
ヒッキーのワクワク⭐︎パラダイス
人生を無駄にしていないか。この間、友人から不意に聞かれた。いや、聞かれた、というよりも──口調こそ尋ねるときのそれであったけれど、行間を読み正確に記すのであれば──諫言であろう。いまの僕の人生は胡乱だ、と。彼はそう言いたいはずであった。僕が彼に心酔していることをいいことに、彼は僕にたびたび手厳しい言葉を打つけて来る。しかし、それに対し僕が特段嫌だとも思っていなければ、「そんなことを言ってくれるなんて」とさえ思っていることすら、彼は確と心得ているように思う。だから、実際は僕が期待するようなことなどない、ということまでは僕とて理解しているつもりだ。まあ、そんなことは枝葉末節。ここでの本題は、現在の僕の人生は胡乱なものであるのか、である。彼の言葉を真に受けるならば、少なくとも今現在、僕の人生は傍から見るとそう見える、ということになる。仮にも、もし彼にそのような意図がなかったとして、このような想いに至っているという時点で、僕自身がこそそう思ってしまっているのかもしれないが。
この頃、めっきり音楽を聴かなくなってしまった。音楽を聴くことに疲れてしまった。正確には、「常に新しい音楽を聴かなくてはならない」という強迫観念に。勿論、そう自分を強迫していたのも紛れもない自分であるわけなのだが。何為に音楽を聴くのか、わからなくなってしまったのだ。自分が好きでしているのだ、と胸を張って言い続ければよかったものを、どこかで他人の目や評価を気にせんとしてしまったときに、果たして自分は以前より音楽を聴くことが好きであったのだろうかという疑念がつと生まれた。それで僕は今度、映画に夢中になった。どうせ自分の周りには映画を好んでいる人間など大していないからである。昨年は一年間で一九〇本もの映画を観た。対して、今年はこの六か月間にすでに二〇〇本をも観ているというのだから、そこからも僕の没頭ぶりが理解るだろう。暇さえあれば映画を観ている。映画を観るためには映画を観る必要があるのだ。だから、映画を観る。映画を観るために映画を観る。そして、そのために映画を。無限ループである。しかし、時折思うのだ。映画館という暗箱の中でスクリーンに流れる映画を観ながら、「一体、自分はいま何をしているのだろう」と。そして、最近はそう思うことが殊に多くなった。それが嫌で嫌で堪らなくて、その行為に筋を通さんためにまた映画館へ足を運ぶ。これまた、映画を観るために映画を観るということになる。当然、快楽はある。だからそうする。ただそれだけでよかったはずが、僕はいまやどこかで「意味」を求めてしまっている。映画に「意味」を求めるなど烏滸の沙汰。日頃よりあれほど口酸っぱく言っているにも関わらず、である。しかしながら、この空虚はどこより来るものなのか、実はこれも亦、明白である。つまりは、この僕の映画に対する態度や執着は、先般僕が音楽に対し向けていたそれと何ら変わりがないのである。すなわち、この行為の向かいし先は────。それを思うと僕は、ぽっかりと自分の中に空洞を感じるのだ。そして、その潔いほどの空洞は、僕の身体が叩かれたとき、それはまるで楽器のようにいい音を響かせるのである。
そんな生活をしていると金が保たない。予てより日課の若くライヴに足を運んでいたため、「金欠、金欠!」とは口煩う言ってきた。しかし、近頃のそれはもう笑い事ではなくなってきている。以前の僕といえば、金を遣うことすなわち薬と言わんばかりに金を遣っていた。部屋に積むばかりの本を買い、友人と週に幾度もご飯を食べ、ライヴに行き、映画に行ってはパンフレットを買い、とかく金を遣うことに快楽を感じていた。しかしながら、ここまで身が貧してしまえば、金を遣うことはすなわち毒となってしまうのだ。友人と呑みに行く予定が決まるだけで、極悪いことをしているような気がして気が滅入ってしまう。今月は月にこれだけ人と会うのだからいくらいくらを遣うこととなるだろう、と何とも貧乏臭いことを考えては、そんな自分に嫌気が差す。終いには、何かしか不慮の事由に因って予定がなくなってくれやしないだろうか、と願ってすらしまう。この頃の自分には、度々反吐が出ん思いだ。そして、こうであればこそ、彼にあのようなことを言われても、「なるほど、僕は人生を無駄にしているかもしれない」と存外あっさりと納得してしまったわけなのである。
さて、話は変わって昨日のこと。本来は終日外に出る予定であったが、幸か不幸か、いずれの予定も延期となった。折角なら、と目黒シネマにでも出向こうかとも考えはしたものの、結局は身体が動かず自宅に籠城することとした。正午に起き、二時間ほど愚惰愚惰とした後に、そういえばと思い出し、TSUTAYAで借りていた宮崎駿『風の谷のナウシカ』を観た。
まるで奇跡だった。これを奇跡と呼ばずしてなんと呼ぶのだろうと思った。多かれ少なかれ静止画の連続でしかないアニメーションで以て、そこに風と重力と動きを写していた。描いていたのではない。メーヴェで風に乗る気持ちよさ、全身で風を切る感覚に思わず身体が喜んでしまう。そこには重力があり抵抗があり、それを裏切る快感があった。手を広げ立つナウシカを見て思う。彼女は風になったのだ。ラストカットを見れば誰もが「彼女は死んだのではないか」という愚説に辿り着くとは思うのだが、やはり僕もそう思った。風になることすなわち死ぬこと、とは以前に申し上げた通りだが、まさに彼女は風になったのだと思った。「生贄」などという簡素なシステムに当て嵌めてしまうことは、いかにも岡田斗司夫的で気が引けてしまうので、敢えてここでは「風になった」と表現しておきたい。風という目に見えない力や運動が確かにそこにあった。風とは吹かせるものではなくて、そこに風が吹いているのだ。自然という超人智的存在が、人間を含んだ諸々の存在に対し向ける不可視の力、それこそが「風」なのだ。それは決して人間の把握し得たところではなく、あくまで人間からすれば偶然の産物でしかない。そういう偶然とか、身体が感じる喜びとか、そうしたものをアニメーションという言わば「確信犯」的所業でもって写してしまう、というのは些か恐ろしい。おのれ、宮崎。そう思わざるを得なかった。王蟲ひとつを取っても、唯一匹のそれを目の前にしただけで私たちは巨大さへの畏怖を感じざるを得ないというのに、それが群れとなって迫るダイナミズムときたら、である。まさに暴力。そのときめきと恐怖に身体は震えるしかなかった。ああ、美しい。強いて付け得る難癖として、特に序盤は、やや台詞が説明的すぎたことが挙げられるが、それを差し引いてもあれは紛うことなき傑作であった。グッドサインを出すナウシカ、雲の中を飛ぶナウシカ。誰もが彼女に恋せざるを得ないだろう。そういえば王蟲の目もナウシカの服も空の色をしていた。あれはまさに奇跡としかいいようのない、風になってしまった映画であった。感服。
ぐうたらと寝ずも起きずに暮らしていたら早くも夕刻。電気もつけずに生活をしていたので部屋は仄暗くなっていた。そこで僕はある本を手に取った。つい先日購ったばかりの米澤穂信『黒牢城』だ。終ぞ日の光を一秒たりとて浴びずに一日を終えようとしている今日に、将に夜の闇に沈まんとする薄明のこの部屋にピッタリではないか、と思ったためである。『氷菓』や『小市民シリーズ』のワンフーたると同時に、実に体調を崩す程には『CURE キュア』に陶酔させられた身からすれば、黒沢清が本作を原に監督を務めた映画『黒牢城』はどれだけ期待しようともし切れない、そういった作品であった。結論から言えば、黒沢氏の動機を省略することに依って見えない恐怖を生み出そうとする点と、米澤氏の丁寧に段取られた説明は思いの外に相性が悪く、ミステリを期待して行った身としては「残念、無念」としか言いようがなかった。しかし、照明の使い方や雷撃の演出には「さすが黒沢」と唸らされはしたため、映画として駄目であったとも言えないというのが正直なところである。では、原は如何なるミステリなのか。それを確かめんとするために文庫版『黒牢城』を購ったと、そういうわけである。そして、この文章が平時のそれよりも古めかしい文体をしているというのもそのためである。
はて、この文章は何を書かんとして書き始めたのだろうか。行く先の目当てもないままに書き始めた文章は、今や空中分解しようとしている。あるいは自然消滅か。そして、そうこうしていたら、今日とて一日が夜陰に沈まんと支度を始める。嗚呼、人生は夢だらけ。常とも覚えん闇の中で、僕は今日もそう信じながら、愚かで安らかな眠りにつくのだろうか。