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白いヴェールは被らない

    あらすじ

    敗戦したアレイア城領は、オルディス公国の保護下に入る条件として、城主家の未契の祈名をひとつ、公国の主鐘へ降すことを求められる。選ばれたのは、祈名帳と墓碑を守ってきた城主の次女リディアだった。白いヴェールは彼女の顔と声を覆い、祈名を勝者の鐘へ運ぶために用意される。父は城を残すため、姉は民を生かすため、その条件を拒めない。祈りは届いても命は救えないと知ったリディアは、それでも名の帰る場所だけは奪わせまいと、自分の祈名の行き先を自ら選ぶ。



    名前は、誰のものなのか。

    祈りが届いても、命は救えない。

    それでも、祈りの帰る場所だけは、誰かに決めさせてはならない。

    これは、白いヴェールを被らなかった娘の物語。





    序章 祈名のない墓


     公都の鐘院で、ノアが最初に教わったのは、鐘の鳴らし方ではなかった。
     墓標の読み方だった。
     人は死ぬと、三つの名を石に残す。
     呼び名。
     家名。
     そして、祈名。
     呼び名は、生きているあいだ人に呼ばれる名だった。家名は、その者がどこに結ばれて生きたかを示す名だった。そして祈名は、祈りが帰る先を示す名だった。
     祈名を誤れば、祈りは帰る場所を失う。
     死者は二度目に迷う。
     そう教えられた時、ノアはまだ十二歳で、墓標の前に立つ自分の手が震えたことを覚えている。鐘を鳴らすことより、石に刻まれた一文字を読むことの方が重いのだと、その時はじめて知った。
     それから八年が経った。
     ノアは今、アレイア城領の古い墓地に立っていた。
     公都から馬車で三日、さらに山道を半日。かつては国境の小城として名を持ち、今はオルディス公国の保護下にある古い土地だった。研修という名目だったが、実際には公国名簿院の若い鐘守り見習いを、古い祈名帳の照合に慣れさせるための旅だった。
     袖口には、公国鐘院の銀糸が縫い込まれている。
     それは誇りの印であると教えられてきた。けれど、この墓地へ入ってから、ノアはその銀糸が少し重く感じられていた。
     ここは、かつて公国が祈名を集めようとした土地だった。
     墓地は荒れていなかった。
     石畳の墓道は苔に覆われていたが、歩けないほどではない。白い花がいくつか供えられ、古い墓標の文字には丁寧に土が払われている。新しい墓と古い墓が混じり合い、そのあいだを細い風が抜けていった。
    「ここから先は、声を落としなさい」
     案内役の老鐘守りが言った。
     名は、大声で読むものではない。
     老鐘守りの名はラウルといった。背は曲がり、白い眉の下の目は細かったが、歩く足は確かだった。公国式の鐘守り衣ではなく、アレイア式の黒い外套を着ている。外套の端には、鐘ではなく井戸と橋と門をかたどった古い刺繍があった。
     ノアは頷き、墓標を一つずつ読んでいった。
     呼び名。家名。祈名。
     古い綴りもあった。今では公国式に置き換えられた音もあった。けれど、ラウルは急がせなかった。ノアが一文字ずつ確かめるのを待ち、時折、発音だけを静かに直した。
     墓地の奥に、少し高くなった区画があった。
     城主家の墓だと、歩きながらラウルが言った。
     石は白く、苔は少ない。誰かが今朝も拭いたのだろう。古い花が取り替えられたばかりで、まだ水の匂いがした。
     ノアは最初の墓標を読んだ。
     ミレイア・アレイア。
     城主アルヴァンの妻。
     その下に祈名が刻まれている。
     文字は柔らかく、丸みを帯びていた。ノアはそれを公国式に読み替えかけて、すぐに口を閉じた。隣にいるラウルが、何も言わずにこちらを見ていたからだ。
     ノアはもう一度、アレイア式の音で読み直した。
     ラウルは小さく頷いた。
     次の墓標へ目を移す。
     そこで、ノアは息を止めた。
     墓標には、こう刻まれていた。
     リディア・アレイア。
     城主の二番目の娘。
     白いヴェールを被らなかった者。
     それだけだった。
     祈名がない。
     欠けているのではないかと思い、ノアは墓標の下部を確かめた。削られた跡も、後から埋められた跡もない。最初からそこには何も刻まれていなかった。空白は、傷ではなく、意図のように見えた。
    「祈名が、ありません」
     ノアは思わず言った。
     ラウルは、墓標の前に膝をつき、供えられた白い花の位置を整えた。
    「そうだ」
    「失われたのですか」
    「いいや」
     老鐘守りは首を振った。
    「失われてはいない」
     ノアは墓標を見つめた。
     リディア・アレイア。
     その名は、公都の教本にもあった。
     白いヴェールの拒絶者。
     敗戦後のアレイア城領において、降契を乱した城主家の娘。公国の主鐘へ降るはずだった祈名を拒み、古い身代名契を用いた人物。
     教本では、そう書かれていた。
    「白いヴェールの拒絶者……」
     ノアが呟くと、ラウルはゆっくりと顔を上げた。
    「ここでは、リディア様だ」
     声は荒くなかった。
     けれど、訂正ははっきりしていた。
     ノアは頬が熱くなるのを感じ、頭を下げた。
    「申し訳ありません」
    「覚えておけばよい」
     ラウルは立ち上がった。
     風が墓地を抜け、白い花が小さく揺れる。
    「この墓には祈名がない。だが、リディア様の祈名がないわけではない」
    「では、どこに」
     ノアは尋ねた。
     ラウルは答えず、墓地の向こうに見える古い城壁を見た。
     朝の光を受けた石壁は、遠目には白く見えた。ところどころ崩れ、修復の跡があり、古い門の上には公国の旗が小さく掲げられている。それでも、城壁はまだそこに立っていた。
    「その話は」
     ラウルは言った。
    「この墓の前で始めるものではない」
     ノアはもう一度、墓標を見た。
     リディア・アレイア。
     城主の二番目の娘。
     白いヴェールを被らなかった者。
     祈名のない墓。
     けれど、失われてはいない名。
     ラウルは杖をつき、ゆっくりと墓道を戻り始めた。
    「来なさい。まずは、城の方から話そう」
     ノアは袖口の銀糸を握りしめ、老鐘守りの後に続いた。

    第一章 白いヴェール


     城の鐘は、沈黙していた。
     それは戦に敗れたからではなかった。
     鳴らすことを、禁じられたからだった。
     礼拝堂の扉の前には、見慣れない兵が立っている。鎧の形も、槍の先も、アレイアのものではない。彼らは礼拝堂の中へ入ろうとはしなかった。ただ扉の左右に立ち、誰が入るか、誰が出るかを見ていた。
     祈る場所に、見張りが置かれている。
     それだけで、リディアには城が別のものになってしまったように思えた。
     石畳の上には、昨夜の雨がまだ残っていた。灰色の空は低く、城壁の向こうからは、オルディス公国の旗が見える。黒灰色の布に、主鐘と月桂、名を結ぶ輪。
     その旗は、風に荒々しく翻るのではなく、ただ静かに揺れていた。
     静かな敵だった。
     静かに来て、静かに勝ち、静かに名を数える敵だった。
    「リディア」
     背後から声がした。
     振り返ると、姉のセレナが立っていた。
     かつてセレナは、リディアの髪を結ってくれる人だった。
     母の葬儀の日、黒いヴェールを怖がって泣きそうになったリディアの手を、誰より先に握ってくれたのも姉だった。あの時のセレナの手は温かく、リディアはその手だけを頼りに、母の棺の前に立っていた。
     けれど今のセレナの手は、書面を押さえ、封蝋を割り、兵に命じるための手になっていた。
     仲が悪くなったわけではない。
     ただ、姉は城の方へ進み、リディアは鐘の方へ残った。
     その距離を、いつから二人とも測らなくなったのか、リディアにはもう分からなかった。
     紺の上着に、銀糸の細い肩章。髪はいつものようにきっちりと結われ、乱れがない。夜通し評議に出ていたはずなのに、崩れているのは目の下の影だけだった。
     セレナは、崩れる場所を自分で決めている人だった。
    「父上がお呼びです」
     姉は言った。
    「評議の間へ」
     リディアは礼拝堂の扉を見た。
     兵の目がこちらを追っている。
    「祈名帳は」
    「オルガが見ています」
    「負傷者は」
    「東回廊へ移しました。礼拝堂は、もう負傷者の場所ではありません」
     もう。
     その言葉が、リディアの胸に小さく刺さった。
     礼拝堂は何度も場所を変えた。祈る場所になり、名を授ける場所になり、傷口を縫う場所になり、死者の名を確かめる場所になった。
     そして今は、見張られる場所になっている。
    「リディア」
     セレナの声が少し低くなった。
    「行きましょう」
     評議の間へ向かう廊下は、いつもより長く感じられた。
     壁に掛けられた古い旗は下ろされている。代わりに、無地の布がかけられていた。まだ公国の旗ではない。けれど、アレイアの旗でもなかった。
     曖昧な布。
     まだ何者でもないように見えて、すでに何かを失った布。
     リディアは自分の足音を聞いた。
     いつもの柔らかい靴は、石の床にほとんど音を立てない。昔から、礼拝堂へ入る時はそうしてきた。祈名帳の前に立つ者は、自分を大きく見せてはならない。名の前では、静かでなければならない。
     そう信じていた。
     評議の間の扉の前で、セレナは一度だけ足を止めた。
    「姉上」
     リディアは言った。
     セレナは振り返らなかった。
    「何があるのですか」
     沈黙があった。
     短い沈黙だった。
     けれどその中で、リディアは答えを半分知ってしまった。
    「父上から聞いてください」
     セレナはそう言って、扉を開けた。
     評議の間には、父アルヴァンがいた。
     城主の椅子に座っている。けれど、その椅子はいつもより大きく見えた。父の肩は広いはずだった。声も、手も、城壁のように大きい人だった。
     今は、椅子に体を預けているように見えた。
     右腕には包帯が巻かれている。血は止まっているようだったが、布の端は薄く赤かった。
     父の前には、灰色がかった書面が広げられている。
     その隣に、見知らぬ男が立っていた。
     黒灰色の外套。胸には公国の主鐘をかたどった銀の徽章。剣は佩いていない。淡い茶色の髪と、整えられた髭。彼はリディアを見ると、深く頭を下げた。
    「リディア・アレイア様」
     声は柔らかかった。
    「オルディス公国契官、エリアス・ヴォルンと申します」
     リディアは礼を返した。
     礼を返しながら、この人は奪いに来たのだと思った。
     荒々しく奪うのではない。
     正しく、礼儀正しく、祈名の重さを理解した上で奪いに来る人なのだと。
     父の前の銀の盆に、白い布が載っていた。
     リディアはそれから目を離せなかった。
     婚礼の布のように白い。けれど、婚礼のものではない。葬送の布ほど暗くはない。けれど、葬送のものにも似ている。
     どちらにも似ていて、どちらでもない。
    「降契の布です」
     エリアスが言った。
     説明は静かだった。
    「降契の間、差し出される者の顔を覆い、声を閉じ、祈名が勝者の鐘へ降るまで、その者を沈黙させるものです」
     リディアは白い布を見ていた。
     まだ触れてもいないのに、喉が狭くなる。
    「城門は、朝に開く」
     父が言った。
     その声には、疲れがあった。けれど、決定を告げる時の硬さもあった。
    「公国との条件はまとまった。城下民は保護下に入る。墓地は荒らされない。礼拝堂も、鐘も、祈名帳も焼かれない」
     焼かれない。
     荒らされない。
     奪わないとは、誰も言わない。
    「祈名帳は接収されるのですか」
     リディアは尋ねた。
    「接収ではありません」
     エリアスが答えた。
    「照合です。あなた方の祈名帳は貴重な記録です。公国名簿院は、それを保護します」
    「保護」
     リディアは繰り返した。
    「今まで、誰の許しもなく守ってきたものを、今からあなた方が守るのですか」
     セレナがわずかに目を動かした。
     父は何も言わなかった。
    「祈名は、より大きな鐘の下で守られるべきです」
     エリアスは言った。
     怒らなかった。声を荒げなかった。
    「小さな土地に分かれていれば、戦のたびに失われる。名簿院と主鐘は、それを防ぐためにあります」
    「祈りは、大きな鐘に帰るものではありません」
     リディアは言った。
    「その人へ帰るものです」
    「だからこそ、あなたの祈名が必要なのです」
     部屋の空気が、白い布の上へ落ちた。
     リディアは父を見た。
     父は目を逸らさなかった。
    「旧城主家の血で、成人の鐘を受け、なお大きな名契に結ばれていない祈名」
     エリアスが言った。
    「降契の支柱として必要です」
     リディアは理解した。
     父は敗主。姉は継嗣契を持つ。分家の名では土地へ届かない。死者の名では生きた契りにならない。
     条件に合うのは、リディアだけだった。
    「私は、いつから布だったのですか」
     声は思ったよりも静かに出た。
     父の顔が動いた。
    「リディア」
    「私の顔を覆い、声を閉じ、名前だけを運ぶ。それなら、私である必要はありません。布で足りるはずです」
    「民が生きる」
     父は言った。
    「お前ひとりの祈名で、城下の名が残る」
     その言葉は間違っていなかった。
     だから、逃げ場がなかった。
     セレナは何も言わない。
     父は城を残すためにそこにいる。姉は民を生かすためにそこにいる。エリアスは名を守ると言っている。
     誰も間違っていない。
     ならば、どこで息をすればいいのだろう。
     リディアは白いヴェールを見た。
     あれを被れば、城門は開かれる。墓地は荒らされない。祈名帳は焼かれない。ニアのような子どもたちは、明日も呼び名で呼ばれる。
     そのために、自分の声を閉じる。
     そのために、自分の祈名を自分より先に運ばせる。
    「朝までに支度を」
     エリアスが言った。
    「儀は、城門開放の前に行います」
     父は目を閉じた。
     セレナは白いヴェールを見ていなかった。見ていないのに、その布の重さを知っているような顔をしていた。
     リディアは一礼した。
     誰に向けての礼だったのか、自分でも分からなかった。
     部屋を出る時、白いヴェールは銀の盆の上にあった。
     置かれたままなのに、すでにリディアの顔へ近づいているようだった。
     朝になれば、あれは私の顔を覆う。
     私の声を閉じる。
     私の祈名を、私より先に運んでいく。
     そう思うと、まだ被ってもいないのに、息ができなかった。

    第二章 祈るだけの娘


     まだ、城の鐘が沈黙を命じられる前のことだ。
     北の街道に公国の軍旗が見えるより前、礼拝堂の扉に兵が立つより前、白いヴェールがリディアの名と並べて語られるより前。
     アレイア城の朝は、静かに始まった。
     リディアは鏡の前に長く立たない。
     頬に粉をのせることも、唇に色を差すこともほとんどなかった。侍女が小さな紅の箱を差し出しても、リディアはいつも首を振る。
    「鐘の下に立つだけですから」
     そう言うと、侍女は困ったように笑った。
     衣装箱の下には、母の形見の黒い礼靴がある。踵の硬い靴だった。祭礼や評議の場で履くものだと聞かされていたが、リディアはほとんど履かなかった。
     礼拝堂では音が響く。
     名の前で、自分の足音を大きくしたくなかった。
     だからリディアは、その日もいつもの柔らかい靴を選んだ。歩いてもほとんど音のしない靴。
     この頃のリディアはまだ、自分の足音が誰かを振り向かせる日が来るとは思っていなかった。
     礼拝堂には、朝の光が差し込んでいた。
     色硝子を通った光は床の上で淡くほどけ、祭壇の銀器に小さな明かりを作っている。鐘は高い天井の奥に吊られ、まだ鳴っていない。それでもそこにあるだけで、礼拝堂の空気は少し低くなる。
     オルガは祈名帳の前にいた。
     年老いた祈名帳守りで、白い髪をきっちりとまとめ、黒い衣を身につけている。彼女の指は細く、節が目立つ。けれど祈名帳をめくる時だけは、若い娘の手より確かだった。
    「おはようございます、リディア様」
    「おはようございます、オルガ」
     祈名帳は重い。
     革の表紙は何度も修復され、角は丸くなっている。紙は時代ごとに違い、古い頁は薄く、新しい頁はまだ張りがある。そこには生まれた者、死んだ者、嫁いだ者、戻った者、戻らなかった者の名がある。
     祈名欄は、軽々しく書き足されない。
     名前を書くのではない。
     帰る場所を結ぶのだ。
    「今日は墓碑の確認からです」
     オルガが言った。
    「昨日、石工から写しが届いています」
     墓地へ向かう道には、白い小さな花が咲いていた。風は穏やかで、城壁の外からは朝市の声がかすかに聞こえる。戦の気配はまだ遠く、誰もがそれを遠いものだと思おうとしていた。
     新しい墓碑の前で、石工の若い男が帽子を握って待っていた。
    「こちらです、姫様」
     墓標には、トマ・レイスの名が刻まれている。
     呼び名。家名。
     そして祈名。
     リディアはそこで目を止めた。
    「違います」
     石工の顔が強張る。
    「一文字だけです、姫様」
     彼は慌てて言った。
    「公国式の写しでは、こちらの綴りでも通ると聞きました。エリオルも、エリオンも、ほとんど同じ音で」
    「ここは公国の名簿院ではありません」
     リディアは言った。
    「エリオルです。エリオンではありません」
    「けれど、一文字だけなら」
    「近い名に、祈りは帰りません」
     石工は黙った。
     リディアは墓碑に手を触れた。まだ新しい石は、朝の冷たさを持っている。
    「つもりで名は守れません」
     オルガがそっと頷いた。
    「足りないくらいです」
     石工は深く頭を下げた。
    「刻み直します」
     墓地を出る時、オルガが言った。
    「最近、増えています。公国式の綴り」
    「なぜ」
    「読みやすいから。照合しやすいから。名簿に入れやすいから。どれも、便利な理由です」
     オルガは墓道の先を見た。
    「名を変える時は、たいてい便利そうな顔をして来るのです」
     その日の午前には、赤子の祈名授与があった。
     母親は疲れた顔をしていたが、腕の中の子を見下ろす目は柔らかかった。父親は緊張しすぎて、何度も帽子を持ち替えている。祖母らしい女性は、古い家の祈名を小さく何度も口の中で確かめていた。
     祈名は、家族の古い音から結ばれる。
     けれど、古いから良いのではない。強いから良いのでもない。その子に祈りが帰る場所として、迷わず結べる音でなければならない。
     オルガが祈名帳を開き、リディアは赤子の額に手を添えた。
     小さな温かさ。
     まだ自分の名を知らない命。
     リディアは呼び名を読み、家名を読み、最後に祈名を授けた。
     鐘が一度鳴った。
     大きくはない。
     けれど、礼拝堂の空気が少し震えた。
     誰かが世界に来て、帰る場所が世界に一つ増えた。
     午後になると、子どもたちが礼拝堂の脇に集まってきた。
     その中で一番よく喋るのが、栗色の髪を二つに結んだニアだった。彼女はいつも、兄のユリスの袖を引いている。ユリスは少し背が高く、鐘楼の方ばかり見ている少年だった。
    「リディア様、鐘返しの祈りを読んで」
     ニアが言った。
    「またですか」
    「だって好きなの」
     ユリスは少し照れた顔をした。
    「僕も、嫌いじゃないです」
     リディアは本棚から古い子ども向けの本を取った。
     鐘返しの祈り。
     母を亡くした娘の話だった。
     娘は母の祈名をうまく唱えられず、毎日墓へ行く。泣いて、謝って、何度も呼ぶ。それでも祈りは迷い、鐘は鳴らない。
     ある日、鐘守りが娘に言う。
     急がなくてよい。
     祈りは速く走るものではない。
     正しい名を、正しい場所へ帰すものだ。
     娘は母の呼び名を呼び、家名を呼び、最後に祈名を正しく唱える。
     その時、村の鐘が一度鳴る。
     母は戻らない。
     命は鐘では帰らない。
     けれど鐘は、祈りが迷わず帰ったことを知らせる。
     母がいないことを忘れるためではなく、母がいたことを間違えないために。
     読み終えると、ニアは目を輝かせた。
    「やっぱり返事だよ」
     ユリスは少し考えてから言った。
    「戻ってくる返事じゃない。届いたっていう返事なんだ」
     リディアはその言葉に微笑んだ。
    「そうですね」
     ニアは首を傾げた。
    「祈名をなくしたら、もう誰にも祈ってもらえないの?」
     リディアはすぐに答えられなかった。
     子どもの問いは、時々、大人が隠している一番深い場所へまっすぐ届く。
    「だから、なくさないように守る人がいます」
     ようやくそう言うと、ニアは安心したように頷いた。
    「リディア様みたいな人?」
    「私だけではありません。オルガも、鐘守りたちも、家族も、石工も。名を正しく呼ぼうとする人は、皆そうです」
     ユリスは鐘楼を見上げた。
    「僕、いつか鐘の掃除を手伝いたいです」
    「高いですよ」
    「高い方が、よく聞こえそうです」
     リディアは笑った。
     子どもたちは次に、城壁の姫さまを読んでほしいと言った。
     古い城に伝わる話だった。戦が来て、鐘が黙り、門が破られそうになった時、ひとりの姫が城を守る。子ども向けの本では、姫は眠るだけで済む。城は守られ、人々は助かり、鐘はまた鳴る。
    「今日はここまでです」
     リディアは本を閉じた。
    「ええ、続き」
    「長いお話です。続きはまた今度」
     子どもたちは不満そうにしながらも、やがて外へ駆けていった。
     城壁の姫さま。
     古い城に伝わる、よくある話だった。
     けれど本当は、そんなに都合のいい話ではなかったはずだ。
     童話は、ときどき真実の怖いところを隠す。
     嘘をつくためではない。
     子どもの手に、そのまま渡すには重すぎるからだ。
     夕方、リディアは祈名帳を閉じた。
     今日授けられた二つの祈名と、刻み直される一つの祈名を頭の中でなぞる。
     一音も欠けないように。
     一音も混ざらないように。
     リディアは祈るだけの娘だった。
     礼拝堂を出る時、靴音はほとんどしない。
     祈りのそばにいる者は、静かでなければならない。
     名の前に立つ者は、自分を大きく見せてはならない。
     リディアはそう信じていた。
     この朝までは。

    第三章 祈りでは救えない


     戦は、火より先に、名前を連れてきた。
     最初に増えたのは、負傷者ではなかった。
     帳面だった。
     避難してきた者の名。はぐれた子どもの名。戻らない父の名。南の村から運ばれた母の名。門番が最後に見た兵の名。
     呼び名だけを書いた紙が、礼拝堂の机に積まれていく。
     リディアはそれを一枚ずつ確かめた。
     祈名はすぐには書かなかった。
     祈名を告げることは、その人が戻らないかもしれないと認めることに近かった。だからまず、呼び名を拾う。家名を聞く。誰の子か、誰の夫か、どの井戸の近くに住んでいたか、どの橋を渡ってきたかを確かめる。
     名は、ひとりで立っているものではない。
     名は、誰かの声の中にある。
    「リディア様」
     ユリスが本当に鐘掃除を手伝いに来たのは、そんな日だった。
     ニアも一緒だった。
    「危ないことはしません」
     ユリスは真剣な顔で言った。
    「下の金具だけです。手が届くところだけ」
     リディアはオルガを見た。
     オルガは少し考え、やがて布と小さな桶を渡した。
    「鐘に近づきすぎないこと。足場へは上らないこと」
    「はい」
     ユリスは嬉しそうに頷いた。
     鐘は高い天井の奥にある。ユリスが拭いたのは、鐘綱の下の金具や、柱に取り付けられた古い飾りだった。それでも彼は、まるで鐘そのものに触れているかのように慎重だった。
    「思っていたより、大きいです」
    「鐘がですか」
    「はい。でも、好きです」
     ユリスは布を絞りながら言った。
    「戻ってくる返事じゃなくて、届いたっていう返事」
     リディアは少しだけ微笑んだ。
     その日の礼拝堂には、まだ日常の名残があった。
     けれど、日常は長く続かなかった。
     北の街道に公国軍が現れたという報せが入り、城壁の上の兵が増えた。礼拝堂へ来る者の声は小さくなり、祈りの言葉より、誰がどこにいるかを尋ねる声の方が増えた。
     やがて礼拝堂は、負傷者のために開かれた。
    「ここは名を守る場所でしょう」
     セレナはオルガにそう言った。
    「生きている名も守ってください」
     それから礼拝堂は、傷口を縫う場所になった。
     長椅子は壁際へ寄せられ、床には布が敷かれた。水桶が並び、包帯が足りなくなり、燭台の下には血のついた布が積まれていった。
     リディアは水を運び、名前を聞き、間違えないように紙へ書いた。
     痛みで叫ぶ者の呼び名。意識を失いかけた者の家名。最後まで言えなかった者の祈名。
     ユリスも水桶を運んだ。
     小さな体で、両手いっぱいに桶を抱えていた。ニアは包帯用の布を畳みながら、兄を目で追っている。
    「無理をしてはいけません」
     リディアが言うと、ユリスは頷いた。
    「鐘の下、まだ汚れていますから」
     そんなことを言って、少し笑った。
     北門で大きな音がしたのは、その直後だった。
     地面が揺れた。
     礼拝堂の色硝子が震え、誰かが悲鳴を上げる。遠くで石が崩れる音、木が裂ける音、馬のいななき、兵の怒号。
     北門の一部が弾けたのだと、後で聞いた。
     破片が飛び、水を運んでいた者たちを巻き込んだ。
     ユリスが運び込まれてきた時、リディアは最初、それがユリスだと分からなかった。
     血と土で顔が汚れ、髪に石粉がついている。片方の手はまだ水桶の取っ手を握ろうとしているように曲がっていた。
    「兄さま」
     ニアの声が、礼拝堂の中を裂いた。
     ユリスは目を開けた。
    「鐘……掃除、まだ」
     リディアは膝をついた。
    「十分です」
     声が震えないように、息を吸った。
    「とてもきれいになりました」
     医師が傷を見た。
     すぐに顔を伏せた。
     それだけで、誰もが分かった。
     ニアだけが分からなかった。
    「助けて」
     彼女はリディアの袖を掴んだ。
    「リディア様、助けて」
     誰も答えられなかった。
     ニアは泣きながら言った。
    「祈って」
     リディアは息を止めた。
    「兄さまに、祈って」
     弔いの祈りではない。
     呼び戻す祈りでもない。
     何なのか、自分でも分からなかった。
     ただ、ユリスの名を血と叫び声の中に落としてはいけないと思った。
     リディアはユリスの手を両手で包んだ。
     右手の親指を手首の内側に添える。かすかな脈があった。今にも消えそうな、小さな拍。
     左手を自分の胸元へ戻す。
     祈名を読む時、鐘守りはまず呼吸を整える。
     死者のためではない。
     名を震える声で乱さないためだ。
     リディアはユリスの額に触れた。血で濡れていない場所を探し、そこへ指を置く。
     祭壇脇で、オルガが小さな銀鈴を一度鳴らした。
     祈りの始まり。
     名を呼ぶ時は、三度呼ぶ。
     呼び名で、この世にいる者を。
     家名で、その者が結ばれてきた場所を。
     祈名で、祈りの帰る先を。
    「ユリス」
     リディアは呼んだ。
     礼拝堂の者たちが息をひそめる。
     次に、家名を呼んだ。
     そして最後に、祈名を呼ぶ。
     声に出す前に、唇の内側で一度形にした。一音も欠けていない。一音も別の名と混ざっていない。
     リディアは、ユリスの祈名を呼んだ。
     低く、祈りの言葉を唱える。
     鐘が一度鳴った。
     誰が鳴らしたのかは分からなかった。
     あるいは、誰も鳴らしていなかったのかもしれない。
     けれど鐘は鳴った。
     ユリスの指が、ほんの少し動いた。
     彼はリディアを見た。
     目の焦点はもう合っていなかった。
     それでも、彼は笑ったように見えた。
    「届いた」
     次の息は来なかった。
     ニアが泣いた。
     兄の呼び名を何度も呼んだ。
     鐘は鳴った。
     祈りは届いた。
     祈名は間違えなかった。
     それでも、ユリスは戻らなかった。
     鐘の音は破片を抜かず、血を戻さず、息を動かさない。
     リディアは、その時初めて、鐘返しの祈りを憎みそうになった。
     けれど、ユリスの名は血の中に落ちなかった。
     叫び声の中でほどけなかった。
     彼の名は、彼のまま、鐘の音の中へ帰った。
     そのことだけが、リディアの手に残った。
     オルガが白い布を持って近づいた。
     ユリスの顔を隠そうとしたのだろう。
     ニアが首を振った。
    「いや」
     オルガは一度止まり、それから布をユリスの肩にだけかけた。
     顔は隠さなかった。
     夜になる前、公国から矢文が届いた。
     礼拝堂と墓地、祈名帳を戦火から保護する。
     鐘と名簿に関わる建物は接収後、名簿院管理とする。
     祈名の損耗を避けるため、無用な焼却を禁ずる。
     その文を読んで、城の者たちは安堵した。
     礼拝堂が焼かれない。
     墓地が守られる。
     祈名帳が残る。
     安堵して当然だった。
     けれどリディアは、安堵できなかった。
     彼らは壊したくないのだ。
     鐘も、墓も、祈名帳も。
     焼き払うには価値がありすぎるから。
     ユリスの祈名を帳に記す時、リディアの指は震えた。
     それでも、間違えなかった。
     鐘はもう鳴らさなかった。
     鳴らせばニアがまた顔を上げ、ユリスが戻ると思ってしまう気がしたからだ。
     祈りは届く。
     けれど、救えない。
     そのことを、リディアはその日、初めて本当の意味で知った。

    第四章 降契


     北門は落ちた。
     けれど、火は入らなかった。
     セレナはその報せを、地図の上で聞いた。
     北門の位置に置かれていた黒い石が、書記の手で横へ倒される。小さな音だった。けれど、その音で部屋の中にいた者たちは皆、息を止めた。
     門が落ちた音は、もっと大きかったはずだ。
     石が割れ、鉄が歪み、人が叫び、馬が狂い、木が裂ける音だったはずだ。
     けれど評議室に届いたのは、机の上の石が倒れる音だけだった。
    「火は」
     セレナは尋ねた。
    「入っておりません」
     伝令の兵が答えた。声は掠れていた。
    「公国軍は北門内で停止。こちらの負傷者を回収する猶予を与えると」
     誰かが、小さく息を吐いた。
     安堵の息だった。
     セレナは安堵しなかった。
    「略奪は」
    「確認されておりません」
    「墓地は」
    「兵を入れていません」
    「礼拝堂は」
    「攻撃対象から外す、と」
     また、誰かが息を吐いた。
     セレナはその息を聞きながら、地図の上に手を置いた。
     北門から内庭までの距離。礼拝堂までの距離。井戸までの距離。負傷者の収容先。残った兵の配置。南壁の損傷。食糧の残り。
     敵が火を入れないのは、慈悲ではない。
     使うつもりなのだ。
     城も、鐘も、墓地も、祈名帳も、焼かずに手に入れるつもりでいる。
    「東回廊の負傷者を礼拝堂へ戻してはいけません。礼拝堂は名簿と弔いの場に戻します。処置は東回廊と食堂を使って」
    「南壁の兵は」
    「半数を下げます。北門からの侵入に備えて、内側の門へ」
    「南壁を捨てるのですか」
    「南壁を守る兵を、北門から死なせるのですか」
     相手は黙った。
     セレナは次の書面に目を移す。
    「井戸は」
    「中央井戸は無事です。西井戸は濁りが」
    「中央井戸を兵用にしないで。子どもと負傷者を優先。兵には西井戸を濾して使わせます」
    「死者は」
     書記の声が一段低くなった。
     セレナは顔を上げなかった。
    「数を」
    「確認済みだけで三十七。未確認が十一。北門周辺はまだ」
    「名は」
    「祈名まで確認できた者は十九」
    「残りは仮札を。リディアとオルガに回してください」
     リディアの名を口にした瞬間、手元の紙が一枚だけずれた。
     セレナはすぐに押さえた。
     誰が死んだかではなく、何人死んだかを先に聞く。
     そのたびに、胸の奥で何かが冷えていく。けれど、そうしなければ次に何人を生かせるか決められなかった。
     リディアなら、まず名を聞くだろう。
     呼び名。
     家名。
     祈名。
     ひとりずつ、間違えないように。
     セレナは数を見る。リディアは名を見る。
     昔はそれほど遠いことだと思っていなかった。
     いつからだろう。
     妹のいる礼拝堂が、自分には遠い場所になったのは。
    「セレナ殿下」
     書記が小さく呼んだ。
     彼の手には、封蝋の押された書面があった。白い紙ではない。公国式の灰色がかった厚紙。封蝋には、主鐘と月桂、名を結ぶ輪が押されている。
     オルディス公国の印だった。
    「契官より、正式な降契条件です」
     部屋の空気が変わった。
     父アルヴァンは奥の椅子に座っていた。鎧は脱いでいない。右腕から血が滲んでいる。それでも背筋だけは真っ直ぐだった。
     城主として折れまいとしているのだと、セレナには分かった。
     けれど、折れまいとしている人間ほど、もう折れかけている。
    「読みなさい」
     父が言った。
     書記が封を切る。
     紙の擦れる音が、やけに大きく聞こえた。
    「アレイア城領は、オルディス公国の保護下に入るものとする。城門は朝に開く。武装兵は公国軍の指示に従い武装を解除する。城下民の住居、井戸、墓地、礼拝堂、鐘および祈名帳は、公国名簿院の管理下において保護される」
     保護。
     セレナはその言葉を胸の中で繰り返した。
     美しい言葉だった。
     美しい言葉は、たいてい刃を包むのに向いている。
     書記は続けた。
    「墓碑の破壊、祈名の削除、鐘の溶解を禁ずる。ただし、祈名帳は名簿院による照合を受けるものとする。今後授けられる祈名については、公国式記録法に則り写しを作成する」
     数人が顔を見合わせた。
     壊さない。
     消さない。
     ただ、写しを取る。
     その穏やかさが、セレナには恐ろしかった。
    「続けて」
     父が言った。
     書記は一度だけ喉を鳴らした。
    「降契の証として、旧城主家の血より、成人の鐘を受け、なお大きな名契に結ばれていない祈名を一つ、公国の主鐘へ降すこと」
     部屋は静まり返った。
     誰もすぐには意味を言わなかった。
     言わなければ、まだ確定しないような気がしたのかもしれない。
     けれどセレナは、読まれた瞬間に理解していた。
     成人の鐘を受けている。
     城主家の血を持つ。
     大きな名契に結ばれていない。
     条件に合う者は、一人しかいない。
     リディア。
     セレナの指が、書面の端を強く押さえた。
     爪が白くなる。
     それに気づき、彼女はすぐに手を戻した。
     遅かった。
     自分の手が震えかけたことを、父は見ただろうか。
    「契官を」
     父が言った。
     扉が開いた。
     入ってきたのは、黒灰色の外套をまとった男だった。剣は佩いていない。胸には公国の主鐘をかたどった銀の徽章。淡い茶色の髪、整えられた髭、乱れのない礼。
    「オルディス公国契官、エリアス・ヴォルンです」
     男は深く頭を下げた。
     戦勝国の使者にしては、声が柔らかすぎた。
     柔らかい声で、人はどれほど残酷なことを言えるのだろう。
    「条件は読んだ」
     父が言った。
    「はい」
    「これは降伏ではないのか」
    「降伏です」
     エリアスは静かに答えた。
    「ただし、焼け跡を受け取るための降伏ではありません。名を保つための降契です」
    「名を保つ」
     セレナが言った。
     エリアスの視線が彼女へ向く。
    「はい。小領に祈名を分散させたままでは、戦乱のたびに名が失われます。公国の名簿院と主鐘は、それを防ぐためにあります」
    「名を集めるため、ではなく?」
    「集めることと守ることが、常に別とは限りません」
     美しい答えだった。
     セレナはその美しさを憎みたくなった。
    「では、こちらから確認します」
     セレナは書面を手に取った。
    「旧城主家の血でなければならないのですね」
    「はい」
    「父では」
     エリアスは即答しなかった。
     慎重に、言葉を選んだ。
    「アルヴァン城主の祈名は、すでに敗主としてこの戦の責を負っています。敗主の祈名では、次の秩序を支える降契にはなりません」
     父の顔は動かなかった。
     だが、セレナは父の膝に置かれた左手が、ゆっくり握られるのを見た。
    「分家では」
    「土地へ届きません」
    「死者の祈名では」
    「降契は、生きた名契でなければ支柱になりません」
    「祈名帳の写しを差し出すことでは」
    「それは管理です。契りではありません」
     セレナは、書面の文字を見下ろした。
     問うたびに、道がひとつずつ閉じていく。
     扉が閉まる音はしない。
     ただ、紙の上の文字が重くなっていく。
    「では、私の祈名では」
     口にした瞬間、部屋の中の誰かが息を呑んだ。
     セレナはエリアスを見たまま動かなかった。
     父が低く言った。
    「セレナ」
    「私は成人の鐘を受けています。城主家の血も持つ」
    「あなたは、継嗣契をお持ちです」
     エリアスは穏やかに言った。
    「その祈名は、アレイア城領の次代に結ばれている。降契に用いるには、すでに重すぎる」
    「重すぎる」
    「はい」
    「私の名は、使えないほど重いのですか」
    「すでに別の名契に属している、という意味です」
     セレナは笑いそうになった。
     笑えるはずがなかった。
     未婚だから自由だと思われることがある。
     だがセレナは、誰かの妻になる前に、先に城へ結ばれていた。父の隣で署名を覚え、税を覚え、井戸の数を覚え、兵糧を覚え、負傷者の数を覚えた。
     誰かに嫁がなかったのではない。
     先に、城へ嫁いだのだ。
     それなのに、自分は妹の代わりにもなれない。
     沈黙が落ちた。
     その沈黙の中で、父が小さく言った。
    「あの子は、昔、鐘の音が大きいと耳を塞いでいた」
     誰も答えなかった。
     エリアスも、書記も、セレナも。
     父は机の上の灰色の書面を見ていなかった。もっと遠いものを見ているようだった。
    「母の葬儀の日もそうだった。鐘が鳴るたびに、お前の袖を握っていた。泣くのを我慢して、耳だけ塞いでいた」
     セレナは、書面を押さえる指に力が入るのを感じた。
    「それなのに、いつから鐘の下に立つようになったのだろうな」
     父の声は、城主のものではなかった。
     敗主の声でもなかった。
     ただ、娘が小さかった頃を覚えている父の声だった。
     だが、その声でさえ、条件を変えることはできなかった。
     セレナは書面を見下ろした。
     灰色の紙に、整った文字が並んでいる。あまりに整っていて、そこに人の名が潰されていることを忘れそうになる。
     リディア。
     小さな頃、リディアは黒い布を怖がった。
     母の葬儀の日だった。
     礼拝堂は花と蝋と雨の匂いで満ちていた。母の棺のそばで、リディアはセレナの袖を握っていた。まだ幼く、母がもう目を開けないことを十分には分かっていなかった。ただ、周囲の大人が皆黒い服を着て、顔に暗い布をかけていることだけを怖がっていた。
    「セレナ姉さま、その布、いや」
     リディアは小さな声で言った。
     セレナは、自分の黒いヴェールを少し持ち上げた。
     本当は自分も泣きたかった。
     母の棺にすがって、子どものように泣きたかった。けれど、リディアが見ていた。父は城主の顔をしていた。誰かが、妹の手を握らなければならなかった。
    「黒いヴェールは、隠れるためのものではないの」
    「では、何のため?」
    「悲しみを、こぼしすぎないため」
     そう言って、セレナはリディアの手を握った。
     あの日の妹の手は、とても小さかった。
     温かかった。
     その手を、守るつもりだった。
     セレナは瞬きをした。
     評議室へ戻ってくる。
     目の前には父がいる。書記がいる。エリアスがいる。灰色の紙がある。
     そして、リディアはいない。
     いない場所で、リディアの名が動かされようとしている。
    「他に条件は」
     セレナは言った。
    「ありません」
     エリアスは答えた。
    「リディア以外の名は」
     自分の声が、ひどく乾いて聞こえた。
    「条件に合いません」
     エリアスの声は、変わらず柔らかかった。
    「リディア・アレイア様は、成人の鐘を受けている。城主家の血を持つ。婚姻名契も、継嗣契も、政務名契も、まだ結ばれていない」
     まだ。
     その言葉が、セレナの胸を刺した。
     リディアはまだ、何にも結ばれていなかった。
     だからこそ、祈名は自由だった。
     だからこそ、奪える。
    「彼女は、祈名帳を守っています」
     セレナは言った。
    「ええ」
    「死者の名を読む者です」
    「存じています」
    「城主ではない。契官でもない。兵でもない」
    「はい」
    「ならば、戦の降契に使うべき名ではない」
     エリアスは、少しだけ目を伏せた。
    「戦の降契だからこそ、です」
     セレナは唇を結んだ。
    「あなた方の祈名帳は、彼女の手を通して多くの名に触れている。城主家の血を持ちながら、まだ大きな名契に属していない。土地と民の祈りを結ぶには、最も澄んだ支柱となります」
    「支柱」
     セレナはその言葉を繰り返した。
     人の名を、支柱と呼ぶ。
     人の未来を、条件と呼ぶ。
     それを怒鳴れたら、どれほど楽だっただろう。
     だが怒鳴れば、交渉は終わる。交渉が終われば、北門の兵は進む。進めば、礼拝堂も墓地も今度こそ無事では済まない。
     セレナは怒れなかった。
     怒ることすら、もう自分のものではなかった。
     父がゆっくりと立ち上がった。
     右腕の包帯が赤く滲んでいる。
     その赤を、セレナは見ないようにした。
    「城下の民は」
     父が言った。
    「降契が結ばれれば、公国の保護下に入ります」
    「墓地は」
    「荒らしません」
     父は一度だけ目を伏せた。
     墓地には、ミレイアの名がある。昨日運ばれた者たちの名も、これから刻まれるはずの名もある。そこに、リディアの名だけはまだなかった。
    「鐘は」
     父の声は、さきほどより低かった。
    「溶かしません」
    「祈名帳は」
    「照合します。焼きません」
     父は目を閉じた。
     セレナはその横顔を見た。
     幼い頃から、父は城の壁のような人だった。大きく、動かず、背を預ければ必ず支えてくれる人だった。
     今、その壁の内側から、ひびが入っている。
    「リディアを呼びなさい」
     父が言った。
     その一言で、セレナの中の何かが止まった。
     リディアを。
     呼ぶ。
     母の葬儀の日、手を握った妹を。
     黒いヴェールを怖がっていた妹を。
     鐘の音に耳を塞いでいた妹を。
     鐘の下に立つようになった妹を。
     呼ぶ。
     白いヴェールの前へ。
     その時、扉の外で小さな金属音がした。
     侍女が一人、銀の盆を抱えて入ってきた。盆の上には、白い布が畳まれていた。
     セレナは、それが何かをすぐに理解した。
     リディアの声を閉じるための布。
     布はあまりに美しかった。
     汚れも、血も、泥もない。
     城門の石粉も、礼拝堂の血の匂いも、誰かの泣き声も知らない白だった。
     それが、リディアのために用意されている。
     セレナは一瞬、母の黒いヴェールを思い出した。
     悲しみをこぼしすぎないための黒。
     そして今、妹に差し出されるのは、悲しみさえ声にさせないための白だった。
     セレナは、すぐには動けなかった。
     部屋の中の誰も、彼女を急かさなかった。
     エリアスでさえ、黙っていた。
     けれど沈黙は、拒否にはならない。
     セレナはゆっくりと息を吸った。
     黒いヴェールは、ここにはない。
     けれどセレナは、自分の顔に見えない布を下ろすように、表情を整えた。
     そして、いつもの声で侍女に命じた。
    「リディア様を、評議の間へ」

    第五章 Prayer


     鐘が鳴っている気がした。
     けれど、礼拝堂の鐘は沈黙していた。
     音は外から来るのではなかった。石壁の奥からでも、城門の方からでもない。胸の内側で、ずっと低く鳴っている。あの日、ユリスの祈名を呼んだ時に鳴った鐘。童話の中で、母の名へ帰った祈りに応えた鐘。今は鳴らされていないはずの鐘が、リディアの中だけで、何度も何度も揺れていた。
     白いヴェールは、椅子の上にあった。評議の間から戻る時、侍女が銀の盆ごと部屋へ運んできたものだった。支度のためです、と彼女は言った。
    リディアは何も答えなかった。部屋の灯りは落とされていたが、その布だけは暗がりの中で薄く浮いて見えた。
     リディアは寝台に腰かけたまま、それを見ていた。
     眠ることはできなかった。
     眠ってしまえば、朝が来る。
     眠らなくても、朝は来る。
     どちらも同じなら、眠らない方がまだ自分のもののように思えた。
     父は、城を残すと言った。
     姉は、民を生かすと言った。
     エリアスは、名を守ると言った。
     誰も間違っていなかった。
     だから、苦しかった。
     白いヴェールを被り、何も知らない顔で頷けばいい。
     そうすれば、城門は開かれる。墓地は踏まれない。鐘は溶かされない。祈名帳は焼かれない。ニアのような子どもたちは、明日も呼び名で呼ばれる。
     誰もリディアを責めないだろう。
     父も。
     姉も。
     民も。
     むしろ、賢い選択だったと言うかもしれない。
     美しい犠牲だったと、誰かが言うかもしれない。
     それは、きっと正しい。
     誰もが納得できる、綺麗な答えなのだと思う。
     けれど、その正しさの中で自分だけが空っぽになるなら、リディアは明日から、何を自分と呼べばいいのだろう。
     そのことが、何より怖かった。
     リディアは立ち上がった。
     衣装箱を開ける。
     白い衣装には触れなかった。奥にしまわれた黒いドレスを取り出す。母の喪の後、長い間使われなかったものだった。布は重く、手に取ると夜の名残のように冷たい。
     袖を通す。
     黒い布が肩に落ちた時、リディアは母の葬儀の日を思い出した。
     黒いヴェールを怖がる自分の手を、姉が握ってくれた。
     セレナの手は温かかった。
     母の棺の前で、リディアはその手だけを頼りに立っていた。
     黒いヴェールは、隠れるためのものではないの。
     遠い日の姉の声が戻ってくる。
     悲しみを、こぼしすぎないため。
     リディアは衣装箱のさらに奥から、母の黒いヴェールを取り出した。白いヴェールより厚く、光を通しにくい。端には古い銀糸が縫い込まれている。華やかではない。けれど、触れると布の重さがそのまま手に残る。
     黒いヴェールは、小さく畳んで腕に抱えた。
     紅の入った小箱も取った。
     最後に、衣装箱の底から踵の硬い黒い礼靴を取り出す。祭礼や評議の場で履くものだと聞かされていた、母の形見の靴。礼拝堂では音が響くからと、ずっと避けてきた靴。
     まだ履かなかった。
     今の足元には、いつもの柔らかい靴がある。歩いてもほとんど音のしない靴。名の前で、自分を大きく見せないための靴。
     リディアは白いヴェールを手に取った。
     指先に、冷たい滑らかさが伝わる。
     それだけで、布が自分のものになってしまいそうだった。
     けれど、持たずには行けなかった。
     被るためではない。
     捨てるためでもない。
     何にするかを、誰にも決めさせないために。
     リディアは白いヴェールを腕にかけ、黒いヴェールと紅と礼靴を抱え、部屋を出た。
     廊下は暗かった。
     燭台の火はところどころ落とされ、壁にかかる古い織物も、歴代城主の肖像も、輪郭だけになっている。夜の城は、昼間よりも広い。知っているはずの角も、見慣れた階段も、少しずつ別のものに変わって見えた。
     遠くで、荷車の車輪が低く軋んでいる。
     兵が鎧の金具を確かめる音が、石壁を伝ってかすかに届く。
     どこかで子どもが泣き、すぐに大人の声でなだめられた。
     城は、夜の中で息を潜めていた。
     父は傷を負い、評議の間の奥にいる。
     姉は眠らず、食料の数、避難民の行き先、負傷者を運ぶ荷車、公国への返書を捌いている。
     礼拝堂へ向かうリディアは、城主の二番目の娘だった。
     父のように城の名を背負うこともできない。
     姉のように評議の机で、命に関わる数を捌くこともできない。
     リディアに求められてきたのは、祈ること、微笑むこと、場を乱さずに立つことだった。
     それを、ずっと弱さだと思っていた。
     戦えないこと。
     決められないこと。
     ただ静かに、そこにいること。
     けれど今、その役割に値がついた。
     民を守るためです。
     城を残すためには、あなたの祈名が必要なのです。
     あなたの名。
     その言葉だけが、妙にはっきり残っている。
     私の名は、私のものだったはずだ。
     けれど彼らの口から出たそれは、城門を開ける鍵か、敵へ差し出す杯のように聞こえた。
     リディアは礼拝堂の扉の前で足を止めた。扉の左右には、見張りの影があった。その間に、蝋燭を一本持ったオルガが立っていた。
     蝋燭を一本だけ持ち、黒い外套を肩にかけている。眠っていなかったのだろう。銀髪は少し乱れ、目元には深い影があった。
     オルガの視線が、リディアの黒いドレスへ落ちた。次に、腕に抱えた黒いヴェールへ。それから、白いヴェールと、手にした黒い礼靴へ移る。
     彼女は何も尋ねなかった。
     ただ、ほんの少しだけ目を伏せた。
    「来ると思っていました」
     オルガはそう言った。
     リディアは答えられなかった。
     オルガは腰の鍵束から、一番古い鍵を選んだ。鉄の輪が小さく鳴る。礼拝堂の錠が重い音を立てて外れた。
    「祈れとは申しません」
     扉に手をかけながら、オルガは言った。
    「けれど、祈らずに行かせることもできません」
     リディアは、ようやく頷いた。
    「中には」
    「入りません」
     オルガは短く答えた。
    「ここから先は、リディア様お一人で」
     扉が開いた。
     礼拝堂の中は暗かった。
     昼間、色硝子を通して床に落ちる光はどこにもない。長椅子も、祭壇も、柱も、すべてが影の中に沈んでいる。高い天井の奥に吊られた鐘だけが、闇の底で大きな沈黙としてそこにあった。
     リディアは中へ入った。
     扉が背後で閉じる。
     その音は、思ったよりも静かだった。
     礼拝堂は、血の匂いを完全には忘れていなかった。
     石床は洗われ、布は替えられ、燭台も磨かれている。けれど、場所には記憶が残る。水では落ちないものがある。祈りでも消せないものがある。
     ユリスが横たえられた場所を、リディアは見ないようにした。
     けれど、見ないようにした瞬間、そこがどこなのか分かってしまった。
     鐘の下から少し右。
     祭壇へ続く石床の、三枚目と四枚目の境目。
     あの日、ニアが兄の体にすがり、オルガが白い布を肩にだけかけた場所。
     リディアは、すぐには祭壇へ向かわなかった。
     救いを求めるだけなら、膝をつけばよかった。
     許しを乞うだけなら、目を伏せればよかった。
     けれど今、見なければならないものは、祭壇でも鐘でもなかった。
     自分自身だった。
     側廊の奥には、古い鏡が掛けられている。祭礼の前、鐘守りや喪主が衣を整えるための鏡だった。銀はところどころ曇り、縁の木は黒ずんでいる。昔、母の葬儀の日にも、リディアはこの鏡の前を通った。あの時は、見ないようにしていた。
     今は、目を逸らさなかった。
     鏡の中の自分は、青白かった。
     黒いドレスはまだ体になじまず、髪は乱れ、目元には眠らなかった夜の赤みがある。腕には白いヴェールがかかっている。胸元には母の黒いヴェール。片手には、まだ履いていない黒い礼靴。
     差し出される花には見えなかった。
     けれど、闘いに行く者にも、まだ見えなかった。
     リディアは鏡の前に立った。
     乱れた髪を撫でつける。
     黒いドレスの皺を伸ばす。
     母の黒いヴェールを肩にかける。
     まだ顔は覆わない。
     次に、紅の小箱を開けた。
     普段なら、鐘の下に立つだけだからと断っていた。祈名帳の前に、自分の顔を飾る必要はないと思っていた。
     けれど今日は、鐘の下に立つだけではない。
     声を閉じる布の前へ行く。
     自分の名を、自分より先に運ばせないために行く。
     リディアは、赤を唇に引いた。
     細く、ゆっくりと。
     手は震えていた。
     唇の端も、少し歪んだ。
     それでも、赤は乗った。
     泣くなら、赤い唇のまま泣く。
     震えるなら、踵の音で震えごと鳴らす。
     傷むなら、傷んだ足で立つ。
     リディアは、黒い礼靴を床に置いた。
     柔らかい靴を脱ぐ。
     踵の硬い黒い靴へ、足を入れる。革は少し硬く、足に馴染んでいなかった。擦れた踵が痛んだ。石床を踏むと、いつもより視界が少しだけ高くなる。
     一歩、歩く。
     かつ、と音がした。
     礼拝堂の側廊に、小さく硬い音が立つ。
     リディアは鏡の中の自分を見た。
     まだ震えている。
     目元は赤く、唇の端はわずかに歪んでいる。
     髪を撫でつけた指先には、まだ迷いが残っている。
     それでも、もう目を逸らしてはいなかった。
     それで十分だった。
     私は、私を飾っているんじゃない。
     私を始めている。
     リディアは鏡から離れ、祭壇へ向かった。
     かつ。
     かつ。
     踵の音が、石床を打つ。
     音が響くたび、礼拝堂の沈黙に小さな釘を打っていくようだった。
     祭壇の前に立つ。
     リディアは腕にかけていた白いヴェールを、ゆっくりと外した。
     被りはしなかった。
     折り畳み、祭壇の上へ置く。
     差し出されるための布ではない。
     今だけは、自分の祈りを受け止めるための布にする。
     燭台から一本、蝋燭を取る。震える指で火を移すと、小さな炎が一度だけ揺れて、それから細く立った。
     リディアは祭壇の前に膝をついた。
     踵が痛んだ。
     黒いドレスの裾が、冷たい石床に広がった。
     靴の先が、床を小さく鳴らした。
     祈りは、言葉より先に身体へ来るのだと思った。
     背筋を伸ばす。
     息を吸う。
     赤い唇で、自分の名を呼ぶ。
     名を呼ぶ時は、三度呼ぶ。
     呼び名で、この世にいる者を。
     家名で、その者が結ばれてきた場所を。
     祈名で、祈りの帰る先を。
     リディアはその作法を、何度も人に行ってきた。
     赤子に。
     死にゆく者に。
     墓へ入る者に。
     けれど、自分に向けたことは一度もなかった。
    「リディア」
     一度目は、まだ他人のもののようだった。
     父が呼ぶ名。
     姉が呼ぶ名。
     ニアが駆け寄ってくる時の名。
     祈名帳の前で、オルガが静かに呼ぶ名。
    「アレイア」
     二度目で、喉が痛んだ。
     この城の名。
     墓地の石に刻まれた名。
     母の墓にも、父の書面にも、姉の継嗣契にもある名。
     そして、祈名。
     リディアは唇の内側で、その形を確かめた。
     一音も欠けていない。
     一音も別の名と混ざっていない。
     自分の祈名を、自分が間違えるはずはない。
     それなのに、その名はどの名よりも遠く感じられた。
     声にすれば、祈りは帰る場所を得る。
     帰る場所を得れば、何かが動く。
     まだ動かしてはならない。
     ここではまだ。
     リディアは、誰にも聞こえないほど低く、最後の名を置いた。
     リディア。
     アレイア。
     ——※※※。
     三度目で、ようやく自分の内側に戻ってきた。
     鐘は鳴らなかった。
     鳴らなくていい、と思った。
     これは返事を求める祈りではない。
     これは救いを乞う祈りではない。
     リディアは目を閉じた。
     すると、自分の中にいる自分が、次々に声を上げた。
     頷けばいい。
     そうすれば、誰もお前を責めない。
     姉に任せればいい。
     お前は昔から、祈ることしか求められてこなかった。
     白いヴェールを被ればいい。
     敵へ渡される花になれば、少なくとも美しいまま終われる。
     逃げればいい。
     名前も、旗も、誓いも、全部、明日の誰かに預けてしまえばいい。
     どの声も、自分だった。
     だから憎めなかった。
     だからこそ、怖かった。
     リディアは強くない。
     清くもない。
     正しくもない。
     それでも、祈ることだけはやめなかった。
     祈りは、誰かに届くためのものだと思っていた。
     届けばいいのだと、思っていた。
     正しい名で呼ぶ。
     祈りの帰る場所を間違えない。
     死者が二度目に迷わないように。
     生まれた子が世界の中で迷わないように。
     それがリディアにできることだった。
     それだけが、リディアにできることだった。
     けれど、ユリスは戻らなかった。
     鐘は鳴った。
     祈りは届いた。
     祈名は間違えなかった。
     それでも、ユリスは戻らなかった。
     手首の内側に触れた、あの細い脈を思い出す。今にも消えそうな、頼りない拍。血で濡れていない場所を探して、額に触れた感触。銀鈴の小さな音。礼拝堂の者たちが息をひそめる気配。
     届いた、と彼は言った。
     それが救いだったのか、リディアにはまだ分からない。
     彼の名は血の中に落ちなかった。叫び声の中でほどけなかった。彼の名は、彼のまま、鐘の音の中へ帰った。
     そのことだけが、リディアの手に残った。
     けれど、残ったものがあまりに小さくて、手のひらごと砕けてしまいそうだった。
     届いたから、何だというのだろう。
     戻らないなら。
     助けられないなら。
     ニアの泣き声を止められないなら。
     それでも祈りは、届いたと言うのだろうか。
     リディアは祭壇の白いヴェールに手を置いた。
     冷たい布だった。
     石工の若い声を思い出す。
     一文字だけです、姫様。
     公国式の写しでは、こちらの綴りでも通ると聞きました。
     エリオル。
     エリオン。
     近い名に、祈りは帰りません。
     あの時、自分はそう言った。
     たった一文字でも、祈りは帰る場所を失う。
     ならば、名そのものの行き先を変えられたら。
     それは一文字の誤りよりも、もっと深い迷いではないのか。
     白いヴェールは、リディアの祈名を公国の主鐘へ運ぶ。
     顔を覆い、声を閉じ、本人より先に名を差し出す。
     それは、守ることなのだろうか。
     守ると言いながら、帰る場所を変えることではないのか。
     リディアは唇を噛んだ。
     自分の祈名は、まだどこにも大きく結ばれていない。
     婚姻にも。
     継承にも。
     政務にも。
     それをずっと、何にもなれなかった証のように思っていた。
     姉は城の方へ進み、リディアは鐘の方へ残った。父の隣に立つことも、城門の上で指揮を執ることも、書面を裁くこともできなかった。ただ名を読み、鐘を聞き、墓碑の文字を確かめるだけ。
     祈るだけの娘。
     そう思っていた。
     けれど、未契であるということは、空いているということではない。
     まだ奪われていない、ということだ。
     まだ、選べるということだ。
     リディアは、低く祈り始めた。
     私が美しいと思えたものだけは、どうか朽ちずに残り続けますように。
     その光を、私がまだ見失わずにいられますように。
     姉が眠らずに守る、数字の向こうの命。
     父が折れかけた手で、それでも手放さなかった旗。
     城壁に沿って咲く白い花。
     夜明けを知らずに眠る子どもの息。
     色を失っても、朝を待っている硝子窓。
     血の中に落ちなかったユリスの名。
     そして、まだ私のものとして残っている、この名。
     どうか、私がそれを手放しませんように。
     言葉は祈りに似ていた。
     けれど、誰かへ届くためだけのものではなかった。
     祈りの向きが、変わっていく。
     誰かに許されるためではない。
     誰かに救われるためでもない。
     誰かに選ばれるためでもない。
     今だけは、私が私に届かなければならない。
     奪われる前に、行き先を決める。
     その時、高い窓の色がほんの少し変わった。
     夜が終わろうとしていた。
     最初に変わったのは、祭壇の銀器だった。闇の中でただの影だった杯の縁が、細く白く浮かび上がる。次に、祈名帳の革表紙にかすかな艶が戻る。石床の傷も、柱のひびも、古い鏡の曇った縁も、少しずつ輪郭を取り戻していく。
     夜明けは、優しくなかった。
     すべてを見えるようにするだけだった。
     リディアは目を開けた。
     救いは来なかった。
     鐘の返事も、奇跡も、夜明けを止める光も、何ひとつ降りてはこなかった。
     それでよかった。
     リディアは祭壇の上の白いヴェールを取った。
     被りはしなかった。
     捨てもしなかった。
     ただ、腕にかけた。
     それを何にするかは、もう誰にも決めさせない。
     祭壇から扉へ向かう途中、リディアは側廊の石壁に手を触れた。
     礼拝堂の壁は厚かった。
     廊下を急ぐ足音も、遠くで交わされる低い命令も、ここまでは薄くしか届かない。石は古く、ところどころ欠けていたが、それでも崩れてはいなかった。
     冷たい。
     硬い。
     けれど、何かを拒むためだけに立っているわけではない。
     中にいるものが、外の決定に呑まれないため。
     中にある祈りが、途中でほどけてしまわないため。
     名が、名のまま朝を迎えるため。
     壁とは、そういうものなのかもしれなかった。
     城壁の姫さま。
     その名が、ふいに胸の奥で浮かんだ。
     子どもたちに読んで聞かせた本では、姫は城壁の中で眠り、城は守られる。怖いところはすべて薄められ、最後には鐘が鳴り、人々はまた朝を迎える。
     けれど、それだけではないことを、リディアは知っていた。
     リディアは、石から手を離した。
     まだ、言葉にはしなかった。
     扉へ向かう途中で、さっきの鏡が目に入った。
     足を止める。
     そこには、綺麗に整った女など映っていなかった。
     泣き腫らした目。
     少し歪んだ口紅。
     皺の残る黒いドレス。
     踵の中で痛みに耐えている足元。
     腕にかけた、白いヴェール。
     肩に落ちる、母の黒いヴェール。
     それでも、目を逸らすほど醜くはなかった。
     誰かに差し出される姿ではない。
     許しを待つ姿でもない。
     鏡の中には、自分の名で、これから闘いに行く女がいた。
     怖さは消えていない。
     それでも、その眼差しは逸れていなかった。
     リディアは、滲んだ口紅を親指で拭った。
     血のような赤を、唇に戻す。
     扉を開ける。
     礼拝堂の外に、朝の薄い光があった。
     扉の脇に、オルガが立っていた。
     彼女の視線が、リディアの肩に落ちる黒いヴェールへ移る。次に、赤い唇へ。踵の硬い黒い礼靴へ。そして最後に、腕にかけられた白いヴェールへ。
     オルガは、すべてを尋ねなかった。
     ただ、静かに言った。
    「ミレイア様のヴェールですね」
    「はい」
     リディアは答えた。
    「母のものです」
    「隠れるためではありませんね」
     その言葉に、リディアは少しだけ目を伏せた。
     幼い日、姉が教えてくれた。
     黒いヴェールは、隠れるためのものではない。
     悲しみを、こぼしすぎないためのもの。
     けれど今、リディアはそれだけでは足りないと思った。
     悲しみをこぼさないためだけではない。
     悲しみに声を奪われないため。
     顔を伏せて退くためではない。
     失われるものの前に、喪主として立つため。
     白いヴェールは、リディアの声を閉じるために用意された。
     けれど黒いヴェールは、リディアが自分の声を失わないために選んだものだった。
    「隠れるためではありません」
     リディアは言った。
     オルガは深く頭を下げた。
    「では、そのままお行きなさいませ」
     礼拝堂を出る前、リディアはもう一度だけ壁を振り返った。
     祈名帳の奥に綴じられた古い写し。
     それは、今のアレイア城が建つより前、この地がまだ城ではなく、川と墓道と石積みの境であった頃の契りを写したものだった。
     何度も写され、文字は時代ごとに変わり、紙も綴じ糸も替えられた。けれど、その契りだけは消されなかった。
     古いというより、古さに古さを重ねたような記録だった。
     身代名契。
     祈名を城の境へ分ける契り。
     門へ。
     鐘へ。
     墓道へ。
     井戸へ。
     橋へ。
     祈名帳の余白へ。
     名を一つの場所へ帰すのではなく、境そのものへ結ぶ。
     その代わり、その名はもう一つの墓へは帰れない。
     昔、リディアがその箇所を読んで顔を上げると、オルガは静かに本を閉じた。
    「童話は、ときどき真実の怖いところを隠します」
     その時は、怖い話だと思った。
     遠い昔の、誰かの犠牲の話だと思った。
     けれど今は、違った。
     それは、まだ残されている道だった。
     扉の向こうでは、父が待っている。
     姉が待っている。
     エリアスが待っている。
     降契の書面も、羽根ペンも、リディアの沈黙も。
     まだ怖かった。
     頷けば楽になれることを、知っていた。
     誰かのせいにすれば、眠れる夜が来ることも、知っていた。
     それでも、リディアは歩き出した。
     いつかこの身が朽ちるとしても、
     その行き先まで、誰かの名と封蝋で決められるつもりはなかった。
     一歩、踏み出す。
     かつ、と音が響いた。
     その音に重なるように、胸の中の鐘がようやく静まった。
     それは、祈りの音だった。
     同時に、幕が上がる音だった。
     リディアは、評議の間へ向かった。

    第六章 身代


     朝は、静かに来るものではなかった。
     評議の間にいる者たちは、扉の外の音を聞いていた。
     廊下を急ぐ足音。
     低く交わされる兵の命令。
     荷車の軋み。
     門の鎖を確かめる金属音。
     馬具が小さく鳴る音。
     書記が紙を揃える乾いた音。
     どれも大きな音ではない。
     けれど、その一つひとつが、朝が近づいていることを知らせていた。
     城門は、朝に開く。
     その言葉が、評議の間の石壁にまだ残っているようだった。
     父アルヴァンは、奥の椅子に座っていた。昨夜より顔色は悪く、右腕の包帯には新しい布が巻かれている。鎧は脱いでいたが、城主の外套だけは肩にかけていた。
     姉セレナは、その傍らに立っている。
     紺の上着。銀糸の肩章。きっちりと結われた髪。乱れはない。けれど、その手は昨夜から一度も温められていないように白かった。
     机の上には、降契の書面が広げられていた。
     灰色がかった厚紙。公国の印章。細い羽根ペン。封蝋。
     そして、リディアのために用意されていたはずの白いヴェールは、そこにはなかった。
    「リディア様は」
     書記の一人が小声で言った。
     誰も答えなかった。
     エリアス・ヴォルンは、窓の近くに立っていた。黒灰色の外套に、公国の主鐘をかたどった銀の徽章。昨夜と変わらず、礼儀正しく、乱れがない。
     だが、その視線は何度か扉へ向いていた。
     城門の鎖が、遠くでまた鳴った。
     セレナの指が、書面の端を押さえた。
     その時だった。
     廊下の向こうから、硬い音が近づいてきた。
     かつ。
     少し間を置いて、また。
     かつ。
     評議の間にいた者たちが、ひとり、またひとりと顔を上げる。
     リディアの足音ではなかった。
     リディアはいつも、音のしない靴で歩いていた。礼拝堂の石床を乱さないように。名の前に、自分を大きく見せないように。
     けれど近づいてくる音は、はっきりと石を打っていた。
     かつ。
     セレナは、その音を知らなかった。
     けれど、その音がリディアのものだと分かった。
     扉の前で音が止まる。
     短い沈黙。
     それから、扉が開いた。
     リディアが立っていた。
     白ではなかった。
     黒いドレス。
     肩に落ちる、母ミレイアの黒いヴェール。
     赤い唇。
     踵の硬い黒い礼靴。
     腕には、白いヴェールがかけられている。
     その後ろに、祈名帳を抱えたオルガが控えていた。彼女は一歩下がり、祈名帳守りとして、静かに頭を垂れている。
     評議の間の空気が止まった。
     父が立ち上がりかけた。
    「リディア」
     その声は、城主のものではなかった。
     父の声だった。
     セレナは何も言わなかった。
     言えなかった。
     エリアスだけが、ゆっくりと一礼した。
    「リディア・アレイア様」
        彼の声は、まだ穏やかだった。
    「白いヴェールを」
        リディアは、肩に落ちる黒いヴェールの端に指をかけた。
        顔を隠すためではなく、声を失わないために選んだ布だった。
        朝の薄い光の中で、赤い唇がはっきりと見えた。
    「被りません」
     その声は、大きくなかった。
     けれど、評議の間のどこにも逃げなかった。
     エリアスの目が、わずかに細くなる。
     リディアは腕の白いヴェールを見下ろした。
    「私の声を閉じる布を、私が選ぶ理由はありません」
    「リディア」
     父が言った。
    「これは城下のためだ」
    「分かっています」
     リディアは父を見た。
    「だから来ました」
    「ならば」
    「許しをもらいに来たのではありません、父上」
     父の言葉が止まった。
     リディアは、机の上の降契書を見た。
    「確認しに来ました」
     セレナが一歩前に出た。
    「リディア、今ならまだ戻れます」
     その声は、いつものように整っていた。けれど、言葉の端だけがわずかに揺れていた。
     リディアは姉を見る。
     黒いヴェール越しではなく、まっすぐに。
    「戻れば、私の名は私より先に運ばれます」
     セレナは息を呑んだ。
    「姉上」
     リディアの声は、責めていなかった。
    「私は、それを選びません」
     廊下の外で、荷車の車輪が軋んだ。誰かが低く命じる声がする。城は朝へ向かっている。もう、時間は多くない。
     リディアはエリアスへ向き直った。
    「降契に必要なのは、成人の鐘を受け、なお大きな名契に結ばれていない、城主家の祈名ですね」
    「その通りです」
     エリアスは答えた。
     まだ、声は崩れていない。
    「私は成人の鐘を受けています。城主家の血を持ちます。婚姻名契も、継嗣契も、政務名契も結んでいません」
    「はい」
    「ならば、私の祈名は、まだ私のものです」
     そこで、初めてエリアスの沈黙が遅れた。
    「その通りです」
     彼は言った。
    「ただし、降契のために」
    「私の祈名は、あなたがたの主鐘へは降しません」
     リディアは静かに言った。
     書記の羽根ペンが、紙の上で止まった。
     父が、椅子の背を強く握る。
     セレナの手が、胸の前で小さく動いた。止めようとしたのか、伸ばそうとしたのか、自分でも分からないような手だった。
     エリアスはリディアを見た。
    「では、どこへ」
     リディアは答えた。
    「この城の境へ」
     その言葉に、部屋の温度が変わった。
     オルガが、目を伏せた。
     エリアスは、すぐには言わなかった。
    「……城壁の姫さまの童話を、契りとして扱うおつもりですか」
    「童話になる前は、契りでした」
     リディアは言った。
     父が低く呻いた。
    「リディア、何を」
    「城壁の姫さま」
     リディアは父ではなく、部屋の全員に向けて言った。
    「子ども向けの本では、姫は城壁の中で眠り、城は守られます。けれど祈名帳の奥に残る古い写しには、眠りとは書かれていません」
     オルガが、一歩だけ前に出た。
    「記録はあります」
     祈名帳守りの声だった。
    「古い写しです。今の城が建つより前、この地がまだ川と墓道と石積みの境であった頃の契りを写したものです。何度も写され、文字も紙も替えられました。けれど失効の記載は、ありません」
     エリアスの視線が、オルガへ動く。
    「名簿院が確認した写しでは」
    「公国名簿院がこの城のすべての祈名写しを照合したわけではありません」
     オルガは静かに返した。
    「あなたがたが照合を望まれるなら、まず存在を認めるところからです」
     エリアスは口を閉じた。
     リディアは続けた。
    「身代名契。祈名を、城の境へ分ける契りです」
     声は震えていなかった。
    「門へ。鐘へ。墓道へ。井戸へ。橋へ。祈名帳の余白へ。名を一つの場所へ帰すのではなく、城を囲む境そのものへ結ぶ」
    「それは」
     セレナが言った。
     その先は続かなかった。
     リディアは頷いた。
    「城下の祈名が、公国の主鐘へ流れないための境になります」
     エリアスが、ようやく言った。
    「その契りは古すぎる」
    「古いことと、無効であることは違います」
     リディアは返した。
     エリアスの目が、リディアを測るように細くなる。
     祈名の行き先を変える契りに、失うものがないはずはない。
    「では、対価もご存じですね」
    「知っています」
     リディアは言った。
     父が、強く首を振った。
    「知っているはずがない」
    「読みました」
    「読んだだけで、分かるものではない」
    「分かっています」
    「リディア」
     父の声が荒れた。
    「それは何を失う契りだ」
     リディアは、父を見た。
    「婚姻名契は結べません」
     セレナの顔色が変わった。
    「継承名契も、政務名契も結べません。城から完全には離れられません。死んだ後、私の祈名は、一つの墓へは帰れません」
     誰も息をしなかった。
    「私の墓に、祈名は刻まれなくなります」
     口にした瞬間、リディアはようやく、その意味を自分の体で理解した。
     いつか自分が死んだ時、誰かが墓の前で祈ってくれるかもしれない。花を置いてくれるかもしれない。呼び名を呼んでくれるかもしれない。
     けれど、その祈りは、ひとつの墓へは帰らない。
     母の墓に刻まれた祈名を、幼い頃の自分が指でなぞったことがある。
     あのようには、残れない。
     その事実が、遅れて胸の中へ落ちた。
     怖い、と思った。
     けれど、声にはしなかった。
     父の手が、椅子の背から滑り落ちた。
    「それは」
     声が掠れる。
    「それは、死ぬことではないか」
    「いいえ」
     リディアは答えた。
    「生き続けることです」
     言いながら、リディアはその言葉が救いではないことを知っていた。
     死なないから軽いのではない。
     終わらないから、重いのだ。
     父はリディアを止めたかった。
     娘を、白いヴェールの前からも、黒いヴェールの先からも、引き戻したかった。
     けれど父は敗主だった。
     降契を受け入れたのは、父だった。リディア以外の代案を失ったのも、父だった。ここでリディアを止めれば、残る道は一つしかない。白いヴェールを被せ、公国の主鐘へ祈名を降すこと。
     父が止めるということは、娘を助けることではなかった。
     娘を、別の犠牲へ戻すことだった。
     セレナもまた、止められなかった。
     姉としてなら、腕を掴んででも引き戻したかった。母の葬儀の日のように、手を握って、こちらへ戻れと言いたかった。
     けれどセレナは継嗣契を持っている。
     次の城主として、城下の名を守る契りを拒めない。祈名帳と墓地と鐘を守る道が、リディアの言葉の中にある以上、彼女がそれを退ければ、今度こそ民の祈名を公国へ差し出す判断になる。
     妹を守りたい手と、城を守るための手。
     その二つが、同じ手の中でぶつかっていた。
     そして、契りそのものも彼らを止めた。
     成人の鐘を受けた未契の祈名は、本人の応答を欠いては動かない。白いヴェールで声を閉じる儀でさえ、形式の上では本人の頷きを必要とする。
     その本人が、別の名契を宣言している。
     父も姉も、その祈名を上書きすることはできなかった。
     エリアスは静かに息を吐いた。
    「仮に、その古い身代名契を認めるとして」
    「認めない理由がありますか」
    「公国の主鐘は、祈名を保護するためにあります」
    「ならば、私の条件も保護のためです」
     リディアは机へ近づいた。
     かつ、と踵の音がした。
    「墓碑と祈名帳には触れさせません」
     エリアスは黙っている。
    「鐘を、勝利のために鳴らさないこと。礼拝堂と墓地の作法を、アレイア式のまま残すこと」
    「それでは、名簿院の照合が」
    「照合は許します」
     リディアは言った。
    「けれど、照合と変更は違います」
     エリアスは、すぐには答えなかった。
    「私は、焼かれた祈名帳を見たことがあります」
     彼は静かに言った。
     その声は、反論というより、古い傷に触れる声だった。
    「墓碑が砕かれ、名を覚えていた者も死に、祈る先を失った土地を見た。呼び名だけが残り、家名も祈名もほどけ、誰に祈ればいいのか分からなくなった村を知っています」
     リディアは黙って聞いていた。
    「だから私は、公国の主鐘を信じています。大きな鐘の下へ集めなければ、名は戦のたびに失われる」
     エリアスの言葉は、嘘ではなかった。
     少なくとも、彼はそう信じてここに立っていた。
    「失われないことと、帰る場所を変えられないことは、同じではありません」
     リディアは言った。
    「名は、残ればよいのではありません。帰れる場所がなければ、祈りは迷います」
     エリアスは答えなかった。
     彼らは壊しに来たのではない。守るという言葉で奪いに来た。
     だからこそ、守るための条件を、名の理に沿って差し出された時、簡単には踏み潰せない。
     踏み潰せば、オルディス公国の主鐘そのものが、ただの勝利の鐘になってしまう。
     リディアは、腕にかけていた白いヴェールを外した。
     父がわずかに身構える。
     セレナも一歩動いた。
     けれどリディアは、それを頭へは運ばなかった。
     机の上へ広げた。
     降契の書面も、羽根ペンも、公国の封蝋も、白い布の下に隠れた。
     汚れも、血も、泥も知らない白。
    「この布は、私の声を閉じるために置かれました」
     リディアは言った。
    「ならば私は、これで公国の書面を覆います」
     エリアスの目が、わずかに動いた。
    「布に定めがあるのではありません」
     オルガが静かに言った。
    「何を覆い、何を開くかで、布の意味は変わります」
     リディアは頷いた。
    「この布は、私の声を閉じるためではなく、証人の前に置かれるために使います」
     白いヴェールは、机の上で公国の文字を覆っていた。
     もう、リディアの顔を覆うことはできなかった。
     オルガが祈名帳を開いた。
     古い鍵が小さく鳴る。革の表紙が開かれ、紙の匂いが評議の間に広がった。彼女は奥に綴じられた薄い写しを取り出し、机の端に置く。
     古い文字。
     城壁の姫さまになる前の、身代名契。
     エリアスはその文字を見た。
     公国の契官である彼は、否定したいはずだった。だが、否定するためには、名契そのものの古い理を否定しなければならない。
     彼は、それをしなかった。
    「証人は」
     エリアスが言った。
     声は、初めて硬かった。
    「私が」
     父が言った。
     城主としての声だった。
     だがその奥に、父の痛みがあった。
    「私も」
     セレナが続いた。
     次期城主としての声だった。
     だがその奥に、姉の痛みがあった。
    「祈名帳守りとして、私も証します」
     オルガが言った。
     エリアスは沈黙した後、深く息を吸った。
    「オルディス公国契官として、確認します」
     リディアは頷いた。
     そして、白いヴェールの上に両手を置いた。
     布は冷たかった。
     けれど、もう怖くはなかった。
     リディアは目を閉じる。
     呼び名。
    「リディア」
     自分で呼ぶ。
     家名。
    「アレイア」
     声は、評議の間の石壁に静かに返った。
     そして、最後の名。
     リディアは唇の内側で形を確かめた。
     一音も欠けていない。
     一音も別の名と混ざっていない。
     その名は、もう読者にも、書記にも、契官にも開かれない。
     リディアは、最後の名を声にした。
     その音を、誰も書き取ることはできなかった。
     書き取ってはならない音だった。
        父は、娘の名の響きを胸で受け止めた。
    けれど、そのすべてを自分のものとして抱きしめることはできなかった。
        セレナは、妹の名が確かにそこにあったことを知った。けれど、その名がもう一つの場所へだけ帰らないことも知った。
     羽根ペンを握っていた書記の手が止まる。
     エリアスの目が伏せられる。
     オルガが祈名帳の上に手を置く。
     リディアは続けた。
    「私の祈名を、公国の主鐘へは降しません」
     白いヴェールの上で、指先に力が入る。
    「この城の境へ契ります」
     祈名帳の薄い写しが、朝の光に淡く浮かぶ。
    「門へ」
     遠くで、門の鎖が一度鳴った。
    「鐘へ」
     沈黙していた鐘楼の方から、まだ音は来ない。
    「墓道へ」
     誰かが、息を呑む。
    「井戸へ」
     朝の水を汲む桶の音が、遠くでかすかにした。
    「橋へ」
     リディアの声は、もう震えていなかった。
    「祈名帳の余白へ」
     オルガの手が、祈名帳の白い余白を押さえる。
    「私の名を、この城の境に結びます」
     その瞬間、鐘が鳴った。
     誰も鐘綱には触れていない。
     勝利のためではなかった。
     降伏のためでもなかった。
     誰かの死を告げる音でも、祈りが戻った返事でもなかった。
     ひとつの名が、自分の行き先を選んだ音だった。
     鐘の音は評議の間を満たし、石壁に触れ、床を伝い、扉の向こうへ流れていく。
     リディアは倒れなかった。
     死ななかった。
     ただ、胸の奥にあったはずの最後の名が、少し遠くなるのを感じた。
     失われたのではない。
     消えたのでもない。
     ただ、ひとつの場所に収まらなくなった。
     門へ。
     鐘へ。
     墓道へ。
     井戸へ。
     橋へ。
     祈名帳の白い余白へ。
     自分の名が、細い光のようにほどけていく。
     痛みはなかった。
     だからこそ、恐ろしかった。
     何かを奪われたなら、叫べたかもしれない。
     血が流れたなら、傷だと分かったかもしれない。
     けれど失われたものは、形を持たなかった。
     未来だけが、静かに遠ざかっていた。
     白いヴェールの上に置いた指先が冷えていく。
     けれど、声は失われていない。
     リディアは目を開けた。
     机の上の白いヴェールは、ただの布になっていた。
     もう、リディアの声を閉じることはできなかった。
     エリアスは長い間、何も言わなかった。
     やがて、彼は深く頭を下げた。
    「……契りを、確認しました」
     その声は、昨夜より低かった。
    「降契条項を改めます」
     書記が顔を上げた。
     エリアスは机の上の白いヴェールを見た。公国の書面も、羽根ペンも、封蝋も、その下に覆われている。
    「旧城主家より祈名一つを支柱とする条件は、満たされたものとします。ただし、その祈名は公国の主鐘へ直接降されず、アレイア城境に結ばれた身代名契として扱う」
     エリアスは、一度だけ息を吸った。
    「公国は、その境を保護下に置きます。墓碑、祈名帳、鐘、井戸、橋、墓道、祈名授与の作法を、契りの範囲内で改めない」
    「それは」
     書記が言いかけた。
     エリアスは遮らなかった。
     ただ、静かに言った。
    「本国への報告は、私が書きます」
     その一言で、彼が何を背負ったのか、部屋の者たちは理解した。
     これは単なる譲歩ではなかった。
     契官として、リディアの名を公国の書面にどう記すかを、彼自身が引き受けるということだった。
     書記はしばらく動けなかった。
     やがて、白いヴェールの端を避けるようにして、新しい紙を引き寄せた。羽根ペンの先が震えながら、改められた条項を書き取っていく。
     旧城主家の祈名一つを、降契の支柱とする。
     ただし、その祈名は主鐘へ降さず、アレイア城境に結ばれた身代名契をもって代替支柱とする。
     その文字が紙に置かれた時、エリアスはもう一度だけ、深く頭を下げた。
     父が椅子に崩れるように腰を下ろした。
    「リディア」
     呼び名は届いた。
     リディアは父を見た。
     父の目には、怒りも、安堵も、悲しみも、どれもあった。けれど、どれか一つの名で呼べるものではなかった。
     セレナが、ゆっくりと近づいた。
     リディアは逃げなかった。
     姉は、リディアの前で足を止めた。
     何かを言おうとして、言えなかった。
     謝罪も、叱責も、感謝も、どれも違った。
     だからセレナは、言葉の代わりに手を伸ばした。
     リディアの手を取る。
     その手は、母の葬儀の日と同じように温かかった。
     けれど、握り返したリディアの手は、もう小さくはなかった。
     窓の外で、朝の光が城壁に触れていた。
     城門は、まだ開いていない。
     けれど城は、もう昨夜と同じ城ではなかった。
     鐘の余韻が、石の奥で静かに震えている。
     リディアは顔を上げた。
     黒いヴェールは、もう顔を隠していない。
     赤い唇には、まだ言葉が残っている。

     朝が来た。リディアの祈名は、主鐘ではなく、門と鐘と墓道の方 へ、静かにほどけていた。

    第七章 境の朝


     城門は、朝に開いた。
     鉄の鎖が巻き上げられる音は、城の奥まで届いた。
     重く、長く、逃げ場のない音だった。
     誰も勝ったとは言わなかった。
     門の内側に並んだ兵たちは、剣を下ろしていた。傷ついた腕で槍を支える者も、歯を食いしばって兜を脱ぐ者もいた。城壁の上には、まだ昨夜の煤が残っている。石の隙間に落ちた灰が、朝の風に少しだけ舞った。
     オルディス公国軍は、整然と入ってきた。
     略奪の声はなかった。
     酒に酔った笑いも、勝利を誇る怒号もなかった。
     先頭の兵は、城門をくぐる前に一度だけ足を止めた。門の内側の石に手を触れ、それから進んだ。続く兵たちも、墓地へ続く道を踏まないように、隊列をわずかに曲げて歩いた。
     その静かさが、かえって敗北を濃くした。
     城は、焼けなかった。
     けれど、奪われた。
     父アルヴァンは、城門の近くには立たなかった。
     評議の間の奥で、公国の書記が新しい書面を読み上げている。旧城主としての権限、武装兵の扱い、城下民の保護下編入、倉庫と井戸の管理、門番の交代。
     言葉は丁寧だった。
     だが、一つずつ、城から父の手が外されていく音がした。
     セレナはその隣に立っていた。
     泣いてはいない。
     怒鳴ってもいない。
     公国の書記が倉庫の鍵を求めれば、彼女は残量表を出した。負傷者の移送先を問われれば、礼拝堂ではなく東回廊だと訂正した。井戸の使用順を尋ねられれば、子どもと負傷者が先だと言った。
     敗戦の朝にも、数は必要だった。
     セレナは数を捌いていた。
     生きている者たちを、明日へ送るために。
     リディアは、礼拝堂の前にいた。
     黒いドレス。
     肩に落ちる母の黒いヴェール。
     赤い唇は、少しだけ色を失っていた。
     白いヴェールは、もう持っていない。
     それは評議の間の机の上に残された。公国の書面と羽根ペンと封蝋を覆ったまま、証人たちの前に置かれている。リディアの顔を覆うためではなく、あの朝の契りを記憶する布として。
     その傍らには、新しい紙が一枚置かれていた。
     旧城主家の祈名一つを、降契の支柱とする。
     ただし、その祈名は主鐘へ降さず、アレイア城境に結ばれた身代名契をもって代替支柱とする。
     公国の書記の筆跡で書かれたその条項は、まだ乾ききっていなかった。
     鐘は鳴らなかった。
     公国兵の一人が鐘楼を見上げたが、エリアス・ヴォルンが短く首を振った。
    「勝利の鐘は、鳴らさない」
     その言葉は、低かった。
     けれど、礼拝堂の前に立つ者たちには届いた。
     ニアが、リディアのそばにいた。
     栗色の髪を二つに結ぶ余裕はなかったのだろう。髪は肩のあたりで乱れ、目は赤く腫れている。彼女はリディアの黒いヴェールを見上げ、それから墓地の方を見た。
    「兄さまの名」
     ニアは小さく言った。
     それ以上は言えなかった。
     リディアは膝を折った。
     黒いドレスの裾が、石床に触れる。踵の硬い礼靴が、小さく鳴った。
    「変わりません」
     リディアは言った。
    「ユリスの名は、ユリスのままです」
     ニアの唇が震えた。
    「公国の人が、持っていかない?」
    「持っていきません」
    「書き直さない?」
    「書き直させません」
     ニアは少しだけ泣いた。
     声を上げる泣き方ではなかった。
     涙が落ちるだけだった。
     リディアは、その涙を止めようとはしなかった。
     祈りは、涙を止めるためのものではない。
     名前が涙の中で迷わないようにするためのものだ。
     オルガが祈名帳を抱えて礼拝堂から出てきた。
     その後ろには、公国名簿院の官吏が二人いた。どちらも手袋をしている。筆記具と写し紙を持っているが、祈名帳へ直接触れることはなかった。
    「照合のみです」
     オルガは言った。
     声は静かだったが、そこには礼拝堂の扉と同じ重さがあった。
    「改記は認めません。祈名欄には触れさせません。読み上げは、私が行います」
     公国官吏の一人が、何か言いかけた。
     エリアスがその前に言った。
    「身代名契の条件内です。従いなさい」
     官吏は口を閉じた。
     オルガはリディアを見た。
     ほんのわずかに、頷く。
     それだけだった。
     祈名帳は奪われなかった。
     ただ、開かれた。
     オルガの手で。
     リディアは礼拝堂から墓道へ歩いた。
     かつ。
     かつ。
     踵の音は、昨日までのリディアのものではなかった。
     けれど、もう誰もそれを咎めなかった。
     墓道の石は、朝露で少し濡れていた。昨夜の混乱で倒れた花瓶が一つ、端に寄せられている。誰かが急いで直したのだろう。白い花が、まだ水を吸っていた。
     公国兵が二人、墓地の入り口に立っていた。
     リディアが近づくと、彼らは道を開けた。
     墓地へ背を向けるのではなく、墓地へ向き直ってから、半歩下がった。
     それが敬意なのか、命令なのか、リディアには分からなかった。
     どちらでもよかった。
     墓碑は削られていなかった。
     トマ・レイスの墓も。
     母ミレイアの墓も。
     昨日までに運ばれた者たちの仮札も。
     リディアは一つずつ見た。
     名前は、まだそこにあった。
     正しい場所に。
     正しい形で。
     すべてが守られたわけではない。
     死んだ者は戻らない。
     落ちた門は、落ちたままだ。
     父はもう以前の城主ではない。
     セレナは、公国の書面を相手にこれからも眠れない日を送るだろう。
     リディア自身の祈名は、もう一つの墓へは帰れない。
     それでも。
     墓碑の名は、削られなかった。
     祈名帳の余白は、白いまま残った。
     鐘は、勝利のためには鳴らされなかった。
     城は負けた。
     けれど、名の帰る場所は変えられなかった。
     リディアは墓道を抜け、城門の内側へ向かった。
     公国の旗が、門の向こうで朝の風に揺れている。アレイアの旗は下ろされ、折り畳まれていた。泥も血もついていない。けれど、その布の重さを、誰も軽いとは思わなかった。
     門の内側の石に、リディアは手を置いた。
     冷たい。
     硬い。
     昨日触れた礼拝堂の壁と、同じ冷たさだった。
     けれど、もうただの石ではなかった。
     門。
     鐘。
     墓道。
     井戸。
     橋。
     祈名帳の余白。
     胸の奥にあったはずの最後の名は、そこに薄くほどけている。近くも遠くもない。自分の中だけにあるのではなく、城の境に触れるたび、かすかに応える。
     リディアは目を閉じた。
     祈りは、まだ帰る場所を持っていた。
     誰かが背後で足を止めた。
     振り返らなくても、セレナだと分かった。
     姉はしばらく何も言わなかった。
     それから、リディアの隣に立った。
     門の向こうを見ている。
     公国の旗を。
     開かれた道を。
     これから処理しなければならない、数えきれない朝を。
    「寒くはありませんか」
     セレナが言った。
     姉らしくない問いだった。
     城主代理の言葉でも、継嗣契を持つ者の言葉でもなかった。
     リディアは少しだけ笑った。
    「少し」
     セレナは、黒いヴェールの端に触れた。
    「母上のものは、重いでしょう」
    「はい」
    「それでも」
     セレナは言葉を探した。
    「似合っています」
     リディアは姉を見た。
     セレナの目元には、眠らなかった夜の影がある。けれど、その瞳はもう評議の書面だけを見てはいなかった。
    「姉上」
    「はい」
    「私は、あなたを恨めませんでした」
     セレナの唇が、わずかに震えた。
    「恨んでも、よかったのです」
    「たぶん、少しは恨みました」
     リディアは正直に言った。
     セレナは目を伏せた。
    「けれど、あなたが守ろうとしたものを、私も見ました」
     城門の外で、公国兵の列が動いている。
     城門の内側で、子どもたちが母親の服を握っている。
     井戸の方では、負傷者へ水が運ばれている。
     数字の向こうに、命があった。
     名の向こうに、命があった。
     どちらかだけでは、守れなかった。
     セレナはゆっくりと息を吐いた。
    「私は、あなたを守れませんでした」
    「いいえ」
     リディアは門の石から手を離した。
    「私の名を、私に残してくれました」
     セレナは何も言わなかった。
     ただ、リディアの手を取った。
     その手は、まだ温かかった。
     鐘は鳴らない。
     けれど城のあちこちで、人々が名を呼び合っていた。
     負傷者を探す声。
     子どもを呼ぶ声。
     死者の仮札を確かめる声。
     水を運ぶ者を呼ぶ声。
     呼び名がある。
     家名がある。
     祈りが帰る場所がある。
     リディアは朝の光の中で、その声を聞いていた。
     城は、オルディス公国の保護下に入った。
     それは敗北だった。
     けれど、鐘は勝利のためには鳴らなかった。
     墓碑の文字は削られなかった。
     祈名帳は焼かれなかった。
     そして白いヴェールは、誰の顔も覆わなかった。

    終章 城壁にある名


     話を聞き終えた時、墓地には午後の光が差していた。
     ノアはもう一度、リディア・アレイアの墓の前に立っていた。
     白い花が置かれている。
     墓標の文字は、朝よりも静かに見えた。
     リディア・アレイア。
     城主の二番目の娘。
     白いヴェールを被らなかった者。
     祈名は、やはり刻まれていない。
     けれどノアには、その空白が朝とは違って見えた。
     欠けているのではない。
     収まりきらなかったのだ。
    「リディア様は、長く生きた」
     ラウルが言った。
    「どの家にも嫁がず、どの玉座にも座らず、どの国の名簿にも祈名を置かなかった。けれど毎朝、鐘の下で祈名帳を開いた」
    「鐘守りだったのですか」
    「いいや」
     ラウルは首を振った。
    「鐘守りではない。城主でもなかった。姫でも、聖女でも、亡霊でもない。ただ、リディア様だった」
     ノアは墓標を見た。
    「公国の記録では、白いヴェールの拒絶者と」
    「間違いではない」
     ラウルは言った。
    「ただ、足りない」
     老鐘守りは墓地の外へ向かって歩き出した。
    「墓だけ見ていては分からない。来なさい」
     ノアは後に続いた。
     最初に案内されたのは、墓道だった。
     墓地から城へ続く、細い石畳の道。苔があり、石の隙間から小さな草が生えている。古い墓を訪れる人々は、ここを通って祈りに来る。
    「ここにも」
     ラウルは杖の先で石を軽く叩いた。
    「リディア様の祈名は結ばれた」
    「墓道に、ですか」
    「祈りが途中でほどけないように」
     ノアは足元を見た。
     ただの石畳に見えていたものが、急に静かなものに変わる。
     次に井戸へ向かった。
     城の中央井戸は今も使われていた。女たちが水を汲み、子どもが桶を覗き込んで叱られている。井戸の縁は何度も修復され、手で触れられた場所だけが滑らかになっていた。
    「名も水も濁らせるな、と」
     ラウルは少し笑った。
    「リディア様はうるさかった。井戸の蓋を開けっぱなしにした子どもを、よく叱っていた」
     ノアはその光景を想像した。
     教本の中の拒絶者ではない。
     井戸の蓋を閉めなさいと叱る、黒いヴェールの女性。
     次は橋だった。
     城下へ続く小さな石橋。川は浅く、夏には子どもが足を入れて遊ぶという。
    「外へ行く者は、橋を渡る前に名を呼ばれた。帰る者は、渡った後に名を呼ばれた」
    「なぜですか」
    「名が外でほどけないように。帰った時、違う名で呼ばれないように」
     橋の上を、若い女が渡ってきた。
     向こう岸から子どもの声がした。
    「母さま」
     女は振り返り、笑った。
     呼び名が橋を渡る。
     ノアはその声を聞いた。
    「ただ、厳しかった」
     ラウルは橋の欄干に手を置いた。
    「渡りの記録を面倒がる者には容赦がなくてな。融通が利かないと、よく陰で文句を言われていた」
     ノアはもう一度、橋を見た。
     祈りの帰る場所は、綺麗な伝説だけで守られたわけではないのだと思った。
     最後に、城門へ向かった。
     古い門は、何度も修復されていた。公国式の金具も混じっているが、門石そのものは古い。リディアの時代から残っているものだと、ラウルは言った。
    「リディア様は、遠くへは行けた」
     ラウルは門石に手を置いた。
    「だが、長くは離れなかった。離れれば体より先に名が疲れる、と話していたそうだ」
     ノアは門を見上げた。
    「それは、苦しいことだったのでは」
    「苦しかっただろう」
     ラウルは即座に答えた。
    「だから私は、美しい犠牲という言い方を好かん」
     ノアはラウルを見た。
     老鐘守りの横顔は厳しかった。
    「リディア様は飾られるためにあの契りを選んだのではない。怖がり、迷い、怒り、後悔もした。それでも、名の行き先を他人に決めさせなかった人だ」
     風が門を抜けた。
     古い石の隙間で、低く音がする。
     鐘ではない。
     けれど、何かの返事のように聞こえた。
     ノアは尋ねた。
    「墓には、なぜ祈名を刻まなかったのですか」
    「刻めなかった」
     ラウルは言った。
    「リディア様の祈名は、ひとつの墓に帰るものではなくなっていた。門に、鐘に、墓道に、井戸に、橋に、祈名帳の余白に。城の境に、薄く、広く、結ばれていた」
     ノアは袖口の銀糸を見た。
     公国鐘院の印。
     祈名を大きな鐘の下で守るための印。
     誇りだった。
     今も、誇りでないわけではない。
     けれど、それだけでは足りないのだと思った。
    「守ると言うなら」
     ラウルは言った。
    「まず何を変えてはならないかを知りなさい」
     墓地へ戻る頃には、光は少し傾いていた。
     リディアの墓の前で、ノアは立ち止まった。
     もう一度、墓標を読む。
     リディア。
     アレイア。
     その先の空白で、ノアは止まった。
     書かれていない名を探さなかった。
     欠けていると思わなかった。
     ノアは公国式ではなく、アレイア式で頭を下げた。
     そして耳を澄ませた。
     墓道を歩く足音。
     井戸の水音。
     橋を渡る子どもの声。
     門を抜ける風。
     遠く鐘楼の沈黙。
     祈りは、まだ帰る場所を持っていた。
     ノアは小さく祈った。
     どうか、名が名のままでありますように。
     城壁の方で、鐘は鳴らなかった。
     けれどノアには、その沈黙が、確かに何かを守っているように聞こえた。



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    好きな曲を、物語として聴き直す「再解釈シリーズ」を書いています。歌うのも好き。

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