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我が家という場所でさえ、模範解答を探してしまう。

    「さっきおやつを食べちゃったから、あんまりお腹は空いていないんだけど、いけるよ。美味しいよ」

    リビングの食卓での、何気ないやり取り。

    ご飯を作ってもらって食べている子どもが、「美味しい?」と聞かれて、目の前の事実をストレートに言葉にした瞬間だった。

    子どもには、相手を罵る意図など1ミリもない。
    ただ、自分の内側から湧き出た現状を、そのまま嘘のない生の声として述べただけだ。子ども特有の、あの眩しいほどの無邪気さである。

    しかし、それを聞いた大人の顔は、一瞬で不快感に歪む。

    「せっかく作ってもらったのに、何でそんなこと言うの? 文句を言わないでよ。こっちだって頑張って作っているんだから」

    子どもの放った噓偽りのない純度100%の言葉は、大人の脳内で勝手に「文句」や「悪口」へと最悪な翻訳をされ、期待通りのリアクションをしなかったことへの怒りとして撃ち返される。

    家庭のなかに、一瞬にして冷たい空気が流れる。

    いまの一言、そんなに余計だったのだろうか。

    不思議でならない。子どもはただ、目の前の現状を通知しただけだ。
    相手を傷つける意図など微塵もない。 なのに大人は、まるで自分の存在そのものを全否定されたかのように、本気で「傷つき」、あるいは怒り出す。

    要するに彼らは、自分が注いだエネルギーに対して、100点満点の期待通りの反応という「見返り」を求めているのだと思う。

    自分がこれだけ頑張ったのだから、相手は一分の隙もない笑顔で大満足の模範解答を支払うべきだ、という傲慢。

    その一方的な「正しさ」に応じず、生の現状をただ差し出してきた子どもを、自分の「頑張り」を免罪符にしながら、悪者へと仕立て上げていく。

    *

    確かに、家族だからといって相手を傷つけるような罵詈雑言をぶつけていいわけがない。最低限の節度は必要だ。

    けれど、自分の内側にある本当の感覚を伝えることすら許されず、大人が求める「いつも100%大満足で感謝する模範解答」という嘘の衣で言葉を塗り固めなければならないのだとしたら、そこは一体誰のための場所なのだろうか。

    家の中でも本音が言えない。

    確かに、大人が期待している通りの言葉だけを選んで発していれば、波風を立てず、穏便な毎日を送れるのだろう。

    だけど、ただの現状を伝えることでさえも相手が不快になるのだとしたら、子どもは一体どこまで気を使えばいいのだろうか。
    なぜ、一番安全であるはずの我が家で、大人の顔色を伺いながら毎日を送らなければならないのだろう。

    一番安心できるはずの家が、相手の機嫌を損ねないための正解を探し続ける、最も居心地の悪い場所になっていく。

    *

    他人が自分の思い通りに動かないとき、あからさまに不快感を露わにしたり、怒り狂ったりする人がいる。

    自分の持っている道徳や常識、価値観が「当たり前」だと信じて疑わないタイプの人たちだ。

    面白いのは、そういった人たちも、全くの第三者が自分の期待と違う行動をとったときには、「何でこの人はこんなことをするんだろう」と疑問や不満は持つけれど、「まあ、世の中には色んな人がいるからな」と比較的あっさりとスルーできるという点だ。
    心の中の境界線が、相手を「他人」として正しく認識している。

    ところが、その対象がパートナーや子どもといった「近い関係」になった瞬間、彼らの脳内は致命的なエラーを起こし始める。

    距離が近くなった途端に、「近い関係であっても、相手は100%独立した他人である」という大前提が消去されてしまうのだろう。

    そして、相手を「自分の一部」か「自分の都合のいい付属品」であるかのように錯覚し、自分の正解から相手が1ミリでも外れることを許さなくなる。

    近い関係への甘えなのか。
    それは甘えという生易しいものではなく、相手の尊厳に対する一番不躾な侵入だと思っている。

    *

    なぜ大人は、身内になった瞬間にこれほど傲慢になれるのだろうか。

    それは、目の前の相手を一人の独立した人間としてリスペクトする知性を放棄し、自分の自尊心を満たすための所有物として扱っているからに他ならないように思う。

    「同じ屋根の下にいるのだから、同じ当たり前を共有しているはずだ」という思い込みは、裏を返せば、相手の「自分とは違う個別の宇宙」を完全に無視している証左だ。

    自分と同じ色に染まることを強要し、グラデーションのあるアナログな生の声を、都合よく間引いた、あまりにも解像度の粗い言葉へと強引に書き換えようとする。

    自分の頑張りを、期待通りの相手の言葉でもらうことで、ようやく自分が評価されている気持ちになっているのかもしれない。
    自分で自分を認めることができないから、一番身近な存在を自分の価値を測るメーターにしてしまうのだ。どこまでも、悲しいほどの「他人軸」を生きているように思う。

    「〜すべきじゃない」
    「〜すべきだ」

    その人の頭の中には、いつでも膨大な「正しさ」が並んでいる。
    けれど、身勝手な「正しさ」を一方的に押しつけられる周りは、ただただ疲弊していくだけだ。
    大人の顔色を伺い、その見えない檻を自分の内側に引き入れて、自分の生の声を押し殺していく子どもたち。

    カンニングを重ねるたびに、あの眩しいほどの無邪気さが、少しずつ、だけど確実に削り取られていく。
    その正しく行儀よくなっていく後ろ姿を傍で見つめながら、途方もない無力感に襲われる。

    なぜなら、それを他人に強要するその人の頑なな「正しさ」もまた、外から無理やり書き換えることなんてできないからだ。

    「愛」という美しいラベリングを施して、自分の期待を一方的に押し売りする。 しかし、そんな見返りを前提とした思いは、愛でもなんでもないと思う。

    ただのコントロール欲だ。

    *

    どれほど距離が近づこうとも、相手は「自分とは全く違う、100%別の宇宙で生きている他人である」という冷徹な事実を受け入れることだと思う。

    冷徹、と書いた。けれどそれは、この世界で最も優しい真理でもある。

    例え我が子であろうと、相手を他人だと正しく絶望しているからこそ、思ったことをストレートに口にしてくれたときに「へえ、君の宇宙では今、そういう風に見えているんだね」と、ありのままを受け入れることができる。

    自分の価値観という舗装された道へ無理やり引きずり込もうとする下心を、完全にゼロにできるのだ。

    正解の笑顔なんて用意しなくていい。
    ただ自分の内側から湧き出た生の声で笑う、あの眩しいほどの無邪気さを、ずっといつまでも見続けたい。

    愛することとは、ベタベタと境界線を侵食し合うことでは決してない。

    最も近い他人を、他人として完全に放っておき、その野生の熱量をありのまま愛おしむことだと思う。


     
     

    福朗

     
     
    本屋のような実験場。 「当たり前」を疑い、「考えること」を考える。日常の違和感から社会の深層まで。 多様なテーマを扱っているため、ジャンル別にマガジン(棚)へ整理しています。 気になる棚から自由にお立ち寄りください。

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