。この人こっちのリンクだと短歌ばっかあげてる。しかもキモい恋愛の歌ばっかり。不倫に酔ってるね、バカすぎ
・この「森彗星」ってのもこの人の別名ってこと?これでぐぐると、いろいろまた出てきたんだけど
心配になって彼女の本名や仕事先とかが特定されるような情報がインスタやサイトに含まれていないか、ざっと探してみる。大丈夫そうだったけど、でも、これが拡散されて広まると不愉快なDMやメールが相当来ることになるんじゃないか。心配になってきて、わたしは躊躇していた連絡をとってみることにする。
「ご無沙汰してます。元気にしてるかな。もしかしていろいろ騒がれてる件に関わってる?前に教えてくれたインスタとか、SNSは閉じたほうがいいかもしれない。とにかく、ちょっと心配してます。できることがあれば、力になれることは限られてるとは思うけど何かあれば声かけてね。余計なことだったらごめんなさい」
案の定、瞳子からはあっさりとした返事が来た。
「大丈夫だから心配しないで。でもありがとう」と。
瞳子①
「大丈夫だから心配しないで」と、雪乃先輩からのメールに返信して、一息つく。
あちこちにメッセージがいっぱい。ほとんどが口汚い罵倒だけど全てに目を通す。それもわたしにとって一つの儀式。期待したような内容はまるでなくて、覚悟していたけれど少し淋しい。そういう淋しさを憶える時、覚悟していたなんて嘘なんだなとわかる。わたしは多分、甘い期待をしていたんだなって。人は自分自身にも嘘をつくらしい。
わたしは我ながらまあまあ愚かなのだけど、愚かなりに、やれることをやってみようと思って、今はその最中。そのせいか、誰か他の人の人生を歩んでるような不思議な浮遊感がある。雪乃先輩もきっと、わたしらしくないと思ってるんだろうな、わたしだってそう思ってるしね。
これはどこから始まったストーリーなのだろう。みんなそれぞれ自分なりのストーリーを持って生きていると思うのだけど、わたしにもささやかなわたしなりのストーリーがあって、一応起点らしきものもある。あの起点から、ifによって無限な樹形図を描きだすことができるかもしれない。でも現実はそんなこともなく、あっさりとしたつまらない図でしかなかった。少なくともあの時までは。
起点は文芸部だった。
大学で何かサークルに入るとしたら文芸部しか考えられなかった。高校時代からほそぼそと短歌を詠んでいたけれど、自己流だったし語りあえるような仲間がほしいなと思っていたからだ。でも、大学の文芸部は新入生のわたしが期待していたような特別な胸踊る空間ではまるでなく、正直、居心地の悪い場所だった。雪乃先輩以外、誰とも仲良くなれないような気すらしたし実際一応四年間所属してもそんな感じのままだった。その年、文芸部の新入生は数人いて、その一人が彼だった。
第一印象は苦手だなって思った。なんといっても彼女連れで文芸部に入ろうとする男ってなんなんだろうっていうのがまずあった。彼女は雰囲気からしても発言からみても何かを書きたいとか読みたいとかそのどちらもなさそうで、彼が入るっていうから私も文芸部に入ろうと思ったと悪びれずに言えるような子で、正直辟易したし連れて来る彼も彼だと思った。彼は小説を書いていると言っていたけれどジャンルはSFだと言うので、わたしは彼らカップルにあっさりと興味を失った。
そのままでいられたらよかったのに、新歓が行われた文芸部行きつけの居酒屋さんで、別に彼を意識していたわけでもないのに気がついたら彼を目で追っていた。多分、きっかけはわたしの隣の子、これも新入生の男の子だったんだけどその子が気持ち悪そうにしながらお手洗いに立って、ちょっと気になって見ていたら、すっと付き添っていこうとした姿を見たからかな。あ、この人よく周囲が見える人なんだなと思った。多分、わたしと彼以外誰もその子のことに気づいてもなかったと思う。この40人くらいの集団の中で、この喧騒の中で、二人だけが気づいているっていうのは何かの共有みたいだなって、ちらっとそんなことを感じた気がする。
最初の出会いの印象が悪い意味で強かったせいで、その時点では、だからといって大した気持ちでもなかった。わたしは隣の先輩と雑談し、ある程度愛想よくしたりしながらも居心地が悪くて早く帰りたいなとか文芸部合わないかもなとか考えながら、なんとなく彼を少し意識していたっていうくらい。足りなくなれば飲み物を頼み、誰かがビールをこぼせばおしぼりをもらいという、歓迎される側というよりもお世話係に徹している様子をぼんやりと眺めていた。と、彼がグラスを持って隣に来た。
「何?彼女さんのところ行きなよ、彼女つまんなさそうだよ」
最初の彼との会話はこんなひどいものだった。
「いや、だってそれ以上に、一番楽しくなさそうな顔してるから」
見透かされているみたいでムカッとした。
「わたしにはキミがここで一番楽しくなさそうに見えるんだけど」
彼は言った。
「うん。それは確かに正しいね。こういう場は円滑にいけばいいと思っていて自分が楽しもうとはあまり考えてなかった。この時間が楽しい時間になるとはそもそも思わないしね」
「理屈っぽいんだね」
「そうかな?」
「そうだよ。ちょっとクールすぎるし」
「クール?いや、だって…」
彼が言いかけたとき、彼女が大きな声で彼を呼び寄せた。彼とわたしの大学時代の会話はそれが最初で最後だった。
彼はそれからすぐ文芸部をやめた。最初で最後の彼の作品が載った文芸部発行の部誌をわたしは今でもまだ、たまに引っ張り出して読んでしまう。SFを書いていると言っていたのに載せられていたのはエッセイだった。「門」というタイトルのエッセイ。
多分、わたしが彼に惹かれたのはあの文章のせいだと思う。
雪乃先輩に聞かれて、好きになりかけた人がいたと言ったのは彼のことだった。はっきり恋だとか愛だとか言えるほどのつながりではないことはわかっていた。そして、彼女と別れてわたしとつきあわないかと提案するほど彼を知っているつもりもなかった。わたしの中では漠然とした靄のような恋情もどきがくすぶり、それ以外にたいした出会いもなかったことで、もやもやのまま消えずに残ってしまった。残ったのは、特に奇跡的な出会いをしたとかではなく、お互いが運命の相手とかでもなく、もっと現実的なこと、多分、わたしがなかなか他人に興味を持てないせいだった。
わたしは、彼との唯一の接点というだけで、居心地の悪い文芸部に居座り続けた。そして卒業して、就職して、うまく行かずにやめて、その後は塾講師をしながら相変わらず我流の短歌を詠み続けていた。
瞳子②
大学を卒業して何年たっていただろう、ある日、SMSに1件の通知があった。携帯会社からくらいしかSMSは来ないので、多分そこからだろうくらいの気持ちで開いてみた。
「突然のメールすみません。大学の文芸部でちょっとだけ一緒だった森崎です。今どちらでしょうか。もしよかったら会えないかと思っているので、返信もらえたら嬉しいです」
寝耳に水以上なんだけど、と思ったのがこのメールを読んだときの最初の気持ちだった。わたしの中ではいまだに彼は特別な存在だったけれど、こんな風に接点が生じるとはまるで思ってなかった。大学時代に部員同士で連絡先の交換をしていたし、わたしはずっと番号を変えていないから、送ろうと思えば確かにこうやって送ってくることは可能だった。でもいつか来るかもと待つほどおめでたくはなかったので、本当に驚きしかなかった。
わたしは今住んでいるのは東京だということと簡単な近況報告をした。どう転んでもいいなと思っていた。返信しない選択肢はなかった。断る理由もなかった。
彼からは、来月あたり東京に行く予定があるので良かったらその時会えませんかという返事が来た。わたしは、仕事のスケジュール次第ですが早めに教えてもらえればなるべく都合つけますと返信し、彼から日にちの提案がなされた。大学生の頃、わずかな会話をしただけのつながりしかないわたしたちは、ほぼ10年ぶりに会おうとしていた。半ば現実とは思えないなという心持ちだった。
わたしたちはわたしの職場の近くの居酒屋で待ち合わせた。店はわたしが予約した。職場の同僚とも使うような気楽な店で、少し早めに店に着いて彼を待った。久しぶりに会った彼は、昔のままとはいかないというか、こざっぱりしたザ・リーマンという感じだった。お互い仕事帰りという風情で、どこかくすぐったかった。
「元気でしたか」
「ぼちぼちです。何か頼んだ?」
「まだ。飲み物、生でいいですか?」
彼が店員さんに声をかけてくれて、つまめそうなものをお互いに見繕って注文し、軽くジョッキを合わせ、そして一息ついた。
大学卒業してからどうしていたとかの軽い近況報告をしあって、そして彼が言う。
「いきなりでびっくりした?」
「それはそう。ほとんど会話したこともないのによくわたしのことなんて覚えてたね」
彼はぐっと目尻をさげて微笑む。
「文芸部はすぐ辞めたけど卒業するまでずっと、ラピスラズリは買ってたんだよ」
ラピスラズリは部誌の名前だった。彼の唯一のエッセイが載っていたのもそれ。
「そうなんだ。そんな人いるんだ。毎号買うくらいなら何か書いたらよかったのに」
「あの時期スランプだったから何にも書けなくなっていて、それもあって部も辞めたんだ。だけど檜山さんの短歌はずっと読んでた。ファンだったからそのために買ってたようなものでね」
びっくり。思いがけないことを言われたせいでどう反応したらいいかわからない。彼は続けて言う。
「その後も、筆名は知ってたからSNSも見ていたんだ、ずっとね。気持ち悪かったらごめん」
脳がパニクる。わたしの短歌の中には彼のことをイメージして詠んだものがいくつもあるから。多分、彼に気づかれるほど露骨に詠んだものはなかったはずだけど。
「筆名はあの頃から変えてないから知ってる人は知ってるし、全然いいよ。大丈夫。ただキミはすぐ辞めたからわたしのことなんて覚えてるなんて思わなくてびっくりしただけ」
彼は、ジョッキに少し残っていたビールを飲み干して、言う。
「言ったでしょ、ファンだったって」
そして立ち上がって、店員を呼び止める。
彼に疑問をぶつける。
「でも、なんで今?」
彼は照れくさそうに笑いながら言った。
「前から会えたらなとは漠然と思ってた。どこに住んでるかもよく知らないままだったし具体的ではなかったんだけどね。でも、この四月くらいに、蝶の短歌を投稿してたでしょ、あれが凄く好きで、一度会ってみたいと思ったんだ。最後に会ってから随分時間がたってしまったけど、もしかしたら、連絡先を変えてなければまだ間に合うのかなって」
蝶の短歌……。あれはわたしのお気に入りだった。ふっと降りてきたような不思議な感覚で詠むことができたやつ。わたしにしては珍しい、大人っぽい艶かしさのある短歌。あの短歌もどこか彼のことを想って詠んだのに。顔がカーッと熱く火照ってくる。
正直、そこから何を話したかあまり覚えてない。他愛ない話題がいろいろと出ていたのはなんとなく記憶にあるのだけど、わたしの頭は彼の言葉を噛み締めたくてたまらなくなっていて、早く一人になりたかった。あの頃のわたしが勝手にこだわっていた相手が今ここにいて、わたしの短歌のファンだったと言っている現実は、適応力が低めのわたしには分を超えていた。びっくりするくらい会話も弾んだし楽しい時間だったのは確かだった。初めて聞く事実にも今の彼の生身の姿にも興奮していたし、少しでも長くこの時間が続けばいいのにと思う一方で、早く一人になりたいとも思っていた。彼と店を出る時に彼が言った「また、東京に来ることがあったら連絡してもいいかな」という言葉に出来うる限り気楽な雰囲気とあっさりとした調子で「勿論。楽しみにしてる」と答えて、彼と解散し、望み通り一人になれた。家でわたしは彼の言葉を反芻した。何度も。
わたしはこの関係においてとても受け身だったと思う。自分から連絡をとったことはほとんどない。いつも彼のほうから、東京に来るというタイミングで連絡をしてきた。二度目は、最初の再会から半年近くたってからだった。わたしは正直に言うと、初回のことを夢のようにぼんやりと受け止めていて、実際起きたことという実感はないままだった。だから次があるイメージもしていなかった。ただ短歌を詠むときには、前には感じなかった意識に縛られた。彼が見ていることを知ってしまったから。これをどう受け取るだろう、これが自分のことだと気づくだろうか、と。
二度目の時、軽く飲んだ後、うちに寄る?とわたしから誘った。彼の左手のことは、彼が言い出さなかったのでわたしも特に聞くことはしなかった。
わたしたちは一緒にテレビで総裁選の投票を見て、数年後、次の総裁選にまつわる騒動やニュースも共に眺めた。会うのを繰り返すうちに共通の記憶をあれこれと刻んだ。けして頻繁に会うことはなかったけれど、わたしはもっと会いたいとは思わなかった。ただこの時間がいつまでも続けばいいのにとぼんやりと願っていた。
わたしは自分の短歌に彼が登場することを隠さなくなった。
たまに彼が言う。
「これ、俺?」
わたしはそういう時、大抵こう答えた。
「違うよ。キミじゃない。だけど、ちょっとだけキミ」
彼はそれを聞くとやけに嬉しそうな顔になる。
「ねえ、もう何にも書いていないの?」
わたしは彼にそう聞いてみた。
「実は書いてる。短いものばかりだけどね。本当は悪魔的で天才的なものを書きたいんだけどな、ヴォネガットのような。それともコニー・ウィリスのような完璧な物語とかね。でも、今は全然その足元にも及ばないようなささやかな、よく言えば可愛らしい、我ながらちょっと拙いものしか書けない」
「書いてるの?!読ませてよ。メールで送って欲しいな」
わたしが頼むと、彼は困った顔をした。
「メールは無理。手書きでしか書けないんだ。原稿用紙に手書きっていうレトロタイプでね」
「嘘、今どき手書きなんて、びっくりなんだけど。なんで?」
「書く前に全て頭の中で完成させているんだ。じゃないと一言も書き出せなくてね。でもキーボードで打つとどうも完成させていたものなのに弄りたくなっておかしくしてしまう。そこが、手書きだと、形になっていなかったってだけで確かにあるそのものを、ただ丁寧に実体化させる儀式みたいな感覚があって、それが好きなんだ。紙に万年筆で書いて、見えてなかったものを見えるようにする儀式みたいな感覚」
「キミの頭の中には完璧な物語がつくられてるってことか、すごいね。それを形にするのが一種の儀式なわけね。でも、手書きはかなりの少数派じゃないかな」
「こだわりを抱いている物事に対して、人にはそれぞれのやり方が、それぞれの儀式があるんだと思うよ。わかる?」
「それぞれの儀式、ね。うーん、なんとなくわかる、かな。ね、次の時でいいから書いた作品持ってきてくれるかな。読みたい。自信作だけでいいから」
「自信作なんてないよ。それにそういくつも書いてないし。ただ、読んでもらうならあれかな。ライトめのSF。SFって言っていいのかわからないくらい緩いやつだけど」
そして、彼は次の時にちゃんと原稿を持ってきてくれた。
青いインクで書かれたその短編のタイトルは、「ライムグリーンの月と僕」と書かれていた。
ライムグリーンの月と僕
三度目に会った時、彼女は僕に聞いた。
「これって運命かもって思わない?」と。
僕はその時、何と答えるべきだったのだろう。今でも時折考えてしまう。確かに、その時の僕の返事といえば全く酷いものだったことは間違いない。僕はこう返事をした。
「僕はきっと、これは運命じゃないのだって思うことができるんだ。僕はそういう人間だからね。運命か運命じゃないかなんて僕にとってどうでもよくて、どうにでもなることでしかない。大事なことはただ一つ、これは運命じゃないんだって思うだけでいい。そうしたらそれはきっと真実になる、すぐならなくてもいずれそうなる」
僕がそう答えた時、彼女は悲しそうな顔をして、何も言わずに立ち去った。その時の彼女の表情を忘れることができない。あの表情を僕がさせたんだという痛みと共に。
一度目は、カレッジでの古典文学のオープン講座でシートが隣同士だったことだ。講義に招かれた偉い先生がエアシャトルのトラブルで到着が遅れるとかで(エアシャトルは空中を透明チューブのようなものでつなぐ大変便利な乗り物なのだが、どこか一つでもトラブると全体が止まってしまうのが難点なのだ)、長く待たされたので、初対面ながら自然と雑談する流れになったのだ。彼女から僕に、古典文学では何が好きなのか話しかけてきたので僕は、僕は古代の詩歌が好きなのだと言った。彼女は古典でも若いほうの古典、特に原始SF文学が好きだと教えてくれた。そこから僕たちはお気に入りの作品を交換しあうことになり、連絡先を交換した。帰宅後、彼女から随分丁寧な文書メールが届いた。みんなすぐにホログラムメールで詮索しあおうとするのに彼女のその奥ゆかしさは大変好ましく思えた。僕は彼女が教えてくれた原始SF小説を貪るように読んだ。彼女は僕が教えた詩の本の中で、一つの短歌をとても気に入ったと言っていた。そういえばそれがどの詩だったかを僕は聞き忘れている。
二度目は、カレッジの夏祭りだった。
宇宙館の展示の受け付けに彼女がいた。背が高くてすぐにあの時の人だと気づいた。彼女も僕に気づいて宇宙館を案内してくれた。僕たちは宇宙館を周りながら会話を続け、少しずつお互いのことに詳しくなっていった。僕も彼女もカレッジの後の進路は決まっていて、僕は旧市街の発掘調査をすることになっていてカレッジのあるシティから随分離れたところに住むことになる。彼女は、宇宙開発を仕事としてこれから宇宙開発センターと宇宙基地で研修を行い、火星の入植事業に携わることになるのだそうだ。地の底を掘る僕と、宇宙へと飛躍する彼女と、僕たちの違いの大きさに正直僕はがっかりした。同じように古典文学を愛好する僕たちにはあまりに大きな乖離があり、それはきっと埋められないなと感じたからだ。しかしそれとは裏腹に、入ったカフェで僕たちが選んだのは、金魚の入ったラムネゼリーとエメラルドグリーンのクリームソーダで全く同じものだった。僕たちはこんなに違うのにこんなに似ている。親しげに会話し否定できないくらい楽しく過ごしながら、僕はどこか辛さを覚えた。空にはライムグリーンの第三ムーンがかかっていた。第二ムーンは僕たちのエリアからはあまり見えないのだけど第三ムーンは綺麗に見えることが多い。これらの人造ムーンは宇宙開発のための基地として建設されたもので、この第三ムーンが彼女の拠点の一つになるのだそうだ。彼女は門外漢の僕に丁寧に教えてくれた。でも、そのことは、僕たちには未来なんてないよと言ってるように聞こえた。
三度目は偶然ではなかった。彼女が僕と会いたいと求めてきたのだ。僕も彼女に会いたかった。会いたくてたまらなくて彼女のことが頭から離れなかった。そのことに僕はかなり動揺していた。彼女のことを好きになっていた。でも、これから辿る道があまりに違いすぎて好きになることからは苦しさしか感じられなかった。僕がこれからの進路を諦めることも彼女がこれからの進路を諦めることもひどく馬鹿げているのだから、もっと近づいて、はっきりさせて、何が残るのだろうか。好きにならないほうが楽な相手がいる。はっきりさせないほうがいい関係もある。こだわることが苦しみや葛藤をうむ相手なら、こだわる必要はないじゃないか。僕はその頃はそう考えていたのだ。愚かにも。そして冒頭のような会話になり、全てが終わった。
それから三年間、僕は、彼女とは何もなかったのだしこれからも何も起きない、勿論運命ではないのだと思おうとした。そもそも、生きる方向性がまるで違う方向をむいているのだから、これほど運命ではないことが明白な相手などいるだろうか、どこに運命を感じる要素があるのだと思おうとした。彼女のことを意識の外へ追い出そうと格闘し、論理的に運命などではないと思おうとすればするほど、むしろ彼女は僕の頭にスペースを築きはじめ、厚かましくも居座るようになった。大変厄介だったのは、僕にとって、彼女が今までに会ったことがない特別な人だったことは揺るがし難い事実だったことだ。確かにその点で、運命とは言えないにしても僕には特別な存在だった。それは認めないわけにはいかない。そのため、僕はその点も論理的に克服しようとした。彼女は僕が親しくなった人の中で特別な存在だということは揺るがし難いとしても、これからまた特別な存在に出会う可能性は十分ある。おおまかに、僕にとって50人目の親しい人だと考えればこれから50人の人と親しくなれば特別な存在とまた知り合えると確率論的に言えるはずだ(勿論僕は数学にまったく秀でてないのでこの妥当性については触れてほしくない)。この僕の論理は、僕を大変無駄に傷つけた。これを実証するためにむきになって多くの人と出会おうとし、無駄に疲労する羽目になった。この疲労はむしろ、彼女の特別性を再確認させた。彼女は僕にとって今まで会ったこともこれから会うこともない(かもしれない)特別な人だったと僕は知った。
三年間の格闘のすえ、僕は一つの結論を下した。彼女は僕にとって運命の相手なのかもしれないという、大変情けない結論だった。あんな大見得を切ったのに、どうにもすることはできなかったのだ。運命じゃないなんて思うことは容易だと言ったのは間違いだった。少なくとも僕にとっては運命の人かもしれないという気持ちは三年たってもどうにも消せなかったのだ。ただ、この結論で着目すべき点は、「僕にとっての運命の相手」という点だ。僕の中で彼女の特別性やスペースを占めていることは揺るがし難いとしても、彼女にとっては違う可能性が高い。なぜなら、三年前あんな傲慢な発言で彼女の意見を否定し、去ったような愚かな男を運命の相手なんて思うことがあるだろうか。現に、火星ミッションに旅立ってから彼女からは一切連絡も来てない、というよりあの日から僕たちは一切の連絡を絶っている。これは一つの答えを示しているだろう。彼女にとって僕は運命の相手では、もはやない。となると、人間関係である以上、一方通行の運命の相手とは縁がないと考えなければいけないのだ。この考えは僕にはまあまあ快適だった。すんなり受け入れることができたからだ。とはいえ、一画を占めたままのスペースから彼女が退場することはなく、僕は彼女を一画に住まわせたまままた三年を無為に過ごした。
しかし、僕は疲れてきた。あれから六年過ぎたのに未だ彼女はその一画からどく気配をみせない。僕の生活の中に他に特別な存在が立ち入ることもなく、そのために、僕にとっては運命の相手だが彼女にとっては運命の相手ではないことから関係性が成立しえない彼女を、ずっと心の片隅で意識し続けることは大変不健康に思えた。そこで僕は一念発起した。なぜ、彼女のことをこうも想い続けているのかといえばそれはきっと淋しいからだと考えたのだ。そこで大変安易で容易な解決方法を考えた。というのもちょうど遺跡発掘現場の作業員から声をかけられたのだ。猫が赤ん坊を産んだから飼ってくれないかと。僕はペットを飼った経験はないが、ちょうどいい話ではないかと飛びついた。結論から言うとこれはまた大変な失敗だった。いや、失敗というと語弊とリスクがある、というのも失敗だったと僕が心の中で考えた途端、猫のピートが僕を睨むのだ。ピートは賢いというよりも賢すぎる猫で僕の心を読む。僕が、彼を飼ったことが失敗だったなど考えた途端、唸り声をあげ二、三日不機嫌な態度で飼い主を諫める厄介な猫だ。厳密には失敗だったわけではないのだ。ピートとの生活はそれまでの僕の暮らしをまるで変えてくれた。僕は僕のために生きていたが、今はピートのことを護ることも僕の役目になったからだ。自分のためにだけ生きることの虚しさにそろそろ気づき始めていた僕にとって、ピートを護ることはわかりやすい喜びだった。ただ、当初の目論見はまるで外れた。彼女のことを思い続けることをやめるためにピートを飼おうと考えたせいで、ピートは常に僕の中で彼女と直結していたのだ。僕にとって、ピートは彼女だったというか、彼女を思い出させてくる起動装置だった。そもそも、ピートという名前は、彼女が好きだった古典SFからとったのだった。相変わらず何年たっても僕は彼女のことばかり考えていた。なんて愚かしいいことだろう。
九年が過ぎた。彼女からは宇宙センターから順調に火星に行くとしてもおおよそ九年でまた地球に戻ると聞いていた。彼女が戻ったところで何が変わるだろう。愚かな僕は彼女のことを運命の人かもしれないと漸く気づいたものの、彼女にとって運命の人ではもはやなくなっているだろうし(彼女は恐ろしく誰からみても魅力的なはずだ)、九年という月日は馬鹿げているほど無駄に長い。
ある日、僕は連絡ボックスを開き固まってしまった。
受信ボックスに彼女からのメッセージが届いていたからだ。想定外の出来事に驚き、そして震えながらそれを開いた。
メッセージはとても簡潔なもので添付ファイルには招待状がついていた。
要するに、彼女は地球に帰還しておりチームのミッションの成功を祝うレセプションが宇宙センターで開かれるとのことでそこに僕を招待するというだけのものだった。簡単な挨拶文のみの感情もなにもこめられてないその内容は、僕を歓喜させ動揺させそして落ち込ませた。この内容から彼女の意図は、僕を招いたという以外は何も読み取れない。何か僕に見せつけるものがあるのか、僕に会いたいと少しでも思っているのか、はたまた何なのか何も伝わってこない文面を何度も読み、そして途方にくれた。行くべきか、行かざるべきか。
そして僕は結論を出した。僕たちの関係が運命ならば、運命に委ねようと。
ということで、当日晴れていれば運命はまだ続いている可能性があるとしてレセプションに出かけよう、そして雨が降っていれば、運命はたち消えているとして、レセプションは欠席しようと。この結論は実を言えばやや公平なものではなく、時候から考えるとおそらく雨の可能性のほうが低かった。しかしそれが例え不公平であろうと、僕は、決断するという行為から逃避できて気弱にも満足していたのだ。
その日は朝から快晴だった。運を天候に任せるというだらしない選択をした僕にはジタバタする権利はなかった。身なりを整え招待状を端末に読み込み、時間より余裕をもって出掛けた。
ところが、運命はやはりなかなか皮肉なものだ。なんとこの日に限ってエアシャトルが大トラブルを起こしておりこの便利な乗り物の復旧予定が未定になっていたのだ。宇宙センターにはエアシャトルで行くのがもっとも便利なのだが、こうなると違う方法を選択しなければならない。最寄りスポットからセントラルステーションまで行けばジェットバスがでていることは分かっていたので僕はとにかくムービングロードに乗りセントラルステーションに向かった。セントラルステーションまで行くにも時間がかかった上にしかしこのジェットバスに乗るための大行列をみて諦めかけた。ただでも時間のロスをしたのにこの行列ではとても間に合うように到着できるとは思えない。遅れて入るなんて間抜けはごめんだ。僕は、そこで諦めた。やはり、僕たちの関係は運命じゃないのだ。運命というものはなんて面白いものなのだろう。
僕は諦めた。でも、宇宙センターには行ってみることにした。宇宙センターは薄いピンクとパープルのゼリービーンズをクロスしたような建物でひときわ目立つ。彼女はここで働くことになるのかもしれない。僕の家からは遠いし、ここに来ることはもうないだろうから、なんとなく見ておきたかった。空は茜色だった。茜色の空に、ライムグリーンの第三ムーンもかかっている。乳白色の第一ムーンと並んで二つの月が空にかかっているのはそれほど珍しい光景でもないのだけれど、ピンクとパープルに茜色にライムグリーンに乳白色というこのごちゃまぜな世界をいつまでも覚えておこうと思った。世界はごちゃまぜで、僕は愚かで、彼女は隣の建物で祝福をうけており、そして僕たちはもう会うことはない。これが事実で運命だ。世界はそんなことに満ちている。
僕は離れがたい気持ちでしばらくそこで二つの月を眺めていた。
いつの間にか隣に女性がいて、その人はこう呟いた。
「『なにとなく 君に待たるる ここちして 出でし花野の 夕月夜かな』。これが私の好きな歌だって、知ってる?」
背の高い彼女はそう言って、少しかがんで僕にキスをした。
僕は言葉を失ってしまう。
いや、失っていては駄目な時があって今がそうなのだ。
だから僕は気を取り直して、彼女に向かってようやくこの台詞を言うことができた。
「ごめん。きみにとって僕は運命の男だなんてそんな傲慢なことはやっぱり言えない。でも僕にとってきみは運命で、宇宙のどこを探しても見つけられない特別な人だってちゃんと気づいたんだ。随分遅くなってしまったけど、まだ間に合うかな」
彼女は僕をまっすぐに見つめる。
時が止まるってこういう瞬間を言うんだなと思った。
そして、このライムグリーンの月と僕と彼女のこの光景を、この世界を、僕は一生忘れる日は来ないだろうと思った。
事実、僕はずっとこの瞬間を忘れることはなかった。
人生の最後の日まで。
森崎
箸にも棒にもかからないようなおかしな作品だったらどうしようという心配はいらなかった。確かに彼が言うように、ささやかな、これがSF?というような可愛らしいライトなテイストだったけど、カラフルで、ちょっと理屈っぽくて、ユーモラスで、わたしは素直に彼のこの短編小説を好きだと思った。
「これ、どこかの文学賞とかに応募する気はないの?」
彼は笑った。
「ないよ、ない。確かに前に言ったようにヴォネガットみたいなものを書けたらなという野心はあるけど、それは彼の新作を読めないからであって、物書きになりたいとかじゃないんだよ。自分のために、ただ素直に、湧き出てきてくれたもの、形にしておきたかった感情を形にしているだけで。正直に言えば、一度だけ考えてみたことはあるんだけど、このくらいの分量のものって応募するようなところもなくてね」
「そうなんだ。じゃ誰にも読んでもらえないまま埋もれてもいいわけ?」
彼は考えながら言葉を選ぶように言った。
「そうだね。確かにいずれたくさんの人に読んでもらえたらなという気持ちはあるよ。でもこれは違うかな。ちょっと特別な作品だし。他に書いているものについては、もうちょっとうまく、良いと思えるものを書けるようになったら、そうしたらいつかはっていうことは考えなくはないかな。でもやっぱり今じゃない」
わたしは納得できない顔をしていたのだろう、彼は続ける。
「それに、誰にもじゃない。檜山さんが読んでくれているじゃない。読んでもらえて嬉しいよ。ね、どうだった?」
そう言ってあの優しい目で微笑み、彼はわたしをまっすぐに見つめた。
彼が東京に来るある日、その日はちょうどわたしの乳がん検診の日だった。去年の検診でひっかかっていたせいで年に一度はエコーとマンモの検診が必要だった。その日もありがたいことにセーフで、ほっとした私はそれを彼に伝えた。彼はたいして興味なさそうにただわたしの身体を撫でた。
「チェックしてるの?」
「いや、ただ弄んでるだけ」
わたしたちはお互いに、気持ちの吐露を一度もせず、お互いへの心配も口にしなかった。大きな地震があってもわたしの街で災害があってもきっと、クールな彼はわたしの心配をしないのだろう。だけど、わたしはきっと心配する、口に出せないけど。大きな災害があって交通網が遮断されたりしたら彼には会いづらくなるなと不埒なことを思ったりする、口に出せないけど。
「孤独に強いものだけが真の愛を知る」、これは誰の言葉だったか何の本に出てきた言葉かは忘れたけれど、わたしはこの言葉の信奉者だった。別に真の愛が欲しいなんて思うようなロマンチストではなかったけれど、孤独に強いことは自分にとっては大事なことだった。何も求めないことで、臆病なわたしは傷つかない生き方を選んだ。葛藤は短歌として吐き出した。
しばらく連絡がない時もあった。わたしたちは、気持ちも確認しないままで当然何の約束もしなかったので、いつ終わってもおかしくないという覚悟はどこかにあった。なんとなく、今回のこの間隔の空き方はとうとうそのときが来たのかなと思いはじめた頃、ようやく彼からメールが来た。
「間があいてしまってすみません。色々あって、なかなかそっちに行けなくて。ちょっとまだバタバタしてまして予定が立たないんですが、新しく書いたものがあるのでまた読んでもらえたらと思ってます」
わたしはこんな返事を書いた。
「都合がついたら教えて下さい。でも、そんなこと聞いたらすぐ読みたくなる。もしよかったら郵送してもらえないかな」
「了解です。一緒にいる時に読まれるのも照れくさいので先に送ります。感想、聞かせてください。つまらないならつまらないでかまわない。正直なのがいいです」
そして、彼からのレターパックが届いた。
瞳子③
あの日から、わたしは悩まなかったわけじゃない。いろいろ考えたし迷った。何ができるのか何をすべきじゃないのか考えをめぐらした。頭の中で、彼のように物語を作りあげてみた。そして、試行錯誤をしつつ、わたしはやれることをやろうとした。
まず、高校時代の友達に連絡をとった。彼女がタレントのヘアメイク兼スタイリストとして売り出し中なことを知っていたし、彼女は社交的で顔が広い気のいいタイプだったからだ。ありがたいことに彼女は懐かしがってくれてわたしを遊びに連れ出してくれた。話題も豊富で人脈も広く、いろんな店や芸能界の裏話にも詳しかった。彼女の紹介でどんどん知り合いは増え、わたしは遊び方を変えた。
そのヘアメイクの子いわく、仲良かった遊び友達の多くが結婚や子育てで遊んでくれなくなって寂しかったのだそうだ。だから、タイミングよく現れたつきあいのいいわたしの存在を喜んでくれた。彼女と飲み歩き、どんちゃん騒ぎにパーティにと明け暮れつつ、頼まれて彼女のアシスタントみたいな仕事をすることになった。彼女はヘアメイク動画に力を入れていてその作成が主な仕事だった。わたしは裁縫も得意だったのでスタイリストのほうの手伝いもしたし、趣味でつくっていたビーズバッグやアクセサリーを使ってもらうこともあった。少しずつタレントさんと顔見知りになり、また彼らがよく利用する店についても詳しくなった。そういう場所に一人で飲みに行くこともあったし声をかけられ親しくなることもあった。でも、それなりの大物がよかった。大物でなければ意味がなかった。
彼は、ちょうど良かった。ほどよく好感度が高く、奥さんや娘たちを含めて芸能一家。奥さんはワイドショーのコメンテーターなのでそういう意味でも話題性がある。そして何より、わたしに興味を示してくれた。しかも一夜限りとかのライトな関係ではなくて、もっと長い深い関係を望んでくれた。
言葉は魔法だと思う。人を動かす魔法。その言葉に心がこもってるかこもってないかはあまり重要じゃない。こもっていなくても装えば、人を動かすことができる。特に、信じたがってる人ほど簡単に動かすことができる。わたしはおそらく言葉を操るのはうまいほうだった。本当の気持ちを言うことは臆するほうなのに、本気でないからこそ思いのままに言葉を操れた。どんな言葉を吐けば、相手に響くかが手に取るようにわかった。彼にはけして吐かなかった言葉を、このタレントさんには何度でも熱っぽく言うことができた。熱っぽくて、でも空虚で狡い言葉を。
罪悪感はあった。このタレントさんにもそのご家族にも本当に申し訳ないと思っていた。でもそれ以上に、わたしには覚悟があった。これはわたしにとって必要な儀式の一環だった。
最初は、何かの賞への応募を考えていたけれど、彼の言う通り、彼の作品は枚数が中途半端で、なかなかこれという応募先がなかった。数少ない賞に応募してみても、何の連絡もないままだった。わたしはどうしても、彼の作品を、表に出したかった。読んでもらいたかった。
わたしの短歌はSNSで公開していて、長年続けてはいるけれどフォロワーは微々たるものだ。それに小説は文字数があるからSNSは向かない。小説投稿サイトで発表してみたら少しは手応えがあるかと思って、彼の筆名でアカウントを作って投稿してみたけれど、ほとんど読んでもらうことはできなかった。別のアカウントを作って宣伝まがいのサクラっぽいことをしてみても、感想一つ、評価一つもらえなかった。
ジャンル的にも流行りものではないし、題材も地味な彼の作品を読んでもらうには何かが必要だと思った。話題にならなければ目にとまらない。ポジティブなことで話題になることはいろいろと考えてみたけれどどう考えても難しかった。比較的容易なのは、スキャンダルだったのだ。
わたしのアカウントが特定されるきっかけとなった掲示板の書き込みのいくつかは、わたし自身が書きこんだものだった。わたしのアクセサリーやバッグ販売用のサイト、わたし個人のインスタ、わたしの短歌のアカウント、そして彼の筆名での小説投稿サイトのアカウントはつながるようにしてあったので、掘っていけば、小説投稿サイトにつながるのは自然な流れだった。でも、だからといって作品を読んでもらえるのかは自信がなかった。
だけど、小説投稿サイトへのつながりが掲示板で書き込まれた途端、ページビューは跳ね上がった。わたしの短歌用のアカウントのインプレッションも凄い伸びだった。小説のほうのページビューは跳ね上がったけれど、メッセージは来るものの評価はほとんどもらえなかった。評価がついても悪意による低い評価や、罵詈雑言のメッセージばかりだった。でも、それは辛くはなかった。それが当然な反応であることはわかっていた。それでも誰かの目に触れて、読んでもらえて、いつか誰か一人でも彼の作品を好きだなと感じてくれたら、報われるんじゃないかって思ってた。思いたかった。
わたしは複数作っていたサブアカウントで、小説投稿サイトのリンクを貼って、これが例の女の小説らしいと何度もポストし続けた。そのせいか、ページビューは一時だけの跳ねではなく、数日たってもなかなかのアクセス数を見せていた。そんな中、少しずつ、高い評価をつけてくれる人や、ちゃんとした感想を書いてくれる人、DMに優しいメッセージを書いてくれたり面白かったと言ってくれたりする人も現れた。心底、救われた気がした。でも、まだだ。一番期待している欲しいものはまだ来ない。
あの日、レターパックが届いた日、彼に届いたというメールを送ったのに彼から返信が来なかった。わたしたちはあまり連絡をとりあわないのだけど、こちらが送ったメールをスルーすることはない人だったので、妙に気になった。届いたばかりのレターパックを開けたものの入っていた原稿の一行目を見て、それ以上読むのを躊躇ってしまったこともあって、彼と連絡がとれなかったことがどうしようもなく気になり、わたしは珍しく追いメールをした。でも返事はなかった。
彼は新聞社に勤めていて、今は海辺の小さな街の支局長だった。彼は、左遷だよ、飛ばされたんだと笑っていた。私はよくないとわかっていたけれど支局の電話番号を調べてかけてみた。でも誰も出なかった。動揺しながらいろいろと検索してみて、そして事故の記事を見つけた。郵便局の前で居眠り運転の車が歩行者をはねた交通死亡事故。被害者は彼だった。日にちから考えると、多分だけど、レターパックを出しに行った時に事故にあったのだと思う。
人は、自分のために手を汚すことは躊躇してしまうけれど、でも、誰か人のためなら、誰かのためという大義名分さえあればどんなことでもできてしまう。普通ならしない行動でも、いつもの自分とは違うという自覚をしつつ、それをこなせてしまう。彼のためだったからやれたのだと思う。でも彼のためと言いつつ実は自分のためでもあった。彼の書いたものをなるべく多くの人に読んでもらい、面白いと一人でもいいから思ってもらえることがわたしにはどうしても必要だった。それはわたしにとって大事な儀式だった。他に、形として残るようなつながりは何一つなかったから。
ふと幻じゃないかと思う、彼とのすべてが。あの突然のメールからの数年間、わたしの頭の中を随分と彼とのことが占めていたのに、どこか浮遊感のあるわたしたちの曖昧な関係は、振り返ってみると何も残してなかった。
好きという言葉は、言わなくてもいいし、わたしには必要ない言葉だと思ってきた。それは、相手を振り向かせたい人や引き止めたい人にだけ必要な言葉で、去りたいなら去っていいし求めてくれないならいらないと考える自分には無用だとずっとそう思ってきた。でも、愛おしいと感じたなら素直に吐き出せばよかったんだ。そんな瞬間は何度もあった。引き止めるためでもなく縛るためでもない澄んだ綺麗な言葉が浮かんだことは、実はちゃんとあった。でも、わたしはずっと、一度も彼から感情を伝えてもらってないということに拘って意地をはり、臆病になり、自分から伝えることから逃げた。彼が、どんな気持ちなのか、わたしをどう思っているのか、聞きたくてたまらなかった。でも、聞いて、問いただして得られる言葉には価値がないと思ってた。彼から溢れる吐露にしか価値がないと思ってた。だから聞けないまま、彼が口にしないから、わたしも出さないでおこうって、わたしはずっとそう考えてしまった。
どれだけ言葉を尽くしても、人は完全にわかり合うことはないという気持ちは変わっていない。人は孤独なものだし、言葉は嘘つきだ。でも完全さなんてどうでもいいから、素直に、湧き出てきた感情なら臆さず伝えればよかった。彼から言ってほしかったということのほうよりも、一度も何も伝えてなかったことのほうが今となっては虚しくて、淋しい。伝えることもできたのに。気持ちもちゃんとあったのに。わたしには彼への、唯一の、他の誰にも抱けなかった気持ちがちゃんとあったのに。だから、この儀式がわたしには必要だった。失っても、失わないために。一緒にいることができなくても何かを形として残すために。自己満足だとしてもこれはわたしのほうからの、最初で最後の、愛情表現だった。
彼が持ってきてくれた作品はどれも原稿用紙に万年筆で書いたものだった。わたしはそれを全部打って自分のPCに保存していた。彼には言ってなかったけどわたしが勝手に自分のWordに保存していたこと、気づいていたんじゃないかな。だけど、最後に届いたレターパックの作品だけは、無理だった。クールすぎる内容を突きつけられるのが怖くて、覚悟ができなくて、どうしても読む気持ちになれなかった。だからあれをWord化するのは雪乃先輩に頼んだのだ。誰の原稿か特に聞かれなかったけど、雪乃先輩は誰が書いたものかわかってなかったと思う。彼は三ヶ月くらいしか文芸部に在籍してなかったしね。
そして、ようやく、待ちわびていたメールが届いた。投稿サイトの作品についてお話ししたいという出版社からのメールだった。彼の最後の作品、わたしが唯一読めてないあの作品のことだった。出版社は書いたのがスキャンダラスな女だという話題性を求めている可能性が高いと思う。でも、これだけはちゃんと明らかにしないといけない。書いたのは彼で、わたしじゃないということ。
このメールはわたしにとっての、一つの踏ん切りだった。とにかく読まなければ、話は始まらない。怯えていてはだめなんだ。
わたしは雪乃先輩から回収した彼の原稿を引き出しから取り出す。
手書きの文字を見ただけで胸が痛くなる。アイアンブルーのインクで書かれた癖のある文字を見て苦しくなる。でも、読まなくちゃ。
そして、読み始める。
「彼女と初めて会ったのは大学の文芸部の部室だった。」