灯籠林の沈黙
時計の短針が午前二時を指そうとしていた。高校二年生の僕、高槻海斗(たかつき かいと)は、自分の部屋でぼんやりと窓の外を眺めていた。明日に迫った古典の小テストの勉強は、とうに集中力が切れている。
窓の外には、僕が「灯籠林(とうろうりん)」と呼んでいる夜景が広がっていた。無数のマンションや家々の窓から漏れる生活の光。それはまるで、闇の中に浮かぶ無数の灯籠のようで、一つ一つに誰かの人生が灯っているのだと思うと、不思議と心が落ち着いた。遠くに見えるビル群の赤い航空障害灯が、蛍の明かりのようにゆっくりと点滅している。街は深い眠りの中にあった。
「海斗、まだ起きてるの? 明日も学校でしょ」
階下から母さんの声が聞こえた。
「うん、もう寝るよ」
そう答えながら、僕は教科書を閉じた。あくびを一つして、ベッドに潜り込む。いつもの夜。昨日と何も変わらない、明日もきっと同じようにやって来るはずの、ありふれた夜。
その「いつも」が、音を立てて砕け散る瞬間まで、あと数十秒しかないことを、この街の誰も知らなかった。
轟音。
それが全ての始まりだった。何の前触れも無く、突然やって来た。
ゴオォォォッという、腹の底から湧き上がるような地鳴りと共に、大地が雄叫びを上げた。次の瞬間、家全体が巨大な金槌で真下から叩き上げられたかのように、激しく跳ね上がる。ベッドから放り出された僕は、床に叩きつけられた。
「うわっ!?」
悲鳴を上げる暇もなかった。直後、洗濯機の中に放り込まれたかのような、猛烈な横揺れが襲う。立っていられない。いや、そもそも四つん這いになることすらできない。本棚が倒れ、教科書や漫画が部屋中に散乱する。机が滑り、壁に激突してけたたましい音を立てた。ミシミシと家が軋む音、ガラスが砕け散る音、そして、すぐ隣の部屋から聞こえる妹の悲鳴。
「母さん!父さん!結衣!」
叫びは、建物のきしむ轟音にかき消された。外から聞こえてくるのは、まるで積木が崩れるかのような、低く、重い破壊音の連続。僕らの住む街が、根こそぎ破壊されていく音だった。
停電。
一瞬にして世界から光が消え、完全な闇が訪れた。揺れだけが、この世の終わりを告げるように、僕の体を翻弄し続けていた。
どれくらいの時間が経っただろう。永遠にも感じられた揺れが、少しずつその勢いを弱めていった。だが、完全に静かにはならない。時折、大きな余震が体を揺さぶり、そのたびに心臓が凍り付いた。
「…海斗!無事か!」
闇の中から、父さんの切羽詰まった声が聞こえた。
「うん…!父さんこそ!」
「大丈夫だ!結衣!母さん!」
壁一枚隔てた向こうから、妹の結衣(ゆい)の泣き声と、母さんの「大丈夫よ、ここにいるから」という震える声が聞こえる。生きている。その事実に、僕は張り詰めていた息をようやく吐き出した。
手探りでスマートフォンの場所を探し当て、ライトを点ける。照らし出された自分の部屋は、まるで爆撃でも受けたかのような惨状だった。
家族と合流すると、皆、怪我はなかったものの、恐怖で顔が青ざめていた。父さんは「すぐに外へ出るぞ。この家がいつまで持つか分からん」と、僕らに指示を出す。
割れた窓から外を覗き込んだ僕は、息をのんだ。
さっきまで僕の心を和ませていた「灯籠林」は、完全に沈黙していた。蛍の明かりのように点滅していたビル群の光も、どこにも見えない。闇。ただ、底なしの闇が広がっているだけだった。
その沈黙を破るように、遠くからサイレンの音が響き渡り始めた。一つ、また一つとその数を増やし、やがて無数のサイレンが重なり合って、夜の空気を切り裂く。暗闇の中を、赤色灯がいくつも彷徨い、悪夢のような光景を断続的に照らし出していた。
僕たちは最低限の荷物をリュックに詰め込み、恐る恐る玄関のドアを開けた。幸い、ドアは歪みながらも開いた。マンションの廊下も壁に亀裂が走り、階段にはコンクリートの破片が散らばっている。結衣の手を固く握り、僕たちは懐中電灯の光を頼りに、一歩一歩、慎重に階下へ向かった。
外の世界は、僕の想像を遥かに超えていた。
アスファルトの道路は、まるで巨大な獣に引き裂かれたかのようにめくれ上がり、雷の如く、深い亀裂が大地を駆け巡っていた。隣の家は半壊し、道を挟んだ向かいの商店は、一階部分が完全に潰れてしまっている。
至る所から、白い煙が立ち上っていた。焦げ臭い匂いが鼻をつく。遠くの空が、まるで不気味な夕焼けのように赤く染まっていた。炎が吹き出しているのだ。
僕たちと同じように家から逃げ出してきた人々が、呆然と道端に立ち尽くしている。誰もが言葉を失い、目の前の光景が信じられないといった顔をしていた。僕らは、避難所に指定されている中学校の体育館を目指して、瓦礫の山を乗り越えながら歩き始めた。
サイレンの音は、もう途切れることがない。それはまるで、この街の悲鳴そのもののように聞こえた。
体育館は、既に大勢の人で埋め尽くされていた。誰もが毛布にくるまり、不安そうな顔で寄り添っている。僕たち家族も、隅の方に何とか場所を見つけて腰を下ろした。結衣は僕の腕の中で、泣き疲れて眠ってしまった。
眠れないまま、僕は体育館の窓から外を眺めていた。夜が明けて、東の空が白み始める。そして、少しずつ、少しずつ、被害の全貌がその姿を現し始めた。
それは、絶望的な光景だった。
僕らが昨日まで暮らしていた街は、そこにはなかった。まるで巨大な手で握り潰されたかのような、瓦礫の海が広がっていた。遠くまで見渡せるようになってしまった、遮るもののない景色。潰れた家々、横たわる電柱、ぐにゃりと曲がったガードレール。昨日まで当たり前にあった日常が、一夜にして奪い去られてしまったことを、残酷なまでに突き付けられた。
体育館の中にも、絶望が満ちていた。家族と連絡が取れないのか、泣き崩れる女性。虚ろな目で一点を見つめ続ける老人。誰かが持っていたラジオからは、被害の状況を伝えるアナウンサーの淡々とした声が流れ、その数字が現実味を帯びて人々の胸に突き刺さる。
悲しみ、恐怖、痛み。そういった負の感情が、まるで重く濁った霧のように、体育館の中にも、そしてきっとこの国の空全体にも、立ち込めていた。
どれくらいそうしていただろう。不意に、ボランティアの腕章をつけた大学生くらいの女性が、僕らの前にしゃがみこんだ。
「これ、どうぞ。少しですが」
そう言って差し出してくれたのは、ラップに包まれた二つのおにぎりだった。
「ありがとうございます…」
母さんがか細い声で礼を言う。父さんが一つ受け取り、僕に一つくれた。ただの塩むすび。なのに、口に入れた瞬間、温かいものが喉の奥から込み上げてきた。しょっぱくて、でも、信じられないくらい美味しかった。生きている、という実感が、米粒の一粒一粒から体に染み渡っていくようだった。
隣を見ると、父さんが僕の頭を無言で一度だけ、強く撫でた。その無骨な手のひらから、「大丈夫だ、俺たちがいる」という声が聞こえた気がした。
僕はもう一度、窓の外に目をやった。朝日は完全に昇り、瓦礫の街を容赦なく照らしている。失われたものはあまりにも大きい。この悲しみや恐怖が消えることは、きっとないだろう。
でも、と思った。
おにぎりを握ってくれた人がいる。壊れた水道管を直そうと懸命に作業している人々の姿も見える。僕の腕の中には、まだ温かい結衣の寝息がある。父さんと母さんが、隣にいる。
灯籠林は沈黙した。蛍の明かりも消えてしまった。
だけど、僕らはここにいる。
夜は明けたのだ。今日、この瓦礫の中から、僕らの新しい一日が始まる。僕は固く唇を結び、眠る妹の手を、もう一度強く、強く握りしめた。
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