
夫の「なんでもいいよ」に、私は少しずつ疲れていった
「夕飯、何がいい?」
そう聞くと、
元夫はよく言った。
「なんでもいいよ」
「どっちでもいいよ」
たぶん、
本人に悪気はなかったのだと思う。
むしろ、
優しさのつもりだったのかもしれない。
「好きにしていいよ」
「任せるよ」
「君が決めていいよ」
そんな意味だったのかもしれない。
でも私は、
その言葉を聞くたびに、
少しずつ疲れていった。
なんでもいい。
どっちでもいい。
一見、やさしい言葉に見える。
でも、
毎日それを言われ続けると、
だんだんこう聞こえてくる。
「決めることも、考えることも、全部そっちでやって」
と。
夕飯のメニューだけの話ではない。
何を買うか。
どこに行くか。
子どものことをどうするか。
家のことをどうするか。
親戚付き合いをどうするか。
お金をどう使うか。
日々の小さな決断が、
暮らしの中には山ほどある。
ひとつひとつは、
たいしたことではない。
でも、
そのたびに、
「なんでもいいよ」
「どっちでもいいよ」
と言われると、
決める係が、
いつの間にか私になっていく。
最初は、
それを頼られているのだと思っていた。
私が決めたほうが早い。
私が考えたほうがうまくいく。
私が動いたほうが、
家の中が回る。
そう思っていた。
でも長い年月の中で、
それは少しずつ、
負担になっていった。
決める。
考える。
段取りする。
先回りする。
失敗しないようにする。
家族が困らないようにする。
それをずっと私がやっているうちに、
ふと思うようになった。
「この人は、私の人生に必要なんだろうか」
と。
もちろん、
元夫が何もしなかったわけではない。
悪い人だったと言いたいわけでもない。
ただ、
一緒に暮らしているのに、
人生のハンドルを私だけが握っているような感覚があった。
助手席に座って、
「どっちでもいいよ」
と言われ続けているような感覚。
こっちは道を選んで、
信号を見て、
ガソリンの残りを気にして、
子どもが酔わないかまで考えている。
なのに隣からは、
「任せるよ」
それが、
少しずつしんどくなった。
夫の「なんでもいい」は、
優しさだったのかもしれない。
でも私には、
だんだん“無関心”に近く感じられるようになった。
自分の意見を出さない。
決める責任を持たない。
こちらが決めたことに乗る。
それは一見、
穏やかな人に見える。
でも一緒に生活する側からすると、
決めない人の分まで、
こちらが背負うことになる。
そして不思議なことに、
決めている側だけが疲れていく。
子どもたちが小さいうちは、
まだよかった。
子どもの世話で忙しかったし、
夫婦のことを深く考える余裕もなかった。
毎日を回すことに必死だった。
ご飯を作る。
洗濯をする。
学校の予定を見る。
病院に連れていく。
忘れ物を確認する。
その中で、
夫のことまで深く考える時間はなかった。
でも子どもたちが大きくなって、
少しずつ手が離れてきた時、
私は気づいてしまった。
「子育てが終わっても、
この人の世話は続くんだ」
と。
その瞬間、
心の中で何かが静かに冷めた。
私は、
夫の母親になりたかったわけではない。
もちろん、
夫婦だから支え合うことはある。
助け合うこともある。
でも、
一方がずっと決めて、
一方がずっと任せる関係は、
支え合いではなかったのかもしれない。
私は、
一緒に考えてほしかった。
うまく決められなくてもいい。
正解を出してほしかったわけでもない。
ただ、
「俺はこう思う」
「こっちがいいんじゃない」
「今日はこれにしよう」
そんなふうに、
人生の小さな場面に、
参加してほしかった。
「なんでもいいよ」
この言葉に腹が立つのは、
夕飯のメニューを決めたくないからではない。
本当は、
一人で暮らしを背負っているような気がするから。
一人で考えて、
一人で決めて、
一人で責任を持っているような気がするから。
そしてそのうち、
こう思ってしまう。
「私が全部決めるなら、
夫婦でいる意味って何だろう」
と。
これは、
たぶん小さなことではなかった。
離婚を決めた理由は、
ひとつではない。
「なんでもいいよ」だけで、
離婚したわけではない。
でも、
あの言葉の積み重ねは、
確かに私の中に残っていた。
何かを決めるたびに、
私の心の中で、
少しずつ距離ができていった。
ケンカしたから離れたというより、
一緒にいる意味が、
少しずつ薄くなっていった。
そういう感じだった。
今なら思う。
「なんでもいい」は、
時には優しさになる。
相手を尊重する言葉にもなる。
でも、
いつもそればかりだと、
相手に決断の荷物を渡し続ける言葉にもなる。
夫婦に必要なのは、
必ずしも大きな愛情表現ではないのかもしれない。
毎日の中で、
一緒に考えること。
小さなことでも、
自分の意見を出すこと。
決める責任を、
どちらか一人に偏らせないこと。
そういう地味なことが、
関係を支えていたのだと思う。
今、
もし誰かの「なんでもいいよ」に、
なぜか疲れている人がいるなら。
それは、
あなたが細かいからではない。
わがままだからでもない。
たぶん、
ずっと決める側に回ってきた人の疲れなのだと思う。
夕飯のメニューだけじゃない。
暮らしのこと。
家族のこと。
未来のこと。
その全部を、
気づいたら自分が考えていた。
だから疲れた。
だから腹が立った。
だからある日、
「この人、必要かな」
と思ってしまった。
その気持ちは、
そんなに軽く扱わなくていい。
あの頃の私は、
もっと早く言えばよかったのかもしれない。
「なんでもいい、が一番困る」
「あなたの意見も聞きたい」
「一緒に決めてほしい」
そう言えたら、
何かが変わったのかもしれない。
変わらなかったかもしれない。
それは今でもわからない。
でも少なくとも、
私はもう、
自分の疲れを小さなことだとは思わない。
夫婦の終わりは、
大きな事件だけで来るわけじゃない。
「なんでもいいよ」
そんな何気ない言葉の後ろで、
ひとりだけが考え続けている時。
関係は、
少しずつ静かに傾いていくのかもしれません。
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