
空に開いたドア 第12話 「空はもう開かない」
あらすじ
観測者との戦いを終え、蓮たちは2026年の日常へ戻ってきた。母、アリ、レンとともに食卓を囲み、未来は未確認のままでいいと蓮は思う。しかし、未来から届いた最後のメッセージは、蓮自身の未来だけは誰にも観測できないと告げていた。空に開いたドアは閉じた。だが、蓮の中にはまだ、消えかけた記憶と選び続ける覚悟が残っていた。未確認の未来へ向かって、蓮たちは新しい朝を歩き出す。
空は、いつも通り青かった。
雲が流れている。
鳥が飛んでいる。
遠くで電車の音が聞こえる。
どこにも穴は開いていない。
銀色のUFOも飛んでいない。
青白い光もない。
ただの空。
ただの朝。
でも、俺にはその空が、前よりずっと広く見えた。
「蓮、早くしないと遅れるよ」
玄関から母の声がした。
俺は靴ひもを結びながら返事をした。
「分かってるって」
「昨日もそう言って遅れかけたやん」
「昨日は事情が特殊やったやろ」
「どんな事情?」
母が笑いながら聞いてくる。
俺は少し考えた。
未来から来た姉と、もう一人の自分と、観測者と、母の記憶の中に入って、最後の鍵穴を閉じていた。
そんな説明をしたら、たぶん朝から味噌汁をこぼされる。
「まあ、いろいろ」
「雑やね」
台所から、レンが言った。
「それ、俺も昨日言った」
「お前は黙って卵焼き食べとけ」
「もう食べた」
「早いねん」
リビングでは、アリが制服のリボンを直していた。
彼女は鏡を見ながら、少し困った顔をしている。
「この時代の制服は、結び方が難しいです」
「未来ではどうしてたん?」
俺が聞くと、アリは少し考えた。
「服が自動で調整されていました」
「便利やな」
「便利でした。でも、少しつまらなかったです」
アリはリボンを何とか結び終え、こちらを見た。
「自分で結ぶと、少し曲がりますね」
「それでええやろ」
「いいんですか?」
「曲がってる方が、人間っぽい」
アリは一瞬きょとんとして、それから小さく笑った。
「なるほど」
母がアリのリボンを少しだけ直した。
「でも、ちょっとだけ整えようか」
アリは照れくさそうにうなずいた。
その光景を見て、胸の奥が温かくなった。
母がいて、アリがいて、レンがいる。
ありえない日常。
でも、今はこれが俺たちの日常だった。
学校へ向かう道を、三人で歩いた。
俺。
アリ。
レン。
同じ方向へ歩いているのに、三人とも少しずつ違う未来から来たようなものだった。
アリは、未来で俺を守り続けた姉。
レンは、俺が選ばなかった可能性。
そして俺は、時間のドアを閉じた鍵。
でも、今はただの高校生三人に見える。
たぶん。
いや、同じ顔の男子が二人並んでいる時点で、かなり目立っている。
通学路ですれ違う生徒が、ちらちらこちらを見る。
レンが小声で言った。
「やっぱり変やろ」
「何が」
「同じ顔が二人」
「双子ってことにしよう」
「設定雑すぎる」
「細かいこと気にすんな」
アリが真面目な顔で聞いた。
「双子という設定なら、私はどうなりますか?」
「姉」
「本当のことですね」
「そうやな」
アリは少し嬉しそうにした。
俺はその横顔を見た。
第8話で時間の内側に消えたと思ったアリ。
名前を書いたことで、俺の記憶から戻ってきたアリ。
でも、たまに不安になる。
もし俺がまた忘れたら。
もし、アリの存在が俺の記憶にしか支えられていないなら。
そう考えた瞬間、アリがこちらを見た。
「大丈夫です」
「え?」
「私はここにいます」
「俺、何も言ってへんけど」
「顔に出ています」
アリは少し笑った。
「それに、今の私はあなたの記憶だけで存在しているわけではありません」
「そうなん?」
「はい。お母さんも、レンも、私を覚えています。だから私は、ここにいます」
レンが言った。
「俺も忘れへんよ」
アリは静かにうなずいた。
「ありがとうございます」
俺は少しだけ安心した。
人は、一人の記憶だけで存在しているわけじゃない。
誰かが覚えてくれている。
誰かが名前を呼んでくれる。
それだけで、その人は世界に残れるのかもしれない。
学校に着くと、拓也が校門の前で待っていた。
「蓮、おはよう……って、え?」
拓也は俺とレンを交互に見た。
「え? え? どゆこと?」
俺は言った。
「親戚」
レンも言った。
「遠い親戚」
拓也は眉をひそめた。
「いや、遠い親戚でそんな同じ顔なる?」
「なる家系やねん」
「どんな家系やねん」
アリが丁寧に頭を下げた。
「転校してきました。神谷アリです」
拓也はさらに混乱した顔をした。
「神谷多くない?」
「そういう日もある」
「ないやろ」
拓也はしばらく俺たちを見ていたが、やがて諦めたように笑った。
「まあええわ。蓮の周り、最近変なこと多いし」
「最近?」
俺は聞き返した。
拓也は首をかしげた。
「いや、なんとなく」
「何か覚えてるんか?」
「何を?」
拓也は本気で分からない顔をしている。
観測者のことも、UFOのことも、屋上でのことも覚えていないのだろう。
でも、何かは残っている。
言葉にならない違和感として。
それで十分なのかもしれない。
すべてを覚えていなくても、何かがあった痕跡は人の中に残る。
拓也は空を見上げた。
「そういやさ」
「何?」
「昨日、変な夢見たわ」
「どんな?」
「空に穴が開いて、そこから誰かがこっち見てる夢」
俺は息を止めた。
アリもレンも、静かに拓也を見る。
拓也は笑った。
「まあ、UFOニュース見すぎやな」
「……たぶんな」
俺はそう答えた。
拓也は何も知らない。
でも、完全には忘れていない。
世界は少しだけ、覚えている。
教室はいつも通り騒がしかった。
男子がくだらない話をしている。
女子がスマホを見て笑っている。
黒板には日直の字が残っている。
宮原先生が入ってきた。
俺は一瞬、体をこわばらせた。
でも、先生の目は青くなかった。
普通の目。
少し眠そうな、いつもの目だった。
「今日は転校生が二人いる」
教室がざわついた。
先生がアリとレンを紹介する。
「神谷アリさんと、神谷レンくんだ」
教室中の視線がこちらに集まる。
拓也が小声で言った。
「やっぱ神谷多いって」
俺は笑いをこらえた。
アリはきれいに頭を下げた。
レンは少し面倒くさそうに頭を下げた。
その様子を見て、俺は不思議な気持ちになった。
未来の戦いが終わっても、人生は続く。
自己紹介をする。
席に座る。
教科書を開く。
チャイムが鳴る。
たぶん、未来を取り戻すというのは、こういう普通の時間を取り戻すことなのだ。
派手な勝利じゃない。
誰かに決められた予定ではない、少し面倒で、少し退屈で、でも自分で選べる一日。
先生が言った。
「神谷、教科書開け」
俺とレンが同時に返事をした。
「はい」
教室が少し笑った。
先生も困った顔をした。
「えーと、蓮の方」
「どっちですか」
レンが真顔で聞いた。
先生は頭を抱えた。
「ややこしいな」
アリが小さく笑った。
俺も笑った。
久しぶりに、何も怖くない笑いだった。
昼休み。
俺たちは屋上にいた。
あの日、UFOが現れた場所。
神谷蓮を回収せよ、という文字が校舎に浮かんだ場所。
アリが、自分を2049年から来たと言った場所。
今は何もない。
風が吹いている。
空は青い。
俺はフェンスにもたれた。
「ほんまに、もう開かへんのかな」
アリが空を見上げた。
「時間のドアとしては、もう開かないと思います」
「としては?」
「空は、いろんな意味で開きますから」
「どういうこと?」
アリは少し考えた。
「人が何かを選ぶとき、その人の前には小さなドアが開くんだと思います」
レンが言った。
「詩人みたいやな」
アリは少し照れた。
「変でしたか」
「いや、ええと思う」
俺は空を見上げた。
かつて、そこには未来からの穴が開いていた。
誰かが決めた未来が、こちらを見ていた。
でも、今は違う。
そこには何もない。
だからこそ、どこへでも行ける。
スマホが一度だけ震えた。
俺は画面を見た。
通知はない。
ただ、写真フォルダに新しい画像が保存されていた。
いつ撮ったのか分からない写真。
屋上で、俺とアリとレンが空を見上げている。
その少し後ろに、母が立っている。
いや、母は学校に来ていないはずだ。
でも写真の中の母は、優しく笑っていた。
その隣には、大人の男がいた。
未来の俺。
そして、そのさらに後ろに、無数の人影。
俺たちが知らない未来の人たち。
その全員が、空を見上げていた。
写真の下に、文字が入っていた。
未来は、未確認のままでいい。
アリが画面を見て、微笑んだ。
「未来からの最後の記録ですね」
「誰が送ったんやろ」
レンが言った。
「未来の誰かやろ」
「雑やな」
「君に似た」
俺たちは笑った。
その瞬間、写真が消えた。
まるで最初からなかったみたいに。
でも、不思議と寂しくなかった。
証拠は消えても、見たことは残る。
記録はなくても、記憶は残る。
そして記憶が少し消えても、誰かに愛されたことは消えない。
俺はようやく、その意味が分かった気がした。
放課後。
俺は一人で家に帰った。
アリは職員室で手続き。
レンは拓也に連れられて購買の場所を教えてもらっている。
普通の学校生活が、少しずつ始まっている。
帰り道、俺は公園に立ち寄った。
母と昔よく来た公園。
ブランコ。
滑り台。
古いベンチ。
俺はベンチに座った。
ここで母とアイスを食べた記憶がある。
でも、何味だったか思い出せない。
少し前なら、それが怖かった。
記憶が消えていくことが怖かった。
でも今は、少しだけ違う。
忘れることは、消えることとは違う。
思い出せなくても、そこにあった温かさは体のどこかに残っている。
俺は空を見上げた。
夕方の空。
オレンジ色に染まり始めている。
その空に、小さな光が見えた。
飛行機かもしれない。
星かもしれない。
ただの反射かもしれない。
UFOかもしれない。
でも、俺は追いかけなかった。
撮影もしなかった。
確認しようとも思わなかった。
未確認のままでいい。
そう思えた。
「蓮」
後ろから母の声がした。
振り返ると、母が立っていた。
買い物袋を持っている。
「こんなところで何してるの?」
「ちょっと空見てた」
「何か飛んでた?」
「分からん」
母は隣に座った。
「分からんのに見てたん?」
「うん」
「変な子」
母は笑った。
俺はその横顔を見た。
この人を、俺は何度も失いかけた。
未来に奪われ、観測者に奪われ、記憶からも消えかけた。
でも、今ここにいる。
それだけで十分だった。
「母さん」
「何?」
「ありがとう」
母は少し驚いた顔をした。
「急にどうしたん」
「言いたくなっただけ」
母は少しだけ照れたように笑った。
「こちらこそ」
「何が?」
「生きててくれて、ありがとう」
胸の奥が熱くなった。
俺は空を見上げた。
泣きそうだったから。
母は何も聞かなかった。
ただ、隣に座っていてくれた。
それだけで、俺は救われた。
夜。
俺は机に向かってノートを開いた。
最初のページには、震えた字でこう書かれている。
アリを忘れるな。
母さんを忘れるな。
未来は閉じた。
でも、まだ終わっていない。
その下に、昨日書いた文字。
未来は、未確認のままでいい。
俺はペンを持った。
そして、新しいページにタイトルを書いた。
空に開いたドア
何を書くのかは、決めていなかった。
UFOの話。
未来人の話。
観測者の話。
母の話。
アリの話。
レンの話。
どこまで覚えているか分からない。
誰に信じてもらえるかも分からない。
でも、書こうと思った。
証拠としてではない。
記録としてでもない。
誰かに未来を決められそうになった時、思い出せるように。
未来は未確認でいい。
自分で選べばいい。
そういう物語として。
俺は最初の一行を書いた。
アメリカの大統領が、UFOに関する報告書を公開した。
書いた瞬間、胸の奥で何かが静かに開いた。
空ではない。
未来でもない。
俺自身の中にある、小さなドア。
そのドアの向こうには、まだ何も書かれていない明日があった。
俺はペンを動かした。
もう、空は開かない。
でも、物語は開いている。
そして未来も。
俺たちが選ぶ限り、何度でも。