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消せない夜に、置き去りにした私。③

【最終章】あなたを消せば、あの頃の私まで死んでしまう。

はじめに
連絡先を消す方法は知っている。

ブロックの場所も、
写真を削除する手順も。

それでも、
最後の指先だけが、
動かない夜には、
相手ではなく、
過去の自分を守っている、
ことがある。



朝、
目覚ましを止めようとして、
画面に残った名前が目に入る。

検索した覚えはない。

けれど予測変換には、
いまだに、
最初の数文字だけで、
相手の名前が現れる。

昨日、
見たからかもしれない。

もっと前から消えずに、
残っているのかもしれない。

理由はわからない。

ただ、
その名前だけが、
今も以前と、
同じ速さで表示される。

指先が止まる。

削除しようと思えばできる。

連絡先を開き、
右上の小さな印を押し、
赤い文字を選べばいい。

何度もそこまで進んだ。

けれど、
最後の確認画面が出ると、
いつも指を引いてしまう。

削除しますか。

たったそれだけの文章なのに、
部屋の空気が、
急に張りつめる。

スマートフォンの中から、
ひとつの名前が消えるだけ。

それなのに、
何かを永久に、
決めてしまう気がする。

連絡が来ると、
思っているわけではない。

もう、
何かが戻る可能性を
現実のものとして、
待っているわけでもない。

それでも消せない。

画面を閉じて、
何事もなかったように、
朝の支度を始める。

湯を沸かし、
髪をまとめ、
昨日と同じ服を手に取る。

生活は進む。

名前だけが、
小さな機械の中で、
まだ昨日の続きを
持っている。



忘れたいと思う夜ほど、
身体は細かなことまで、
覚えている。

一緒に行った店の前を通ると、
足がわずかに遅くなる。

おすすめに似た場所が。
流れてくると、
画面を送る指が止まる。

人混みの中で、
似た背中を見つけると、
胸の奥が、
先に反応する。

違うとわかったあと、
何もなかったふりで、
歩き続ける。

思い出したくて。
見ているわけではない。
けれど、
思い出さないようにするほど、
記憶は生活の縁に、
浮かび上がる。

コーヒーカップの形。

駅のホームに流れる音。

雨の日の窓ガラス。

大きな場面ではなく、
誰にも説明できない、
小さな手触りばかりが、
残っている。

忘れたい。

そう思うたび、

胸の奥で、
別の声が少しだけ、
身じろぎする。

忘れてしまったら、
あの時間は本当に終わる。

相手のことではない。

誰かを疑わず、
届く言葉をそのまま受け取り、
次に会う日を自然に待てた自分。

うれしいことを隠さず、
相手の前で、
声を立てて、
笑っていた自分。

その人がいなくなったあと、
そんな自分まで、
遠くなった。

だから名前を消すことが、
過去を整理する作業ではなく、
あの頃の自分へ、
蓋をすることのように、
感じられた。



記憶は、
特別な夜にだけ、
戻ってくるわけではない。

スーパーで同じ菓子を見つけたとき。

洗濯物をたたみながら、
以前よく聴いていた曲が、
流れたとき。

夕方、
窓に映った自分の横顔が、
あの頃より少し、
疲れて見えたとき。

そんな瞬間に、
相手の隣にいた自分が、
不意に近くなる。

思い出すのは、
二人で笑ったこと、
だけではない。

返事を待つために、
予定を曖昧にした夜。

会えるかもしれないと思い、
先の約束を断った日。

本当は聞きたかったことを、
喉の奥へ戻した瞬間。

あの頃の自分は、
信じていた。

同時に、
少しずつ自分を後ろへ、
下げてもいた。

相手を大切にすることと、
自分を小さくすることの違いが、
まだよくわかっていなかった。

だから、
思い出の中の自分を見ると、
守りたくなる気持ちと、
目をそらしたくなる、
気持ちが同時に生まれる。

無防備に笑っていた顔だけを、
きれいに残すことはできない。

黙っていた自分も、
待っていた自分も、
その恋の中に確かにいた。

消せないのは、
幸せだった記憶だけでは、
なかった。

まだ、
許せていない自分まで、
そこに残っていた。



相手を忘れられないのだと、
思っていた。

けれど、
本当に終われていなかったのは、
あの恋そのものではないのかもしれない。

言えなかった言葉。

大丈夫ではなかったのに、
大丈夫なふりをした夜。

離れていく気配に、
気づきながら、
何も聞けなかった自分。

終わったあとも、
心のどこかで、
何度も責めていた。

もっと早く気づけばよかった。

もっと強く言えばよかった。

もっと自分を大切にすればよかった。

相手の名前を見るたび、
その後悔まで、
一緒に戻ってきた。

だから消せなかった。

名前を残していれば、
いつかあの頃の自分に、
言い直せる気がした。

本当は傷ついていたと。

あれは考えすぎではなかったと。

待たせることを平気にされた夜、
胸の奥が冷えたのは、
間違いではなかったと。

相手から答えが、
欲しいのではない。

もう戻らない人の言葉で、
過去を正してもらいたい、
わけでもない。

ただ、
あの頃の自分を、
何もわからずしがみついていた、
人として終わらせたくなかった。

あの人を守るために、
黙ったのではない。

壊れていく関係の中で、
自分にできることが、
それしかなかった。

その不器用さまで否定したら、
残るのは後悔だけになる。

だから、
手放せないのは、
相手ではなく、
まだ、
置き去りに、
したままの自分だった。



ある朝、
また連絡先の画面を開いた。

削除の文字は、
以前と同じ場所にあった。

指を近づける。

けれど、
その日は押さなかった。

押せなかったのではない。

今すぐ消さなくても、
いいと思った。

名前が残っていることと、
そこで、
待ち続けることは、
同じではない気がしたから。

画面を閉じる。
カーテンを開けると、
薄い朝の光が、
床へ伸びていた。

テーブルの上には、
昨日、
飲み残した水がある。

洗っていないカップ。

たたみかけの服。

返していない仕事のメール。

相手とは、
関係のない自分の一日が、
静かにそこに置かれている。

まだ、忘れたわけではない。

似た名前を見れば、
視線が止まる。

一緒に行った場所を通れば、
歩幅が変わる。

夜になれば、
また、
検索する日もあるかもしれない。

それでも、
思い出すたび、
自分を責めなくていいのだと思えた。

あの頃の自分は、
弱かったのではない。

誰かを本気で信じ、
失うことを怖がりながら、
それでも、
関係の中に、
残ろうとしていた。

その姿を、
もう惨めなものとして、
見なくてもいい。

相手を消さなくても、
朝は来る。

名前を覚えていても、
新しい一日は始められる。

いつか削除できる日が、
来るかもしれない。

来なくても、
いいのかもしれない。

大切なのは、
画面の中に、
残る名前ではなく、
その名前の隣に、
置き去りにしてきた自分を、
少しずつこちらへ、

連れ戻すことだった。

スマートフォンを伏せ、
湯を沸かす。

部屋に小さな音が満ちる。

あの人のいない朝の中で、
自分のために、
用意した湯気だけが、
静かに上へ昇っていった。

■ あとがき

消せない名前には、
まだ、
帰ってこられていない、
自分が残っていることがある。

忘れなくてもいい。

ただ、
その場所で待つ自分の手を、
いつか静かに引ければいい。

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