
AIは私たちに感動を与えるのか
気がつけば、AIは調べ物をする時だけの存在ではなくなっていた。
レシピを知りたいときは、材料を入力するだけですぐに教えてくれる。会社で推し進めているプロジェクトに問題が発生した時は、解決策を提示してくれる。友達や家族と喧嘩した時は、良き理解者としてあなたのそばにいてくれる。
そしてそれは芸術と呼ばれる領域にも入り込みつつある。数秒で生み出される画像や音楽は、もはや娯楽の一形態として消費され始めている。SNSでは生成AIを使った漫画や動画が溢れている。しかし、現在のAIには独特の違和感があり、AIだとわかってコンテンツを楽しむ人たちが多いのが現状だろう。だが、こうした流れの中でAIが人間には区別できないような画像や動画を作るのは時間の問題である。そして、いずれ私たちはそれらの"虚像"をもはや異質な何かとしてではなく、日常の一部として当たり前に受け入れていくのであろう。"感情"を持たない存在が、私たちの感情を揺さぶる。現実の人間関係よりも心地よい刺激をAIが提供するようになり、その倒錯した光景が日常となった時、私たちはAIの生み出す感情体験に依存する。"奴隷"となるのだ。
思い返せば、数年前に生成AIが作った絵がコンテストで優勝したという記事を見た。「もうここまで来たのか。」その記事を閉じた後もしばらく画面を見つめていた。私たちの作り上げてきた芸術がいとも簡単に学習され、わずかな時間で再構成されていく。私は複雑な思いを抱かずにはいられない。AIの作った絵は技術的には素晴らしかったのかもしれない。だが、人間の心を動かすのは技術だけではない。その作品が生まれるまでに積み重ねられた時間や葛藤なのだと私は思っている。
「AIなんかに人間の感動するものは描けない。作り出せない。」
そんな気持ちが確かに私の中に存在している。
それと同時にそんな意地も、もはやまやかしで、この巨大な産業には抗えないという気持ちも顔を出しつつある。
ーーでは、私は。そしてあなたは。いずれAIの作り出したものに感情を握られるだろうか。その時、私たちはAIの奴隷として生きる道を選んでしまうのだろうか。