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幸せは、いつも小さな姿でそばにいた。私を救ってくれた人と命の記憶。



    人生を振り返ると、忘れられない大きな出来事がいくつもある。
    仕事で昇進したこと。
    休職したこと。
    復職したこと。
    大切な人を亡くしたこと。
    愛する動物たちと出会い、そして別れたこと。
    その時は、目の前で起きている出来事に必死だった。
    なぜ自分がこんな目に遭うのか。
    これからどうやって生きていけばいいのか。
    失ったものを、どうすれば取り戻せるのか。
    そんなことばかり考えていた。
    しかし、長い時間が経った今、私の心に残っているのは、肩書や数字や成功の記録ではない。
    家へ帰ると、階段まで迎えに来てくれた犬の姿。
    河川敷を一緒に歩いた午後の光。
    家族と囲んだ、何の変哲もない夕食。
    冗談を言いながら、黙って人を支えてくれた先輩。
    誰もやりたがらないことを、ためらわずに引き受けた上司。
    そして今、私のベッドで安心しきって眠っている猫のぬくもり。
    私を本当に救ってくれたものは、いつも大きな姿では現れなかった。
    それは、見過ごしてしまいそうなほど小さく、何気ない姿で、私のすぐそばにいた。

    電卓を叩き続けた夜
    オリンピックのフィギュアスケートや、映画『35年目のラブレター』を見ていて、嗚咽するほど涙が止まらなくなったことがある。
    美しい演技や、感動的な物語に心を動かされたことは間違いない。
    けれど、私の涙の半分は、作品の向こう側にある、誰にも見えない苦労や、積み重ねてきた年月に、自分自身の人生を重ねていたからだと思う。
    私にも、他の人なら当たり前にできることが、どうしてもできなくなった時期があった。
    休職していた頃のことだ。
    それまで私は、人から頼られることが当たり前の人生を送っていた。
    部下がいた。
    決裁を求められた。
    相談を受けた。
    電話が鳴った。
    自分が組織の中で必要とされていると感じていた。
    ところが、うつ病で休職し、職場に戻った時、形式上は部長から次長になっていた。
    肩書だけを見れば昇格である。
    しかし、私の実感はまったく違った。
    部下はいなくなった。
    電話も鳴らなくなった。
    承認を求められることもなくなった。
    私は、一人になった。
    「こんなに頑張ってきたのに、ここで終わるのか」
    そんな言葉が、何度も頭の中を巡った。
    そして、残酷なことにも気づいてしまった。
    人が私のところへ来ていたのは、私という人間を必要としていたからではなかったのではないか。
    私の印鑑が欲しかっただけなのではないか。
    役職が人を連れてきていた。
    役職を失えば、人もいなくなる。
    心が弱っていた私は、そのようにしか考えられなくなっていた。
    経済的な不安も重なった。
    収入は傷病手当だけ。
    ボーナスは出ない。
    それでも、二人の娘の大学費用と住宅ローンは待ってくれなかった。
    私は夜になると、何度も電卓を叩いた。
    収入を入れる。
    支出を引く。
    貯金を確認する。
    将来必要になる金額を計算する。
    何度やり直しても、答えは同じだった。
    足りない。
    どうしても足りない。
    暗い部屋で、一人、電卓の数字だけを見つめていた。
    家族は寝ている。
    家の中は静かなはずなのに、胸の中だけがうるさくてたまらなかった。
    先の見えない不安と、家族を守らなければならないという責任感に押しつぶされ、
    「もう、自分が死んで精算するしかないのではないか」
    と、本気で考えた夜もあった。
    今思えば、あの頃の私は、本当にぎりぎりの場所を歩いていたのだと思う。
    しかも、何もかもを複雑に考えすぎていた。
    復職しても、一日会社にいられるのだろうか。
    周りの人とうまくやっていけるのだろうか。
    自分を苦しめた上司と、また向き合わなければならないのか。
    以前のように働くことができなかったら、どうなるのか。
    まだ起きてもいないことまで、次々と想像した。
    心が弱っている時は、現実だけではなく、想像まで敵になる。

    「元気になればいいのさ」
    そんな頃、私はある記事を読んだ。
    アメリカの刑務所で、受刑者が動物の世話をするプログラムが行われ、犬と触れ合った人たちに良い変化が生まれたという内容だった。
    昔、テレビで見たムツゴロウさんの番組も思い出した。
    動物と暮らすことで、人間の心や身体に何か変化が起きる。
    当時の私は、その情報がどこまで正確なのかを検証する余裕などなかった。
    ただ、思った。
    何でもいい。
    とにかく、良くなりたい。
    このままでは駄目だ。
    役職も、人間関係も、自信も失いかけている。
    だったら、せめて、心から信用できる存在がほしい。
    私は、保護犬を迎えることにした。
    それが、ハルちゃんだった。
    今でこそ、ハルちゃんは私の人生を救ってくれた存在だったと言える。
    しかし、最初から感動的な毎日が始まったわけではない。
    正直に言えば、面倒だった。
    朝起きるのもしんどいのに、散歩へ行かなければならない。
    餌をあげなければならない。
    トイレを失敗することもある。
    自分のことすら満足にできないのに、もうひとつの命を世話しなければならなかった。
    「何でこんなことを始めてしまったのだろう」
    そう思ったことも、一度や二度ではない。
    それでも、やめるという選択肢はなかった。
    この子は、私がいなければ生きていけない。
    その事実が、私を毎朝起こし、外へ連れ出した。
    ある日、散歩の途中で立ち止まった。
    何か特別なことがあったわけではない。
    ただ、風が少し気持ちよかった。
    ふと見ると、ハルちゃんが私を見上げていた。
    評価する目ではなかった。
    期待する目でもなかった。
    責める目でもなかった。
    ただ、そこにいる私を、まっすぐ見ていた。
    その時、ふと思った。
    これでいいのかもしれない。
    仕事が思うようにできなくてもいい。
    役職がなくてもいい。
    誰にも必要とされていないように感じても、目の前にはこの一匹がいる。
    この子にとって、私は必要な存在なのだ。
    それだけで、今日はもう十分なのではないか。
    そう思えたのは、本当に久しぶりだった。
    気づけば私は、毎日外へ出るようになっていた。
    少しずつ、身体が動くようになった。
    少しずつ、考え込む時間が減った。
    何かを新しく手に入れたのではない。
    なくなったと思っていたものが、最初から自分の近くにあったことに気づいただけだった。
    その頃、私は運動も続けていた。
    スポーツクラブでヨガをし、神田まで水泳を習いに行った。
    最初は、何の効果があるのか分からなかった。
    それでも続けた。
    昨日より、少しだけ呼吸が深い。
    昨日より、少しだけ身体が軽い。
    昨日より、少しだけ未来のことを考えられる。
    そんな小さな変化が、積み重なっていった。
    そして、ある時、心の中に言葉が浮かんだ。
    「ああ、簡単じゃん。元気になればいいのさ」
    人を変えることではない。
    環境を完璧にすることでもない。
    今すぐ大金を手に入れることでもない。
    まず、自分が元気になることだった。
    今はお金が足りなくてもいい。
    自分が健康を取り戻し、また働けるようになれば、後からお金はついてくる。
    何より先に立て直さなければならないのは、自分自身だった。
    あれは私にとって、奇跡のような心の切り替わりだった。

    冬は、必ず春になる
    ハルちゃんという名前をつけたのは、当時高校生だった娘だった。
    娘が同級生に相談したところ、「春から取って、ハルがいいんじゃないか」と言われたらしい。
    その名前を聞いた時、私はすぐに意味が分かったような気がした。
    冬は、必ず春になる。
    どれほど寒く、苦しい季節でも、その先には温かい季節が来る。
    若い人の感性は素晴らしい。
    大人のように難しく考えず、希望をそのまま名前にしてしまう。
    そして今思えば、ハルちゃんという名前は、本当にぴったりだった。
    仕事も、役職も、人間関係も崩れかけていた私のところへ、春を連れてきてくれたのは、まさにハルちゃんだったからだ。
    私が帰宅すると、ハルちゃんは階段のところまで迎えに来てくれた。
    私が一人で黄昏れていると、何も言わずにそばへ来た。
    目の前でゴロンと横になり、「なでて」と言うようにお腹を見せた。
    犬は不思議だ。
    こちらを慰めようとしているのかどうかは分からない。
    けれど、人が弱っている時ほど、黙って近くにいてくれる。
    人間同士なら、余計なことを言ってしまうことがある。
    正論を言ったり、励まそうとして傷つけたり、相手の苦しさを自分の物差しで測ったりする。
    犬は、何も言わない。
    昨日の失敗を責めない。
    肩書で人を見ない。
    収入や地位が変わっても、態度を変えない。
    ただ、その人が帰ってきたことを、全身で喜んでくれる。
    私は、そんなハルちゃんに、少しずつ人間としての自分を取り戻させてもらった。

    家族で囲んだ、何でもない夕食
    ようやく復職を果たした日。
    私が何より幸せだと感じたのは、特別なご馳走でも、欲しかったものを買えたことでもなかった。
    家族と一緒に、ご飯を食べたことだった。
    休職中の私は、当たり前の日常を回せないことが、どれほど人を追い詰めるのかを痛いほど知った。
    朝起きること。
    着替えること。
    決まった時間に家を出ること。
    会社へ行くこと。
    一日働いて、家へ帰ること。
    家族と食卓を囲むこと。
    元気な時には、どれも普通のことに見える。
    だが、それができなくなると、人は自分の存在そのものを否定されたような気持ちになる。
    復職した日の食卓には、いつもと大きく変わらない料理が並んでいた。
    家族も、いつもと同じような話をしていた。
    しかし、その日の声は、少しだけ弾んでいるように聞こえた。
    私が仕事に戻ったことで、家の中に、わずかな安心が戻ってきたのだと思う。
    明るい声。
    何でもない会話。
    温かいご飯。
    私はその空気の中で、泣きたいような気持ちになった。
    「ああ、私はここに戻ってきたのだ」
    また家族と一緒に、この食卓に座っている。
    たったそれだけのことが、何より大きな幸福だった。
    苦しい時、人は足りないものばかりを数える。
    お金が足りない。
    体力が足りない。
    時間が足りない。
    自信が足りない。
    自分を理解してくれる人が足りない。
    けれど、本当に大切なものは、案外、大きなものではないのかもしれない。
    誰かと食卓を囲めること。
    普通に仕事へ行けること。
    今日一日を何とか終えられること。
    家の中に明るい声があること。
    自分の帰りを待っている命がいること。
    そんな当たり前の中にこそ、人間が生きていくための幸福は、ぎっしり詰まっている。

    ダンス帰りの河川敷
    元気を取り戻してから、私は池袋や渋谷へダンスのレッスンに通っていた。
    レッスンを終えて家へ帰る。
    身体は少し疲れているのに、心のどこかは満たされていた。
    そして午後二時、三時頃になると、犬たちを連れて河川敷へ散歩に出かけた。
    冬は、少しでも陽が当たる場所を探しながら歩いた。
    夏は逆に、アスファルトが熱くならないように、日陰を選んだ。
    犬たちは自転車に乗ることが大好きだった。
    私が出かける準備を始めると、尻尾を振って喜んだ。
    「今日も一緒に行ける」
    そんな顔に見えた。
    風の匂い。
    季節の空気。
    河川敷の静けさ。
    自転車の籠に乗る犬の背中。
    ダンスで少し疲れた身体。
    当時の私は、その時間を特別な幸福だとは思っていなかった。
    いつもの休日。
    いつもの散歩。
    いつもの河川敷。
    それだけだった。
    しかし、今になって、あれが本当に幸せな時間だったのだと分かる。
    人生は不思議だ。
    幸せの中にいる時、人はそれが幸せだと気づかないことがある。
    失った後で、ようやく分かる。
    あの頃の私は、過去に戻りたいのではないと思う。
    もう一度、あの頃の穏やかさや、自由さや、ぬくもりや、安心感に触れたいのだ。
    犬たちと並んで歩いていた、何でもない午後。
    あの時間には、私がずっと探していたものが、すでに全部あった。

    愛した命との別れ
    ハルちゃんは、心臓病を抱えていた。
    毎朝、毎晩、薬を飲ませた。
    家族みんなで、この子を守ろうとしていた。
    しかし、ある時、喉に食べ物を詰まらせた。
    それを取り除くためには、全身麻酔が必要だった。
    けれど、その麻酔は、弱っていた心臓に大きな負担を与えた。
    ふうちゃんも、突然引きつけを起こした。
    目も、手足も不自由になった。
    何日間か懸命に頑張ってくれたが、そのまま逝ってしまった。
    一緒に暮らした期間は、ハルちゃんほど長くなかった。
    それでも、あれほど愛おしいと思った命はなかった。
    突然の死を、私はなかなか受け入れることができなかった。
    愛犬を失ってからの五か月間、魂が抜けたように過ごした。
    外を歩いても、何を見ても、心が動かなかった。
    家の中には、確かに犬たちがいた痕跡が残っている。
    けれど、名前を呼んでも、もう来ない。
    写真を見ると、今でも涙が出る。
    可愛かったから。
    もちろん、それもある。
    しかし、それだけではない。
    あの子たちは、単なるペットではなかった。
    私にとっては、人生の底で呼吸をつないでくれた家族だった。
    生きていると、どうにもならない時がある。
    言葉にしても伝わらない苦しさ。
    人との関わりに疲れ果てる時。
    心を削られ、ただ一日を終えるだけで精一杯になる時。
    そんな時も、あの子たちは変わらなかった。
    帰れば、そこにいた。
    こちらを見てくれた。
    そばへ来てくれた。
    何も聞かず、何も責めず、ただ一緒にいてくれた。
    人は、人によって救われることがある。
    しかし、人によって深く消耗することもある。
    私は、その両方を知っている。
    だからこそ、動物たちの存在は特別だった。
    駆け引きがない。
    損得がない。
    裏切りがない。
    ただ、まっすぐ生き、まっすぐこちらを見てくれる。
    だから、別れた後、私は何度も考えた。
    あの子たちは、本当に幸せだったのだろうか。
    最期は苦しかった。
    もっと何かできたのではないか。
    別の治療があったのではないか。
    もっと早く異変に気づいていれば、助かったのではないか。
    愛した命を失った後、人は答えの出ない問いを繰り返す。
    しかし今は、少し違う見方もできるようになった。
    最期がつらかったことと、その子の一生が不幸だったことは同じではない。
    家族みんなで可愛がった。
    病気になれば薬を飲ませた。
    異変があれば病院へ連れていった。
    毎日名前を呼び、撫で、一緒に散歩した。
    駅から自転車で大急ぎで帰った。
    少しでも早く会いたかったからだ。
    妻や娘に匹敵するほど、大切な存在だった。
    それは決して大げさではない。
    少なくとも、あの子たちは深く愛されていた。
    家族として、確かに愛されていた。
    犬にとって、それはとても大きな幸福だったのではないかと思う。
    そして私にとっても、あの子たちがいてくれた時間は、かけがえのない幸福だった。
    あの子たちは、可愛かっただけではない。
    私を救ってくれた。
    苦しい時代を一緒に生きてくれた。
    沈んでいる私のいる家に、ぬくもりを作ってくれた。
    今日一日を何とか生きようと思える理由をくれた。
    だから、写真を見ると今でも涙が出る。
    それは、悲しいからだけではない。
    それほど大切だった証なのだ。
    ハルちゃん。
    ふうちゃん。
    本当にありがとう。
    君たちは、私の大切な家族だった。
    そして、私を救ってくれた命だった。

    犬派だった私が、猫と出会った
    ふうちゃんを失ってから五か月ほど経った頃、妻にペットショップへ行こうと誘われた。
    最初は乗り気ではなかった。
    もう動物を失う悲しみを味わいたくない。
    あれほどつらい思いをするのなら、二度と飼わない方がいい。
    そう考える気持ちもあった。
    それでも、ある日、吸い寄せられるように店へ向かった。
    そこで、一匹の犬と一匹の猫を抱かせてもらった。
    私は、自分が犬を選ぶと思っていた。
    それまでの私は、筋金入りの犬派だった。
    犬たちに救われ、犬たちと暮らし、犬たちを家族として愛してきた。
    猫と暮らす自分など、想像したこともなかった。
    しかし、その日、私の心をつかんだのは猫だった。
    艶のあるグレーの毛並み。
    吸い込まれそうな緑色の瞳。
    バーミーズという猫だった。
    「この子を逃したら、もう二度と会えないかもしれない」
    理屈ではなかった。
    直感が、そう告げていた。
    その猫が、今一緒に暮らしているソラである。
    ソラは驚くほど人懐こい。
    私が帰宅すると、玄関まで迎えに来る。
    階段を駆け下り、私の足に抱きつくように寄ってくる。
    少しの間、私の姿が見えないだけで、大きな声で呼ぶ。
    私が風呂に入っていると、外で待っている。
    少し横になると、近くへ来て一緒に寝る。
    話しかけると、「ニャー」と返事をする。
    夜は同じベッドで眠る。
    私がいない時も、私のベッドで安心したように眠っている。
    犬とは違う。
    しかし、犬とは違う形で、深く人を愛してくれる。
    かつて犬たちが教えてくれたのは、まっすぐで忠実な愛だった。
    ソラが教えてくれたのは、愛には一つの形しかないわけではないということだった。
    犬派か、猫派か。
    そんな分け方は、人間が勝手に作ったものなのかもしれない。
    目の前の命を愛おしいと思った時、そんな境界は簡単に消えてしまう。
    ソラと出会ったことで、ハルちゃんやふうちゃんの存在が薄れたわけではない。
    むしろ、犬たちが私に教えてくれた愛しさの延長線上に、ソラとの暮らしがある。
    愛した記憶は、新しい愛によって上書きされるものではない。
    愛した記憶の上に、新しいぬくもりが重なっていく。
    ハルちゃんとふうちゃんが私の心の中に作ってくれた場所があったからこそ、私はソラをこれほど愛することができるのだと思う。
    かつて犬たちが、私をもう一度社会へ連れ戻してくれた。
    そして今、ソラは、これから始まる新しい人生を、誰よりも近くで見守ってくれている。

    今も相談している先輩
    私を救ってくれたのは、動物たちだけではない。
    人生の中には、亡くなった後も、心の中で生き続ける人がいる。
    私にとって、その一人がTさんである。
    Tさんは四年前に亡くなった。
    それなのに私は、今でも時々、Tさんに相談している。
    もちろん、本当に電話をかけるわけではない。
    人生に迷った時。
    仕事で悩んだ時。
    人間関係で腹が立った時。
    私はふと考える。
    「こんな時、Tさんなら何と言うだろう」
    不思議なことに、答えが浮かぶことがある。
    だから私にとってTさんは、亡くなった今でも人生の相談相手なのである。
    Tさんと出会ったのは、私が二十代の頃だった。
    淡路島出身の先輩で、いつも冗談ばかり言っていた。
    人を笑わせることが大好きで、どこへ行っても周りを明るくする人だった。
    本当に親しくなったのは、私が二十代後半の頃だったと思う。
    ある日、突然電話がかかってきた。
    「Dくん、大事な話があるんだけど」
    そう言われ、私は喫茶店へ向かった。
    何を言われるのかと思っていると、Tさんは開口一番、こう言った。
    「Dくん、ごめん。実はKさんと結婚することになった。許してくれ!」
    私は思わず笑ってしまった。
    Kさんは、私が学生時代にアルバイトをしていた会社の社員だった。
    私は彼女に恋をしていた。
    思い切って告白もした。
    結果は駄目だった。
    一年以上、引きずった。
    その後、私はアルバイトを辞め、社会人になった。
    不思議な縁で、Tさんに推薦され、Kさんと同じ会社へ入社することになった。
    会社で何度か再会した。
    お互いにぎこちなく、挨拶をしているような、していないような関係だった。
    だから、Tさんから結婚の話を聞いた時は、本当に驚いた。
    それでも、私の口から自然に出たのは、
    「おめでとうございます。本当に良かったです。心からお祝いします」
    という言葉だった。
    私はTさんを尊敬していた。
    優しくて、面白くて、気配りができる。
    人として、本当に魅力のある人だった。
    Kさんは幸せだろうなと、本気で思った。
    その頃から、Tさんとの付き合いは深くなっていった。
    私が休職した時も、Tさんは会いに来てくれた。
    仕事のこと。
    人生のこと。
    人間関係のこと。
    私は何でも相談した。
    Tさんは、いつも私の話を聞いてくれた。
    自分の考えを押しつけるのではなく、笑いを交えながら、私の心を少し軽くしてくれた。
    そんなTさんが亡くなったと聞いた時、私は言葉を失った。
    その前にも、尊敬する元上司を二人亡くしていた。
    大切な人を、立て続けに三人失ったことになる。
    人は亡くなる。
    頭では分かっている。
    しかし、その人ともう話せないという現実は、簡単には受け入れられない。
    それでも、時間がたつと分かることがある。
    人は、亡くなった瞬間にすべて消えてしまうわけではない。
    その人から受け取った言葉。
    笑い方。
    困った時の振る舞い。
    自分に向けてくれた優しさ。
    それらは、残された人間の中に生き続ける。
    ソウルメイトとは、恋人や夫婦だけを指す言葉ではないと思う。
    人生の途中で出会い、その後の生き方に影響を与え続ける人。
    亡くなった後も、心の中で対話を続けられる人。
    私にとってのソウルメイトは、Tさんである。
    そして今日も私は、心の中で先輩に相談している。

    吐瀉物を両手で受け止めた上司
    もう一人、今でも忘れられない上司がいる。
    大好きだった部長である。
    後輩たちも、みんなその部長が好きだった。
    いつも冗談を言い、私たちが遅くまで残っていると、ふらりとコンビニへ行き、食べ物を買ってきてくれた。
    お子さんが三人いて、自宅でも大変だったはずだ。
    それでも職場では、そんな顔を一切見せなかった。
    明るく、面倒見が良く、偉ぶらない。
    私はよく、
    「ああ、この人のような人が、本当に良い上司なのだろうな」
    と思っていた。
    しかし、その部長の本当のすごさを知ったのは、少し特殊すぎる場面だった。
    会社の接待を終えた帰り道。
    私は取締役と部長と三人で、タクシーに乗っていた。
    夜も更け、酒も入っていた。
    すると突然、取締役の様子がおかしくなった。
    顔色がみるみる悪くなる。
    「気持ち悪い」
    運転手さんも察したのだろう。
    バックミラー越しにこちらを見て、強い口調で言った。
    「中で吐いちゃ駄目だよ。絶対に駄目だよ」
    しかし、そんなことを言っても、もう限界だった。
    次の瞬間、取締役は吐いた。
    すると部長は、何のためらいもなく、その吐瀉物を両手で受け止めたのである。
    私は一瞬、何が起きたのか理解できなかった。
    この人は今、取締役の吐いたものを素手で受け止めたのか。
    しかも、それだけでは終わらなかった。
    部長の両手から、今にもあふれそうになっている。
    部長が私に言った。
    「おい、お前、下に手を当てろ」
    私も反射的に、部長の手の下へ自分の両手を差し出した。
    結構こぼれてくる。
    さらに取締役が、追い打ちをかけるようにまた吐いた。
    今思い出しても、地獄のような光景である。
    やがて公園が見えたので、タクシーを止めてもらった。
    私と部長は、二人で手を重ねたまま、その吐瀉物を公園のトイレまで運んだ。
    夜の公園を、上司と部下が、両手に吐瀉物を載せて歩いている。
    人生には、想像もしない場面がある。
    ようやくトイレへ着き、二人で手を洗った。
    これで終わったと思った。
    ところが、吐瀉物の中から、上下そろった入れ歯が出てきた。
    私は、笑えばいいのか、驚けばいいのか分からなかった。
    すると部長は、その入れ歯を拾い上げ、きれいに洗った。
    そして、自分のハンカチに丁寧に包み、取締役に返したのである。
    私は、あの時、本当に感動した。
    出来事だけを見れば、汚く、情けなく、できれば二度と遭遇したくない話である。
    しかし、人の本質というものは、ああいう修羅場にこそ表れるのだと思う。
    きれいな言葉を語ることはできる。
    部下に優しい言葉をかけることもできる。
    けれど、誰もが逃げたくなる場面で、迷わず手を差し出せるか。
    人が最もみっともない姿になった時、それでもその人の尊厳を守れるか。
    あの部長は、取締役の吐瀉物を両手で受け止めた。
    その中から出てきた入れ歯まで洗い、自分のハンカチに包んで返した。
    そこまでできる人を、私は他に知らない。
    上司とは何か。
    人の器とは何か。
    そう考える時、私は今でも、あの夜を思い出す。
    できれば二度と思い出したくない光景なのに、あの部長のことを思う時だけは、少し誇らしい気持ちになる。
    人のぬくもりは、いつも美しい場面だけにあるわけではない。
    時には、誰も触りたくないものに手を伸ばす姿の中にこそ、その人の優しさが現れる。

    失ったものは、消えてしまうわけではない
    私はこれまで、大切な人や命を何度も失ってきた。
    尊敬していた上司。
    いつも相談に乗ってくれたTさん。
    ハルちゃん。
    ふうちゃん。
    もう会うことはできない。
    声を聞くことも、身体に触れることもできない。
    それは今でも悲しい。
    しかし、失ったものは、本当にすべてなくなってしまうのだろうか。
    私は、そうではないと思うようになった。
    困った時に、
    「Tさんなら、何と言うだろう」
    と考える。
    上に立つ人間の器について迷った時、吐瀉物を両手で受け止めた部長の姿を思い出す。
    誰かに評価されず、自分の価値を見失いそうになった時、何の条件もなく私を見上げていたハルちゃんの目を思い出す。
    日常に不満を感じた時、犬たちと歩いた河川敷の午後を思い出す。
    ソラが私のそばで眠っているのを見ると、過去に愛した命と、今ここにある命が、一本の線でつながっているように感じる。
    大切な人や動物は、亡くなった後も、私たちの判断や生き方の中に残る。
    その人なら、どうするだろう。
    あの子がいたら、どんな顔をするだろう。
    そう考えるたびに、今も一緒に生きているような感覚になる。
    別れは、関係の終わりではない。
    形が変わるだけなのかもしれない。
    目の前にいた存在が、心の中に住むようになる。
    触れられるぬくもりが、記憶のぬくもりへ変わる。
    そのぬくもりは、人生の寒い時期になると、今も私を温めてくれる。

    小さな幸せは、今もここにある
    以前の私は、幸せとは何かを手に入れることだと思っていたのかもしれない。
    仕事で認められること。
    役職に就くこと。
    収入が増えること。
    人から必要とされること。
    もちろん、それらも大切である。
    しかし、人生の底を経験し、大切な人や命との別れを経験した今は、少し違う。
    幸せとは、何か大きなものを手に入れた時だけに訪れるものではない。
    朝、普通に目を覚ませること。
    身体を動かせること。
    仕事へ行けること。
    温かいご飯を食べられること。
    誰かと何でもない話ができること。
    動物が安心して、そばで眠っていること。
    亡くなった人のことを、温かい気持ちで思い出せること。
    そんな小さな出来事の中に、幸せは静かに息をしている。
    ソラのために水を替える。
    食器を洗う。
    ご飯のタイマーをセットする。
    トイレを片づける。
    夜の室温を気にする。
    寝る前に、ソラがどこにいるか確認する。
    一つひとつは、誰かに誇るようなことではない。
    しかし、それを面倒だとは思わない。
    守りたい命がいる。
    帰りを待っている命がいる。
    自分のベッドで安心して眠っている命がいる。
    それだけで、家の中に小さな灯りがともる。
    かつて、私がハルちゃんのために散歩へ出たように、今はソラのために日々の世話をする。
    世話をしているつもりで、実は世話をされているのは私の方なのかもしれない。
    動物たちは、言葉で人生を教えようとはしない。
    ただ、今日を生きる。
    お腹が空けば食べる。
    眠くなれば眠る。
    大好きな人が帰れば喜ぶ。
    不安なら鳴く。
    安心すれば、無防備な姿で眠る。
    その姿を見ていると、人間は少し難しく考えすぎているのではないかと思う。
    今日、安心して眠れる場所がある。
    そばにいたい相手がいる。
    自分の名前を呼んでくれる人がいる。
    それだけでも、命にとっては大きな幸福なのだろう。

    あの暗い夜にいる人へ
    今、もし、かつての私のように、暗い部屋で電卓を叩いている人がいるなら、伝えたいことがある。
    未来のすべてを、今夜決めなくてもいい。
    足りないものを、すべて今夜埋めなくてもいい。
    人間関係を、すべて解決しなくてもいい。
    明日から完璧に元気にならなくてもいい。
    まずは、今日を越えること。
    少し眠ること。
    温かいものを食べること。
    外へ出て、少し身体を動かすこと。
    誰かに話を聞いてもらうこと。
    動物の温かい身体に触れること。
    そして、自分が少し元気になることを、何より先に考えてほしい。
    私は、電卓を叩きながら、死ぬしかないと思った夜を越えた。
    もう一度、仕事へ戻ることができた。
    家族と食卓を囲むことができた。
    犬たちと河川敷を歩くことができた。
    大切な人たちと出会うことができた。
    愛する命を失い、それでも、もう一度新しい命を愛することができた。
    人生は、急にすべてが良くなるわけではない。
    昨日より少しだけ呼吸が深くなる。
    昨日より少しだけ身体が軽くなる。
    昨日より少しだけ、明日のことを考えられる。
    その小さな変化の積み重ねが、いつの間にか人を遠くまで運んでくれる。
    冬は、必ず春になる。
    しかし、春は突然、盛大な音を立ててやって来るわけではない。
    朝の光が少し柔らかくなる。
    風の冷たさが少し和らぐ。
    道端に、小さな花が咲く。
    そんなわずかな変化から始まる。
    人生の春も、きっと同じである。

    幸せは、すぐそばにいた
    長い間、私は幸せを遠くに探していた。
    もっと評価されれば。
    もっとお金があれば。
    もっと人に理解されれば。
    もっと立派な自分になれれば。
    そうすれば幸せになれると思っていた。
    しかし、振り返ってみると、幸せはずっと近くにいた。
    私の帰りを待っていた。
    階段を駆け下りてきた。
    河川敷を隣で歩いていた。
    食卓の向こう側で笑っていた。
    喫茶店で冗談を言っていた。
    誰も手を出せない場面で、黙って両手を差し出していた。
    そして今は、私のベッドの上で、小さな寝息を立てている。
    人生には、つらいことがある。
    努力しても報われない時がある。
    信じていた人に傷つけられることもある。
    大切な人や命と、別れなければならない日も来る。
    それでも人生には、ぬくもりがある。
    誰かが自分を思ってくれた記憶。
    何も言わずに寄り添ってくれた命。
    一緒に食べた温かいご飯。
    季節の風を感じながら歩いた午後。
    そうした記憶は、失われない。
    悲しみの中にも、愛された証が残る。
    涙の中にも、確かに幸せだった時間が残る。
    私は今でも、ハルちゃんとふうちゃんの写真を見て涙を流す。
    Tさんのことを思い出し、心の中で相談する。
    亡くなった上司の姿を思い出し、人の器について考える。
    そして、ソラの身体にそっと触れる。
    温かい。
    生きている。
    今、ここにいる。
    その小さなぬくもりに触れるたび、私は思う。
    大丈夫だ。
    愛した記憶も、失った悲しみも、今抱きしめている温もりも、すべてが私の力になる。
    人生を支えてくれるものは、必ずしも大きな成功ではない。
    誰にも知られない、小さな幸せ。
    何気ない一日の中にある、わずかなぬくもり。
    言葉にならない癒やし。
    もう一度生きてみようと思わせてくれる、小さな希望。
    それらが、人を生かしている。
    私も、そうした小さなものたちに救われて、ここまで歩いてきた。
    だから、これからも忘れずにいたい。
    幸せは、遠くにあるのではない。
    いつも小さな姿で、すぐそばにいる。
    気づいてもらえる日を、静かに待ちながら。
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