
第二の母
私は実家を離れ、東京で一人暮らしをしていた。
父とは小学生の頃に両親が離婚して以来、会っていない。
決して裕福とはいえない暮らしだった。
だから夫の家族に初めて招かれた日のことを、今でもよく覚えている。
待ち合わせ場所はホテルだった。
案内された窓際の席には、一人の女性が静かに座っていた。
後に義母となる人だった。
義母は明るく穏やかで、所作が美しかった。
芸術鑑賞が趣味で、バレエの話で盛り上がった。
海外で仕事をしていたこともあり、旅行好きの私とは話が尽きなかった。
初対面とは思えないほど楽しい時間だった。
結婚後も関係は良好だった。
義母は勝手に家へ来ることはなく、適度な距離感を保ちながら見守ってくれた。
妊娠中、つわりがひどくて動けなくなった時のことも忘れられない。
玄関を開けると、義母が両手いっぱいに買い物袋を抱えて立っていた。
袋が破れそうなくらい食材が詰まっていた。
冷蔵庫には、いつも私の好きなトマトを入れてくれた。
見知らぬ土地で暮らしていた私にとって、義母は第二の母のような存在だった。
数千万円のマンション購入は、私たち夫婦にとって人生最大の決断だった。
ローンが通るかどうかも分からない。
朝早く出勤し、夜遅く帰宅する。
食事を作り、翌日の準備をして、気づけば深夜。
ストレスで全身に蕁麻疹が出た。
血尿が出たこともある。
通勤電車で目を閉じるのが唯一の休息だった。
だからローン審査通過の連絡が来た日は、夫婦で飛び上がって喜んだ。
マンション購入を後押ししたのは義母の存在でもあった。
「保育園の送迎は任せて」
義母はそう言ってくれていた。
私はその言葉を信じていた。
出産後、少しずつ違和感が生まれた。
初めての育児は想像以上だった。
夜中の授乳。
終わらない寝不足。
うまくいかない毎日。
そんな中、義母からの連絡は増えていった。
同じような質問が何度も届く。
昨日と今日で話が変わる。
約束していたはずのことが通じない。
私は戸惑った。
夫に相談すると、
「昔から細かいんだよ」
と笑った。
義妹も、
「昔からそんな感じだよ」
と言った。
でも私は看護師だった。
どこか説明のつかない違和感があった。
義母の清潔へのこだわりも強くなっていった。
買った物は全て消毒する。
エレベーターのボタンに素手で触れない。
生まれたばかりの息子にまでアルコール消毒をしようとした時、私は強い危機感を覚えた。
そして何より気になったのは、発言そのものを忘れているように見えたことだった。
私は夫に言った。
「一度病院で相談した方がいいかもしれない」
診断がついた日、夫はひどく動揺していた。
普段あまり感情を表に出さない人なのに、何度も私に連絡してきた。
「治らないの?」
そして、ぽつりと言った。
「昔はそんな人じゃなかったのに」
夫はよく母との思い出を話していた。
留学先まで一人で会いに来てくれたこと。
一緒に旅行したこと。
そんな話をする時の夫は、少しだけ誇らしそうだった。
だからこそ受け入れがたかったのだと思う。
まだ六十代だった。
私も早すぎると思った。
診断後、義母は落ち込んでいた。
「私、そんなに変だった?」
と何度も聞いた。
時には、
「昔はこんなじゃなかったのに」
と涙ぐむこともあった。
ある日、義母の家へ行くと、カレンダーがいくつも並んでいた。
手帳。
壁掛けカレンダー。
卓上カレンダー。
同じ予定が何度も書かれている。
鍵を閉めたか不安になり、家へ戻ることもあるという。
私は聞いた。
「そんなに不安なんですか?」
義母は少し黙ったあと、ぽつりと言った。
「忘れることがこわいのよ」
私はその時、初めて義母の恐怖を想像した。
私たち家族が見ていたのは、困った言動だった。
けれど義母自身は、自分が少しずつ変わっていくことに怯えていたのだ。
そんなある日、義母が言った。
「お嫁さんに謝りたいのよ」
私は言葉を失った。
私は義母に怒っていた。
約束が変わること。
話が通じないこと。
何度も振り回されたこと。
でも、それは本当に義母だったのだろうか。
病気がそうさせていた部分もあったのではないか。
そう思った瞬間、胸が苦しくなった。
私は夫に見つからないように涙を流した。
あんなに素敵だった人。
私が尊敬していた人。
第二の母のように思っていた人。
その人が苦しんでいたことに、私は気づけなかった。
しばらくして、私は義母に言った。
「私もすみませんでした」
すると義母は首を振った。
「あなたは謝らなくていいの」
そして続けた。
「赤ちゃんが大事だから」
その言葉を聞いた時、私は久しぶりに昔の義母に会えた気がした。
今、義母は穏やかに暮らしている。
孫との時間を楽しみながら、鳥を見つけては立ち止まり、川沿いを歩いて季節を感じている。
夫も変わった。
母の身の回りを整え、病院に付き添い、こまめに連絡を取るようになった。
家族は変わった。
義母が安心して暮らせるように。
そして私たち自身が後悔しないように。
保育園からの帰り道。
孫の手を引きながら歩く義母の背中を見るたびに思う。
あの日、ホテルの窓際で出会った人は、今も確かにここにいるのだと。