
「自分ならそうはならない」それでも相手を理解できる
以前、身近な人から「つらいことがあった」と相談されたことがあります。
相手の表情や声から、悲しんでいることは分かりました。何が起きたのかを聞くと、なぜそこまで傷ついたのかも理解できました。
でも、相手と同じような悲しさが、自分の中に生まれたわけではありません。
「この人はいま、すごくつらいんだろうな」と思いながらも、自分自身は比較的冷静なままでした。
そのとき、少し戸惑いました。
相手と同じ気持ちになれない自分は、冷たいのだろうか。
共感できないということは、相手を理解できていないということなのだろうか。
そこで、ふと思いました。
共感できないことと、相手を理解できないことは、本当に同じなのだろうか。
共感と理解は別のもの
この記事でいう「共感」は、主に心理学でいう感情的共感に近い意味で使います。
自分にとって共感とは、相手の気持ちを想像した結果、自分の中にも似た感情が生まれることです。
一方、理解するとは、
相手がなぜその感情になったのか。
どんな出来事があり、何を考え、どのような経験や価値観が重なって、その気持ちになったのか。
そこまで考えることです。
心理学では、相手の視点や感情を理解する働きを「認知的共感」と呼ぶこともあります。
自分がここで「理解」と呼んでいるものも、それと重なる部分があります。
ただ、自分の感覚として一番近い表現はこれです。
「自分ならそうはならない。でも、この人の中では筋が通っている」
相手と同じ感情になれなくても、その人がそう感じるまでの流れを理解することはできます。
相手と同じ感情になれなくても、その理由は考えられる
同じ出来事が起きても、全員が同じ感情になるわけではありません。
過去の経験。
その人の価値観。
期待していたこと。
置かれている状況。
相手との関係。
いろいろなものが重なって、一つの感情になるのだと思います。
だから、本人が理由をうまく説明できないときには、
「過去にこういう経験があったからではないか」
「この人はここを大切にしているからではないか」
と仮説を立てることもあります。
ただし、自分の推測を相手の答えにしてはいけません。
「自分はこの人のことを分かっている」と決めつけるのではなく、自分の仮説と本人の話をすり合わせながら、少しずつ理由に近づいていく。
自分にとって、理解は一度推測して終わるものではありません。
相手の悲しみを理解しても、自分まで同じように悲しむとは限らない
例えば、パートナーと別れて悲しんでいる人がいるとします。
長く付き合っていた。
将来も一緒にいると思っていた。
生活の多くを共有していた。
そういった背景を知れば、
「この人にとって、この別れは大きなものだったんだな」
と理解できます。
ただ、自分の頭の中では、
「別れないために、できることはなかったのか」
「本人側にも原因はなかったのか」
と分析してしまうことがあります。
そのため、相手と同じ悲しさまでは感じられないことがあります。
でも、ここで大切なのは、
頭の中で何を分析するかと、実際に相手へ何を伝えるかは別だということです。
悲しんでいる相手に、
「あなたにも原因があったんじゃない?」
とそのまま言う必要はありません。
まずは、
「それだけ大切な相手だったなら、つらいよね」
と、その人が今どんな状態なのかを踏まえた言葉を選ぶこともできます。
相手と同じように悲しめなくても、なぜその人が悲しんでいるのかを理解し、その理解を接し方に反映することはできます。
理解によって変わるのは、自分の意見よりも伝え方
相手を理解したからといって、自分の意見が必ず変わるわけではありません。
理由を聞いたうえでも、
「自分は違うと思う」
ということはあります。
それでも、理解できると伝え方は変えられます。
相手が何を大切にしているのか分かれば、受け取りやすい言葉を考えられる。
なぜ傷ついたのか分かれば、必要以上に傷を広げない言い方を選べる。
何を不安に感じているのか分かれば、その不安を踏まえて説明できる。
つまり自分にとって、
理解によって変わるのは、自分の意見よりも伝え方です。
例えば同じ「それは違うと思う」という意見でも、
「それは間違っている」
と伝えるのと、
「そう考えた理由は分かる。でも、自分はここだけ違うと思う」
と伝えるのでは、相手の受け取り方はかなり変わります。
理解することで、自分の考えまで変える必要はありません。
ただ、
「どう言えば、この人には届きやすいだろう」
と考えることはできます。
感情を理解することと、すべてを肯定することは別
例えば、相手が何かを誤解して怒っていたとします。
「怒っている」という感情そのものは本物です。
ただし、
その怒りの前提になっている事実認識が正しいかどうか。
そして、その怒りを相手にどう表すか。
これは別の問題です。
感情を理解することは、その前提となった事実認識に同意することでも、行動を肯定することでもありません。
「なぜ怒ったのか」は理解できる。
でも、
「その思い込みは違う」
「その怒り方はよくない」
と考えることもできます。
相手を理解するために、すべてを肯定する必要はありません。
理解にも限界がある
ここまで書くと、
「それなら共感は必要ないのでは?」
と思われるかもしれません。
でも、自分はそうは考えていません。
理解しているつもりでも、実際には相手を読み違えているかもしれません。
また、理解する力があったとしても、それを相手のために使うとは限りません。
相手の弱点や考え方を理解して、逆に利用することだってできます。
だから必要なのは、理解する力だけではありません。
理解したことを、相手への尊重や配慮に使おうとする意思も必要です。
そして、同じような経験をして、似た痛みを感じた人だからこそ出せる言葉もあると思います。
そこは、理解だけでは完全には埋められないのかもしれません。
だから自分は、
「理解できれば共感はいらない」
とは思いません。
理解は共感の代用品ではなく、共感できない部分を補う一つの方法です。
「自分ならそうはならない」それでも相手を理解できる
自分は、人がなぜそう考えるのかを知ることが好きです。
単純な好奇心もあります。
でも、もう一つ理由があります。
自分自身が共感しにくい部分を、理解する力で補いたいからです。
相手と同じ気持ちになれなくても、
「なぜこの人はそう感じたのだろう」
と考えることはできます。
すべてを分かる必要はありません。
相手と同じ感情になる必要もありません。
それでも少し理解できれば、言葉や接し方を変えることはできます。
「自分ならそうはならない。でも、この人の中では筋が通っている」
そう考えられれば、
相手と同じ感情になれなくても、その人を理解しようとすることはできます。
共感できないからといって、理解できないわけではありません。
そして、共感が苦手だからといって、人との関わりを諦める必要もありません。
「自分は相手に共感できるだろうか」
だけではなく、
「自分はこの人を、どこまで理解できるだろう」
という入り口から人を見る方法もあります。
自分は、共感しにくいからこそ、これからも理解しようとしていきたいと思っています。