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Photo bycocoroharada1024

アントニオ猪木最後の対戦相手は滝沢秀明だった?

    細田昌志『力道山未亡人』読む。

    22歳、結婚半年で未亡人となり、力道山の連れ子を含む4人の子を抱え、彼の多岐にわたる事業と多額の負債を相続した田中敬子。
    その波乱の人生を軸に、プロレス界はもちろん、芸能界、角界、プロ野球、南北朝鮮、財界、裏社会、・・・・。
    戦後日本の「ほぼ全て」が網羅されているのでは?と思うほどの情報が詰まりまくったノンフィクション作品である。

    この本の第13章のタイトルが「猪木対タッキー」で、私は「!?」となった。
    タッキーってあのタッキー?ジャニーズの?それともプロレスラーにも「タッキー」という人が居るのだろうか?

    読み進めていくと、なかなか興味深いことが書かれていたので、ここに軽くまとめてみる。

    まず「なぜ力道山関連の本に猪木が登場するのか?」という所からなのであるが、アントニオ猪木は、ブラジル遠征中の力道山にスカウトされて日本プロレスに入団したという経緯があり、力道山死去まで付き人を務めていたのだという。
    私はプロレスを全く知らないので、そこからして「へぇー!」だった。

    そして「なぜジャニーズが登場するのか」については、ジャニーズ事務所設立の経緯から話さねばなるまい。

    そもそもジャニーズというのは、戦後GHQ占領下にあった東京に建設された、在日米軍の家族用住宅地「ワシントンハイツ」に居住していたジャニー喜多川が、すぐそばの代々木公園で遊んでいた少年達に声を掛けて結成した草野球チームが母体となっている。

    そんな彼らの試合には、近隣住民や関係者が応援に駆けつけていて、その中に力道山も居たというわけだ。戦後最大のフィクサー、「日本の宝石王」の異名をとる大谷貴義を通じての交友だった。

    さらには力道山が、ジャニーの姉であるメリー喜多川が経営していたバーの常連でもあったという縁で、力道山とメリー喜多川・ジャニー喜多川姉弟とは旧知の仲だったのである。

    そして、2000年に横浜アリーナで催された「第二回メモリアル力道山」にて、オープニングセレモニーの目玉として「ジャニーズの滝沢秀明が君が代を歌う」という企画が持ち上がるのである。

    当時「タッキー&翼」結成前、ジャニーズJr.として絶大な人気を誇っていた滝沢秀明は、「メモリアル力道山」の記者会見に、田中敬子夫人、アントニオ猪木と共に登壇。
    そこで滝沢は、実は幼少時からのプロレスファンであり、自身もプロレスラーになることを志望していたと明かし、「僕も試合に出られないかな」と発言する。

    こうして、「アントニオ猪木VS滝沢秀明」の異色にも程があるマッチが実現したのである。

    なおこの試合は、くりぃむしちゅー(もしかすると、当時はまだ「海砂利水魚」名義だったかもしれない)の有田が会場で観戦していたそうで、こちら↓の動画でその時の興奮を語っている。

    プロレスファンの熱気と、タッキーファンの黄色い声援と悲鳴が入り混じる、異様な雰囲気であったようだ。
    「顔が命」のタッキーに初手でビンタをかますのは、ちょっと笑ってしまう。

    「メモリアル力道山」での試合は、アントニオ猪木引退後のエキシビジョンマッチであった。
    その後、2003年に藤波辰巳の引退式にて、藤波と急遽レフェリー不在の戦いを繰り広げたこともあったようだが、『力道山未亡人』では、このタッキー戦を「猪木最後の試合」として位置付けている。

    余談であるが、力道山・猪木・滝沢秀明の三者には、「興行界で出役として成功し、なおかつ事業にも挑戦した」という共通点がある。

    不動産業など実業家としても活躍した力道山。
    その影響を多大に受け、ブラジルとの貿易など多くの事業をしていた猪木。
    タレント引退後にジャニーズ事務所の副社長など経験し、現在は自身の会社を設立しているタッキー。
    何かこう、スピリット的に似通ったものを感じまいか。

    そうなると、この「猪木VSタッキー」の邂逅も、案外必然的だったと言えるのでは?などと思ってしまうのは、素人考えだろうか。

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    ※4月1日(水)にアカウント名を「さるなし@誰が見た夢」から「さるなし夢子」に変更しました。 夢世界愛好家/しょーもない系情報収集家 夢日記→ http://eveningfaces.blog.fc2.com/

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