消せない夜に、置き去りにした私。①
第1章
見たくないものほど、親指が場所を覚えている
はじめに
通知は、
もう全部切ってある。
それでも夜になると、
指先だけが迷わず、
同じ場所へ戻っていく。
見なければ、
眠れたはずの夜を、
今日も、
自分で長くしてしまう。
部屋の明かりを消してから、
スマートフォンの光だけが、
布団の端を青く照らしている。
歯を磨いた。
カーテンも閉めた。
明日の目覚ましもかけた。
眠る準備は、
全部終わっているのに、
画面を伏せることだけができない。
いつも使うアカウントでは、
開かない。
名前も写真も曖昧にした、
誰にも、
知られていない場所へ、
切り替える。
ほんの数秒の操作なのに、
親指は一度も止まらない。
検索欄を押す。
最初の文字を入れる。
候補のいちばん上に、
現れた名前を開く。
何度も繰り返したせいで、
考えるより先に、
身体が順番を覚えている。
ホーム画面は、
昨日とほとんど変わらない。
プロフィールの写真。
数字。
短い紹介文。
何も起きていないことに、
少しだけ胸を撫で下ろす。
その直後、
新しいストーリーズの輪を見つける。
指先が一瞬だけ止まる。
見なければいい。
そう思う時間は、
いつも短い。
触れた途端、
知らない場所の照明と、
整えられたテーブルが、
画面いっぱいに広がる。
映っているのは、
料理とグラスだけ。
それなのに、
グラスが二つあるだけで、
部屋の空気が、
急に薄くなる。
誰といたのか。
誰が向かいに、
座っていたのか。
答えはどこにも、
書かれていない。
だから、
窓に映る小さな影を探す。
スプーンの反射を見る。
テーブルの端に、
置かれた手荷物まで拡大する。
画質が崩れ、
四角い粒だけになっても、
まだ、
何かが見える気がして、
指を広げる。
見つけたくないものを、
自分から迎えにいっている。
画面を見ているあいだ、
呼吸が浅くなっていることに、
気づかない。
閉じてから、
胸の奥に溜まっていた息を吐く。
肩が固い。
指先だけが冷たい。
何もわからなかったのに、
何かを知ってしまったような、
疲れだけが残る。
新しい誰かがいるかもしれない。
その想像を打ち消そうとすると、
別の自分が、
すぐに問い返してくる。
では、なぜ二つだったの。
なぜあんな場所へ行ったの。
なぜ、
あんなふうに笑っていたの。
画面の中に笑顔は映っていない。
それでも、
きっと平気な顔で、
笑っていたのだと思ってしまう。
以前なら、
その場所の写真は、
先に送られてきたかもしれない。
「ここ、好きそう」
そんな短い言葉と一緒に。
今はもう、
わたしの知らない時間として、
公開されている。
知らないことより、
知らされない側になったことが、
身体の奥に残る。
見なければ傷つかない。
それは正しい。
けれど見ないままでいると、
もっと大きな何かが、
起きている気がして、
胸の内側が落ち着かなくなる。
知ることは痛い。
知らないことも、
同じくらい痛い。
その間で、
指だけが何度も、
同じ場所を往復する。
眠りたいのに、
画面を閉じられない。
忘れたいのに、
今日の相手を確認してしまう。
本当は何を確かめたいのか、
まだ自分でもわからなかった。
思い出すのは、
こういう夜だけではない。
昼休み、
コンビニで、
以前よく買っていた飲み物を、
見つけたとき。
駅のホームで、
似た色のスニーカーが、
視界を横切ったとき。
帰宅して鍵を置いたあと、
部屋が思ったより、
静かだったとき。
記憶は、
準備をしているときには来ない。
別のことを考えている隙間から、
生活の中へ勝手に入り込んでくる。
それは顔や声よりも先に、
手触りとして戻ってくる。
並んで歩いたときの歩幅。
返事を待ちながら料理をした時間。
スマートフォンが震えただけで、
台所から急いで戻った自分。
いま画面を確認している指と、
あの頃、
届いた言葉を開いていた指は、
たぶん同じ動きをしている。
違うのは、
開いた先に、
自分への言葉がないことだけ。
夜になると、
その違いがはっきり見える。
相手の時間は更新されていく。
知らない店。
知らない景色。
知らない誰かの気配。
一方で、
わたしの中には、
最後に近かった頃の空気だけが、
残っている。
取り残されたのは、
時間ではないのかもしれない。
あの人の中で、
わたしとの日々が、
どんな場所へ移されたのか、
それを知らされていないこと。
その曖昧さが、
毎晩、
検索欄へ戻る道を残していた。
新しい相手を探しているのだと、
思っていた。
自分よりきれいなのか。
自分より穏やかなのか。
わたしにはなかった何かを、
持っているのか。
けれど、
何度画面を見ても、
本当に知りたいことは、
そこではなかった。
確かめたかったのは、
わたしといた時間が、
相手の中にも、
まだ残っているかどうかだった。
同じ店へ行ったら思い出すのか。
似た言葉を聞いたら、
少し黙るのか。
写真を撮る瞬間、
以前、
そこにいた自分のことを、
思い出すのか。
そんなことは、
どの投稿にも映らない。
それでも探してしまう。
相手の現在の中に、
過去の自分の痕跡が、
残っていないか。
本当は、
平気な顔で笑っていることが、
許せないのではない。
自分との時間だけが、
相手の中で、
簡単に片づけられている、
かもしれないことが怖かった。
わたしにとっては、
生活の形まで変わった恋だった。
眠る前の時間も、
休日の過ごし方も、
新しいものを見つけたとき、
最初に浮かぶ相手も変わった。
それほど深く入り込んだものが、
向こうではもう何の跡も、
残していないかもしれない。
その想像に、
自分の存在まで、
薄くなる気がした。
だから画面を拡大していた。
誰かを見つけるためではない。
そこにまだ、
自分がいた証拠を探すために。
ある夜、
新しい投稿を開く前に、
指が止まった。
強くなったわけではない。
その日はただ、
自分の呼吸が、
ひどく浅いことに気づいた。
暗い画面に、
目元だけが、
ぼんやり映っていた。
誰かの現在を探していたはずなのに、
そこにいたのは、
毎晩、
自分を傷つける場所へ、
連れていく自分だった。
見てしまうたび、
意志が弱いと思っていた。
執着している。
みっともない。
いつまで、
同じことを続けるのだろう。
けれど、その夜だけは、
少し違って見えた。
この指は、
相手を困らせたことも、
追いかけて、
言葉を投げ続けたこともない。
ただ、
誰にも見えない場所で、
終わったことを理解しようと、
していただけだった。
置いていかれた理由を探し、
あの日々が、
自分だけの勘違いではなかったと、
何度も確かめようとしていた。
それなら、
責めるだけでは、
少し酷い気がした。
画面を閉じる。
すぐには眠れない。
胸の奥にはまだ、
二つのグラスが残っている。
窓に映った影も、
知らない場所で、
続いている時間も消えない。
それでも、
今夜見なかった続きを、
明日まで知らなくても、
いいと思えた。
相手の画面に、
自分が残っているかどうかは、
もう確かめることができない。
けれど、
あの時間を本気で生きていた自分は、
ここにいる。
そのことだけは、
荒い画像の中から、
探さなくてもよかった。
あとがき
見てしまう夜には、
弱さではなく、
置いていかれた心の行き先が、
隠れていることがある。
今夜、
画面を閉じられなくても、
自分まで嫌いにならなくていい。
