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【さよならニーチェ】2話 恋人

    「優奈!!」
    空港の到着口を出て、きょろきょろと辺りを見回していると、名前を呼ばれた。声の方に目をやると、少し離れたところで手を振る彼の姿が見えた。その笑顔に、自然と頬が緩む。早く彼の元へ行きたくて、人混みをくぐり抜けて足早に向かう。気持ちだけが先走って、何もないところでつまずいた。
    「うわっ…」
    一瞬だけ体が傾いて、慌てて踏み直す。
    周囲の視線が気になって、少し俯いた。
    すぐ後ろを歩いていた人が、慌てて身を引く。ぶつからないように、私を避けて通り過ぎていった。その後ろ姿に、すみません、と小さく頭を下げた。
    すぐに姿勢を整えて、何事もなかったかのように歩き出そうとすると、いつの間にか彼もこちらへ歩いてきていて、すぐ目の前にいた。
    「もう。また何もないところでつまづいてんの?」
    呆れたように、でも優しく笑う。
    「えへへ」
    照れ笑いをしていると、
    「……あと、ポーカーフェイスしてたつもりだろうけど、全然誤魔化せてなかったから」
    と意地悪く付け加えてきたので、私はすぐに笑顔をやめた。
    だけど、久しぶりに会えた嬉しさは、どうしても抑えきれなかった。直哉は、すぐに話し始める私の手を取って、人の流れから少し外れた場所まで連れていった。

    ——こういうところ。
    付き合った頃から変わらない。

    「直哉!久しぶり!」
    「うん、本当に久しぶりだね」
    軽く見つめ合って、抱きしめる。
    「車借りてるから、観光しよ。」
    「うん!ありがとう!」

    社会人になって、もうすぐ二ヶ月。学生時代から付き合っていて、就職を機に遠距離恋愛になった彼氏。ずっと、とても仲がいい。そんな彼だけれど、ただ一つだけ引っかかることがあった。

    空港を出て、車に乗り込む。
    「こないだの休みにボード行ってきたんだけど、雪がふわふわでさ」
    「へぇ!職場の人と?もう仲良いい人できたんだ!」
    「そーそー。同期のあきらと、先輩のしょうたさんと……」
    少しだけ間があって、「山野」と、付け足した。
    「山野だけ苗字呼びなんだ。ヤマノは何者?」

    時々、私は目を閉じて確認する。
    胸の奥にある、水の入ったビーカーを。
    嫌なことがあると、黒いものが一滴だけ混ざる。
    胸の奥は、まるで薄暗い理科室みたいだった。
    目を閉じないと見えない場所にあるから、その水が透明なのか、もう濁っているのか、自分でもよく分からない。
    今落ちた一滴が、あとから水を黒く変えるものなのか。
    時間が経てば色は水に溶けて見えなくなってしまうから、その前に確認しておきたい。

    「あー……、梨花。女」

    ……あ、なるほど。
    一瞬だけ、水の中に黒が見えた。
    でも、それは光の加減だったのかもしれない。
    少し角度を変えれば、また透明に戻ってしまう。
    気のせいかもしれない。
    考えすぎかもしれない。
    それでも、確かに何かは混ざった。

    消えかけた笑顔を、もう一度作り直す。
    「その子も同期?」
    「そうそう」
    「スノボ、久しぶりだったんじゃない?」
    気まずくなる前に、話を進める。

    彼はきっと気づいていない。女の子がいるとき、いつも最後にその存在を付け足すことに。
    隠すわけでもなく、でも最初から言うわけでもなくて。
    その微妙な間に、私はいつも引っかかってしまう。

    ーーー

    観光が終わり、気づけば夕方。
    「晩御飯、どうする?何食べたい?」
    「近くにあるお店でいい、食べられればもうなんでもいい」
    お腹が空きすぎてぶっきらぼうにそう言った私に、彼は少し困った顔で、
    「せっかく来たんだから、ちゃんと美味しいとこ行こうよ。探すからちょっと待って」
    不機嫌な私をなだめながら、スマホで検索を始める。
    「あ、ここ優奈好きそう」
    見せられた画面をのぞき込む。
    「わ!しかも魚!!おいしそう!!ここで決まり!」
    単純な私はすぐに機嫌が戻る。

    私が自分でも気づいていない“好き”を、
    この人は当たり前みたいに覚えてくれている。
    気づけば何かを選ぶとき、その基準に私を含んでくれている。

    こういうところも、好き。

    ーーー

    お店に向かう間に外はすっかり暗くなっていて、かすかな街の灯りが流れていく。
    着いたのは、路地を少し入った先にある古い建物で、地元の人しか知らなさそうな店。
    薄暗い店内で、木のカウンターだけが温かく光って見えた。

    「これ、めちゃくちゃうまい」
    「ん!ほんとにおいしい!」

    あっという間に時間は過ぎる。
    ラストオーダーで彼が頼んだデザートのケーキが美味しそうだったので、隙を狙ってフォークを伸ばす。
    「あっ!それ俺の…」
    「ん〜!美味しい!」
    「ほんと、いっつもそれだよな」
    「だって直哉のものは、私のものだもん」
    彼は少しだけ不満そうにため息をつきながらも、
    「まぁ、いいけど」と、軽く笑う。

    話は弾んで、気づけば二時間近く経っていた。
    「ちょっと、トイレ」彼は席を立った。
    少しして、テーブルに置かれたままの彼のスマホが光った。何気なく目に入った画面に、名前が表示される。

    『梨花』

    ……さっき言っていた子。

    見てはいけないと思いながらも、その下のメッセージにまで目がいく。

    『彼女、大丈夫?』

    ドクン。
    嫌な音が、胸の奥で鳴る。

    透明だった水の中へ、また一滴、色が落ちる。
    今度落ちた一滴は、さっきよりずっと黒くみえた。
    本当に黒なのかは、分からない。
    それでも、今の私にはそう思えてしまった。
    本当なら、また確認したかった。
    でも今回は、できない。
    偶然とはいえ、彼の携帯画面を見てしまったことに後ろめたさがあったから。
    それに、もし本当に黒だったら、と思うと怖かった。
    ……なんだろう?

    画面はもう消えていた。
    落ち着きを取り戻すように、お酒を口に入れた。

    直哉が席に戻って来た。自然にスマホに手を伸ばす。そのまま、指を動かす直哉の横顔を、私はただ、見ていた。画面は見ないようにしながら。
    視線を落として、グラスに口をつける。
    ほとんど氷しか残っていないのに。
    その溶けた水を、言葉の代わりに流し込む。
    聞いてもきっと、「ただの友達」と言う。
    そしてたぶん、それは本当のことだ。

    ーーー

    店を出ると、夜の空気が少しだけ冷たかった。
    今夜は直哉の家に泊まる。車を返した後、家まで並んで歩きながら、さっきのことをまだ考えていた。
    でも、隣を歩く直哉は全く気にした様子もなく笑っていた。そんな彼を見ていると、それ以上は考えたくなくなる。
    曖昧な違和感だけが残る。

    そうして答えが出ないまま、不安だけを残して、私はまた自分の生活に戻った。

    ——どうしてこんなに引っかかるんだろう。

    配属されて、間もない頃だった。
    あの頃の私は、まだ分かっていなかった。
    本当に引っかかっていたものが、何だったのか。

     
     
     
    ゆるゆると、心の赴くままに投稿します。 文章を読むのも書くのも好き。 *** 小説を書いてみました。 『さよならニーチェ』 信じたいのに信じられない。 遠距離の恋人と、価値観の違う先輩との出会いを通して、一人の女性が自分自身と向き合い未来を選ぶ物語です。