
アップルシードルに乾杯
【あらすじ】
文明崩壊後、人々は自由や物語、文化までも失った管理社会で生きていた。
城の管理人モリーは、古い本が隠されている場所を、この社会の後継者と目される少女ツバサへ伝える。物語に触れた彼女は、恋を知り、自由に生きたいと願い、この世界を変えるクーデターを思い描くようになる。
かつて親しい関係にありながらも異なる道を歩んだ者たちと、未来を選ぼうとする若者たち。それぞれの選択と葛藤が交錯する。人は何によって生きていると言えるのかを問いかけるライトSF。
プロローグ
すべてが終わった水曜日の午後、ぼくはみんなが集まるための準備を整える。仕込んでおいたアップルシードルの樽を納屋から運んできて備え、人数分のグラスにスツールも。そろそろ誰かがやって来るだろう時間だ。潮風がやや強いこのテラスで楽しげにシードルを飲む光景なんて、いつ以来なのだろうか。繰り返し語られた昔話でしかなかった夢の時間が、今、取り戻されようとしている。
最初に顔を出したのはラオ爺だ。
「早すぎだよ」
とぼくは軽口を叩く。ラオ爺はいつものように黙ったままテラスの揺り椅子に陣取り、あたりを見渡す。潮風を味わうようなどこかうっとりとした恍惚とした表情。
次はユキムラだ。ユキムラはラオ爺と対照的に来た途端矢継ぎ早に捲し立てる。
「準備万端か?何か手伝うことがあるんじゃないかと早く来てみたんだが。なんだ、この樽、これがシードルか。噂のシードルをようやく味わえる日が本当に来るとはな」
ユキムラには地下室から持ってきた魚の缶詰を開けてもらうことにする。前に試しに一つ開けてみたが少し油くさいものの味は悪くなかったやつだ。ユキムラはぶつぶつ言いながら古い缶詰と格闘しはじめる。
次に着いたのはツバサだ。そしてカイも一緒。
「迷わなかったかい?」
ツバサはただ頷く。そんなツバサをカイが眩しげな眼差しで見ている。ツバサはそれを感じてやや照れくさそうだ。この二人を見ているとこちらまで幸せな気持ちになる。久しく失われた感情を思い出すから。
準備が整ってそれぞれが腰をおろすと、満をじしてぼくは樽をあける。独特の爽やかな香りが広がってゆき、みんなが頬を緩めるのがわかる。注ぐと林檎の果実の色によく似た淡い黄色の液体がグラスを満たす。少しだけ、濁りと発泡がみえる。
ぼくは自然と軽く音頭をとる。グラスを軽く持ち上げながら言う。
「こんな日が来るとは」
みんなが繰り返す。
「こんな日が来るとは」
そして一口、口に含む。刺すような刺激的な酸味の後から柔らかな甘さが広がってゆく。この爽やかな甘さはぼくにとっても初めて味わう味。
ツバサとカイは同時に咳き込む。無理もない。物心ついてから彼らは水以外の飲み物など口にしたことはないのだろうから。
「大丈夫かい?」
ユキムラが二人を覗き込む。
「これ、何?」
ツバサが驚いたように聞く。
「酸味」
「甘さ」
ぼくとユキムラは同時に言うと、ツバサは独り言のように復唱する。
「酸味、甘さ」
ぼくとユキムラとラオ爺のグラスはすぐに空になる。
「酔うかな」
ユキムラが愉快そうに言う。ユキムラとぼくもアルコールを飲むのはこれが初めてなのだ。少し喉や胸が温かくなったような感触がある。これが酔うという感覚なのだろうか。
「酔う?」
カイにツバサが教える。
「アップルシードルにはアルコール分があるから、人はアルコールで『酔う』という状態になるらしいの」
ツバサは書庫の本から知識を得ている。そんな彼女のことが少し誇らしかった。
いつの間にか樽から三杯目のシードルを注いでいるユキムラはぼくに言った。
「まさか、やり遂げるとはな。いつからの計画だったんだ?いつからこの日が来ることを考えていたんだ」
ぼくはみんなの顔を見回す。
みんな話を聞きたがっている。全貌を知っているのはぼくだけだからだ。ぼくはこの計画の発端から彼らに語り始める。
城
数えきれないほどの争いと大災厄が繰り返され、この星の可住面積は僅かなものとなっていた。科学技術や土木技術の多くが失われ、生き残った人類は細々と生存を続けているという状態だった。そのため、セントラル連合の船団が彼方からやって来て彼らの支配下にはいるようにと勧告してきたときにはこの星の中枢に抵抗するような力はまるでなく、ただ無条件にセントラル連合の管理下の辺境惑星の一つなる道を選ぶしかなかった。
今後の支配の方針を決めるためにこの星に入ったセントラル連合の調査団が下した結論は、ここから奪うべきものも滅ぼすべきものも何もなく倫理的にはむしろ保護すべき星という判断だった。この惑星の住人が飢えることがないよう、生態にあわせた栄養剤が配合され、定期的に必要物資とともにセントラル連合から輸送されてくるようになった。セントラル連合の辺境総督はこの小さな星にまるで興味を示さず、結局、統治はこの星の者に任された。セントラル連合の支配下に入ったことで変わったことといえば、定期的な栄養カプセルや資材の配給があることで労働しなくても生存可能になったことくらい。そこから平穏な日々が長く続いた。
なぜか状況が変わり始めたのはぼくやユキムラが十代に差し掛かった頃だった。ぼくたちにも大人たちの不安げな会話や言葉が耳に入るようになっていた。辺境総督の代理という形でこの星を統治していた長官が次々と公布する方針はいつの間にか過激なものとなっていき、反発の声が高まっていた。いずれ大きな騒乱が起きそうな気配が漂い、反長官派、クーデターなどという物騒な言葉をぼくは幾度も漏れ聞いた。
ところが反発はいつしか沈静化した。大人たちは突然黙り込むようになった。あれほど怒っていた彼らは急に静かになり表情から生気が消えていくのが手に取るように感じられた。その沈黙は伝染病のように静かに確実に広がっていき、新たな規則が生活にどんな変化をもたらすものであろうと怒りの声を聞くことはなくなっていた。
その過程で人が少しずつ消えていった。連行や暗殺、急死の噂がひそひそと囁かれた。それすら声高には語られず、大人たちの表情や口調から、何かとてもよくないことが起こっているのだと察するだけだった。
人々の急死は「死の矢」によるものだと囁かれるようになった。けして公にではなく密やかに。家庭内ですら不必要な会話を禁じるとの規則が定められたことで、ぼくたちの世界は一変した。何が起きようとしているのかほとんど誰も把握できていないまま、学校などの集団で活動する場も次々と閉鎖され、学習はリモートとなりそしてそれすら禁じられていった。情報を入手する手段が失われ、学ぶことが禁じられ、家庭から書物を提出することや破棄することが義務づけられた。そして今までは黙認されていた支給の栄養剤以外の飲食も、栽培も生産も狩猟も採集も全て禁じられた。監視システムを使って規則違反をチェックすることが公表され、もはや誰も危険を犯そうとはしなくなった。いつキンっと音を立て「死の矢」が飛んでくるかと誰もが怯えていた。この流れは今思い出しても驚くほど、あっという間の出来事だった。急にぼくたちの日常や家族とのごく普通の暮らしが、決して戻ることのない過去に変えられてしまい、それを嘆くことすら危険だった。
それまではぼくたちには家族がいて普通に暮らしていた。家族もいたし友も何人かはいた。でも、その頃から急に、政府はぼくたちの絆を恐れるかのように、関係性を断つことに躍起になり始めた。ぼくたちはバラバラにされた。家族や友だちと暮らすことも過ごすこともなくなり、それぞれが政府に居住エリアをあてがわれ移動させられた。今まで住んでいたエリアからはみなバラバラにされた上、立ち退きを余儀なくされごく狭い範囲の居住エリアに移されたのだ。住んでいた家や地域がどうなっているかを見ることもない。居住エリアと職務エリア以外に立ち入ることは禁止されているからだ。ぼくは親友のユキムラとも家族とも引き離されそこから一人で生きることになった。それ以降、父や母がどこでどうしているのか未だにぼくは知らない。年齢を考えたら、彼らはもう生きていない可能性もあるだろう。
それからは指示された単純な仕事を繰り返す毎日だった。ぼくはドームと呼ばれる工場で縫製作業をしたり、浄水場の管理業務についたりした。そんなある日、ぼくに転機が訪れた。ラオ爺の助手をするようにという指示がきたのだ。それは、居住エリアに住むようになってから10年後のことだった。
ラオ爺は政府機関が入っている通称「城」という建物の管理人で、この「城」は堅牢なはるか昔の建造物で迷宮めいた複雑なつくりのため、全てを知り尽くしているのはラオ爺しかいないと言われていた。つながりを作ることを防止するかのように業務は次々と変えられるのが普通だったが、いくつかの業務にはこの人でなければ支障が出るという性質のものもあり、「城」の管理人もその一つだった。ただし助手についてはその限りではないらしく、偏屈なラオ爺の相手は務まらないのか助手は次々に変わっていたらしく、この度ぼくにその白羽の矢がたったというわけだ。
ラオ爺とぼくの波長があったのはひとえに彼が祖父と似た人種だったおかげだろう。彼らには自分のペースがありそれを乱されることを好まない。彼らの呼吸にあわせ、こちらから性急に答えを求めなければ、やるべきことは示してくれる。それを待てばいい。ぼくは幼い頃から物静かな祖父が大好だった。ラオ爺はぼくにそのことを思い出させてくれたし、もしかしたらラオ爺にとってもぼくは誰かを思い出させる存在だったのかもしれない。それからぼくらはずっと城の管理人を勤めることになった。
城は不思議な建造物だった。有機物ではと疑うくらいムラッ気があり日によって違う顔をみせた。ある日は機嫌がよくすべての扉は簡単に開き、迷うこともなく目的の部屋にたどり着くが、ある日は扉という扉が容易には開かず経験を積んだぼくですら無理でラオ爺に頼らなければ開くことが出来なかったりする。時に悪夢のような迷宮と化すこの建物をなぜ政府が使用し続けているかと言えば、今はもうこんな建造物をたてる技術も資材もないからなのだろう。あちこちに古い資材が貯めこまれている部屋があり、この倉庫の管理や必要な資材を探し出すことも管理人の重要な仕事の一つだった。そして、城の管理人になってから何年もたったある日、ぼくは城の地下の一室に、禁制のものがひっそりと残されていることを知った。ラオ爺はそれが残されていることを報告しなかったのだろう。この部屋の扉は癖が強く開けるのは容易ではないから、誰も見つけることもなく、ただずっとそこにあり続けている。
離れ離れになっていたユキムラとは城で再会した。ユキムラはかなりの特殊業務についていて、「この人でなければ支障が出る」というタイプの人間だった。必要最低限のことしか会話をしないことが強いられている中、ユキムラと立ち話をすることもリスクだった。だが、ユキムラはそのリスクを意に介さないように相変わらずおしゃべりなままだった。ユキムラの仕事部屋であるコンピュータールームに部品を届けたとき、ユキムラはその訳を教えてくれた。
「俺、『死の矢』のシステム管理をしてるんだよ。要するにドローンでターゲッティングする仕組みなんだが、違反行動をするとそれが累積していき自動的に放たれる。違反行動はあちこちの監視カメラでチェックされているんだよ。まあチェックされてることはもうみんな知っているから、最近はほとんど放たれていないんだが。で、監視カメラの位置も把握しているし、あと、実はこのシステムは個人にプロテクトをかけることができる隠しコマンドがあって、何人かにかけてるんだ」
驚くべき話だった。ユキムラの業務がそんなものだったとは。
「お前と俺とラオ爺と、あと彼女にもかけてある」
僕は不意打ちを食らったように動揺した。ユキムラは続けた。
「あの頃が懐かしいな。お前と俺と彼女と」
そう言うユキムラに目で訴える。その話はしてくれるなと。ぼくの気持ちが手に取るようにわかるのだろう、ユキムラはそれ以上は何も言わず、その代わり二人とも黙ったまま、あの頃を思い出していた。
ユキムラとぼくが子供の頃に住んでいたエリアから居住エリアに強制的に移される少し前に、彼女は姿を消した。ぼくたちは同世代で、彼女とユキムラは政府の仕事に就いている管理職用の住居に住んでいて、ぼくの家はそこからやや離れたところにあった。ユキムラは彼女とは幼馴染で、ぼくがユキムラと付き合うようになる前から彼女と親しかった。
いつの間にか三人で過ごすことが多くなった。学校の中でもそのあたりから通う同世代は限られていたこともあるし、彼女はいつも少し浮いてしまうタイプだったから、ユキムラは自然と彼女をかばうようにあえて一緒にいるようなところがあったせいかもしれない。ユキムラはいつも陽気で、ずっと喋っていて、何かの遊びを思いついたり、リードして引っ張っていったりするのは常にユキムラだった。ぼくと彼女はユキムラの気まぐれにつきあい、振り回され、そしてそれを楽しんでいた。彼女は学校ではいつも無表情だったけど、三人になるとよく笑う普通の女の子だった。ぼくは、無表情でいようとする意志をもったどこか悲しげな彼女も、リラックスした自然体の表情を見せる彼女もどちらも好きだったし、その両方を見ていられることが嬉しかった。漠然と、ずっといつまでも続くと思っていたぼくたちの関係は、まず彼女が姿を消し、そしてユキムラもぼくも移住させられ、三人の関係は急に絶たれてしまった。ぼくの中の彼女への気持ちは、強烈に懐かしいのにけして思い出したくないもので、ふと思い出すとあえて首を振ってそれを追いやった。思い出すことがひどく辛かったから。
ユキムラと再会したことはぼくに一つのアイデアをもたらした。ぼくはそのアイデアを一人でずっと考え続けていた。実現させる見込みも計画もないまま、いつも頭の片隅にそのアイデアを寝かせていた。そんなことが実現できたらどれだけ素晴らしいだろうと。ぼくは一人でクーデターを起こすことを夢想していた。
それがただの夢想でしかなかったのは、犯すリスクのわりに得るものが少ないからだった。アップルシードルは確かに一つの動機だった。仕事中にポツリポツリとラオ爺が語る昔話の中でぼくが最も惹かれたのは、りんごを漬け込んで作るアップルシードルの話だった。ラオ爺にとってもお気に入りの話で折に触れてその話題を出すのだ。語りながらその香りを、味を思い出すかのように、少し表情を緩めながら手順や味わいかたについて話すラオ爺が好きだった。だからぼくは確かに、自由にアップルシードルを仕込み飲むことができる世界を熱望していた。今の何もかも制約があり怯えきった生き方にはうんざりしていた。そしてぼくとラオ爺はユキムラによってプロテクトがなされていてある程度の行動をとっても「死の矢」が飛んでこないこともわかっていた。だからぼくはこっそりとアップルシードルを仕込むことを計画していた。いつどこで誰とどうやってするかを。
もちろん誰とかは確実だった。ラオ爺がいなければ始まらない。こっちは何も知らないのだから。だけど、いつどこでどうやっては、幸せな妄想だった。無味無臭の日々の中の唯一の彩りだった。アップルシードルを仕込むという架空の計画がぼくの正気を保っていてくれた。
そのままただただ日々は過ぎていき、ぼくとユキムラ、ラオ爺は平等に歳をとっていった。あまり時間がないということは気がかりだった。でも、ぼくを駆り立てたのは年齢の問題だけでなく、もう一つの理由のせいだった。
ぼくたちは色々なものを奪われていたがその一つは名前だった。ぼくの頭の中ではユキムラでありラオ爺だが、実際にその名を口にすることは勿論禁止事項だった。ぼくたちは番号をつけられていてそれが呼び名とされていた。だけど数人、あだ名のような通称で呼ばれることが黙認されている人間がいて、後継者と呼ばれていた彼女がそうだった。
後継者は長官の娘という噂だった。確かに長官とどことなく似ていたし、城に来てからずっと幹部ルートを歩んでいるようだった。ぼくたちは関係をもつことを徹底的に禁止されていて生殖ももちろんそうだった。政府は生殖と保育を完全にコントロールした。だから普通の庶民はどの子が我が子かの情報をもつことすら許されない。結婚という仕組みも家族の仕組みもなく、ただ男は精子の提供をし、女は指示された通り妊娠と出産を担い、生まれた子は保育施設で育てられた。だからほとんどの人間はどれが自分の子どもなのか知ることはできないし、ぼくの子も、いるのかもしれないけどいるかいないかすらわからない。でも長官ともなれば特別なのだろう。ぼくはその後継者と呼ばれる彼女に惹きつけられた。城に来た初日から彼女に目を奪われた。もちろん恋ではないけれど、彼女の諦めたような無表情は、ぼくを動揺させた。
ぼくは彼女が城で働くようになって以来、ずっと機会をうかがっていた。そして、ある日、ようやく誰もいない隙に彼女にそれを渡すことができた。
「それは鍵だから」と。
鍵
H304とは何かと関わることがあった。彼は城の管理人で、ラオ爺と呼ばれている老人の相棒だった。管理人でなければ開けられない扉や必要な物資があるたび、彼らが呼ばれそういう場合はほとんど、まだ若いH304がやってきた。若いといってもラオ爺より若いだけでわたしよりは随分年上だったけど。
彼はなんというか他の人と少し違った。わたしたちはなるべく人と関わらないように、必要以上の会話をしないようにするのが普通なのに、彼はやけにわたしと話したがった。何気ない会話をしたがっていた。でもそれは危ない行為だったので、わたしは彼に警告の意味でこう言った。
「いくら他に誰もいなくても、こんな風に業務と関係のない会話をするのは危ないですよ」
すると、彼は言った。
「『死の矢』のことなら大丈夫。ぼくもきみもターゲットから外してプロテクトをかけてあるから。勿論このことはごく内密にね。もし保安部に知られたら処分されてしまうから」
わたしは驚いた。「死の矢」のことについて表立って触れるのはものすごく危険なことだし、更にそのターゲットから外すことができるというのも初耳だった。
「一体、誰が?長官の指示ですか?」
「いや。システム部のユキムラですよ。EK28。彼がここのシステムのすべてを管理しているからね」
そう言って、彼はわたしに近寄り手をとって何かを握らせた。細長い冷たい金属の何か。わたしは彼の顔をじっと見た。これは何?と聞くかわりに。
「それは鍵だから。今日仕事からあがる時、地下3階においで」
そう言って、H304はわたしの表情を黙って見つめた。わたしは、混乱し、つきかえすべきだと頭の中で何かが騒ぎ出していた。でもその騒ぎとは裏腹にわたしはその鍵をそっと胸元に仕舞った。
普段の業務ではほとんど地下に降りることはない。城はいつまでたっても慣れない迷路のような建物で、地下へと降りる階段を探すのにすら手間取った。よく考えてみたら、ここに来てから、管理部と居住エリアとの往復だけで、仕事が終わって寄り道などしたことがなかったことに気づく。「死の矢」のターゲットから外してあるという話を聞いていなければきっと躊躇しただろう。実際今でも、地下を目指すことが正しいのかわからない。でも、渡された鍵は、わたしを掻き立てた。これはなんだろう、今からなにが起こるのだろうという疑問がわたしを興奮させている。こんな気持ちは生まれて初めてだった。
上階と違い地下はほとんど石造りのままで、階段を降りてすぐのところはちょっとしたホールになっておりそこから放射状に部屋が並んでいた。地下二階も同じつくりでそのまま三階に降りると、H304が階段下で待ってくれていた。彼は黙ったままわたしを誘うように先に進み、一つの扉を押し開けた。そこは部屋ではなくその先に廊下が続いていていくつかの扉を通り過ぎ、一つの部屋の前で立ち止まった。彼は鍵穴を指差し、言った。
「開けてごらん」
鍵穴に青銅色の鍵を差し込み、右か左かどちらかに回そうと試すがまるで動かない。力をいれて回そうとするわたしにH304は、少し持ち上げるようにして鍵を回すのだと教えてくれた。そうするとカチリと音がして鍵が回った。わたしは重い分厚い木製の扉をこじ開けるように押し開けた。薄暗い地下のその一室をH304が蝋燭で照らすと、部屋は棚だらけで棚は全て書物で埋め尽くされていた。これはきっと禁制の書物だ。訓練で、形状については学んだことがある。この形はきっと、そう。書物は星の治安を乱すとして重大禁制物の一つで、すべて燃やされたはずだった。驚いて立ち尽くすわたしに、気に入ったものを選んでこっそり持って帰ってもいいとH304は言った。もちろん、誰にも見つからないようにね、と。
「気に入ったもの?」とわたしは思う。これだけ膨大な書物の何をどう気に入ればいいのか。そもそも書物とは何を意味しているのか。わたしは、書物というのはただ字が書かれた紙の集まりだと思っていた。一部の特別な訓練で、紙でできた簡単なテキストやマニュアルは使ったことはある。書物については「治安を乱すものである」ことだけは教えられた。でも書物のもつどういった性質が治安を乱すのかは知らないままだった。興味も抱くことなく、そのままただ事実として受け止めていた。戸惑うわたしに彼は言った。書物にはいくつかのタイプがある。事実を書いたもの、事実でないものを書いたもの。そしてそのどちらもを混ぜたもの。
わたしは混乱した。事実を書いたものはわかる。でも事実でないものとは、それは書かれたとしてどんな意味を持つのだろうか、と。その疑問にH304はこう答えた。
「事実ではないことが人を救うことがあるんだ。事実が辛すぎるとき、苦しすぎるとき、事実から目を背けたいとき、架空の物語を読むことで物語に没頭できるし疑似体験を味わう。それがけして自分が手に入れることができない未来の物語でも、遠い過去の物語でも、事実でなくても関係ないんだ。ただ、物語がこれからどうなるのかに引きつけられ、物語の登場人物を好きになったり憎んだりする。そうやって現実と違う世界を味わい、その世界を夢見ることで、心が保てるんだ」
わからない。それが本当に心を保つのだろうか。事実ではない話に意味があるのだろうか。その時わたしはそう思った。それに、紙の上の、現実にいない人を好きになったり、憎んだりするのは馬鹿げている。好きというのも、言葉としては知ってるけどよくわからないつかめない感覚。でも、その言葉を聞くと不思議と心が躍る気がするのは何故だろう。それにしても、書物に登場する人間をどうやって好きになるのかと訝しく思いつつ、指し示された書物を手に取った。
読んでいくと、これが現実の話ではないというのは理解できるようになった。出てくる生き物が、不思議なものばかりだったからだ。身体の半身が動物だったり、歌声で男たちを誘惑したり。人が冒険し帰還する長い物語、その場では最初のほうだけ少し読んでみて後はこっそりと持ち帰り、自室で夢中で読んだ。読みながら涙がこぼれてならなかった。何の涙か自分でもわからなかった。ただ、ただ、失っていたものを見つけたという気持ちが溢れてとまらなかった。失われていた感情を思い出したような。だから、この時より前の、昔の感情を思い出してもそれが正確なのかどうかは実は自信がもてない。これ以前の、どこが茫洋とした生はあくまでこの日以降の自分が思い出した自分でしかないから。あの頃、何を考えて生きていたのか、本当のところよく思い出せないのだ。
最初に読んだこの物語については、わたしはH304の言ったように出てくる人物を好きになることはなかった。乱暴で争いに明け暮れ残酷で、好きになりようがなかった。常に争い、求め、嘆く激しい人生がそこにあった。それはけして憧れるようなものではなかった。ここの、わたしの日常とは違いすぎた。会話することすらおそるおそるで、誰かを愛したり執着したりすることなんてありえない生しかこの世界にはない。だから、差異ばかりが目についた。この星の随分昔にあったのであろう危険に満ち溢れた生をただ知りたくて、そして彼らの行く末に何が待ち受けるのか先を知りたくて夢中で読み続けた。
持ち出した一冊を読み終わり、また地下のあの部屋を訪れた。わたしの姿をみかけたようで、H304はわたしが鍵をあけるのに苦労していると歩み寄ってくる。でも、けして開けてくれるわけではなく、後ろでわたしが前に言われたように鍵を使うのをそっと見守っている。そして彼は言う。
「読み終わったかい?次も何か必要かな」
もちろん。わたしは首を大きく縦に振る。苦労したけどなんとか鍵が回り、わたしは来たくてたまらなかったこの秘密の書庫を再び訪れることができた。H304はここの書物をすべて読んでいるわけではないと言いつつ、何冊かを抱えてわたしの前に並べ、簡単に紹介してくれた。どの物語にも飛びつきたいほど引きつけられた。怖いほどの誘惑を感じた。この時はじめて彼は眉根をひそめ、心配そうな顔をした。
「睡眠を削っては駄目だよ。無茶な読み方はやめなさい。物語はけして逃げていかないからね。考えてみればこの厚い書物を今のペースで読むのは無茶だ。無理をしてはいけない、身体をこわすし仕事に影響がでてはあらぬ疑いを招くかもしれない」
その通りだ。わたしは寝る時間をもったいなく感じていた。でも、彼の言う通り長い目でみたらわたしの読み方は危険かもしれない。何かあって誰かの注意をひき、ここに通うことを見咎められることがわたしにとって最も避けたい事態だった。
それからも読み終えると鍵をもって部屋に通った。様々な物語に触れ、驚くことに物語の登場人物に心惹かれることすらあった。彼女が命を落とす場面でわたしは泣いた。あんなに悲しかったことは初めてだった。その後は彼女の人生や言葉が頭の中を占め、仕事が手につかないほどだった。読めば読むほど、彼女がより鮮明になっていった。ありとあらゆる物語に彼女の声を聞いた。ここに彼女がいればどう言うだろう、どう振る舞うだろうと、いつも彼女の幻を見ていた。これが愛かなと思った。
当分そんな日々が続いた。わたしの生活は、鍵をもらう前と後ではまるで違った。ただ、物語という友達を得たもののわたしははやり孤独だった。
H304とは読んだ本の話題をすることはあった。だがH304とは世代が違う。彼らはわたしの知らない暮らしを体験している世代で、わたしが受けた衝撃とはまるで違うのだ。彼らはある日突然人生を奪われた世代で、わたしは人生を知らないまま生きている世代なのだ。わたしにとってH304は知らなかった世界の伝道師だった。わたしは物語を読んでわからないことは彼に聞いた。そしてその流れで彼から、以前の暮らしについて聞くこともあった。彼が懐かしそうに語る昔の暮らしの話がわたしは好きだった。「友」がいて「家族」がいて「学校」があった世界。「畑」があり「果樹園」があり「料理」があった世界。今はそれらはすべて禁止事項だ。生きるためには栄養カプセルがある。畑も果樹もパンも必要のない世界だ。黄金の小麦の畑はなく、林檎が赤く実る果樹園もない。ただ、決められた労働とその対価としての栄養カプセルが配給される。交流もなく生殖も育児も全て管理されている。「愛」も「恋」も生殖には必要とされない。わたしたちは指示通り動く器で、男たちは指示通り提出する種の元でしかなかった。子どもたちは育児センターで育てられる。もちろんわたしもそこで育った。誰かと親しくなることや必要以上の会話は禁止事項だった。「危ないことだ」と幼い頃から何度も教えられた。わたしたちは身をすくめ、怯え、何もしないこと何も考えないことが正しいということを覚えていった。
そんなわたしたちの知らない世界が昔はあったのだ。わたしは、H304(彼らはモリーと呼ぶ)とラオ爺がアップルシードルについて語る会話が特に好きだった。この書庫にはH304だけではなくラオ爺やEK28(彼らはユキムラと呼ぶ)も顔を出すことがあった。
いつかアップルシードルを仕込むんだとモリーはよく言っていた。どうすれば可能だろうかとわたしも一緒になって考えた。まず居住区から怪しまれずに外へ出て、そして林檎を収穫し、仕込む作業が必要だ。外にしか林檎などの果樹はないことは明白だ。取り敢えず申請を出してみてはとすすめ、もっともらしい申請書を書くのを手伝ったりもしたが許可されるとは思えなかった。林檎の実る季節は秋だとラオ爺が言う。秋以外で申請が通ったってなんにもならんよと。そうして無口なラオ爺が突然アップルシードルを仕込む歌を歌いはじめる。歌というものはどこか懐かしかった。なぜだろう?記憶の片隅にあるような、それとも物語のせいで知った気になっているのか、どちらかはわからなかったが。ラオ爺の歌は、低い声で唸るような変わった音程で、何を言ってるかもはっきり聞き取れない。でもやけに上機嫌でいつになく笑顔でラオ爺が歌う、その空気が好きだった。
秋になったら林檎のなっていた丘に下見に行こうとモリーはよく言っていた。彼らは明らかに他の人たちより自由度が高い仕事内容だったし、居住区から外に出るものへの監視はユキムラによれば監視カメラによる「死の矢」の制裁がほとんどらしくて、でも保安部の動向だけは気をつけるべきだというのはみなの共通認識だった。保安部についてはわたしも警戒していた。ここに来ることを把握されるのはいろんな意味で恐ろしいことだったから。保安部は「死の矢」による機械的制裁以外を担う治安保持組織で、保安部トップのP388に目をつけられたら終わりだというのはみんなに知れ渡っていた。何人かが彼の指示で処分を受け消えてしまったという話は陰で広まっていたし、たまに見かけたその姿にはゾッとするような風情があった。噂のせいでそう感じたのかもしれないけれど。
保安部を出し抜いてひそかに林檎を収穫に行こうと楽しげに語る彼らの光景を見るのが好きだった。楽しいという感覚はこれほどまでに心を軽やかにするのだということも、この頃知ることができた。
ラオ爺もEK28もH304を「モリー」と呼んでいたのでわたしもいつの間にか彼を「モリー」と呼ぶようになった。EK28のことも「ユキムラ」と呼ぶようにした。昔の人々にはちゃんとした名前がある。わたしにはないとわたしが残念そうに言うと、モリーは言った。
「自分でつけたらいいんだよ」
わたしはその言葉をかけられてなんだか泣きそうになる。そんなこと思いもよらなかった自分が少し恥ずかしい。名前をつけるのは自分という人間がようやく完成するような気がしてそれから名前探しに夢中になった。どんな名前がいいだろう、どんな名前がわたしを示すのにぴったりだろうかと。そしてある日、モリーとラオ爺に告げた。
「名前、決めた。わたしは『ツバサ』」
モリーは、今まで見てきた彼の中でこんな嬉しそうな顔は見たことがないというほど嬉しそうな笑みを浮かべて言った。
「『ツバサ』。すてきな名前だ」
それからみんなに「ツバサ」と呼ばれるたび、わたしは一歩ずつ、わたしという人間に遅まきながら近づいていけるような気がした。人間になった気がしたのだ。
城と居住区の往復だけの、モリーとラオ爺と稀にユキムラに会う以外は誰ともほとんど会話のないわたしの生活だけど、ツバサがあれば林檎の丘にも飛んでいけるのに。セイレーンの歌う海峡にすら行けるかもしれないのに。そんな気持ちで選んだ名前だった。わたしは物語に触れれば触れるほど、自由が欲しくなっていた。自由という言葉を知ってから、それに取り憑かれたように、欲しくてたまらなくなっていた。そして、そのためには何をすればいいか考えるようになっていた。
「この部屋の鍵もってるのってわたし以外にもいる?」
モリーは言った。
「いないよ」
わたしはただ頷く。すると彼は聞いてくれた。
「誰かに渡したい?」
「できることなら、物語を知る仲間がいたらなって」
モリーは驚くほど勘がいい。次に会った時にわたしの好きにしていいよと鍵をもう一つくれた。それは、明らかにわたしへの信頼だった。この鍵をわたしが誰に渡すかは恐ろしいほどのリスクを秘めているのに、何も聞かずに渡してくれた。その気持ちが嬉しくてそして少し怖くもあった。これからわたしが選ぼうとしている道は、危険だから。
DBY1にしようと思った理由は二つある。彼が何かを感じさせる存在だったこと。そしてもう一つの大きな理由は彼が保安部員だったこと。
保安部員についてもっと情報を集めて知ることができなければ何かを変えることは難しいと思っていた。だから保安部員を計画に引き入れる必要があると思っていた。わたしは誰がいいか考えていて、保安部員を気に掛けるようになった。そのうちDBY1が気になるようになってわたしはいつも彼の姿を探した。彼の何かに飽きたような諦めたような表情は、他の皆と少し違って昔の自分を思い出させたし、何かを求めているような切望感をその瞳に感じた。そしてわたしが彼を見つめるようになったことで、彼もわたしを意識しはじめていった。それをはっきりと感じた。わたしたちは情緒的なものを遮断され恋愛感情などわきようもなく、好悪の情すら薄い暮らしを続けていているのに、ただ彼にとってわたしが「見つめてくる存在」だっただけで、彼の意識を動かすことができていた。
それほどわたしたちは、非日常に飢えていたのかもしれない。わたしがモリーが握らせてくれたあの鍵一つで危険を冒す道をあっさりと選んだように。わたしが彼に近づけば、彼は保安部という責務とわたしとの接点の狭間に立たされ悩ませることになることはわかっていた。でも、わたしには自由が必要だったから、躊躇はしないでおこうと思った。
折をみて彼にこの鍵をそっと渡す。
「これを持って地下3階まで来られる?」
彼は軽く目をみはり、そしてただ頷いた。
わたしは地下で待ち、そしてあの部屋へと案内した。わたしはすぐには彼の仕事や立場のことは聞かないでおく。彼を困った状況へと追い込んでいることに触れないでいるし彼も触れようとしない。何も問いたださない。ただ死の矢のプロテクトの話だけはしておく、前もってEK28(ユキムラ)に頼んでいるからその点については安全だと。
彼も夢中になって物語を読む。わたしよりはかなり時間がかかるようで、それは普段の仕事の種類からしてももともとの訓練でも文字に触れる機会がわたしより格段に少ないからだろう。それでも明らかに興奮し物語に引き込まれていく。この光景を見る側のわたしにもある恍惚感がわく。これをモリーとラオ爺、ユキムラも味わっていたのだなと思う。彼を興奮させていることが嬉しくて、そして恐ろしい。これから進めようとしていることの重さに慄きつつ、でもけしてこの計画をやめることができない自分がいることもわかっている。初めて抱いた希望を簡単にあきらめるなんて、できるわけないじゃないか。
外
あまり時間がないなと思い始めていた。ラオ爺もぼくもどんどん年を取っていく。ぼくたちはいつこの世からふっと消えてしまってもおかしくない年齢になりつつあった。ぼくらが事を起こさなければ永遠にこの世からアップルシードルは消えてしまうだろう。漠然とそんなことを考えていたある日、思いも寄らない知らせが舞い込んできた。
管理部からツバサがやってきて業務上の連絡事項としてぼくとラオ爺に言った。
「外出許可が降りた。城の補修に必要なものを探し、すみやかに修理できる態勢を整えるように」
そこでぼくは前々から考えていたことを伝えた。
「もちろん、申請していたように補修のためには一部の材木や石材などを持ち込めばある程度のことはできます。ただ、ぼくたち世代より下はもう外を知らない世代です。後の世代のためにも外の手引書を作りたいと考えています。城は生き物なので、セントラル連合から与えられる資材ではうまく適合しないことが多いこともあり、城だけのことにかかわらず、何かの時のために外のものをいかせるように、どこに何があり役に立つものがどこにあるかを書き残しておきたいと考えています。」
ツバサは、無表情に頷いた。
「わかりました。上に報告してみます。ではそれとは別に、外出の件はすすめなさい。」
外出許可はとうに諦めていた。ぼくたちは昔住んでいた各々の住居に住むことは許されず、居住エリアの巨大宿舎のようなものに放り込まれている。小さな個室が一つ。衣食は配給制でほとんど私物を持たないぼくたちが暮らすには部屋どころか穴蔵でも十分だった。ただ朝が来たら目をさまし、仕事に行き、仕事から帰りただ眠るだけの生活。そんな暮らしを30年以上続けてきたぼくにとって、外に資材を探しに行くことができるというのは大事件だった。
城が生き物というのは本当のことだった。いくつかの修理のための素材が持ち込まれ試してはみたものの城の戸や床材とは相性が悪く、すぐに駄目になるのだった。だから城の素材と近い天然の木や石で補修すべきだしそのために外に探しに行きたいと申請をしており、それは今の今まで放置されていた。なぜ、急に?と訝しさはあった。なぜ今なのかと。なんとうまい具合に今は秋なのだ。偶然かはたまた奇跡かはわからないが、なんにせよ選択肢はたいしてないのだ。命令なら従うのが今の社会の掟だった。
ラオ爺はもう随分足腰が弱っているので、補修のための素材を集めるのはぼくの仕事になるだろう。とはいえ、彼を外に連れ出さない選択肢はなかった。どうせものを運ぶために車が必要だった。城にある素材で簡単な荷車らしきものを作り、ラオ爺をのせて行けばいい。外にでられる。ぼくたちの家はどんな風になっているだろう、きっと雑草と雨風で朽ち果てていることだろうな。よく遊んだ空き地は、小川は、昔のままだろうかと、それから毎日のように思いを巡らせているうちに、許可の出た外出許可の当日がやってきた。
ラオ爺は外に出るまでは歩くといって聞かなかったので好きなようにさせた。ぼくたちはゆっくりと居住エリアを通り抜け、朽ち果てたフェンスを抜けて30年ぶりに外に出た。
城の上の階にぼくたちは上がる機会はあまりないとはいえたまに高いところから外を眺めることはできていた。だから外が居住エリアと違い緑で溢れているのはわかっていた。とはいえここまで違うのかと絶句する。色のない居住エリアと違い、濃い緑、淡い緑、赤みがかった、茶色がかった、黄みがかった緑で、外の世界は溢れていた。人の手の入らない放置された緑の世界の迫力にぼくとラオ爺は少し立ち尽くす。
道はありがたいことに残っていた。わさわさ繁る雑草だらけの中に一筋、緑が繁茂していないところが残っている。ぼくたちは外に出られた高揚感とここまで荒れ果てていることへの衝撃をかかえて、歩き出す。ラオ爺は外でも歩きたがった。何か使えるものはないかと周囲を見回しながら彼のペースにあわせて荷車を引きながらゆっくりと進む。ぼくの家はここから数キロ、ラオ爺の家はそこからさらに奥だった。急ぐ必要はなかった。あの後、またツバサが仕事の顔でやってきて、ぼくに外の手引書を作ることが許可されたと伝えてくれたからだ。ぼくたちは当分、居住エリアと外との出入りが許されたし、公的にイレギュラーな振る舞いも許されることになった。だからぼくは荷車に簡単な寝具を積んでおり、泊まれそうならこっちで泊まることも考えていた。
かろうじて道はわかるものの度重なる災害で倒木があったり地割れした箇所があったり、進むのには時間がかかった。
崩れ落ちた工場、学校などの建物を目の当たりにするとなんとも言えない気持ちがわいてくる。ここは過去で溢れている。失われ放置された過去の遺物に囲まれぼくたちは黙って歩き続ける。ラオ爺は時折ため息をついた。何を考えているのか、ぼくは聞けなかった。
ぼくの家はあった。雑草まみれでつる植物に覆われ占領されている状態を家と呼んでもよいのならば、だが。雨漏りすることは間違いない、部屋の中から灰色の空が見えるくらいだから。居住区へ強制移住させられた時私物はすべて置いていかなければならなかったので、ぼくの持ち物はすべて家にあるはずだった。隠していた本やアルバムは雨風に晒されて開くこともできなかったとはいえ、管理部はこのことをどう考えているのだろう、監視をつけようと思わなかったのかと思った。ただ、次世代の人間を監視に同行させなかったのはこのためか、とも思った。ぼくもラオ爺もどうせ過去の記憶をもった人間なのだ。そいつらが過去のものと出会ったところで革命的な何かが起こるわけはないのだ、ただ、せいぜい懐かしさに涙する程度だろうと思われていたのかもしれない。事実、ぼくは懐かしい本のどうにも開かない表紙をみて、少し泣きそうになった。どういう感情によってなのかは、うまく気持ちを整理することはできなかったので曖昧なままだ。
今回の役目としては、補修につかえる木材や石材の確保と、行ける範囲の見取り図の作成だった。ただ、ぼくには当然、別の目的があった。この機会を逃しては果たせないこと、アップルシードル造りだ。
林檎がまだ収穫できるのか、これが1番の気がかりだった。そもそももう林檎の木が枯れ果てていたり実がなっていなかったりすれば、頓挫する話だ。だからぼくは、ぼくの家を少しはましな居心地になるように慌ただしく整えた上でラオ爺を置いて、昔、林檎園があった丘をひとりで目指した。
フェンスからぼくの家までの道のほうがまだましだった。ラオ爺を置いてきてよかったと思った。丘までの道は、とても道とは言えず、家で見つけた鎌で絡まる草木を切りながら進んだ。草を刈る時の匂いが空気を満たす。この匂いも30年ぶりだった。色と匂いに囲まれて、叫び出したいような気分になるのに、叫ぶ言葉がうまく見つからなかった。ただ、なぜこんなにも何もかもが奪われているのかどうしてもわからない。ここには何もかも懐かしいものが溢れているのに。ここに世界があるのに。どうしたらあの流れを止めることができたのだろうか。ぼくは子どもだったとはいえ。
頭の中を雑念が暴れまわる中、登り続ける。思考は止まらず靄がかかったような感覚に襲われる。そして昔、林檎園があったあたりにたどり着くと、確かに、微かに甘い香りを感じた。全ての木に実っていたわけではなかった。朽ちた木もあったし、実を一つもつけてない木もあった。でも、幾つかの木には小さな林檎が実っていて、薄い日差しに照らされたその輝きがぼくの目に飛び込んできた。僕は一つをもぎって齧った。歯をたてた途端、汁が滲み出て酸味が広がる。懐かしさではなく初めて味わったような強烈な刺激だった。果物の味を身体が忘れていたのだと思う。ずっと栄養食と蒸留水だけで生きていたのだから。ぼくはまた泣いた。ラオ爺を連れてこなくてよかったと思った。誰もいない外の丘で、ぼくは恥も外聞もなくわんわん泣いた。子どもの頃のように。心ゆくまで。
袋に林檎を詰めて、丘をくだってラオ爺のために持ち帰った。ざっと数えて100個は収穫できそうだった。ラオ爺は幾つかの林檎を眺めて言った。
「昔より随分小ぶりだが100個もあるなら十分だ。時期的にはもうちょっと待って林檎が自分で実を落とすくらいの時期に仕込むほうが美味しく仕上がるだろう。まずは酵母をつくらんとな。あと樽と絞り機も必要だ。」
酵母か。そうか酒造りには酵母がいるのか、すっかり忘れていた。だけどラオ爺によればそれはそんな難しいものではないらしい。昔は山葡萄で作っていたという。山葡萄、どこかで見かけたな。まず酵母を仕込み、樽をみつけてきてよく洗い乾かさなければ。林檎を潰し絞る道具などの用意も必要だ。そしてそれらの楽しい作業と並行して、本来の役目である見取り図も作る。ぼくとラオ爺は手分けして動いた。二人っきりの外の日々は、途方もなく自由だった。ツバサは特に期限を伝えなかったが、そう長いこと城をあけるわけにもいかないだろうと、ぼくは2,3日して様子を確かめるために戻ってみたが、誰もぼくとラオ爺の不在を気にかけているようでもなく、放置していた仕事を済ませてぼくはまた外の世界に戻った。ラオ爺はぼくが採ってきた山葡萄から酵母をつくっていた。着々とアップルシードル造りは進む。なんてことだろう。これは夢では?
ラオ爺はぼくが古い揺り椅子を修理したのを気に入って、海が見える位置に引っ張り出して暇さえあればそこで過ごしていた。遠くに見える海は今は白く美しくて、酷い災厄をもたらす存在だとはとても信じられないほど穏やかだった。
「ずっとここにおりたいよ」
ラオ爺はぽつりと言った。
「わしはここで死にたい。もうあそこには帰りたくないわ」
その気持ちが痛いほどわかる。ぼくたちは過去に生きてきた。過去の暮らしだけがぼくたちの支えだった。それが全てここにあるのに、またあの無味無臭の何もない暮らしに戻るのは、ぼくにもきついがラオ爺にはなおいっそうこたえるのだろう。
「無理だよ。ぼくたちには自由がない」
ラオ爺の返事はない。
ぼくもラオ爺をここに居させてやりたかった。声をかけてそう言ってやりたいがやめておくことにする。ラオ爺は黙って眼を閉じている。ぼくもこのままでいたかった。ここでの幸せな夢を見たくて、ぼくも黙って目を閉じた。
クーデター
わたしは、この世界を変えたかった。
でも今やる必要があるかと何度も迷った。
わたしは後継者として育てられていて、このまま行けば長官の跡を継げるはず。その時でいいのではないか。それが1番誰も傷つけず、血も流さず、成し遂げることができるんじゃないか。
ただ、不安もあった。まずそれがいつになるか未定だということ。そして後継者の変更がなされないとは言えないこと、低い可能性でもゼロとまでは言えなかった。そして、彼ら、わたしを導いてくれたモリー、ラオ爺、ユキムラに、変化をみせてあげることができないかもしないこと。特にラオ爺はかなりの高齢だから。
そして最大の危惧は、ユキムラのことだった。
わたしたちの密やかな自由はすべてユキムラのおかげだった。勿論きっかけはモリーだ。でもモリーやユキムラが、そしてわたしと保安部のDBY1がこうやって関われているのは「死の矢」を他のみんなのように恐れる必要がないからだ。リスクになる行動をとることが可能だからだ。ユキムラが1人でシステムを担っているうちはいい。だがユキムラの業務が誰かに引き継ぎされたら?プロテクトが特定の人間にかけられ自由な行動が可能になっていることがばれたら?わたしはもしかしたら助かるかもしれないけど他の皆は無理だろう。消されてしまうだろう。そうなればわたしの生きる意味がなくなってしまう。
DBY1もモリーもユキムラもきっとみんな逡巡していたのだと思う。わたしたちは微かな希望を感じつつも動けずにいた。そんなある日、ほとんど無理な申請だと思っていたのにもかかわらずモリーとラオ爺が外に出る許可が出てそれをわたしが伝えに言った。
後日、わたしたちは書庫で語りあった。
「どうして急に許可が出てのだろう」
「わからない。わたしにはこれを伝えるようにと指示があっただけだから。でも会議とかで決まったわけではなくて、長官からの直接の指示なの」
「まあいい。この機会にアップルシードルを造れるかもしれない。林檎がなけりゃ話にならないが季節もちょうどいい。普通なら林檎が実っているはずだ。俺も行きたいな。俺にも許可出ないだろうか」
ユキムラがそう言って場を和ます。
ラオ爺は頷く。モリーは穏やかに微笑む。DBY1は黙って聞いている。わたしはこの光景が好きだった。いつまでも守りたかった。
DBY1もわたしと同じように名前を欲しがった。彼はわたしよりもっと名前を決めるのに時間をかけて、そしてある日ようやく決めたよといってはにかみながら教えてくれた。
「カイ?」
「そう、カイ。船を漕ぐ道具のこと。オールと同じ。きみがツバサだから何か対になるようなものがよくて、そして音が好みに合うものはないかといろいろ探して決めた。」
「カイ。いい名前」
「ツバサもいい名前だ」
わたしたちは見つめ合う。その時は書庫でちょうど二人きりだった。
カイがわたしを見つめる。こんな愛しいものはないって目つきをしてて、そして何か言いたげに。だから聞いてしまう。
「何?」
カイは首を振る。でもわたしを見つめるのをやめない。
「何?」
わたしは軽く笑いの混ざった声で再び問う。何?どう思ってるか、言ってっていう気持ち。
「見てたら、ダメなのか?」
「ダメじゃない。でも、思っている事が聞きたいの」
カイはようやくわたしから視線を離す。そしてポツリと言う。
「ふさわしい言葉が選べない。今の気持ちを言い表せない」
カイの困惑が、言葉を選べずにいるその戸惑いが、わたしが欲しかった全てのもの。そう感じる。これで十分。
頭の中でいろんなシュミレーションをする。なるべく安全に、誰かを傷つけることなく自由を手に入れる方法を模索する。本当は長官が死ぬか引退してくれれば一番いいのに。そうすればわたしが新しい長官として力をふるえるのに。長官の死を願うことはわたしにとっては親の死を願うことでもある。でも遺伝子上ではどうであろうと、わたしたちには親子としての絆はなかった。保育施設、児童施設でみなと一緒に養育されたあと城に連れてこられたのだからたいして特別扱いされたわけではない。ただ、児童施設のあと、城につれてこられ、後継者と囁かれるポジションにつき、管理部で長官の補佐的な仕事をしているだけ。ただの一度も個人的な会話をしたこともない。まるで、長官すら親子の親しい会話をすることによって「死の矢」が飛んでくることを恐れているかのように。わたしは彼らの前では口にしなかったけれど、長官の死や病を願っていた。それが一番、合理的だと思っていた。
ここでモリーやラオ爺、ユキムラからどんな風に社会が変わっていったかを聞き、昔の社会が今よりもずっと自由があったことを知った。「死の矢」によって誰も逆らえない社会が、今の長官の前の亡くなった前長官(会ったことはないけどわたしにとっては祖父)によって急に作り上げられ、それを今の長官は踏襲しているわけで、今現在、この体制の維持を望んでいるのはいまや現長官だけとしか思えなかった。みんなは怯え、馴らされ、この仕組みに従っているだけなのだ。大きな変化を起こすことに怖さはあるし反発もあるだろう、それにわたしは長官の娘として糾弾されることだってあるかもしれない。でも、このままの仕組みを続けるのは嫌だった。それは最も選びたくない選択だった。
でも、事態は急変した。発端はユキムラだった。
カイから連絡がきて、わたしたちは書庫に集まった。カイは言った。
「ユキムラはマークされている。なんの容疑かはわからないが保安部にユキムラの一挙手一投足を見張れという連絡がきている」
それは最も恐れていた事態だった。安全のためこの集まりはユキムラに声をかけられなかった。想像していたよりよくない知らせだったことで、もう猶予がないことは明白だった。このタイミングで何かを起こすか、起こさないか。起こさなければ二度とこんな集まりは持てないだろう。ユキムラのコントロール下にあった「死の矢」のシステムは、他の人間の管理するところになれば、わたしたちへのプロテクトが見つかってしまうかもしれない。それだけですめばいいけど、下手すればみんな処分される。よくてバラバラ、悪ければ、悪ければ。
わたしが顔をあげると、カイもモリーもわたしを見ていた。わたしは頷く。
「危険なことはわかっている。でもやろう。なるべく誰も傷つけないやりかたで、クーデター計画を実行しよう。これは『死の矢』に脅かされてないわたしたちにしかできないことだから。みんなに、生きることを、絆を、自由を教えてあげたい。そして名前を取り戻してあげたい」
クーデター計画といっても要は禅譲計画なのだ。長官のところにいって禅譲を強いる。危険にさらされるのはわたしたち以外は、長官だけだった。長官を殺す必要はない。従ってくれなければ強要や監禁をする可能性は想定していたが、誰も死ぬ必要はない。ただ、わたしたちが長官の元に無事に行くのがそう簡単ではない。長官の執務エリアの塔に入るには許可が必要だった。わたしですら塔に上がったことはない。長官は幹部エリアにはほとんど降りてこないし、長官の塔の入口は保安部の監視対象だった。だから監視している保安部をどうやり過ごすかが難題だった。これについては前からいろいろ議論はしていて、カイに動いてもらうしかないという結論にいたっていた。原始的だが、ボヤ騒ぎでも起こし保安部が駆けつけて消火活動している隙に保安部がいるそのエリアをカイが封印する。そうすれば保安部は足止めできるわけだ。また、その段階に至ったときには、ユキムラが死の矢で保安部全員をロックオンするシステムを作り上げていた。異常行動をとってなくてもロックオンすることで、保安部の制圧は可能だった。わたしたちは何度もいざ時が来たらどうすればうまく運ぶかについて意見を出し合っていて、封印しやすいエリアとしてボヤ騒ぎを起こす場所も既に決めてあった。でもこの計画は、ユキムラが今システムを触れていないのであれば完全には進まないだろう。
それでも時間に猶予はなかった。カイはボヤ騒ぎをおこすために該当エリアに向かう。わたしは保安部を足止めしたカイと合流した後、長官のいる塔に向かう予定だった。立ち去ろうとしたとき、モリーがわたしにある物を握らせた。
「これは?」
「銃だよ。物語で出てきただろう。殺傷能力のある武器だ。これも禁制のものだが、長官に禅譲を強いるにはあったほうがいい」
「使い方がわからないわ。それにこんなものどうしたの」
「古いものが自宅に残っていてね。ユキムラに頼んで修理してもらっていたんだ。使わないにこしたことはないが、長官が武器をもってないとは言い切れないからね。これできみの身を守り、目的を果たすんだ」
モリーは、優しい目でわたしを見つめる。まるで最後の別れであるかのように、切ない表情をする。今までもずっと優しかったけれど、今までで一番優しくて愛おしげな表情。お別れの時かのような。いや、そんなわけない。計画通りにいけばこのクーデターは問題なく進むはずだ。わたしは、わたしたちに自由を取り戻したい、ただそれだけ。
怖いことなんてないよ、大丈夫、うまくいくというようにわたしはモリーに微笑んでみせる。そして振り返らずに、この秘密の書庫を後にした。
わたしは甘かったのかもしれない。カイは思っていたより遅く待ち合わせの場所に来た。そして、ひどく動揺しながら言った。
「全員を封印しそこねてしまった。だから長官の部屋に突入するのは阻止されるかもしれない。なんとかきみだけでも塔に上がらせるようにできるだけやってみるが、ユキムラの確保に動いてしまったP388を抑えておけなかったのでそう簡単にはいかないかもしれない」
カイの話では、保安部の精鋭はボヤ騒ぎを無視しユキムラの確保に向かったらしい。ユキムラは無事なのだろうか。あのいつものからかうような面白がるような彼の表情が見たくてたまらない。背筋が寒くなるような怯えが全身を走る。でも、もう既にカイは仲間を裏切り保安部を閉じ込めるという行為をおかしたわけだからもう後戻りはできない。わたしとカイは、長官のもとへ向かう。溢れるような不安と混乱で、思考がまとまらないままだ。突然、ドンっとどこかで大きな爆発音がする。何か恐ろしいことが起きているみたい。しかもわたしは恐ろしいことをこれから実行しようとしている。
わたしとカイは、長官の塔に向かう階段の前で少したじろぐ。心配していたけど保安部はそこに誰一人いなかった。よかった。そして、わたしたちは石造りの階段に足を乗せる。
乗せた途端、キンっという嫌な音が響く。きっと、この音は死の矢が放たれた音。わたしとカイは見つめあう。できることはそれくらい。死の矢が飛んでくるんだ。わたしたちのクーデターはここでお終いになるんだ。だから、最後はカイの眼をみていたい。わたしたちは見つめ合う。書庫の時のようなあの甘さで、あの時のような愛情で。これが最後の眼差しであっても、それでも。この感情が生きるってことだよね?そうでしょ、モリー……。
塔
クーデターは失敗に終わった。ぼくのようなものにもその話は伝わってきた。ユキムラは保安部長たち数人を巻き込んで爆死した。ツバサとカイは死の矢にやられた。ユキムラの爆死によりコンピュータールームは機能不全に陥り、城のシステムは緊急モードとやらに切り替えられたそうなのでそのせいでプロテクトが外れて発動してしまったのだろうか。ユキムラは緊急モードの存在を知らなかったのかもしれない。
ぼくは城の管理人として、ユキムラのコンピュータールームの後処理に携わった。ユキムラの持ち物一つ回収できなかった。いつも身につけていた小石一つ、骨一つ、拾ってやることはできなかった。
ユキムラとの最後のやりとりを思い出す。ぼくがはじめたことが何かを招こうとしているという事実にぼくは内心慄いていて、それを察したのだろう。ぼくに声をかけてくれた。
「怖いか?」
気づかれていたことにぼくは驚いた。何気ないふりをしていたつもりだった。
「ああ。ツバサを見ていると怖くなる。彼女が夢見るように語るクーデター計画がどんな結末を招くのかがやっぱり怖い。ぼくはいい。でも若い彼女たちに万が一のことがあったらと思うと」
しばらく沈黙が続き、そしてユキムラは口を開いた。
「俺の母が自殺だったことは聞いてるか?」
唐突な話題に戸惑う。随分前のことだがユキムラの母が自殺したことは当時噂になっていた。ぼくは小さく頷く。
「母が『死の矢』のシステムを構築したんだ。彼女は一種の天才でね、プログラミングしたものを見て舌を巻いたよ。俺は絶対に叶わない。だけど母は病んでもいた。あれからすぐ母の下で引き継ぎのようなことをさせられたのは、母の不安定さが上層部にも伝わっていたからだと思う。数年はもったが、最後のほうは廃人のようだったよ。デスクにずらっと小石を並べてね、それをずっと見つめているんだ。」
「小石?」
ユキムラも小石を常に身につけている。麻袋にいれて腰回りにぶらさげている。普通の人間なら許されないことだがユキムラみたいな立場の人間は黙認されることも多かった。
「そうだ。その小石の意味がいつしか俺にもわかった。あれは母の作り上げた『死の矢』が奪った命の数だったんだ。母はそれをカウントしていた。一人死ぬたびにどこからか石を拾ってきてね、それが母のデスクの上に並べてあったてね。死の直前はずっとそれを数えていたよ。何をしてあげたらいいのかわからなかった。俺はただ狂っていく母を見ているしかできなくてね」
そしてユキムラはいつもの表情のまま、自分の腰の麻袋を撫でた。
「これは俺が正式に引き継いでから、俺の管理下のもとで『死の矢』が奪った命の分だ。母のよりはずっと少ないのは、俺が条件をいじったからだ。些細なことを異常行動とみなさないように緩めてある。それでも何人もの命を俺は奪ったよ。だからいつ死んでもいいくらい、俺はずっとボロボロなんだよ、言わなかったけどな。何度もこのシステムを二度と復元できないように破壊しつくすことも考えた。ただ、俺が自暴自棄になって母に当たり散らした時に、母から、このシステムを破壊しても無駄なんだと強い口調で言われたことがあって、それも引っかかっていてできなかった。なぜ無駄かは教えてくれないままだったが」
ユキムラはそこで口ごもる。ユキムラの気持ちも痛いほどわかるしユキムラが苦しんできたことも薄々は気付いていた。ぼくはそう言いかけて、でも言えなかった。気持ちがわかるなんて、軽く言っていいと思えなかったからだ。
「お前もいたからな。お前を置いて勝手には行けない。俺はやっぱりあの頃が懐かしいんだよ。俺とお前と彼女がいたあの頃が。またあんな日が来るかもしれない、そう思って、それだけが気持ちの支えで、今まで生きることができていた」
ユキムラはいつものとびきりの笑顔をでぼくに言った。
「俺はお前がしたことを信じる。どんなことがあっても俺はけして後悔はしない。ツバサもクーデターも、俺の力が及ぶ限り守るから」
それがぼくがユキムラと交わした最後の会話だった。
ぼくにはもう失うものはなかった。
すべきことはただ一つだった。
ぼくは長官のエリアを目指して管理人室から上へ上へと登る。もう何にも未練はない。
この世界から奪われたのは手がかりだった。よすがというべきかもしれない。ぼくらには微かに残るそれが、若いものたちには微塵もないのだ。それがどうしようもなく痛ましくてならなかった。
ぼくらにもろくにないのにぼくたちがすがりついているこれすらなければ何を思い描けばよいのだろう、何を夢見ればよいのだろう。何も手がかりがないという罰はあまりにも残酷じゃないか。本人たちは気づいてないにしても。
ぼくは自分が過去に囚われていることを自覚している。ユキムラと彼女との子ども時代のあの過去の時間に未だ囚われている。ユキムラもそれを支えに生きていたと最後に言ったように、あのユキムラすらそうだった。それはおそらくその後の人生に何のとっかかりもないからだ。何もよすがになるものがないからだ。そして若い、ツバサたちの世代は生まれてからずっと、とっかかりを持たぬように生きさせられている。ぼくはそのことが堪らずに手を出してしまった。自由を欲しがるように仕向けてしまった。それがこの結末か。この結末がぼくへの罰なのか。
長官のエリアには誰もいない。保安部もおらず、躊躇なく塔を登り続ける。長い古びた階段を登っていき、塔の最上部の執務室にたどりつく。これほど登ったのにぼくの息はまるであがっていなかった。ひどく冷静な乾いた気持ちだった。
執務室には鍵もかかっていない。ぼくは扉を開けて、彼女と対峙する。
入ってきたぼくを見ても長官は驚きもせず、ただじっとぼくを見た。
「あなたがしたかったことは、これなの?モリー」
彼女はそう言って、ぼくを見つめた。
彼女に真正面から見つめられるのはいつ以来だろう。ユキムラや彼女が住んでいた幹部の居住地域から連れ去られたあの頃以来だから、30年以上はたつ。勿論面影は残っている。でも硬くこわばった表情の彼女は、あの頃、ぼくたちだけで過ごす場ではコロコロとよく笑っていた少女とは別人で、無表情に自分を律していた時のややさびしげな雰囲気とも全く違い、そのことと、彼女から放たれた言葉のどちらもにぼくは内心ショックを受けていた。こんな会話になる心の用意もせず、ただ無我夢中でここに来てしまっていたから。
「満足なわけないじゃないか。きみは自分の娘には手を下さないと思っていたのに」
彼女は表情を変えないまま言う。
「手を出したいわけないじゃない。緊急モードが作動するなんて考えていなかったわ。わたしが父の後継者として城に呼ばれてすぐの頃、確かにユキムラの母上、ユーナ博士から説明を受けた記憶はある。コンピュータールームに重大なトラブルがあっても長官室のサブコンピューターで緊急モードが起動してわたしや父を守ってくれると。でもそのせいで娘を失うことは想定してなかった。今はサブコンピューターも切ってあるのよ。だからあなたもここに登って来ることができた。きっと来るだろうと思って待っていたの。ユキムラについての報告があったし、あの子の背後にはあなたたちがいるとしか思えなかったから」
「あなたは自分たちは被害者で私こそが打倒すべき加害者という単純な構図を作り上げて、娘を焚き付けたんでしょ。でもあなたたちが何も選べなかったように、父が次の長官に私を据え私が引き摺り下ろされることがないように躍起になって体制を整えていた時、私に何かできたと思うの?私だって何も選べなかった。父がやっていることすら把握できていなかった。確かに私たちはどこかで道を誤っている。でもそれは私のせいではなくて父のしたことなの。私はただ父の意向に従って言われたままに踏襲してきただけ。あなたたちと私とそんなに違うのかしら。仕組みは既にがんじがらめで、わたしがリスクを負うことなく動かせるものなんて、小指をピクピクさせることくらい。これで何が変わる?それ以外のことはどこから手をつけていいかわからなかった。そのままにしてしまったことは、そんなに罪なの?わたしが責任をとればいいと罪人探しをすることは、小指をピクピクさせることと同じレベルじゃない?仕組みを変えることは違う。痛みと混乱を伴う。それをやり遂げられるの?私だけ排除したってそこで終わりではないでしょ」
焚き付けた、と彼女は言う。ぼくは確かにツバサを焚き付けたのかもしれない。そしてそれが彼女が早すぎる生の幕引きを招いた。カイもまたそうだ。ぼくが焚き付けたから彼らの命は奪われた。彼女がまくしたてている内容よりもその事実がぼくを苛む。
「ツバサ、なんだ。きみの娘の名は、ツバサだ。彼女自身が選んだ名だ。そして一緒に死んだ男はカイ。これも彼自身が自分につけた名だ。彼らは愛し合ってたよ。ぼくはそんな彼らを見るのが何より幸せだった」
ぼくはそれを告げるのがやっとだった。
「ツバサ…。あの子、自分で名前を選んだのね。そう……」
彼女はその名を聞いてはじめて動揺をみせ、しばらく黙り込んだ。
そしておもむろに立ち上がり執務室の窓を開ける。外から強い風が入り込んでくる。軽いものが吹き飛ばされるが、彼女はそれに構わない。バタバタと布や戸がやたらと音をたて、室内を風が暴れまわる中、そんなことは気にもとめないように、静かな口調で続けた。
「あなたは自分の価値観を押し付けて、これが生きることだと、それがないなら生きている意味などないと押し付けたんじゃない?でも、生物は進化していくもの。これからの世代は自分たちなりに生きる意味を社会に合わせて見出していくはず。社会に順応し新しい幸せの形を見つけていったはず。それが例え毒でも、消化し生きる糧に変えていった生き物達のように。あなたの目線から見て哀れだったとしても、わたし達世代が死に絶えれば哀れなんて誰も感じなくなっていたのに。なぜそれがわからないの。なぜ待てなかったの。」
彼女は一方的に続ける。こんな饒舌な彼女ははじめてだった。
「なぜこんな世界になってるのか、それは父がわたしを愛しすぎたから。わたしを守ろうとしすぎたから。わたしが誰にも傷つけられないように、父がしてきたことの報復を受けないような強固な仕組みをつくりあげたの。自分が死んでも絶対にわたしが守られるように、『死の矢』の仕組みをユーナ博士に作らせて、自分の権力をわたしが安全に引き継いで誰も逆らえないようにしたの。わたしはそんなこと望んでなかったのに。あれは父の愛なの。確かに、控えめにいってもその愛はおぞましいものだった。わたしは父が死んだらこんな仕組みを終わらせようと思っていたわ。父から後継者として仕事を担わされてからもいかにこの体制を終わらせるかを考えていた。わたし達は憎まれていた。わたしはこの体制を終わらせれば全てを失うし娘も生きられないだろう、それは確かに躊躇になったけど、でもそれだけじゃない。父の愛をわたしはどうしても良いものと思えなかった。愛が世界に必要かしら。愛ゆえに執着し苦しみ誰かを傷つけるなら、愛を知らない世界が作られていくのにそれを壊す必要があるかしら。わたしは、もう誰も愛さないことで、苦しみから自由になれた。誰にも期待せず期待もされないから。誰とも関わらない。ただ配給のもので命を繋いでいくだけ。わたしは父の愛がゆえに地獄に生きていてる。わたしの手が血塗られてることだって、そして娘の手も血塗られていくことだってわかってた。だからこんな想いをするのはわたしで最後でいいと思ったの。娘が、ツバサが、この仕組みを引き継いでも、彼女はわたしのように感じることはないはずだった。ただ、世界をあるがままに受け止め、役割を果たすだけの生を生きるはずだったの、あなたが余計なことを教えなければね」
彼女はそして言った。
「それでも、あなたがしたことは正しいって言える?」
なんて残酷な問いなのだろう。ぼくはそのことを考えることを避けていたのに。
「正しさなんて意味があるのか?もっとシンプルなことだ。こんなに豊かに林檎がまだ実る地でアップルシードルを作ることができないなんて馬鹿げてる。僕が言えるのはそういうことだ。馬鹿げているというのが出発点だ。正しさは流動的だ。あの頃のぼくたちが愛したものが全て粉々に失われているこの世界で、正しいのはなにかなんて無意味だ」
「モリー、それは思考の放棄じゃない?あなたらしいわね」
彼女は残酷だった。ぼくと彼女との昔の絆を思い出させつつ、確実にぼくを責めてくる。
「違う。思考はしたさ。ただ拠り所を正しさに求めていない」
「ではその拠り所とは?」
「正しいとは言えなくとも、よりマシな人生を送ること。それだけさ。これは僕が思い描いた人生と違い過ぎる。わかってるさ、思い通りの人生を歩めるやつなんていないって言うんだろ、それはそうだ。でも問題はそこじゃない。カイやツバサは違うんだ。彼らの人生はこれなんだ。これから生まれてくる奴らもみんなそうさ。これが思い描く人生でその通り生きていくしかない。思ってた人生と違うと嘆く痛みすら許されない。これしか知らない世代が生まれ死んでいく。その事が辛いんだ。自分が思っていた人生を歩んでないこと以上に、その事実のせいでいてもたってもいられない気持ちにかられたんだよ。正しいか誤りかの二元論にはうんざりだ。これほど混乱と混沌の世界でそれを見出すなど。だからもっとシンプルな光がいるんじゃないか」
「それがあなたにとってのアップルシードル?確かにシンプルな話ね。」
彼女は酷く皮肉な口調だった。そして言う。
「それにしても、後継者のあの子を失って、この星をこれから誰が率いるの?『死の矢』の仕組みを理解していたユキムラがいなくなった今、これからどうやって、誰が混乱のこの星をコントロールするの?あの人は本当に頑固で、何度若いエンジニアを育てるように言っても言うことを聞こうとしなかったのよ。メインコンピューターを失ってしまって、ここのシステムでできることは限られてしまううえに、エンジニアもいない中であなたに何ができるの?どうやって人々の欲望、それをあなたが愛と呼びたいなら呼べばいいけど、あなたは欲望と愛で混乱する世界を今よりもよくする自信があるの?」
「自信なんてない。ぼくらはもう年をとりすぎた。だからツバサとカイに未来を委ねたかった。失敗しながら苦しみながらもきっと彼らは新しい世界を築いてくれただろう。それが生きることだ。でもきみを守るための緊急モードのせいで、彼らを失った。だから、彼らの望んだ世界を作るためにぼくは何でもする。したくないことでもする。あの地下で語り合った未来を実現するために、できることはなんでもやるさ。そうでなければ、ツバサ、カイ、ユキムラ、ラオ爺、彼らの生が報われなさすぎる」
「でも結局、あの子はもういない」
「ああ。悔しいよ。でも、ぼくは間近で、彼女がどんな風に物語を読み、愛を学び、自由を望み、カイを愛し、クーデターを夢想したか、見ることができた。あれが生きるってことだ。それまでの彼女は抜け殻だった。そしてぼくもずっとそうだった。みんなもそうだろう。この世界のみんなは今、生きていて、生きてない」
「物語?そんなものがまだあったの?そう、あの子は物語を知ったのね。それで自分にツバサという名をつけ、クーデターを起こし、わたしを殺そうとしたってわけか。物語に出てくるような昔の自由のある世界を実現するために。だからだったのね、何かが起ころうとしていることには気付いてた。わたしだって悩んで考えて苦しんで、そしてこれがベターだと思ってこの仕組みを守ってきたけど、確かに、十分うんざりしてた。疲れ切って、何度ユーナ博士と同じ道を選ぼうと考えたか、あなたに想像できる?ずっと生きていて生きてないのはわたしも同じ。だからこそ、わたしはあなたとユキムラに賭けたのに。そして、また、すべてを失ってしまった」
彼女の言ってることについて、ぼくはずっと、わからないわけじゃないとどこかで思ってる。彼女をちゃんと憎めればよかったのに。憎めればもっと。
「ねえモリー、わたしたちはどこで道を間違えたのかしら。どこまで戻れば正しい道に戻れるの?」
彼女はそう言うと黙りこんでしまった。もう身じろぎもしない。ただ窓から吹き込む風が、昔のように長い彼女の髪を揺らしている。ぼくはそれを眺めながら、ユキムラに修理してもらっていたもう一丁の銃を取り出す。
たとえ彼女の主張が正しいとしても、彼女はすべての責任を取るべきだとぼくは思う。
ぼくは荒れ狂う風の中、静かに引き金を引いた。
エピローグ
ぼくは記憶の中に生きている。
そうすることしかできない。ただただ、夢想を続ける。
リアルとはまるで異なっている夢想。おのれの記憶を修正し加工し追想を繰り返す。
ぼくはその記憶の技法だけ、やけにうまくなった。
二度とユキムラ、ラオ爺、ツバサ、カイ、そして彼女と会うことはできない。だけど記憶の中ではいつも、彼女すら笑顔だ。
まざまざと思い描くことを何度も繰り返したせいで、彼らの表情も台詞もやけに鮮明だった。すべてが終わった後にみなでテラスでシードルを酌み交わす集まりは、実現しなくてもぼくの頭の中ではリアルそのものだった。
最初にラオ爺が来る。ラオ爺は、あの後、城に戻ることはなかった。彼ののぞみ通り、あのぼくの家の揺り椅子で息絶えていた。老衰かもしれなかったがもしかしたら自死だったのかもしれない。ただ、表情が安らかでそれが救いだった。
次はユキムラだ。かけがえのないぼくの親友。僕の追想の彼はいつも笑顔だ。悩み一つないような表情で、大声で、周りを巻き込む。陽気で気さくで大胆で、たまに涙もろい。苦悩との強いコントラストを抱えたぼくにとって唯一無二の男。ぼくは心から彼を愛していた。ずっと。
そしてツバサ。彼女のことが愛おしくて堪らない。無表情だった彼女の頬が紅潮していく様子に何度心が震えたか、彼女が昔の生活を聞きたがる、せがむその声がどれほど可愛らしかったか。彼女が望んだ世界をぼくはどれだけつくってあげたかったか。
カイがツバサを見つめる、その表情がどれだけ愛に溢れていたか。人はどうやって愛を学ぶのだろうか。こんな風に若い二人はすぐにお互いをかけがえのない相手として認め、そして打ち解け合った。それがどれだけ生きる意味になるか。彼らを見ているだけでどれだけ心が温かくなったことか。
うまくいくと信じたかった。全てがうまくいって、ここでみなでグラスを傾け談笑したかった。それは、壮大でささやかなぼくの夢だった。
でも、現実は違う。ここでぼくはたった一人だ。
ぼくはラオ爺の揺り椅子に浅く腰掛ける。凪いでいた風が少しずつ吹いてきた気がしてくる。気のせいだろうか。
今も目を閉じれば容易に彼らの顔を、声を、まざまざと思い浮かべることができる。
現実がすべてだとしても、ぼくには目を閉じている時間が必要だった。
シードルをグラスになみなみと注ぎ、ぼくは目を閉じる。みんなの笑顔が見える、笑い合う声が聞こえる……。
「こんな日が来るとは」
みんなが繰り返す声がする。
「こんな日が来るとは」
ぼくは一人、呟く。
潮風がどんどん強くなっていく。