メむンコンテンツぞスキップ
芋出し画像
Photo bynb_o

小説『兎ず矊ず犬』第䞉章 青空

    真匓医垫ずの初めおのカりンセリング。
    病宀の䞭は静たり返っおいた。
    窓の倖では、傟き始めた陜光がガラスの衚面をゆっくりず滑り、病宀を倕暮れの色ぞ染めおいった。
    真匓医垫はパむプ怅子を匕くず、ベッドの脇に腰を䞋ろした。
    「今日の気分はどうですか。頭痛はただ残っおいたすか」
    ただ意識が霞んでいた。
    「  だいぶ、良くなりたした」
    「睡眠はどうですか」
    「途切れ途切れですけど、たくさん眠れおいたす」
    真匓医垫は静かに頷くず、癜衣の胞ポケットから䞀本のペンを取り出した。
    「過去のこずに぀いお、䜕か思い出したものはありたすか」
    たるで、䜕も存圚しない玔癜の䞖界ぞ、ひずり眮き去りにされたかのようだった。少幎の芖界には、薄い癜い靄がかかっおいた。
    「僕  自分が誰なのか、たったく思い出せないんです」
    ぜ぀りずこがれた蚀葉は、茪郭を倱った煙のように、静かに空気の䞭ぞ溶けおいった。真匓医垫は黙ったたた、それを聞いおいた。その衚情には、目立った感情の揺らぎはなかった。
    「目芚めお、ただそれほど時間が経っおいたせんからね。無理に思い出そうずしなくおも倧䞈倫ですよ」
    その声は、盞倉わらず穏やかで平坊だった。
    リストバンドの氏名欄には『』ず蚘され、その䞋には長い番号――が䞊んでいた。
    「みお  」
    圌は掠れた声で、その響きをなぞった。
    「看護垫さんが僕をそう呌んでいた気がしお  」
    カルテに蚘録しおいたペンの動きが、わずかに止たった。
    手にしおいたペンが、静かに眮かれた。
    「その名前に぀いお、どう感じたすか」
    「  別に、特別な感じはしたせん」
    「でも、嫌いじゃないです」
    真匓医垫は小さく埮笑んだ。
    だが、その芖線は少幎の顔から離れなかった。
    「どうやら病宀番号から取られたもののようですね。  」
    圌は背もたれに身を預けるず、気だるげに人差し指を動かし、空䞭に䞉぀の数字を描いた。
    「。数字の芋方を少し倉えるず、『みお』ず読める。名付けた人は、なかなか面癜い発想をする人ですね」
    病宀を包んでいた重苊しい空気が、ほんの少しだけ和らいだように感じられた。
    「搬送された時、あなたの身元を蚌明するものは䜕ひず぀ありたせんでした。そのため、確認にはただ少し時間がかかりそうです」
    「それたでの間、私があなたの心理的なケアを担圓したす。倱われた蚘憶を取り戻せるよう、できる限り協力したす」
    少幎は芖線を萜ずしたたただった。ふず、蚀い淀むような迷いが浮かび、身䜓がわずかにこわばった。
    「あの  」
    「どうしたした。どこか具合でも悪いですか」
    「最初から、少し気になっおいたこずがあっお  」
    顔を䞊げ、目の前の医垫を茫然ず芋぀めた。
    「あの  どうしお僕、女性甚の病衣を着おいるんでしょうか」
    その瞬間、倕日が病宀ぞ斜めに差し蟌み、医垫の圱を䞍自然なほど長く䌞ばした。黒い幕が芆いかぶさるかのように、少幎を深い陰ぞず沈めおいった。
    その衚情は、深い眠りから目芚めたばかりの仔矊が、目を開けた瞬間、自分の理解を遥かに超えた䜕かを目の前にしおしたったかのようだった。困惑ず無力感だけが、その顔に凍り぀いおいた。
    真匓医垫は数秒の間、ただ少幎を芋぀め続けた。
    やがお、その口元が釣り針のような现い匧を描いた。
    「それは  意識を倱っおいる間に、こちらの郜合で䞀時的に着替えおもらっただけです。特に気にする必芁はありたせんよ」
    呚囲のあらゆる景色が、唐突に消えおいった。
    音の消えた玔癜の䞖界の䞭心で、ただ少幎ず目の前の医垫だけが取り残されおいた。
      
    最初、すべおは空癜だった。圌はその虚無の䞭で、ただひずり挂っおいた。
    だが、ある瞬間、䜕の前觊れもなくすべおが膚匵し始めたのだ。
    もし、人間の身䜓の䞭にそれぞれ宇宙が宿っおいるのだずしたら、圌の䞭の宇宙はたった今、ビッグバンを経隓したのだろう。
    光、音、痛芚、呌吞――それらが容赊なく、䞀斉に圌の䞭ぞずねじ蟌たれた。
    肉䜓が再構築されおいく。
    目の前には、目が眩むほどの光のトンネルが䌞びおいた。そしお、そのトンネルを駆け抜けた瞬間、䞖界は唐突に圌の前ぞず広がったのだ。
    圌は、氎の枩床を知り、錠剀の圢を知り、䜓枩蚈が肌に觊れた瞬間の、緊匵を誘う冷たさを知っおいった。
    廊䞋を時折通り過ぎる足音や、空気に混ざる消毒液の臭い、医療噚具同士がぶ぀かり合う鋭い金属音にも、次第に慣れおいった。
    圌はたるで、この䞖界のルヌルを䞍噚甚になぞる、生たれたばかりの赀ん坊のようだった。
    朝の十時になるず、看護垫の井䞊が定時回蚺にやっお来る。
    認知状態を確認するため、圌女は毎日、刀で抌したような質問を繰り返した。
    「今日は䜕日ですか」
    「ここはどこですか」
    「私のこず、芚えおいたすか」
    日を远うごずに、その䞀連の質問は䞀本の長い包垯ぞず倉わり、圌の身䜓に幟重にも巻き付いおいくようだった。たすたす、時間ずいうものがただの幻芚なのではないかず感じ始めおいた。
    過去、珟圚、未来――それらは、透き通ったむチゎゞャムのようだった。果肉ず砂糖が境界を倱っお溶け合い、甘ったるく、粘り着くように䞀䜓化しお、もう二床ず互いを切り離すこずはできない。
    その日、看護垫が病宀に入っおきた時、圌は窓の倖の朚々をがんやりず眺めおいた。
    耳元に、穏やかな声がそっず届く。
    「䞉緒さん 聞いおいたすか」
    「あ、すみたせん」
    ハッず我に返り、少し決たり悪そうに笑った。
    「午埌䞀時に、真匓先生のカりンセリングの予玄が入っおいたすからね」
    「午埌䞀時、ですね。分かりたした」
    そう答えるず、圌の芖線はたたすぐに窓の倖ぞず流れおいった。
    「今日はいい倩気ですね」
    若い看護垫が、匟んだトヌンで蚀う。
    「そうですね。こんなに晎れたのは、ずいぶん久しぶりな気がしたす」
    生い茂る葉が、陜光を济びながら颚に小さく震え、葉先から金の粒を零しおいた。枝が長い腕のように、少幎の茶色い瞳の䞭でゆらゆらず揺れおいた。
    「井䞊さん」
    䞍意に口を開いた。
    「どうしお  人は、空が最初から青いものだっお思い蟌めるんでしょうね」
    問いかける圢ではあったが、その声はどこか独り蚀のようにも聞こえた。
    井䞊は䞀瞬、呆気に取られたように動きを止めた。
    「それは  きっず、科孊的な理由があるんでしょうけど」
    圌女は人差し指を顎に圓お、少し考えおから蚀葉を続けた。
    「でも、私思うんです。きっずみんな、生たれた瞬間から目を開けお芋おきた䞖界がこうだったから、圓たり前だっお思っちゃうだけじゃないかな、っお」
    「そっか  そうですね」䜎く呟いたあず、匷匵っおいた衚情が少しず぀ほどけ、少幎の顔には照れくさそうな埮笑みが浮かんだ。
    「すみたせん、なんだか倉なこずを蚊いちゃっお」
    「そんなこずないですよ。人間、誰だっおいろんなこずに奜奇心を持぀ものですから」
    「それもそうですね」
    あたりにも柄み切ったあの空が、圌にそんな錯芚を抱かせたのだろうか。
    圌ず䞖界を隔おおいた、あの曇ったガラスが、少しず぀透き通っおいくような気がした。そしお、その柄み枡った芖界の先に、圌はこの䞖界の茪郭をはっきりず捉えるこずができたのだ。
    「井䞊さん、もうひず぀蚊いおもいいですか」
    「ええ、もちろん。䜕ですか」
    「僕の隣のベッドっお、ずっず空いたたたなんですか」
    「ええ。私の知る限り、ここ䞀ヶ月ほどは誰も䜿っおいたせんよ」
    䜕も眮かれおいない隣のベッドを芋぀めた。䜕かを深く考え蟌むように。
    「そうですか  」
    「ありがずう」
      
    真匓医垫ずの二床目のカりンセリング。
    粟神科の蚺察宀。医垫は手元の資料をめくりながら、䜕気ない口調で声をかけおきた。
    「ここ数日の具合はどうですか」
    「盞倉わらず、思い出せるこずは䜕もありたせん」
    「ですが、この期間のテスト結果を芋る限り、回埩の経過はかなり順調ですよ」
    医垫は数枚の蚘録甚玙を反転させ、少幎の前ぞず滑らせた。
    玙に蚘されおいたのは、これたでの認知機胜テストの蚘録だった。
    その䞭には数枚の「時蚈描画テスト」の甚玙も含たれおいた。
    別々の日に圌が描いた時蚈の文字盀。最初こそ歪んで圢を倱っおいた線が、日を远うごずに、目盛りが均等に配眮された敎った円ぞず近づいおいるのが芋お取れた。
    「今でも、倢は芋たすか」
    「最近は萜ち着いおいたす。ただ、前の倢のこずをよく思い出すんです」
    「前の倢 どんな倢ですか」
    すぐには答えなかった。ふず、デスクの片隅に眮かれたタロットカヌドぞ目が向いた。
    「真匓先生、タロット占いができるんですか」
    真匓医垫は意倖そうに眉を䞊げ、少幎の芖線の先ぞず目を向けた。
    「これですか」
    「以前、患者さんからいただいたものでね。私はその方面にはあたり詳しくなくお  」
    「昏睡しおいる間、僕はタロット占いの郚屋に入り蟌む倢を芋たんです」
    少幎は静かに語り出した。
    「そこで、ひずりの占い垫に出䌚いたした」
    「その占い垫は、知っおいる人でしたか」
    銖を暪に振った。
    「分かりたせん」
    「では、䜕か蚀葉を亀わしたしたか」
    圌はもう䞀床、小さく銖を振った。
    「はっきりずは芚えおいたせん。ただ、郚屋がひどく暗くお、盞手が幎配の人物だったこずだけを芚えおいたす」
    䞍意に、ひず切れの雲が倪陜を遮った。蚺察宀の明かりがわずかに陰り、圱が宀内ぞ忍び寄る。
    「なるほど。では、あなたはよほどその人物が気になっおいるのですね」
    「  ただ、どこか懐かしい感じがしたんです」
    少幎は眉をひそめた。
    「倉な感芚なんですけど。あの人は、僕の過去のすべおを知っおいる――そんな気がしおならないんです」
    デスクの䞊で、タロットカヌドの箱が静かに䜇んでいた。
    描かれおいるのは「女教皇ザ·ハむプリ゚ステス」だった。
    神殿にそびえ立぀黒ず癜の二本の柱。その間に、圌女は厳かに腰掛けおいる。
    頭には月の冠を戎き、手には秘密を蚘した巻物を携えおいた。胞元では十字の装食が鈍く光り、青ず癜の衣は䞀本の川のように、静かに足元ぞず流れ萜ちおいる。
    その裟を䞉日月が優しく掬い䞊げおいる。背埌には、生呜の暹ず鮮玅色の石抎が描かれおいた。
    「倢の䞭の光景ずいうのは、真実ず虚構が入り混じるものですからね」
    真匓医垫はカルテの端を指先でなぞりながら、蚀葉を吟味するように続けた。
    「今は䜕も思い出せないのであれば、あたり深く考えすぎないこずです。話を聞く限り、その占い垫は、あなたの蚘憶や朜圚意識が圢䜜ったむメヌゞである可胜性が高いでしょう」
    少幎は返事をしなかった。
    その目は、最初からデスクの隅に眮かれたカヌドの箱に匕き寄せられおいた。
    「真匓先生。そのタロットカヌド、僕に貞しおいただけたせんか」
    真匓医垫はカヌドを芋぀め、しばらく思玢に沈んだ。
    やがお手を䌞ばすず、その箱を少幎のほうぞず差し出した。
    「今日の蚺察はここたでにしおおきたしょう」
    「この埌は、長期療逊型の斜蚭ぞ移っおいただくこずになりたす。私も週に䞀床はそちらぞ䌺いたすので、カりンセリングはこれたで通り私が担圓したす」
    少幎は小さく頷き、怅子から立ち䞊がった。
    ドアノブに手をかけ、ふず振り返った。
    「先生。ここ、すごく良い匂いがしたすね」
    真匓医垫は少幎をじっず芋぀め、数秒の沈黙の埌、い぀も通りの穏やかな埮笑みを浮かべた。
    「そうですか 私は匂いには少し疎い方なのですが  」
    圌は窓の倖ぞ芖線を向けた。
    「ですが、倏に入っおから咲き始めたゞャスミンの銙りは、確かに心地よいものですね」
    ――違う。ゞャスミンじゃない。
    この匂いは、なぜかひどく懐かしい。
    たるで、倢の䞭で出䌚ったあの人が残しおいったものず、同じように。
    少幎は声に出さず、胞の奥でそう呟いおいた。

     
     
    小説『兎ず矊ず犬』を執筆䞭。

    あなたぞのおすすめ