
第30話「実験」
「さぁ行こう新たな世界へ。」
天城が右手を下ろした瞬間だった。
池袋全域の空気が変わる。
ビルの窓ガラスが一斉に震え、街の至る所から黒い靄が立ち上っていく。
それは侵食体ではない。
もっと細く、もっと静かで、もっと禍々しい。
まるで人の心そのものが街から抜け出しているようだった。
「……なんだ、あれ。」
朱莉が呟く。
答えたのは陽斗だった。
未来を見た彼の顔からは、いつもの余裕が完全に消えていた。
「感情だ。」
「え?」
「街中の人間の感情が吸われてる。」
その一言で、玲奈は天城を睨みつけた。
「まさか……街全体を同期させる気?」
「正解。」
天城は穏やかに頷く。
「人間一人の感情では限界がある。」
「だから都市そのものを共鳴させる。」
「五十万人分の孤独。」
「五十万人分の怒り。」
「五十万人分の絶望。」
「そのすべてを一つにすれば、人類は次の段階へ進める。」
「狂ってる。」
玲奈の声は低かった。
怒りを押し殺した声。
「何人死ぬと思ってる。」
「死なない。」
天城は即答する。
「人格が消えるだけだ。」
その言葉に、湊の中で何かが切れた。
「それを死ぬって言うんだよ。」
静かな声だった。
天城は湊を見る。
「君はそう思うか。」
「当たり前だ。」
「感情があるから人は人なんだ。」
「悲しいから泣く。」
「嬉しいから笑う。」
「誰かを失うから苦しむ。」
「全部なくしたら、それはもう人間じゃない。」
天城は少しだけ目を細めた。
「なるほど。」
「やはり君は私とは違う。」
その時だった。
街中から悲鳴が聞こえた。
「キャァァァァ!!」
「助けて!」
「なんだこれ!」
遠くのスクリーンが一斉に消える。
信号機が点滅を始める。
道路では人々が次々と倒れていく。
膝をつき、自分の胸を押さえながら苦しそうにもがいている。
「玲奈!」
湊が叫ぶ。
玲奈は即座にインカムへ手を伸ばした。
「こちら第六班!」
「池袋全域で大規模侵食を確認!」
「民間人の避難を最優先!」
『こちら本部!』
珍しくオペレーターの声が焦っていた。
『侵食指数が急上昇しています!』
『レベルB……A……』
ノイズが走る。
『S級反応確認!!』
全員が息を呑んだ。
S級。
本部が存在を認めている最高危険度。
記録上、一度も討伐成功例はない。
朱莉が小さく笑った。
「はは……。」
乾いた笑いだった。
「B+とかA級どころじゃなかったじゃん。」
陽斗も苦笑する。
「だから見えなかったのか。」
玲奈は剣を握り直した。
「神代。」
「はい。」
「今から作戦を変更する。」
湊は頷く。
玲奈は仲間三人を見渡した。
「目的は天城じゃない。」
「街を守る。」
「でも!」
湊が言いかける。
玲奈は首を振った。
「天城は今の私たちじゃ倒せない。」
悔しさが滲む声だった。
「でも。」
「市民は助けられる。」
「それがSYNKよ。」
その言葉に朱莉が笑う。
「了解、隊長。」
陽斗も拳を握った。
「ようやく仕事らしくなった。」
湊も静かに頷く。
「全員、生きて帰りましょう。」
玲奈は少しだけ笑った。
「当たり前。」
四人は同時に駆け出す。
その姿を見送る天城は、不思議そうに呟いた。
「理解できない。」
誰に聞かせるでもなく。
「勝てないと分かっているのに。」
「なぜ人は前へ進む。」
その疑問に答えたのは悠真だった。
黒い感情に飲まれながらも、わずかに意識を取り戻していた。
「仲間……だからだ。」
天城はゆっくり振り返る。
悠真は血を吐きながら笑っていた。
「一人じゃ無理でも。」
「四人なら……。」
「そう信じられる。」
天城は何も言わない。
ただ静かに目を閉じる。
そして。
「やはり。」
小さく呟いた。
「それが、人間か。」
次の瞬間。
池袋駅の地下から、とてつもない轟音が響いた。
地面が裂ける。
アスファルトが盛り上がる。
ビルを押し退けながら、漆黒の"何か"が姿を現した。
それは侵食体という言葉では足りなかった。
巨大な人型。
全身を覆う黒い感情。
胸部には無数の人間の顔が浮かび、泣き、叫び、笑い、苦しんでいる。
その姿を見た瞬間、本部から震える声が届く。
『確認しました……。』
『コードネーム……』
一拍の沈黙。
そして。
『《ノア》です。』
その名が告げられた瞬間、池袋の夜が絶望へと染まった。
――続く。