
死を意識するから人生が輝く
「当たり前」が、どれほど奇跡だったのか
私はこれまで、人生の中で何度か「失う経験」をしてきました。
脳梗塞では、一時的に右側の視野を失いました。
部活動では鼓膜を破り、左耳の聴力が一時的になくなりました。
新型コロナウイルスに感染したときには、一時的に味覚と嗅覚が消えました。
そして阪神・淡路大震災では、昨日まで当たり前だった「日常」そのものが、一瞬で失われました。
だから今、私は心から思います。
景色が見えること。
好きな音楽が聴けること。
美味しいものを「美味しい」と感じられること。
それらは決して当たり前ではありません。
全部、奇跡のような出来事なのです。
「生きているだけで奇跡」だと知った日
脳梗塞で救急車に運ばれたときのことです。
あとから、救急車に同乗してくれた同僚が、こう話してくれました。
「正直、もう助からないと思った。」
幸い、大きな後遺症も残らず、こうして社会復帰することができました。
だから私は思います。
今日という日を迎えられたこと自体が、もう十分にありがたいことなのだと。
私は毎日、「死」を意識して生きています
少し驚かれるかもしれませんが、私は毎日「死」を意識しています。
これを読んでくださっている皆さんも、おそらく100年後には誰一人、この世にはいません。
人は、生まれた瞬間から「いつか必ず死ぬ」という運命を背負っています。
だから私は、自分に何かあった時のために、
連絡先や資産の一覧を書いた封筒を、すぐ見つけられる場所に置いています。
物もできるだけ増やさないようにしています。
自分がいなくなった後、誰かが困らないように。
もちろん、どうしても手放せない物もあります。
若い頃に集めたレコード。
バレーボール現役時代のユニフォーム。
それらは、私が生きてきた時間そのものだからです。
一人暮らしなので、友人とはできるだけLINEで連絡を取り合うようにもしています。
もし突然倒れてしまった時、異変に気づいてもらえるように。
そこまで考えるのか、と思われるかもしれません。
でも私は、死を意識することは決して暗いことではないと思っています。
「いつか」は、突然終わるかもしれない
むしろ逆です。
死を意識すると、「今日」という一日が、驚くほど輝いて見えるのです。
何気ない会話。
コンビニで買った一杯のコーヒー。
お気に入りのお店の料理。
電車の窓から見える夕焼け。
そんな何でもない出来事が、急に愛おしく感じられる。
なぜなら、それを味わえる時間には限りがあるからです。
旅行も、
「いつか行こう」
と思っているうちに、行けなくなる日が来るかもしれません。
会いたい人にも、
「また今度」
と言っているうちに、会えなくなる日が来るかもしれません。
だから私は、「そのうち」ではなく、「今」を大切にしたいと思うようになりました。
本当の幸せは、すぐそばにある
SNSを開けば、華やかな人生がたくさん流れてきます。
でも私は、本当の豊かさは特別な出来事の中だけにあるわけではないと思っています。
ご飯が美味しいこと。
ちゃんと雨風をしのいで眠れる場所があること。
誰かと「おはよう」と言い合えること。
何気なく笑えること。
そういう「当たり前」の、今日の積み重ねこそが人生そのものなのではないでしょうか。
最後に
死を意識すると、一日の重みが変わります。
そして、その一日一日の積み重ねが、人生になります。
だから私は今日も、
景色が見えることに感謝し、
音楽が聴けることに感謝し、
美味しいと感じられることに感謝しながら、
生きています。
震災や病気を経験してから、私はこう思うようになりました。
人生は長さではなく、誰かの心に何を残せたか。
今日、誰か一人の笑顔につながることができたなら。
それだけで、その日はきっと「生きた一日」なのだと思います。
そして私も、そんな一日を積み重ねながら、残りの人生を歩んでいきたいと思っています。
「生きている。」
ただ、それだけで。
本当は、十分すぎるほど奇跡なのかもしれません。
最後まで読んでいただき、ありがとうございます。
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