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【マニフェスト #17】「存在コスト」の残酷さーー社会が息苦しくなるとき、#未来に向けた挑戦 はどこから始まるのか

    仕事や日常の中で、GDPトップ2の大国の人たちと接する機会が多い。

    彼らとの会話は、特別な議題があるわけでもなく、ほとんどが雑談に近い。
    それでも、何気ないやり取りの中で気づかされること、考えさせられることはかなり多い。

    正直なところ、この二つの国の人たちとの会話だけを切り取っても、一つのシリーズが作れるくらいには、書ける話がある。

    今回はその中から、年末年始の、ちょっとした会話をきっかけに再浮上した以前考えていた疑問や違和感について言語化してみようと思う。

    特に深刻な議論をしたわけではない。
    政治の話になることもあるが、ヒートアップすることはなく、
    お互いの感じていることを淡々と交換する、という程度のものだ。

    ただ、その中で聞こえてきた言葉には、どこか共通した違和感があった。

    繰り返される、よくある違和感

    お正月休み中に会った時も、ああでもない、こうでもないと話しているうちに、そのうちの一人が、ぽつぽつと不満をこぼし始めた。

    やはりオバマ大統領の時代のほうが良かった。
    今は閉鎖的で、排他的になってきているし、
    正直、居心地が悪い、と。

    税金はきちんと払っているのに、
    行政サービスが良くなっている実感はない。
    治安も悪くなっているように感じるし、
    ホームレス問題は目に見えて深刻だ、という。

    どれも極端な主張ではなく、感情的に誰かを批判しているわけでもない。

    その人は、遠く離れた国からこの国に移り住んできた。
    いわゆる「夢の国」と呼ばれる場所に、
    それなりの期待を持って来たのだと思う。

    ただ、実際に長年生活してみると、思っていたものとは少し違った、
    という感覚が残ったようだった。

    こうした話を聞きながら、
    私はふと、別の場所で聞いた言葉を思い出していた。

    こうした不満や違和感は、この国特有のものなのだろうか。

    話を聞きながら、私は自然と、
    日本でよく耳にする言葉を思い出していた。

    税金を払っているのに、暮らしは良くならない。

    将来が見えない。

    治安が悪くなった気がする。

    社会全体が余裕を失っている。

    言葉を置き換えれば、
    今聞いた話と、ほとんど同じ内容だ。

    期待していたほどの国ではなかった。
    思っていたほど、社会は機能していない。
    「こんなはずじゃなかった」という感覚。

    それは、外から来た人だけが感じるものではない。
    その社会の中で長く生きてきた人たちも、
    同じような言葉を口にしている。

    ここで少し、立ち止まって考えてみたくなる。

    これは本当に、
    どこかの国や、特定の政権、
    あるいは一部の政策だけの問題なのだろうか。

    それとも、
    もっと別のレイヤーで起きている話なのか。

    受け身の法則

    こうした違和感について考えていると、
    いつも同じ構造に行き着く。

    それは、私達が長年、
    住んでいる地域社会やコミュニティを、
    「誰かが良くしてくれる場所」だと
    無意識のうちに捉えてしまっていたことだ。

    不満が出る。
    期待もする。
    でも、自分がそこにどう関わるか、
    何を差し出しているかについては、
    ほとんど語られない。

    もし本気で、
    自分の住んでいる地域を良くしたいのであれば、
    意見を出し、言葉を発し、
    何らかの形で関わっていく必要がある。

    ただ待っているだけでは何も変わらないし、
    状況が悪化するばかりだ。

    これは精神論の話ではなく、構造の問題だ。

    受け身のままでいる人が増えれば増えるほど、
    そのコミュニティは、必然的にリソース不足に陥る。

    「誰かに何とかしてもらいたい」という意思を持った人たちが
    大量に流れ込んでくれば、その場所は、支える側よりも、
    支えられる側の比率が高くなっていく。

    結果として、公共機関や生活圏内の質は下がり、
    サービスの水準は落ち、
    倫理観も少しずつ緩んでいく。
    対応は遅れ、その遅れがまた不満を生み、
    悪循環が続いていく。

    この流れは、ここ20年ほどの間、
    この大国で何度も繰り返し目にしてきた。

    存在コストと社会的コストの逆転

    こうした不満の中で、
    必ずと言っていいほど出てくる言葉がある。

    「税金を払っているのに」という言い回しだ。

    この言葉自体が間違っているわけではなく、
    社会の一員として、負担をしているという感覚は自然だ。

    ただ、このような言葉が頻繁に聞こえるようになった時、
    一度、別の視点を置いてみる必要がある。

    もし、その人が社会に与えているもの――
    つまり社会的な貢献度よりも、
    その人が存在することで発生している社会的コストのほうが
    上回っていたとしたら、どうなるだろうか。

    ここで言う社会的コストは、目に見える金銭的なものだけではない。

    行政コスト、インフラ、治安維持、資源消費、
    医療、福祉、教育、対応にかかる時間と労力。
    それらはすべて、誰かの負担によって支えられている。

    社会全体を見渡したとき、
    社会的コストが社会的な貢献度を恒常的に上回る人が増えていけば、
    バランスは確実に崩れる。

    そして、その歪みは、
    社会レベルの疲弊という形で表に出てくる。

    そして人々の不満はさらに大きくなる。
    「払っているのに、返ってこない」。

    だが本当に揺らいでいるのは、
    制度そのものというより、
    社会を支える前提や人々の意識のほうなのかもしれない。

    そして、国や社会の基盤が弱っているほど、
    この逆転は、問題として認識される前に、日常化していく。

    一方通行になった社会との関係性

    ――#未来に向けた挑戦として、私たちが取り戻せるもの

    ここまで考えてきて、
    一つだけ、はっきりしていることがある。

    多くの不満は、
    制度の欠陥や、特定の誰かの失策だけから
    生まれているわけではない。

    それは、
    社会との関わり方が、
    いつの間にか一方向になってしまった結果でもある。

    社会は「サービスを受け取る場所」であり、
    自分は「対価を払っている側」だという前提。

    その前提が強くなりすぎたとき、
    関与や関係性といった要素は、
    視界から抹殺されてしまう。

    その状態でどれだけ制度を整えても、
    どれだけ税率や仕組みを調整しても、
    違和感は消えない。

    なぜなら、
    問題は表面だけにあるのではなく、
    社会をどう捉えて、どう関係性を持っていくか、
    という内側の前提にも静かに根を張っているからだ。

    これは、
    誰かを責める話でもなければ、正解を提示する話でもない。

    ただ一つ、問いとして残したいのは、
    自分はこの社会に対して、
    何を期待していて、
    何を差し出す事ができるのか
    。

    それは犠牲を伴うものではなく、
    完璧な理論観や、立派な社会貢献を求めるものでもない。

    ほんの小さな社会との関わり方の選択。
    無関心で通り過ぎるのか、ほんの少しだけ立ち止まるか。
    受け取るだけで終わるのか、関係を少しでも結び直そうとするのか。

    一人一人のこうした小さな選択の積み重ね以外に、
    社会が再び息をし始める道は、もう残されていないのではないか
    と危惧する。

    ここで提案した #未来に向けた挑戦 とは、
    壮大な理想を掲げることではなく、
    一人一人の社会との関係性を、もう一度、
    双方向に戻そうとする試み、そのものだと、

    私は信じています。


    このノートは連載シリーズのひとつです。
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    PCスクリーンという、キラキラしていて、でも無機質な物体と常に向き合い、プログラミングに没頭する私が、それでもなお人間らしさ、人間臭さをどう表現できるか挑戦するためのNoteマガジンです。デジタルと人間味、その狭間から生まれる小さなストーリーは、やがて私の人生においてのマニフェストと形を変えていくのです。

     
     
    プログラマーでもなければ、データサイエンティストでも、ライターでもない、何者でもないクリエイティブ・エンジニアです。

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