
抱えながら、それでも外へ出る
私は長い間、強い人とは、何でも背負える人のことだと思っていた。
仕事で理不尽なことが起きれば、自分が何とかしようとした。家族の問題が起きれば、自分が動かなければと思った。誰かが不機嫌なら、その理由まで考え、どうすれば場が収まるかを探した。
そうやって生きているうちに、私はいつの間にか、他人の感情まで自分の荷物にしていた。
けれど、人は何でも背負えるほど強くはない。
私も、何度か立ち止まった。仕事で心身の調子を崩し、休んだこともある。母の介護では、身体が回復していく喜びと、認知機能が衰えていく不安を同時に抱えた。大切にしていたワンちゃんを突然亡くした時には、家の中から音が消えたように感じた。
一つの問題が終われば、次の問題が来る。
人生は、すべてが片づいてから再出発できるようにはできていない。
私はそこで、ようやく知った。
苦しみがなくなってから動くのではない。
抱えながら動くしかない時がある。
ただし、全部を抱える必要はない。
この違いに気づくまで、ずいぶん時間がかかった。
以前の私は、相手に分かってもらおうとしすぎていた。理不尽な人には、きちんと説明すれば通じると思っていた。間違った態度を取る人には、いつか自分で気づいてほしいと思っていた。
だが、何度話しても変わらない人はいる。
こちらの誠実さを、こちらの弱さだと受け取る人もいる。
そこで私は、
「相手の機嫌は、相手の荷物だ」
と考えるようになった。
距離を取る。
記録を残す。
必要な時だけ動く。
自分の役割ではないものまで引き受けない。
これは冷たさではない。自分を守りながら、長く責任を果たすための方法だ。
介護も同じだった。
親だから、すべてを背負わなければならない。
家族だから、どんな言葉にも耐えなければならない。
そう考えたら、介護する側が壊れてしまう。
親孝行とは、自分を犠牲にすることではない。
できることをする。
できないことは、制度や人の力を借りる。
本人のためにも、自分の生活を守る。
私は介護を通して、愛情と自己犠牲は違うのだと学んだ。
それでも、心が乱れる日はある。
そんな時、私は祈る。
私にとって祈りは、現実から逃げるためのものではない。気持ちを整え、もう一度、現実へ戻るためのものだ。
祈ったから問題が消えるわけではない。
しかし、何を恐れているのか、どこまでが自分の責任なのか、次に何をすべきなのかが、少しずつ見えてくる。
祈った後、電話をする。
相談する。
記録をまとめる。
病院へ行く。
運動へ出かける。
猫ちゃんの水を替える。
人生を動かすのは、結局、そうした小さな行動だ。
ワンちゃんを失った後、私は何か月も泣いた。
すぐに次の子を迎える気にはなれなかった。それでも、また心を通わせられる子に出会いたいと祈り続けた。
そして、ある日、グレーの毛とグリーンの目をした、人懐こい猫ちゃんに出会った。
このまま帰ったら、二度と会えないかもしれない。
そう思い、迎えることを決めた。
今、その子は、私が部屋を移ればついてくる。風呂に入れば扉の前で待ち、ベッドに入れば添い寝をする。
夜の室温を気にし、ご飯をタイマーに入れ、水を替え、皿を洗い、トイレを片づけ、歯を磨く。
手間はかかる。
けれど、苦にはならない。
そこで私は、もう一つ知った。
愛情とは、気持ちだけではない。
面倒に見えることを、面倒だと思わず続けられることなのだ。
猫ちゃんは私を頼っている。
だが、救われているのは、私の方でもある。
必要とされること。
帰りを待ってくれる存在がいること。
言葉がなくても、そばに来てくれること。
それだけで、人の心は静かに立ち直っていく。
身体を動かすことも、私を助けた。
筋トレ、水泳、ヨガ、散歩。
若さを取り戻したいからだけではない。身体を動かしている間、頭の中を占領していた不安が少し遠ざかる。
以前の私は、何でも全力でやろうとしていた。
今は、六割で止めることを覚えた。
運動も、仕事も、人間関係も、毎回百点を目指さない。
続けるためには、余力を残すことが必要だ。
これは諦めではない。
明日も立つための知恵である。
私は六十代になって、若い頃よりも、自分を少し信じられるようになった。
若い頃の方が、体力はあったかもしれない。
しかし今の私には、苦しい時に何をすればよいかが分かる。
すぐに答えを出さないこと。
一人で抱え込まないこと。
変わらない相手とは距離を取ること。
日常を崩しすぎないこと。
小さな喜びを、軽く扱わないこと。
そして、苦しみを抱えていても、外へ動くこと。
カフェへ行く。
泳ぎに行く。
髪を整える。
映画を見る。
猫ちゃんを撫でる。
誰かと話す。
人生を立て直すとは、過去を消すことではない。
傷つかなかった人になることでもない。
傷を抱えたまま、自分の足で今日を選び直すことだ。
私は、これからも迷うと思う。
腹が立つ日も、落ち込む日も、誰かに理解してほしいと思う日もあるだろう。
それでも、以前の私とは違う。
全部を背負わなくてよいと知っている。
六割で止めてもよいと知っている。
助けを借りてもよいと知っている。
そして、幸せになってもよいと、少しずつ思えるようになった。
これが、私が長い時間をかけて身につけた経験知である。
人生は、問題がなくなってから始まるのではない。
抱えながらでも、前へ進める。
大切なのは、荷物を全部持つことではない。
何を持ち、何を置き、どちらへ歩くかを、自分で決めることなのだ。