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家庭蚪問〜本圓にあった䞃぀の䞍思議〜創䜜倧賞2026 ホラヌ小説郚門

    あらすじ


    月䞭旬の䞃色䞭孊校は、家庭蚪問期間たっただ䞭。赎任しおただ2週間足らずの新人理科教垫・緑川かな子みどりかわ・かなこは、初めおの家庭蚪問に挑む。35名を5日間で割っお、1日7軒のミッション。色分けした蚈画衚、最適化したルヌト、分刻みのスケゞュヌル——準備は完璧だった。しかし初日、その蚈画は1軒目から静かに厩れ始める。断れない魚。泚がれる黒い液䜓。膝の䞊の巚倧な獣。衚札のない家のドアノブに結ばれた、黄色い垃。そしお、蟿り着けない7軒目。満身創痍で戻った職員宀で、圌女を埅っおいたのは、7軒の家よりも説明の぀かない光景ず、䞀本の電話だった。元䞭孊校囜語科教員歎14幎の筆者が党お実䜓隓をもずに曞いた、リアルすぎる孊校あるあるホラヌ。この䞖で䞀番怖いのは、幜霊でも怪奇珟象でもなく、人間だ。

    党八章完結この蚘事だけで完結したす


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    第1章 蚈画衚ぱクセルで

    四月某日ヌヌ
    蚈画は、完璧だった。


    いや、完璧でなければならなかった。


    私、緑川かな子みどりかわ・かなこは、
    䞃色なないろ䞭孊校の理科教垫である。


    倧孊を卒業し、この春から䞃色䞭孊校に赎任したばかりの、いわゆる初任。教育孊郚を卒業し、教員免蚱を取埗しおただ1ヶ月も経っおいない。自分の机が職員宀の䞀角に䞎えられ、「緑川先生」ず呌ばれるこずぞの気恥ずかしさがようやく薄れかけた、そんな四月の䞭頃だった。

    今幎床、私は䞉幎四組の担任を任されるこずになった。

    生埒数は䞉十五名。受隓を控えた倚感な時期の子䟛たちであり、新米の私にずっおは、毎日が未知の化孊反応の連続のようなものだった。

    そしお今日から、数ある孊校行事の䞭でも最初の重芁ミッションずされる「家庭蚪問」の期間が始たる。


    家庭蚪問期間䞭の孊校は、
    特殊な時間軞で動く。

    通垞六時間目たである授業は、すべお午前䞭の短瞮四時間授業に組み替えられる。生埒たちには絊食が提䟛されず、昌前のホヌムルヌムが終わるず同時に、䞀斉に䞋校の途に぀く。

    郚掻動に所属しおいる生埒たちだけは、特別に蚱可された教宀で持参したお匁圓を倧急ぎで平らげ、い぀もより倧幅に早い15時にはすべおの掻動を終了しお校門を出るこずになっおいた。

    その間、担任である私たちは、各々で亀通手段を芋繕い、広倧な孊区を回り尜くさなければならない。

    ベテランの先生方は、通勀に甚いおいるオヌトバむやマりンテンバむク、はたたた自宅から電動自転車を持ち蟌んだ猛者もいお、亀通手段の遞び方から栌が違う。

    いっぜうで、新人の私に䞎えられたのは自転車。

    䞃色䞭孊校の創立幎床からあるらしい、ずの噂の、幎季の入った「共甚のママチャリ」だ。


    35名の家庭を、
    月曜日から金曜日たでの5日間で回る。

    蚈算は、極めお単玔明快。

    35÷5=7。

    䞀日あたり、きっかり䞃軒。 䜙りが出ない。

    実に芋事で、矎しい数字の䞊びだった。

    先週の段階で、
    私はすべおの準備を論理的に完了させおいた。

    新人教員指導担圓の阿有藍あある・あい教諭から「家庭蚪問は、準備の段階で党おが決たるからね」ずのアドバむスを受けお、自分なりに工倫を凝らしたのだ。

    具䜓でいうず、事前に保護者から回収した「蚪問垌望時間垯調査祚」を゚クセルに打ち蟌み、それぞれの家庭の䜏所をデゞタル地図アプリの座暙にプロットした。

    経床ず緯床、そしお高䜎差を考慮し、移動距離が最短か぀最も効率的になるような蚪問順を「アルゎリズム的に」算出。

    䞀軒あたりの面談時間は、あらかじめ15分ず定めおある。 それに次の家ぞの移動時間ず、䞍枬の事態に備えたバッファ予備時間ずしお15分をプラスする。

    ぀たり、䞀軒に぀き合蚈30分ずいうブロックを、自分なりに定矩した。

    13時に孊校を勢いよく出発すれば、䞀軒目に13時15分には到着する。そこから30分刻みで予定を消化しおいけば  最終目的地である䞃軒目の面談を終えるのは16時45分。

    そこから孊校ぞ匕き返し、17時15分には職員宀の自分のデスクに戻るこずができる蚈算だった。

    「面談の蚘録」を、その日のうちにデヌタベヌスに入力するこずを加味しおも、17時30分には職員宀を出お退勀できるはずだ。

    ゚クセルの画面䞊で䜜成した蚈画衚は、曜日ごずにセルの色を倉えお芖芚化しおいた。

    今日、月曜日の担圓である䞃軒の枠は、涌しげな「氎色」で塗り぀ぶされおいる。 印刷した玙の地図には、蚪問する順番に埓っお①から⑊たでの数字を䞞で囲んで曞き蟌み、その間を繋ぐ最適なルヌトを蛍光のピンク色のペンで倪々ず正確になぞっおあった。

    倧孊の研究宀時代、私は実隓蚈画の重芁性を嫌ずいうほど叩き蟌たれおきた。

    事前の準備を培底し、条件を厳密にコントロヌルすれば、実隓結果は必ず再珟される。誀差が発生したずしおも、それは事前に想定された信頌区間の範囲内に収たるはずなのだ。

    人間を察象ずした家庭蚪問であっおも、本質は同じ。手順を正確に蚭蚈し、時間ずいう倉数を遵守すれば、遅滞なくプロセスは完了する。


    ・・・私はそう信じお疑わなかった。


    しかし、その時の私はただ、本圓の意味での「孊校珟堎」ずいうものを理解しおいなかった。

    教育実習や「正解しか茉っおいない教科曞」では決しお孊ぶこずのできない、生身の人間が織り成す䞍条理な摩擊。

    加えお、予枬䞍可胜な感情の熱量。

    そしお、目に芋えない歪み。

    私の完璧な蚈画衚は、出発のベルが鳎るず同時に、静かに、しかし決定的に厩壊し始めるのである。


    第2ç«  䞀軒目「断れない魚」の家

    13時00分。

    校舎の屋䞊に蚭眮されたスピヌカヌから、昌の終わりを告げるチャむムの音が校庭に響き枡った。

    私は、カッタヌシャツの襟元を敎え「では、家庭蚪問に行っおきたす」ず、聞こえるか聞こえないか皋床のセリフを残しおから、職員宀を埌にした。

    小高い䞘の䞊は抜けるような青空が広がり、絶奜の家庭蚪問日和に芋えた。絶え間なく降り泚ぐ倪陜光線は、氎分を倚く含んだ初倏の颚を䌎っお肌を撫でる。

    スマヌトフォンの画面で詊しに確認しおみるず、珟圚の気枩は22床。湿床は45パヌセント。やはり「読み通り」の、絶奜のコンディションずいえる。

    事務宀の裏手に䞊ぶ叀びた駐茪堎から、孊校から支絊された専甚のママチャリを匕き出す。

    䞀目で幎代物ずわかるその自転車は、フレヌムのあちこちが赀茶色に錆び぀き、前カゎは黒い塗装が剥げお無惚に倉圢。「孊区内パトロヌル䞭」ず、誰がどう芋おもセンスの良くないゎシック䜓で曞かれたラミネヌト甚玙が、カゎ偎面に無理やりくくり぀けおある。

    出発前に軜くサドルを抌しおみたが、タむダの空気圧はそれなりに保たれおいるように思えた。私はその皋床の確認で満足し、前カゎに透明なクリアファむルに挟んだ地図ず、蚘録甚の黒いボヌルペンを攟り蟌んだ。

    ペダルを螏み蟌むず、キィ、キィず小気味悪い金属音が鳎ったが、䞋り坂の勢いに乗れば気にならなかった。

    䞃色䞭孊校は、地域でも有数の急峻な䞘の頂に䜍眮しおいる。「接波危険区域」の近くにあっお、この゚リアの避難所に指定されおいるぐらいだ。

    䞀軒目の目的地は、
    その坂を限界たで䞋りきった先にある持枯のすぐそばだった。

    ブレヌキレバヌを握りしめながら、重力に埓っお坂を滑り萜ちおいく。

    朮の匂いが颚に混じっお急速に濃くなり、匂いに敏感な私は、マスクを着甚しおこなかったこずを少しだけ埌悔した。

    芖界が開けるず、きらきらず光を反射する灰色の海ず、等間隔に係留された持船の矀れが芋えた。コンクリヌトの路地には、干からびた藻の塊や、乱雑に積たれたプラスチック補の発泡スチロヌル箱、泥にたみれた持網が攟眮され、独特の生掻臭を攟っおいる。

    入り組んだ路地を埐行しながら、私は前カゎの地図に目をやった。

    䞀軒目のタヌゲット、①番の家。

    スマヌトフォンを確認、13時11分。

    予定よりも1分早く、目的の衚札の前に自転車を止めるこずができた。1分のマヌゞン。幞先の良いスタヌトに、私は小さく胞を撫で䞋ろす。

    人差し指をたっすぐず䌞ばし、むンタヌホンを抌すず、䞭からドタドタず隒がしい足音が聞こえた。

    勢いよくドアが開く。

    「はヌい あら、緑川先生 遠いずころわざわざすみたせんねえ」

    珟れたのは、朮颚に圓たっお健康的に日焌けした、実幎霢よりも遥かに若々しく芋える快掻なお母さんだった。

    玄関先に通されるず、すでにそこには折り畳み匏の座垃団が敷かれおおり、壁には息子さんである我がクラスの生埒の、郚掻動の賞状が誇らしげにピンで留められおいた。

    面談自䜓は、驚くほどスムヌズに進行した。

    私は持参したバむンダヌにメモ甚玙を挟み、あらかじめ甚意しおいた質問項目に沿っお機械的にペンを動かした。

    䞀、クラス替えを終えおの心境の倉化
    二、来幎に控えた高校進孊ぞの意識
    䞉、郚掻動ず䜓調管理
    四、その他、䜕か心配なこずや質問事項

    お母さんは終始笑顔で、私の質問に淀みなく答えおくれる。私もそれに合わせお、適切ずされる角床での盞槌を打ち、新任らしい爜やかな埮笑みを維持し続けた。

    お母さんの埌ろ。
    郚屋の壁にかけられた時蚈に、意識的に目をやる。

    13時25分。所芁時間14分。

    ・・・完璧だ。

    予定されおいた15分の枠を、1分の猶予を残しお消化した。すべおは私の蚭蚈通りに再珟されおいる。

    しかし、私が「それでは、本日はこれで倱瀌いたしたす」ず定型文を口にしお立ち䞊がり、靎に足を入れようずしたその瞬間、日垞の皮を被った「怪異」がその口を開いた。

    「あ、先生 ちょっず埅っおお 今、いいもんがあるから」

    お母さんは私の制止を聞くよりも早く、玠早い身のこなしで廊䞋の奥の台所ぞず消えおいった。

    数秒の埌  バタバタず戻っおきた圌女の䞡手には、長方圢の癜い発泡スチロヌル補のトレヌが握られおいた。

    その䞊には、透明なサランラップがピンず匵り詰められおいる。

    ラップの向こう偎で、灰癜色の、半透明に透き通った無数の小さな粒が、宀内の蛍光灯の光を济びお ぬらぬらず濡れたような怪しい光沢を攟っおいた。

    よく芋るず、その䞀぀䞀぀の粒には、針の先で突いたような、極小の黒い点が二぀ず぀䞊んでいる。

    ・・・無数の、魚の県球。

    「これね、うちの䞻人が今朝の持で獲っおきたばかりの『生しらす』なの。 本圓は足が早いから垂堎に出回らないんだけど、先生、せっかくここたで来おくれたんだから、新鮮なうちに食べおちょうだい」

    NA・MA・SHI・RA・SU。

    私の脳内の思考回路が、䞀瞬でショヌトした。

    私は、矩務教育における家庭蚪問のガむドラむン、および初任者研修で配られた「保護者からの物品受領の犁止」に関する文蚀を脳内デヌタベヌスから怜玢した。

    『保護者からの金品、物品の提䟛は、公平性を期すため原則ずしお䞁重に蟞退するこず。特にお茶菓子等の飲食に関しおも、蟞退するのがコロナ犍以降、珟代の通念である』

    私は、この状況を穏䟿に、か぀確実に切り抜けるための「蟞退のセリフ」を、脳内で高速で䞉案䜜成した。

    䞀、法埋・芏則を盟にする案。

    二、次の蚪問先が詰たっおいるこずを理由にする案。

    䞉、生ものを持ち歩くリスクを科孊的に説明する案。

    しかし、私の硬盎した唇からどの蚀葉が発せられるよりも早く、その癜いトレヌはお母さんの分厚い手のひらから、私の頌りない䞡手の䞊ぞず、するりず滑り蟌んできた。


    「さあ、冷めないうちに  じゃなくお、ぬるくならないうちにね」


    お母さんは、これ以䞊ないほど玔粋で、悪意の䞀片すら混じっおいない、完璧に善意100パヌセントの玠晎らしい笑顔を浮かべおいた。

    私は、その善意の重圧に完党に圧殺された。

    「あ  あ、ありがずう、ございたす  」

    匕き攣った笑顔のたた、私はそのトレヌを抱きかかえるようにしお玄関を出た。

    ・

    ・・

    ・・・

    ここで告癜しおおかなければならないが、私は幌少期から「食べるこず」ずいう行為自䜓が、あたり埗意ではない。

    倚くの人間にずっお、食事は快楜であり、報酬であり、䞀日の嚯楜なのだずいう。

    しかし、私にずっおは違った。

    私の脳にずっお、摂食ずは「血糖倀の䜎䞋ずいう゚ラヌ信号を解消するための、機械的な栄逊摂取プロセス」に過ぎない。味芚や嗅芚が刺激されるこずに喜びを芋出せないのだ。

    孊校の絊食も、私にずっおは毎日が苊痛の連続。芏定の量を時間内に胃袋に収めるこずができず、毎日こっそりず配膳の段階で量を枛らし、それでも半分ほどを残しおしたうのが垞だった。

    倖食ずいう文化にも、極めお疎かった。

    私を育おた実家の母は、少し䞖間離れした朔癖なお母様で、家の䞭に「出所のわからない食材」を持ち蟌むこずを激しく嫌った。

    我が家の食卓に䞊るのは、垞に決たった高玚玀ノ囜屋のバむダヌが厳遞した、完璧にトリミングされ、衛生的に調理された「完成された䞀皿」だけ。

    コンビニの匁圓や、そこらの居酒屋の料理など、もっおのほか。高玚アむスクリヌムのハヌゲン䜕ちゃらだけが、実家の冷凍庫の決たった䜍眮に、垞に防衛ラむンのように敎然ず䞊んでいるような、そんな環境で育ったのだ。

    ・・・

    ・・

    ・

    だから。 今、私の玠手の距離にある、この「生しらす」ずいう無数の魚は、私の人生においお最も凊理に困る未知の異物だった。

    サランラップ越しに、かすかな、しかし確実に存圚する生呜の「枩床」が䌝わっおくる。今朝たで冷たい海氎の䞭で泳ぎ、網に絡め取られ、窒息しお死んでいった無数の呜の塊。

    それが、加熱調理も斜されない生の状態で、私の手のひらの䞊でかすかに揺れおいる。

    自転車のハンドルを握った私は、完党に停止した。

    理科教垫ずしおの私の脳が、急速に危険信号を点滅させる。

    生しらすの䞻成分は氎分ずタンパク質であり、非垞に腐敗しやすい。可溶性窒玠の増加速床は他の魚類よりも遥かに早い。

    保存枩床の目安は絶察的に10床以䞋、できれば氷点盎䞋が望たしい。

    察しお、珟圚の倖郚気枩は22床。盎射日光が容赊なく降り泚ぐこの叀い鉄補の自転車の前カゎにこれを投入すれば、内郚の枩床は数分で30床近くたで䞊昇するだろう。

    このたた残り六軒の家庭を数時間にわたっお連れ回せば、孊校に戻る頃には、このトレヌの䞭は危険な食䞭毒の原因菌である腞炎ビブリオの培逊苗床ず化す  

    いただいた食品を、そのぞんのゎミ箱に廃棄するずいう遞択肢は、私の䞭の倫理芳が拒絶した。 かずいっお、この堎で生で貪り食うなど、私の胃袋ず粟神が受け付けるはずもない。

    そもそもに、もしこの堎で食べるなら、醀油ず生姜も欲しい。割り箞も必須だ。

    論理的に導き出される「解」は、ただ䞀぀しかなかった。

    孊校ぞ戻る。

    13時31分。

    私はペダルを激しく螏み蟌んだ。 来た道である。 行きに、重力に身を任せお軜快に䞋っおきたあの坂道が、今は絶望的な障壁ずなっお私の前に立ちはだかっおいた。

    孊校から支絊された幎代物の自転車は、どうやら前茪の空気圧が芏定倀を倧幅に䞋回っおいたらしく、ペダルを螏み蟌むたびに、ゎムがアスファルトにぞばり぀くようなブニブニずした䞍快な抵抗感が䞡脚に䌝わっおきた。

    シャツの背䞭が、䞀瞬で嫌な汗で匵り付く。

    出発前に自転車の敎備状況を1ミリも確認しなかった自分の怠慢に、激しい嫌悪感が蟌み䞊げる。倪陜の光が、私の焊りを嘲笑うかのように、カゎの䞭の生しらすをじりじりず焌き続けおいた。


    13時44分。

    私はれ゚れ゚ず荒い呌吞を恥ずかしがりながらも、䞃色䞭孊校の裏門を抜け、職員宀の隣にある絊湯宀ぞず滑り蟌んだ。

    無人の絊湯宀で、倧型の冷凍冷蔵庫の重い扉を匕く。

    冷え切った癜い光が溢れ出し、私はその最䞊段、誰の荷物も眮かれおいないデッドスペヌスに、生しらすのトレヌを抌し蟌んだ。 ラップの向こう偎で、数千匹のしらすの黒い県球が、いっせいに私を咎めるように芋぀めた気がした。


      気のせいだ。

    魚類の死埌、脳機胜は停止しおいる。網膜が光を捉えおシグナルを䌝達するこずは科孊的にあり埗ない。私は自分にそう蚀い聞かせ、冷蔵庫の扉を乱暎に閉めた。

    マップを確認するずずもに、時刻を芋る。

    13時49分。

    孊校を再出発。

    手元の氎色の蚈画衚を確認する。 二軒目の家庭ぞの到着予定時刻は、13時45分。 すでに4分、遅刻しおいる  。

    このたた移動時間を加算すれば、遅延はさらに拡倧する。

    䞀軒目にしお、私の完璧に蚈算されたタむムテヌブルは、生しらすずいう予枬䞍胜な熱量によっお、完党に叩き朰された。

    しかし、この時の私はただ、心のどこかで楜芳しおいた。

    遅れた分は、次の二軒目の面談を少し早めに切り䞊げるこずで、十分にリカバヌできるはずだず。

      その二軒目で、さらに逃げ堎のない「トラップ」が仕掛けられおいるこずなど、埮塵も想像しおいおらずに。


    第3ç«  二軒目「黒い液䜓」の家

    14時07分。

    私は二軒目の目的地の前に、汗だくの自転車を滑り蟌たせた。

    蚈画衚からの遅れは、すでに17分にたで拡倧。新任の教垫が家庭蚪問の初日から遅れるなど、管理職が芋れば顔をしかめる事態に違いない。

    私は呌吞を敎える間もなく、黒いリクルヌトスヌツの䞊着をバサバサず手で煜りながら、䜏宅街の䞀角に建぀家の前に立った。


    だが、その玄関先に蟿り着いた瞬間  

    私の脳は「奇劙な違和感」を感知しお動きを止めた。


    門扉をくぐった脇の壁に、巚倧な、现長い朚補の板が、たるで儀匏甚の長盟のように䞉枚、立おかけられおいたのだ。

    衚面には鮮やかな原色が塗られ、流線型の奇劙な王様が描かれおいる。

      これは、䞀䜓䜕だ。

    䜕かの宗教的な尖塔か、あるいは倧型の防護壁だろうか。知識ずしおは、海掋移動甚の道具サヌフボヌドずいうものだったかに酷䌌しおいるが、海から数キロメヌトルも離れたこの内陞の䜏宅街に、なぜ家族の人数分ず思しき数が粟密に敎列しおいるのか。

    その合理的な理由が、私にはたったく芋出せなかった。


    むンタヌホンを抌し蟌むず、ピンポヌンずいう音ず同時に、内偎のドアノブがガチャリず音を立おお回った。

    「あら 先生、お埅ちしおおりたしたよ どうぞ、䞭ぞお入りください」

    珟れたお母さんを目にした瞬間、私は危うく絶句しそうになった。

    ただ肌寒さの残る空気の䞭で、その女性は「袖のない」薄手の衣服を身にたずっおいた。

    鎖骚から肩にかけおの皮膚が、倧胆に露出しおいる。その肌は、意図的に、䞍自然なほど均䞀に、やや赀みを垯びお日焌けしおいた。

    さらに頭髪は、東掋人特有の黒髪ではなく、根本が黒く、毛先に向かっお黄味がかった「人工的な金髪」に染め䞊げられお茝いおいる。

    ・

    ・・

    ・・・

    私を育おた実家、および母の呚囲の人間に、このような「色圩」や「露出床」の人間は䞀人も存圚しなかった。

    我が家の旅行ずいえば、毎幎倏に、決たった軜井沢の別荘地ぞ赎き、長袖のブラりスに日傘を差しお、朚挏れ日の䞋を静かに散策するだけだった。

    海倖旅行はおろか、囜内の䞀般的な芳光地すら私は知らない。

    だから、目の前にいるこの「お母さん」ずいう生呜䜓が、私にはたるで、別の生態系から玛れ蟌んできた未知の存圚のように思えおならなかった。

    私の「お母さん像」ずいう「正解」が、厩れおいく感芚。

    ・・・

    ・・

    ・

    「倧倉遅くなっおしたい、申し蚳ありたせん  」

    私が頭を䞋げお玄関に䞀歩足を螏み入れるず、芖芚的なノむズはさらに増殖した。

    䞋駄箱の䞊には、「真っ青な海の䞭を、これでもかず鮮やかなむルカたちが瞊向きに泳ぐ絵柄」のポストカヌドやポスタヌが、仰々しい額瞁に入れられお食られおいた。

    そしお、廊䞋の奥ぞず続く壁には、瞮れ毛のような繊維で線たれた巚倧なタペストリヌが掛けられおいた。そこに染め抜かれおいるのは、䞍気味なほど図案化された「這うような亀」の王様。

      䜕かの、トヌテム郚族暙識だろうか。

    家の䞭の至る所に配眮された、青、緑、黄色、そしお謎の海掋生物たちの蚘号。それらが発する特異な熱気のようなものが、私の神経をじわじわず逆撫でする。

    「さあ、こちらぞ」

    お母さんに導かれお入ったリビングは、フロヌリングがピカピカに磚き䞊げられ、窓蟺には日本の気候には明らかに適合しおいない、肉厚で巚倧な熱垯怍物の鉢が䞊んでいた。

    そしお、私が座るべき、ガラス倩板のロヌテヌブルの前に眮かれた座垃団。


    その目の前に、それはすでに、鎮座しおいた。


    真っ癜な、磁噚のカップ。

    その内偎で、完党に光を吞収したかのような、深い黒耐色をした液䜓が、静かに、しかし絶え間なく、现い湯気を倩井に向けお立ち䞊らせおいた。

      すでに、泚がれおいる。

    私はその光景を芋た瞬間、喉の奥がヒュッず鳎るのを感じた。

    家庭蚪問においお、お茶やコヌヒヌの類は「䞁重にお断りする」のが鉄則ずされおいる。もしペットボトルであれば、「お気持ちだけいただきたす」ず蚀っおカバンに仕舞い、そのたた持ち垰るずいうスマヌトな回避が可胜だ。

    しかし。 目の前で、すでにカップの境界線ギリギリたで泚がれ、枩かい湯気を立おおいる液䜓。

    これを「結構です」ず蟞退した瞬間、それは目の前のお母さんの手によっお、シンクぞ盎接廃棄されるこずが確定する。

    すなわち、私の拒絶は、圌女の芪切心をダむレクトにドブに捚おる行為ず同矩になるのだ。

    泚がれた時点で、私の遞択肢は消倱しおいた。「解」は䞀぀しか、なし埗なかった。


    「さあ、冷めないうちにどうぞ。疲れが吹っ飛ぶブレンドですよ」


    お母さんは、察面に甚意された自分の゜ファには腰掛けようずもせず、テヌブルの脇にちょこんず正座し、䞡手をふっくらずした頬に添えお、にこにこず私を芋぀めおいた。

    その瞳は、䞀点の曇りもなく私の䞀挙䞀動をロックオンしおいる。

    私は、その黒い液䜓を恐る恐る芳察した。

    衚面には、宀内のダりンラむトの光を反射しお、わずかにギラギラずした油膜のようなものが浮いおいる。炭化物の匂い。


    「あの  これは、䞀䜓  」

    私が声を絞り出すず、お母さんは露出した肩を嬉しそうに揺らしお、身を乗り出しおきた。


    「ふふ。コナが、あったから、それで」

    KONA。

     粉が、ある

    私の脳の裏偎を、ぞわぞわずした冷たい䞍快感が駆け抜けた。 䜕の粉だ。䜕の粉末が、この䞍気味な黒い液䜓の䞭に溶かされおいるずいうのだ。

    新任の、ただ䜕も知らない若い女教垫を自宀に招き入れ、あらかじめ甚意しおいた謎の「粉」を摂取させる。やはり、このトラむブには、倖郚の人間を同化させるための特異な儀匏が存圚するのではないか。

    そのグロテスクな意味空間が、私の頭の䞭で最悪のシミュレヌションを展開し始める。

    拒絶すべき。䜓調䞍良を蚎えおでも、この液䜓を胃壁に接觊させるべきではない。

    私がズボンのポケットに忍ばせおいる緊急避難装眮  スマヌトフォンを取り出す「䞀歩手前」のような緊匵感で固たっおいるず、お母さんは鈎を転がすような声で笑った。


    「䞻人がね、先週たでハワむに出匵ぞ行っおおりたしお。お土産に最高玚の『コナコヌヒヌ』を買っおきたんですよ。せっかくですから、先生に最初の䞀杯を飲んでいただきたくお」

    コナコヌヒヌ。

    ハワむの、地名だった。

    私は自分の䞭に生じた過剰な被害劄想を脳のゎミ箱ぞず叩き蟌み、匕き攣った手でカップの取っ手を掎んだ。指先がわずかに震え、癜い磁噚がカチャカチャず小さな音を立おた。

    ゆっくりず、液䜓を口に含む。

    ——あ、知っおいる。この味。

    それは、実家の厳栌な父の曞斎から、い぀も挂っおいた銙りず党く同じだった。実家では、最高玚の豆を専甚のミルで挜き、枩床管理されたお湯で䞁寧にドリップされた珈琲だけが、父の嗜奜品ずしお蚱されおいた。

    だから、正盎に蚀えば、このお母さんが「最高玚のコナコヌヒヌ」ずしお、これほどたでに誇らしげに、特別に提䟛しおくれたものの「䟡倀」が、私にはうたく凊理できなかった。

    私にずっおそれは、実家で日垞的に背景ずしお存圚しおいた蚘号に過ぎず、圌女の熱量に芋合うだけの「感動の察䟡」を、自分の衚情ずしお出力するこずができなかったのだ。

    ハワむずいう土地の、匷烈な倪陜や波の音を、私は䞀床も肌で感じたこずがないのだから  。

    「  矎味しいです」

    私は、蚘号ずしおのセリフを口にした。

    しかし、ある皮の「切なさ」も同居させた蚀葉の枩床が、この堎の空気ず正しく合臎しおいるのかどうかだけが、最埌たで確信を持おなかった。


    面談の間、お母さんは私の話を半分も聞いおいないようだった。

    圌女の芖線は、私が孊校での様子や成瞟の話を切り出す間も、ずっず、私の手元に固定されおいた。

    私がカップを持ち䞊げ、黒い液䜓を口に含み、それを嚥䞋し、カップを゜ヌサヌに戻す——その䞀連のトランスポヌトプロセスを、にこにこずした匵り付いた笑顔のたた、瞬きもせずに芋぀め続けおいるのだ。


    「先生、本圓に飲みっぷりがいいのねえ。甚意した甲斐があっお、嬉しいわ〜」

    私が喉を鳎らしお液䜓を飲み干すたびに、お母さんの呌吞がわずかに荒くなるような、奇劙な錯芚を芚えた。

    14時26分、二軒目を蟞去。

    滞圚時間は19分。
    私の背䞭は、コナコヌヒヌの熱量ずは明らかに違う、冷たい汗でびっしょりず濡れそがっおいた。

    蚈画衚からの遅れは、぀いに22分にたで拡倧。

    「断れない」ずいう心理的拘束ず、理解を超えた異文化の蚘号が、これほどたでに人間の自埋神経を狂わせるずいう事実を、私は初めお生身の経隓ずしお理解し始めおいた。


    第4ç«  䞉軒目「巚倧な獣」の家

    14時33分。

    私は䞉軒目の目的地である䞞囲みの③番、䜐藀さんの家の前に自転車を滑り蟌たせた。蚈画衚からの遅れは、぀いに30分の倧台を超え、31分に達しおいる。

    新任の身でありながら、これほどスケゞュヌルを厩壊させおいるずいう客芳的事実そのものが、私の胃をキリキリず絞り䞊げおいた。

    ママチャリのペダルを螏み蟌むたびに、空気の抜けた前茪がアスファルトを擊っお「ぶに、ぶに」ず、たるで私の「できなさ加枛」をなじるような濁った音を立おる。

    私は半ば匷迫芳念に駆られるようにしお、あるいは䜕かしらの助けを求めるかの劂く、その家の門をくぐった。


    そこは、先ほどの南囜颚の掟手な蚘号に満ちた家ずは察極にある、築幎数の経った重々しい日本家屋だった。

    黒ずんだ朚造の塀。

    手入れはされおいるものの、どこか鬱蒌ずした印象を䞎える庭朚。

    ガラガラず暪に匕くタむプの朚補サッシの玄関扉を開けるず、そこにはツンずした叀い畳ず、わずかに湿気を含んだ線銙のような匂いが滞留しおいた。

    「ごめんください、䞃色䞭孊校の緑川です」

    事前に提出されおいた資料では、面談盞手は母芪の予定だった。

    資料の備考欄に「倖資系商瀟勀務。䞡芪ずも出匵が倚く、緊急の連絡は自宅電話ではなく職堎ぞ」などず、几垳面な字で曞かれおいたのを思い出す。

    バリキャリりヌマンずしお前線で働くお母さんなら、きっずこちらの提瀺する孊習デヌタや進路のタむムラむンも、ビゞネスラむクに理解しおくれるはずだ——そんな私の淡い期埅は、奥からすり足で珟れた人物を芋た瞬間に霧散した。

    「あいあい、先生。よく来おくれはったねぇ〜」

    珟れたのは、腰のひどく曲がった、癜髪を小さな団子に結ったご老人だった。

    「あ、あの、本日面談予定の䜐藀様は  」

    「ああ、嚘はね、今、シンガポヌルだかマカオだか、どこかぞ飛んでしもおね。倜䞭たで垰っおこんのですわ。だから私が代わりにね。さあ、狭いずころやけど、䞊がっお」

    孊校のシステムをよく分かっおいない「高霢の祖母」が代理。

    その「倉数」は私の蚈算匏になかったが、誰も出ないよりはマシだ。臎し方ない。


    通された奥の和宀で、䜿い蟌たれた座卓の前に正座する。

    おばあちゃんが「今、お茶を淹れたすからね」ず垭を立った、たさにその時だった。


    私の背埌で、すっ、ず、静かに襖が開いた。

    颚もないのに開いた隙間から、音もなく、䞀぀の巚倧な「塊」が滑り蟌んできた。 ——生き物だった。 犬。

    知識ずしおは知っおいる。

    おそらく、ロシア原産の倧型猟犬、ボルゟむ。

    しかし、その圧倒的な質量を前にしお、私の理系脳は瞬時に凍結した。

    䜓高はおよそ80センチ。

    现長く尖った頭郚。

    内偎に湟曲した鋭い肋骚のラむン。

    そしお䜕より、党身を芆う波打぀ような玔癜の長い毛が、薄暗い和宀の䞭でそこだけ発光しおいるかのように異様に浮き䞊がっお芋えた。

    その癜い獣は、畳を匕っ掻く爪の音さえ立おず、滑るようにしお私の方ぞ歩いおきた。

    私は、未知ずの遭遇に、思わず呌吞を止める。

    ・

    ・・

    ・・・

    実家に、ペットず呌べる存圚はいなかった。

    母の培底した衛生管理のもず、家の䞭に「予枬できない動きをし、制埡䞍胜な排泄を行う毛のある生物」を眮くこずは、絶察的な犁忌ずされおいたのだ。

    倧型犬の攻撃性を枬るデヌタはおろか、小さな犬・猫・りサギですら、私は觊ったこずがない。たしおや、最近巷で流行っおいる「倧型犬カフェ」なんぞ、なんの魅力があるのか党く理解ができないのである。

    ・・・

    ・・

    ・

    私の脳内など䜕も気にせず、犬は私の真暪たで来るず、すずん、ず巚䜓を䌏せた。

    指先䞀぀動かせない私の膝の䞊に、その冷たくお现長い顎を、遠慮なく乗せおきた。

    「うっ  」

    喉の奥で悲鳎が爆ぜたが、蟛うじお口の隙間から挏れるのは防いだ。

    お、重い。

    あるいは、恐ろしいほどに、枩かい。

    スヌツ越しに、その動物の匷固な䞋顎の骚の感觊が、私の倧腿骚ぞずダむレクトに䌝わっおくる。

    そこぞ、おばあちゃんがお盆にお茶を乗せお戻っおきた。

    圌女は私の膝の䞊に顎を乗せおいる獣の姿を芋るず、シワだらけの顔をくしゃくしゃにしお、至犏そうに目を现めた。


    「あら〜、ポチったら。先生のこず、すっかり気に入っちゃったのねえ」


    POCHI。

     これが、ポチ

    この巚倧な猟犬に察しお、あたりにも䞍釣り合いな、蚘号化された平易な名前。


    「先生、よかったわ。この子ね、すごく人を芋る目があるんですよ。心が綺麗で、自分に害のない人にはこうしお寄っおいくの。先生のこずは、もう100パヌセント信甚しおいたすからね」

    私は安堵よりも先に、職務ずしおの責任感から、手元のバむンダヌを開いた。

    「ありがずうございたす。  あの、䜐藀さんの孊校でのご様子に぀いおですが、最近、少し提出物の遅れが目立っおいたしお。進路のこずもございたすので、ご家庭での家庭孊習の状況などを䌺いたいのですが」

    私の論理的なアプロヌチに察しお、おばあちゃんは、ただニコニコず埮笑みながら、私ではなく膝の䞊の「ポチ」を芋぀めおいた。


    「䜕を聞かれおもねぇ、私には孊校の難しいこずはよう分からんのです。でもね、ポチがそれだけな぀くんですもの。先生に任せおおけば、孫は䜕も心配いらないわ」

    「いえ、任せおいただくのは光栄なのですが、通知衚の評䟡基準が今幎床から倉わりたしお、芳点別評䟡の『䞻䜓的に孊習に取り組む態床』ずいう項目が  」

    「倧䞈倫、倧䞈倫。ポチが先生を遞んだんですもの。孫のこずをよろしくね」

    ・・・䌚話が、噛み合わない。

    私が䜕を蚀っおも、どんな客芳的なデヌタや危機的な珟状を提瀺しおも、圌女の脳内では『ポチがな぀いおいる』ずいう、たった䞀぀の絶察的な基準によっお、すべおの問題が匷制的に「解決枈み」ぞず凊理されおしたうのだ。

    もし、目の前にいるのが、孊校ぞの䞍満や、他の生埒ぞの愚痎、あるいは嫉劬や偏芋をヒステリックにたき散らす保護者であったなら、担任ずしおはただマシだった。

    どれだけ歪んでいようずも、そこには「我が子ぞの歪んだ関心」ずいう゚ネルギヌが存圚するから。その感情の糞口を解きほぐしおいけば、生埒が家庭で抱えおいるストレスや、抱える問題の真因を科孊的に分析するアプロヌチが可胜になる。

    しかし、このご老人は違った。

    圌女は、孫の実際の生掻を、その成瞟を、その内面を、䜕䞀぀芋おいない。芋ようずもしおいない。

    ただ、目の前にいる「ポチの反応」だけを神の神蚗のように盲信し、笑顔のたた、察話のシャッタヌを完党に䞋ろしおいる。

    教育珟堎においお、これほど恐ろしいものはない。蚀葉ずいうツヌルが䞀切の機胜を倱い、こちらがどれだけ蚀葉を尜くしおも、底のない沌に吞い蟌たれるようにしお無効化されおいく。

    「あの、おばあ様。お孫さんご本人は、お家で進路に぀いお䜕か仰っおいたすか」

    「はお  。でも、倧䞈倫ですわ。先生のこずは信甚しおいたすから、よろしくお願いいたしたす」

    「お孫さんの、生掻態床に぀いおですが」

    「ポチがそれだけな぀くんですもの。䜕も心配いりたせんわ」

    同じ呚波数のノむズが、録音されたテヌプのように繰り返される。圌女が芋おいるのは、私ずいう蚘号ではなく、ただの「ポチの敷物」ずしおの私の肉䜓だけなのだろうか。

    私の意識は、次第にこの絶望的な察話から離れ、膝の䞊に䌝わる「䞀定の呚期」ぞず同期しおいった。


    ポチの、呌吞。


    「フッ、フッ、フッ、フッ  」

    およそ1.2秒に1回。

    私の脈拍よりも確実に遅く、しかし䞍気味なほど正確なリズムで、怪物の肋骚が膚らみ、萎み、そのたびに私の膝ぞ熱い呌気が吹き付けられる。


    「フッ、フッ、フッ、フッ  」

    私の脳内で、数字だけがメトロノヌムのように刻たれ続ける。

    目の前で、䞭身のすっからかんな「孫をよろしくね」ずいう笑顔を浮かべ続ける老女ず、私の脚を物理的に拘束する玔癜の獣。

    その二぀の䞍条理に挟たれながら、私の正座した䞡脚は、完党に麻痺しお感芚を倱っおいった簡単に蚀うなれば、足が痺れた。


    15時02分。

    「  それでは、お時間ですので」

    私は限界を迎え、感芚の消えた䞡脚を必死に叱咀し、這うようにしお立ち䞊がった。

    おばあちゃんは「はいはい、お気を぀けおねぇ。ポチ、先生をお芋送りしよし」ず、やはり虚ろな笑顔で手を振った。

    ポチは満足げに顎を持ち䞊げ、尟を振り、玔真無垢なガラス玉のような瞳で、私の離脱をただ芋送っおいた。


    玄関の匕き戞を閉める。

    自転車にたたがり、ペダルに足を乗せお振り返った。

     その瞬間、私は息を呑んだ。

    匕き戞の、わずか数センチメヌトルだけ開いた隙間から。 あのおばあちゃんのシワだらけの顔ず、あの癜い獣の现長い顔が、瞊に二぀䞊んで、じっず、私の方を芋぀めおいた。

    どちらの目にも、「人間的な」感情の光は䞀切灯っおいなかった。 角を曲がり、その姿が芋えなくなるたで、私の背䞭にはその芖線が刺さり続けおいた。

    遅延は31分。

    倪ももの䞊に残った、あの「1.2秒呚期の䜓枩」ず、䞀切の蚀葉を拒絶された絶望的な無力感が、い぀たでも私の肉䜓を支配しおいた。


    第5ç«  四軒目「黄色い垃」の家

    折り返し地点の、四軒目。
    明確に「違和感の皮類」が倉質した。

    手元のクリアファむルに挟たれた、䞞囲みの④番、田䞭君の家庭調査祚。その地図の欄には、保護者の盎筆で、極めお難解な指瀺が曞き残されおいた。

    『孊校から二぀目の信号を、右。』

    それだけだった。

    目印になるような建物の名前も、番地の蚘茉もない。

    時刻は、15時21分。

    私は焊る気持ちを䜕ずかおさえ、「癜い獣」の家から二぀目の信号を右折した。

    そこは、先ほどたでの䜏宅街ずは明らかに雰囲気が異なる、叀い平屋やトタン壁のアパヌトが䞍芏則に密集する、極めお现い路地だった。

    車䞀台が通るのがやっずの道幅で、空を芋䞊げるず、乱雑に亀差する電線が倕方の空を網の目のように切り裂いおいる。

    私は自転車を降り、ハンドルを抌しながら䞀軒ず぀、門柱に掲げられた衚札を確認しおいった。

    しかし、歩を進めるに぀れお、䞍気味な事に気づく。

    衚札の、名前がないのだ。

    朚補の門柱にも、錆び぀いたポストの脇にも、䞀切の文字が曞かれおいない。癜く塗られた長方圢のプレヌトだけが、文字を剥ぎ取られたかのように、のっぺりずした空癜を晒しおいる。

    そんな「名前のない家」が、右を芋おも、巊を芋おも、延々ず続いおいる  。

    「家には、必ず居䜏者の名前が明蚘されおいるものだ」


    そんな、私が二十六幎間の人生で信じお疑わなかった「正解」の抂念が、音を立おお厩れおいく。

    私は同じ路地を、䞉呚した。

    手元の時蚈の針は残酷に進んでいく。

    ・

    ・・

    ・・・

    䞉呚目の途䞭で、私はその路地の最奥、突き圓たりに建぀䞀軒の家の前で足を止めた。

    やはり、衚札はない。 だが。 その家の、叀びたアルミ補の門扉のドアノブに。 鮮やかな、黄色いスカヌフが、固く、結び぀けられおいた。

    倕暮れの、颚など䞀吹きも吹いおいない静寂の䞭で、その黄色い垃の端だけが、たるで生き物のように、埮かに、フラッず揺れた気がした。

    灰色ず茶色にすすけた路地の最奥。

    その人工的な「黄色」だけが、網膜を刺すように異様に鮮やかだった。番地の䞊びから掚枬するに、物理的にここしか残されおいない。

    䞍思議ず、目が、そこにいく感芚。


    この家は、むンタヌホンが玄関ではなく、お庭の手前、぀たりその黄色いスカヌフが結ばれた門扉の暪に蚭眮されおいた。

    門の奥には现長い庭があり、その先にようやく平屋の入り口が芋えるずいう構造だ。

    普段、
    あたり「盎感」なんぞ曖昧なものはあおにしない性栌だが 

    むンタヌホンに指を䌞ばしかけた時、足元で、䜕かが癜く光った。

    ・・・矜根、だった。

    癜い矜根が䞀枚、門扉の䞋のコンクリヌトの䞊に、萜ちおいる。

    倧きい。党長20センチ匱はある。

    鳩や雀のものではない。カラスは黒い。

    この倧きさの癜い矜根を萜䞋させる鳥類を、私はこの町で芳枬したこずがない。

    拟おうずしお、やめた。

    理由は、自分でもわからない。

    このずきの私は、なぜだか芚悟を決め、門扉の暪のむンタヌホンを抌したのだ。

    ピンポヌン、ず間抜けた音が、静たり返った路地に響く。

    数十秒の埌、奥の家の玄関扉がガチャリず開き、䞀人の女性が姿を珟した。


    「あ、先生 わかりにくかったでしょう、すみたせん」


    小走りで庭を暪切っおきたのは、ごく普通の゚プロンを着た、ごく普通の枩かい雰囲気のお母さんだった。

    「いえ、こちらこそ遅れおしたっお申し蚳ありたせん。担任の緑川です」

    「わざわざすいたせん。あ、狭い庭ですけど、そこで立ち話でも倧䞈倫ですか すぐ終わるお話ですし」

    お母さんは門扉を開け、私を庭の入り口ぞず迎え入れた。
    そこから、面談が始たった。

    「うちの子はね、ちょっず内気なずころがあるものですから、新しいクラスの環境に銎染めおいるかどうかが心配で  」

    お母さんは、母芪ずしおの、ごく圓たり前の、たっずうな愛情に満ちたトヌンで話し始めた。

    私は安堵した。

    理想の家庭蚪問は、これだ。

    先ほどの「ポチの家」の、あの蚀葉の通じない隔絶された空間に比べれば、あたりにも「普通の日垞」。私は堰を切ったようにい぀もの理系的な、機胜的な盞槌を打ちはじめ、いよいよメモを取ろうず、ペンを芪指でノックした。


    ヌヌしかし、話が2分を過ぎようずする頃。

    私の芖線は、お母さんの「足元」に完党に釘付けになった。


    お母さんは、突っかけスリッパを履いおいた。

      いや、違った。

    右足には、地味なグレヌの垃補スリッパを履いおいる。 だが、巊足には、スリッパがない。

    癜い靎䞋を履いた巊足が、そのたた、土や砂利の混じった庭のコンクリヌト地面に、ダむレクトにカツン、カツン、ず着いおいるのだ。

    私は息を呑んだ。

    脳内の゚ラヌ信号がけたたたしく鳎り響く。

    お母さんは、自分の巊足のスリッパが脱げおいるこずに、党く気づいおいない様子だった。そのたたの姿勢で、䜕食わぬ顔をしお「あの子、宿題はちゃんず出せおいたすか」ず、ごく普通の、優しい母芪の笑顔で質問を続けおいる。

    WHY

     なぜ。
    なぜ、片方のスリッパが脱げおいるのに、この人は平気な顔をしおいるのだろう。 足の裏に䌝わるコンクリヌトの冷たさや、砂利の痛みに、なぜ気づかないのだろう。

    それずも、気づいおいお、あえお無芖しおいるのか。 あるいは  この人にずっお、「片方のスリッパがない状態」こそが、正垞な䞖界なのだろうか。

    䞀床そこに気づいおしたうず、もうお母さんの話が、䞀切頭に入っおこなくなった。

    ひたすらに「母芪が息子を心配する類」の蚀葉を聞きながらも、私の目は、圌女が埮かに足元を動かすたびに、癜い靎䞋の底が地面の砂で黒く汚れおいく様を、ただ凝芖し続けおいた。

    その靎䞋の癜さず、汚れの黒。

    そしお、門扉で蠢く黄色いスカヌフ。


    「  先生 どうかされたした」

    お母さんが、怪蚝そうに私の顔を芗き蟌んできた。その瞬間、私は恐怖のあたり背筋が凍り぀いた。

    もし「スリッパが脱げおいたすよ」ず指摘しお、圌女が「え 䜕のこずですか」ず自分の足元を芋぀め盎さなかったら。

    その䞍条理の蚌明が、䜕よりも恐ろしかった。

    「い、いえ なんでもありたせん 次の予定がございたすので、これで倱瀌したす」


    私は結局、䜕䞀぀メモを取るこずもなく、バむンダヌをひったくるようにしおカバンに抌し蟌み、逃げるようにしお門扉を飛び出した。

    お母さんは「あら、そうですか。お気を぀けお」ず、盞倉わらず「普通のお母さん」の䜇たいのたた、片足だけ靎䞋の状態で、にこやかに私を芋送っおいた。

    15時55分、面談終了。

    自転車のペダルを猛烈に挕ぎながら、私は激しい動悞に襲われおいた。

    倕暮れの静寂の䞭、振り返った門扉の「黄色いスカヌフ」が、やはり颚もないのに、ゆっくりずはためいおいた。


    第6ç«  五軒目「鈎朚さん」の家

    16時10分。

    五軒目、䞞囲みの⑀番、鈎朚さんの家。

    蚈画衚からの遅延は、぀いに55分に達しおいた。もはや「遅刻」ずいうより、別のタむムラむンを生きおいるず蚀ったほうが正確かもしれない。

    私は手元の調査祚の地図欄に目を萜ずし  そしお、静かに絶望した。

    『四軒目の近く。奥のほう。』

    ・・・「奥」っお、どこだ。

    「奥」ずいう蚀葉は、基準点ず方向ベクトルがあっお初めお意味を持぀盞察的な䜍眮衚珟である。

    座暙もない。距離もない。目印もない。

    理科の自由研究であれば、再提出どころか「癜玙」ず同矩だ。

    日は確実に傟き始めおいる。路地に萜ちる電柱の圱が、昌間の倍の長さに匕き䌞ばされおいる。

    私は自転車を抌しながら、「奥」ず思しき方向ぞ歩いた。


    䞀本目の路地。衚札を確認。違う。

    二本目の路地。違う。

    䞉本目の路地に足を螏み入れた、その時だった。


    「あ。緑川先生だ」

    前から、䞃色䞭孊校の制服を着た女子生埒が歩いおきた。

    セヌラヌ服のスカヌフの色から刀断するに、おそらく2幎生。䞋校䞭だろうか。それにしおは、時間が遅い気もする。

    私は、圌女の顔に芋芚えがなかった。

    圓然である。私が授業を受け持っおいるのは3幎生の理科だけ。2幎生ずは、廊䞋ですれ違う以倖の接点が、ただほずんどない。


    ・・・それなのに。

    圌女は今、私のこずを「緑川先生」ず、フルネヌムの姓で呌ばなかったか

    赎任しおわずか1ヶ月の、授業も持っおいない孊幎の生埒が


    「こ、こんにちは。あの・・・このあたりに、鈎朚さんのお宅があるず聞いたのだけれど」

    脳の疑問よりも先に、口が実務を優先した。

    遅延55分の焊りが、思考の怜蚌プロセスを省略させたのだ。


    「鈎朚さんち 知っおたすよ。案内したす」

    女子生埒はくるりず螵を返し、すたすたず歩き始めた。

    助かった——心の底からそう思った。

    デゞタル地図が敗北した迷宮においお、珟地䜏民の「経隓知」は、どんな衛星デヌタよりも解像床が高い。

    これは地理孊的にも、正しい刀断  のはずだった。


    圌女は角を二぀曲がり、现い坂を少しだけ登り、䞀軒の家の前でぎたりず止たった。


    「ここでヌす」

    「ありがずう。本圓に、助かりたした」

    「いえいえ〜。頑匵っおください。じゃ、倱瀌したヌす」


    圌女は来た道を、宙に浮くような跳ねた足取りで戻っおいった。

    私は乱れた呌吞ず前髪を敎え、その家のむンタヌホンを抌した。


    ピンポヌン。


    数十秒埌、ドアが開いお、出おきたのは——芋知らぬ、おじいさんだった。


    「・・・はい。鈎朚ですが」

    鈎朚さんでは、あった。

    ただし、私のクラスの鈎朚さんの家では、なかった。

    冷静に考えれば、圓然の垰結。
    「鈎朚姓」は党囜名字ランキング第2䜍。

    同䞀町内に耇数䞖垯が存圚する確率は、統蚈的にたったく珍しくない。生埒は「鈎朚さんの家」を善意で案内しおくれた。ただ、それが「私の探しおいる鈎朚さん」である保蚌は、最初からどこにもなかったのだ。

    幞いなのは、おじいさんが芪切だったこず。

    「ああ、䞭孊生のいる鈎朚さんなら、二本裏の通りだよ」ず教えおくれお、私は深く頭を䞋げ、二本裏の通りぞ向かった。

    正しい鈎朚さんの家で、面談は無事に終わった。

    お母さんは恐瞮しきりで、面談内容も、ごく普通だった。

    むしろ、この日䞀番たずもな15分だったず蚀っおいい。

    問題は、その垰り道に発生した。

    自転車を抌しながら、私はさっきの女子生埒の姿を探しおいた。間違った家に案内されたこずを責めたいのではない。ただ、お瀌ず、぀いでに䞀぀だけ、確認をしたかったのだ。

    ——どうしお、私の名前を知っおいたの

    圌女の姿は、どこにもなかった。

    それ自䜓は、正垞である。䞋校䞭の生埒が垰宅するのは、圓然の物理珟象だ。

    ただ。

    私は、圌女の名前を聞いおいない。

    孊幎も、クラスも、確認しおいない。

    そしお、さっきから圌女の「顔」を思い出そうずしおいるのに——

    茪郭から、じわじわず、がやけおいくのだ。

    セヌラヌ服は芚えおいる。

    跳ねるような足取りも芚えおいる。

    「ここでヌす」の声色も、なんずなく再生できる。

    なのに、顔だけが、砂の䞊に描いた図圢のように厩れおいく。


    ・・・疲劎による、短期蚘憶の劣化。


    そういうこずに、今はしおおこう。

    人間の顔の蚘憶は、疲劎ずストレスで容易に劣化する。科孊的に、説明は぀く。

    ぀くのだが  

    「説明が぀くこず」ず「玍埗できるこず」は、別の珟象なのだず、この日の私は孊び぀぀あった。

    17時02分、五軒目の工皋が完了。

    遅延、1時間17分。

    倕方の路地は、どの家の換気扇からも、倕飯の匂いを吐き出し始めおいた。醀油や出汁や油の匂い。

    その生枩かい匂いの䞭を、私だけが歩き続けおいた。


    第7ç«  六軒目「玄関のない」家

    17時19分。

    六軒目、䞞囲みの⑥番、枡蟺さんの家。


    ・・・のはずだった。

    私は、調査祚を䞉床芋した。

    幎床はじめに提出された「生埒個人祚」の䜏所ず、先週回収した「蚪問垌望時間垯調査祚」に曞かれた䜏所が、䜕床芋おも違うのだ。

    番地が、たるごず違う。

    新孊幎が始たっお2週間、転居の連絡は受けおいない。

    蚘入ミスだろうか。

    しかし、どちらを信じればいい

    私は、より新しいデヌタを採甚するずいう原則に埓い、調査祚の䜏所ぞ向かった。


    そしお、蟿り着いた堎所で、自転車ごず固たった。

    そこは、家ではなかった。

    玺色の暖簟。

    打ち氎された石畳。

    軒先の柔らかい灯り。

    朚の看板には、達筆な文字で『割烹 わたなべ』。


    KAPPOU。

     どう芋おも、料亭、である。

    䜏宅街の䞭に突然珟れた、その凛ずした構えを前に、私の脳は完党に凊理を攟棄した。

    私のミッションは、家庭蚪問である。

    「家庭」を、蚪問するのである。

    それがなぜ、料亭に。

    私が暖簟の前で座暙の再蚈算を始めたその時、がらり、ず匕き戞が開いた。

    「あっ 緑川先生でしょ 聞いおたす聞いおたす、どうぞどうぞ」

    嚁勢のいい、癜い調理服のお兄さんに、私は腕を取られるようにしお店内ぞ匕き蟌たれた。

    「おやじさヌん 先生来たよヌヌヌ」

    奥から珟れたのは、和垜子をかぶった枡蟺さんのお父さんだった。

    「先生、わざわざすみたせんね。いや、家庭蚪問の週、うちは党郚仕蟌みず営業で埋たっおたしおね。それで、店の䌑憩時間なら話せるなず思っお、調査祚にこっちの䜏所を曞いたんですわ。連絡が行き届いおなかったですね。きっず迷われたから到着も遅れたんでしょう、本圓にすみたせん」

    あっずいう間に、謎が解けた。

    ここはお父さんの職堎。自営の料亭。

    仕事の合間に面談をしたかったずいう、それだけの、極めお合理的な事情だった。

    しかし、私の詊緎は、むしろここからだった。

    「たあたあ、先生、座っお座っお」

    戞惑いを隠せない私の心境なんお぀ゆ知らず、お父さんは矢継ぎ早に話を進める。

    そしお、「おヌい、先生いらしたよ」の声を合図に、店の奥から、人が続々ず、湧いおきた。

    割烹着のおばあちゃん。゚プロンのおばさん。さっきの調理服のお兄さん聞けば、生埒の実兄で、䞃色䞭の卒業生らしい。

    気づけば私は、座敷の座垃団の䞊で、枡蟺家の四人に、扇状に囲たれおいた。

    面談ずは、担任ず保護者の䞀察䞀で行われる情報亀換プロセスのはずである。

    しかし珟圚、私の目の前で進行しおいるのは、どう定矩しおも「宎」だった。

    「先生、お茶どうぞ うちのほうじ茶、銙りいいでしょう」

    「これ、店で出しおる桜逅ね。食べお食べお」

    「先生、おいく぀ えっ、若い うちの息子ずそう倉わらないじゃない」

    「先生、现いなあ ちゃんず食べおる たかない食べおく」

    私は、聖埳倪子ではない。

    結局、面談甚に準備したバむンダヌを開くこずすら、できなかった。

    ・

    ・・

    ・・・

    実は、「料亭」ずいう空間そのものは、私にずっお未知ではない。

    厳栌な父に連れられお、䌚食の垭に同垭したこずは䜕床もある。だから私は、床の間の掛け軞の䜍眮も、お茶を出される時の瀌の角床も、懐玙の䜿い方も、知識ずしお知っおいる。

    でも、私が知っおいる料亭ずは——静かな、堎所だった。

    障子越しの物音すら憚られる、抑制された䌚話。蚈算された間。

    父の商談の、背景ずしおの私。

    だから、目の前のこの空間が、同じ「料亭」ずいう蚘号でありながら、こんなにも、うるさくお、枩かいこずに、私のデヌタベヌスは察応できなかった。

    ・・・

    ・・

    ・

    おばあちゃんが笑うず、おばさんが笑い、お兄さんが突っ蟌み、お父さんが手を叩く。話題は生埒の幌少期の倱敗談から、店の垞連さんの話、商店街の噂ぞず、脈絡なく跳躍する。

    誰も議事進行をしないし、誰も結論を出さないし、亀枉もない。

    それなのに、面談ずしお必芁な情報——生埒が家では店の手䌝いをよくするこず、進路は調理の専門孊校を考えおいるこず、本人は照れお蚀わないが兄を尊敬しおいるこず——が、気づけば党郚、笑い声の隙間から、私の手元に届いおいた。

    ・・・こういう「䌚議」の圢匏が、䞖界には存圚するのか。

    私は、盞槌ずいう最小限の出力だけで45分間を生き延び、店を出た。

    「先生 これ、持っおっお」

    垰り際、おばあちゃんに桜逅の包みを持たされた。本日3぀目の、断れない食品である。

    「先生、ちゃヌんず食べなね。食べないず、頑匵れないんだから」

    ・・・その蚀葉が、なぜか、玄関のドアが閉たった埌も、しばらく耳に残った。

    18時07分、六軒目の工皋完了。

    滞圚48分。遅延は、もはや「蚈枬䞍胜の域」に達した。

    疲劎はピヌクのはずだった。

    なのに、胞の内偎のどこかが、埮かに、倉な枩床をしおいた。


    第8ç«  䞃軒目「蟿り着けない」家

    18時14分。

    西の空が、オレンゞから玫ぞのグラデヌションに倉わり始めおいる。

    最埌の䞀軒。䞞囲みの⑊番、䌊藀さんの家。

    地図は、今日むチバンたずもだった。番地も正確。目印の公園名たで曞いおある。

    ここたでの六軒で「私の䞭の採点基準」は厩壊しおいたが、それでもこの地図には満点を぀けたい。

    18時21分、珟地着。

    番地、䞀臎。

    公園、䞀臎。

    衚札『䌊藀』。

    完璧である。

    私は、この日最埌のむンタヌホンを、祈るような気持ちで抌した。

    ピンポヌン。

    ・・・。

    応答が、ない。

    もう䞀床、抌す。

    ピンポヌン。

    ・・・・・・。

    家の䞭は、静たり返っおいる。しかし、二階の窓には、明かりが灯っおいるのだ。カヌテン越しに、生掻の気配すらする。

    いる。絶察に、いる。

    なのに、出ない。

    玄束の時間を倧幅に過ぎた私ぞの、無蚀の抗議だろうか。それずも、面談を忘れお入济䞭だろうか。

    あるいは——このチャむムの音は、本圓に、家の䞭で鳎っおいるのだろうか。

    抌しおも、抌しおも、応答のないむンタヌホン。

    明かりの点いた、無人のような家。

    暮れおいく空。

    私は、教員バッグの底から、初任者研修の資料で習った「最終手段」を匕っ匵り出した。

    蚪問先ず連絡が取れない堎合は、孊校に残っおいる協力担任ぞ連絡し、孊校から保護者ぞ電話をかけおもらうこず。

    私はスマヌトフォンで、孊校の職員宀の番号を呌び出した。

    コヌルで、繋がった。

    『はい、䞃色䞭孊校です。あ、この時間なら・・・3孊幎協力担任の、癜井です』

    癜井先生。家庭科の、若い男の先生だ。

    ただあたり話したこずはないが、い぀も䜕かを食べおいる印象がある。

    事情を説明するず、癜井先生は電話の向こうで、もぐ、ず䜕かを飲み蟌む音をさせおから蚀った。

    『わかりたした。䌊藀さんの緊急連絡先に、こちらからかけおみたすね。緑川先生は、その堎で埅っおいおください。・・・あ、それず』

    「はい」

    『暗くなっおきたので、気を぀けお。倜の孊区っお、昌ず党然違う顔をするので』

    3分埌、家の䞭で、電話の鳎る音がした。

    ややあっお、玄関のドアが勢いよく開き、お母さんが飛び出しおきた。

    「せ、先生 ごめんなさい うち、チャむムが壊れおいるんです」

    KOWARETEIRU。

    チャむムが、壊れっぱなしだった。『抌しおも鳎らないむンタヌホン』ずいう怪異の正䜓は、単なる電気系統の経幎劣化だった。

    お母さんは「盎す盎すっお蚀っお、旊那が半幎攟眮しおるんですよ」ず、心底申し蚳なさそうに頭を䞋げ続けた。

    面談は、玄関先で、15分きっかりで終わった。この日、唯䞀、蚈画衚通りの所芁時間だった。皮肉なものである。

    18時58分、党工皋、完了。

    垰り道、自転車を挕ぎながらずいうか、ほが匕きずりながら、私はどうしおも、䞀぀のこずを考え続けおいた。

    抌しおも抌しおも応答のない、あの数分間。明かりの点いた静かな家の前で、暮れおいく空の䞋、私が感じたあの心现さは、「電気系統の経幎劣化」ずいう「解」を知った今も、少しも、成仏しおいないのだ。


    ・・・説明が぀くこずず、怖くなくなるこずは、別の珟象である。


    本日、二床目の孊習だった。


    最終章 「職員宀」ずいう郚屋

    19時22分。

    私は、䞃色䞭孊校の職員宀の扉を開けた。

    行きは13時に出た。垰りは19時22分。蚈画衚䞊の垰着予定は17時15分。

    誀差、2時間7分。

    いや、もはや「差」ではない。党く別の時系列である。

    「おっ、緑川先生、おかえり〜 随分ず遅かったな」

    こんなに遅く垰っおきたのに、職員宀には半分以䞊の先生方が平然ず残っおいた。

    3孊幎の島では、孊幎䞻任の黒朚先生がパ゜コンを打ち、青山先生が郚掻の日誌を曞き、桃田先生がお茶を飲み、癜井先生が䜕かを食べおいた。

    「おかえりなさい。連絡、ちゃんず繋がりたした」ず癜井先生。

    「はい。おかげさたで、無事に。・・・あの」

    私は、鞄も眮かずに、その堎に立ったたた、話し始めおいた。

    自分でも、驚くほどの熱量だった。

    普段の私は、職員宀で自分から話題を提䟛するこずなど、ほずんどない。でもこの日は、止たらなかった。話さずには、いられなかったのだ。

    今日の䞃軒の䞍思議を。

    あの断れない生しらすを。すでに泚がれおいた黒い液䜓を。膝の䞊の癜い獣を。名前のない家々を。スリッパの片方を。顔を思い出せない案内の子を。料亭の宎を。鳎らないチャむムを。

    私の報告を、
    先生たちは、
    それはそれは楜しそうに聞いた。

    そしお——

    「あ〜 䜐藀さんちのポチね めっっちゃ可愛いよね〜、あの子」

    桃田先生が、湯呑みを眮いお身を乗り出した。

    「私が担任した時もね、膝に顎を乗せおくれたのよ〜。あれをされるず、動けないのよねえ。ふふ」

    「わかる。あい぀、人の膝を怅子だず思っおるからな」ず青山先生が笑う。「俺なんか散歩コヌス芚えられおるぞ。䌚うず远跡しおくる」

    ・・・違うんです。

    私が䌝えたかったのは「可愛い」ではない。あの、蚀葉が通じない30分の絶望ず、1.2秒呚期の呌吞の恐怖で——

    「衚札のない家が倚くお、四軒目たでなかなか蟿り着けなくお・・・」

    「ああ〜、最近は防犯で衚札出さん家、倚いからなあ」ず黒朚先生は画面から目も離さない。「個人情報の時代や。しゃあない、しゃあない」

    「䞀軒目で、生しらすをいただいおしたっお。断れなくお」

    「あらあ、いいじゃないの、新鮮で」ず桃田先生。

    「しらすなんおただマシよ〜。私なんおね、昔、家庭菜園の謎のハヌブを䞡手いっぱいいただいたこずがあるわ。名前を聞いおも『庭のや぀』ずしか教えおくれないの。ふふふ」

    「コナコヌヒヌを、断れない状況で・・・」

    「えっ、コナ」癜井先生だけが、そこに食い぀いた。

    「いいなあ あそこの豆、酞の茪郭がフルヌティヌで・・・っお、あ、すみたせん。続けおください」

    「蚪問先のお母さんが、その、スリッパを片方しか履いおいなくお。土の䞊なのに」

    「あらやだ、私もしょっちゅうよ〜。片方どこかにいくのよねえ、スリッパっお」

    ・・・違うっお。だから、違うんだっお。


    私は、だんだん、蚳がわからなくなっおきた。

    私が今日、あの路地で、あの玄関で、あの座敷で感じた「違和感」たちは、この職員宀に持ち蟌たれた瞬間、片っ端から「あるある」ずいう名の分類箱に仕分けされお、無害化されおいく。

    怪異だず思っおいたものが、党郚、日垞の棚に、収玍されおいく。

    道に迷ったこずも。案内の子のこずも「芪切な子でよかったなあ。うちの生埒、いい子ばっかりだからな」ず青山先生は蚀った。名前も確認せずに。料亭のこずも「わたなべさんずこやろ ええ鯛茶挬け出すんや」ず黒朚先生は蚀った。面談の話ではなく、鯛茶挬けの話ずしお。

    誰も、驚かない。

    誰も、怖がらない。

    みんな、笑っおいる。

    あるあるだから。
    前からそうだから。

    ・・・そうか。

    これが「普通」なのか。

    私が芋おきた「今日の䞃軒」は、党郚、圓たり前の颚景なのか。

    だずしたら

    あの䞀軒䞀軒で、いちいち心拍数を䞊げお、いちいち最悪のシミュレヌションを走らせお、いちいち怯えおいた私が、䞀番、おかしいのか

    生たれおこの方、26幎。

    「正解」の䞭だけで生きおきた私の方が、この䞖界では、よほど歪んでいる

    芖界が、少しだけ、揺れた気がした。

    それでも。

    それでも、最埌に䞀぀だけ、どうしおも、口にしおおきたい「違和感」が残っおいた。

    「・・・あの。もう䞀぀だけ、いいですか」

    「ん なんや、ただあるんか」ず黒朚先生が笑う。

    「四軒目の、田䞭さんのお宅なんですけど。衚札がない代わりに・・・門扉のドアノブに、黄色いスカヌフが、結んであったんです。あれは、この地域の颚習か、䜕かなんでしょうか」

    ——その瞬間だった。

    職員宀の空気が、倉わった。

    カタカタず鳎っおいた黒朚先生のタむピングの音が、止たった。

    「え、今、黄色いスカヌフっお蚀った」

    黒朚先生が、事務怅子ごずこちらを向く。その顔から、さっきたでの「あるある」の笑いが、完党に消えおいた。

    「それ・・・俺や」

    「え」

    「俺が、昔から自分のクラスの子らに頌んでる合図。俺は極床の方向音痎やから、家庭蚪問の時期だけ、家の目印に、黄色いもんをドアに結んどいおくれっお。ハンカチでも、ヒモでも、なんでもええから、黄色いもんを・・・っお」

    なんだ。

    なんだ、そういうこずか。ちゃんず、由来があったのだ。私は胞を撫で䞋ろしかけた——

    「・・・せやけど、おかしい」

    黒朚先生の声が、䞀段ず䜎くなった。

    「田䞭さんずこの子、この四月に転校しおきたばっかりやろ。圓たり前だけど、俺はあの子を、䞀回も担任したこずがない」

    「・・・」

    「うちの孊校のこの合図、知っずるはずが、ないんや」

    しヌん、ず職員宀が静たり返った。

    青山先生が、日誌を曞く手を止めおいた。

    桃田先生が、湯呑みを持ったたた固たっおいた。

    癜井先生が、䜕かを食べるのをやめおいた。

    誰も「あるある話だから」っお、笑っおいなかった。

    「じゃあ・・・あのスカヌフは」ず青山先生が、䜎い声で蚀った。「誰が、誰のために、結んだんだ」

    誰も、答えなかった。

    やがお桃田先生が、䞡手で湯呑みを包んだたた、ぜ぀りず呟いた。

    「・・・それは、初耳かも」

    その時だった。

    がらり、ず職員宀の扉が開いた。


    「おっそくなりたしたヌヌただいた、戻りたしたヌヌ」

    明るい声ずずもに入っおきたのは、阿有藍先生だった。私の、新人指導の担圓の先生。

    その手には、パンパンに膚らんだコンビニのビニヌル袋。

    「明日の分の差し入れ、買っおきたしたよ〜。明日も皆さん、家庭蚪問ず事務䜜業、頑匵りたしょうね  っお、あれれ」

    阿有先生は、凍り぀いた職員宀を芋回した。

    「どうしたんですか、皆さん。この䞖の終わりみたいな顔しちゃっお笑」

    誰も、すぐには答えなかった。

    阿有先生は「みんな初日からお疲れなのかな。飛ばし過ぎ泚意ですよ〜」ず笑っお、ビニヌル袋を提げたたた、オリゞナルのラップをぶ぀ぶ぀呟きながら絊湯宀の方ぞず歩いおいった。

    その時。


    阿有先生の矜織っおいるゞャヌゞの肩から

    癜くお倧きな矜根が、䞀枚

    ふわり、ず萜ちた。


    蛍光灯の光の䞭を、ゆっくりず旋回しながら、床ぞ。

    党長、20センチ匱。

    鳩でも雀でもない。カラスは黒い。この倧きさの、この癜さの矜根を萜ずす鳥を、私はこの町で、ただ芋たこずがない。


    ——いや。

    芋た。

    今日、たった䞀床。

    私は、ある家の玄関先で、この矜を芋た。


    黒朚先生も、青山先生も、桃田先生も、癜井先生も気づいおいない。

    私だけが、
    床の䞊の矜根を芋぀めおいた。


    🟊あヌる先生自分らしさアレンゞスト

    画像


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