
私たちはジャングルに生きている
序章 第一稿
あなたは安全が確保された現代社会に存在し、
同様に命の危険を感じることのないマンションや家に住んでいるだろう、
たとえ住んでいる家の大きさや広さに
違いはあれど、ジャングルのような場所に住んでいる人はそうそういないだろう
だが、現代社会でも何万年も前のジャングルでも我々の行動を起こさせたものは一緒なのではないだろうか?
ここで我々の先祖であるホモ・サピエンスについて想像を巡らせてみよう
彼らは猛獣や肉食獣が
ふと気づいたら自らの横に存在するかもしれないようなジャングルに生息していた
あるホモ・サピエンスがアフリカのジャングルにいたとする、
彼の後ろで草むらがガサガサと大きな音を立てた
男は足を止めた
呼吸は浅くなりった
なぜなら
頭の中では生命の危機や最悪の事態の可能性に対する恐怖が暴れているからである
手のひらに汗がにじみ、緊張感の高まりはとどまることを知らない
何かみたわけではない
音がしただけだ
風かもしれない
小さな鳥かもしれない。
乾いた枝が落ちただけかもしれない
そして、ライオンかもしれない
男は後ろにライオンがいるかもしれないという可能性の白黒が
自身が観測し、確かめることによって確定してしまうことに対する忌避を抱えながら
なんとか後ろを振り向いた、だがまだ何も見えない、
今のところは自身の後ろでガサガサと大きな音がしたこと以外何もわかってない、
草むらはまだ姿の見えない捕食者を隠すように背を伸ばしているようにも見えるし、
そこには何も存在しないかのごとくただ風に身を任せ、揺られているようにもみえる
昼の光は斜めに差し、影は細かく裂けている。
すべてが何かに見え、同時に何にも見えない。
鼻を鳴らしても、確かな匂いは掴めない。
耳を澄ましても、次の音は来ない。
足跡はあるようにも見えるし、ただ土が崩れただけにも見える。
もし彼がクマのような嗅覚を持っていたなら、少し違ったかもしれない。
もし彼が猛禽のような視力を持っていたなら、草むらの奥をもっと遠くまで読めたかもしれない。
もし彼が夜の猫のように暗がりを見通せたなら、影はここまで不気味ではなかったかもしれない。
だが、彼は人間だった。
牙も爪も、十分ではない。
匂いだけで世界を確定することもできない。
遠くの気配を一瞬で見抜く目もない。
それでも、彼は生きなければならない。
もう一度、草が鳴った。
ガサガサ。
この瞬間、彼に必要なのは、そして彼を動かしたのは真実ではなかった
もちろん、真実は重要だ。
草むらの奥にいるものが風なのか、ライオンなのか。
それがわかるなら、わかった方がいい。
けれど、真実はいつも人間に降りてくるわけではない
答えが出るまで待っていたら、遅いことがある。
真実が確定するまで観察していたら、その観察者自身が消えてしまうことがある
だから男は、決めなければならない。
逃げるのか。
仲間を呼ぶのか。
石を握るのか。
火のある場所まで戻るのか。
それとも、何もなかったことにして歩き続けるのか。
世界は、彼に完全な情報を与えてくれない。
それでも世界は、彼に行動だけは要求する。
ここに、人間の始まりがある。
人間は、真実がわかってから動く生き物ではない。
真実がまだわからないからこそ、動くための何かを作る。
「たぶん、あれはライオンだ」
この判断は、まだ真実ではない。
実際には風かもしれない。
鳥かもしれない。
もしかしたら彼に恐怖を与えた音は聞き間違いかもしれないし、気にしすぎによるものかもしれない
しかし、その瞬間の彼にとっては、その十分だった。
足が動く。
身体が反応する。
仲間の方へ顔が向く。
喉から声が出る。
真実ではない。
だが、行動を起こすには足りている。
私は、このようなものを信実と呼びたい。
注1:信実
不完全な情報しかない状況で、人間が行動するために採用する「仮の現実」。由来は事実だと信じるもの。それは真実そのものではないが、行動を起こさせるを力を持つ。嘘とは違う。単なる空想とも違う。真実が来る前に、人間を前へ進ませる足場である。
男は走った。
草むらの奥に、本当にライオンがいたかどうかはまだわからない。
しかし、彼は走った。
このとき、彼の行動を生んだものは何だったのか。
正確な観察か。
完全な証明か。
論理的に確定された結論か。
そうではない。
彼を動かしたのは、納得だった。
「あれは危ないかもしれない」
「ここに留まるべきではない」
「仲間に知らせた方がいい」
その程度の納得で、人間は動く。
いや、人間はその程度の納得がなければ動けない。
情報や思考の大きな価値は、ここにある。
情報は、世界を説明するためだけにあるのではない。
思考や直感は、正解を知るためだけにあるのではない。
それらは、曖昧な世界の中に秩序を作る。
何をするべきか。
何をしないべきか。
どこへ行くべきか。
誰を信じるべきか。
何を避けるべきか。
いつ走るべきか。
いつ待つべきか。
そして納得感とは、その装置が動いたときに生まれる報酬なのかもしれない。
注2:納得感という報酬
ここでいう納得感とは、「完全に正しいと証明された状態」ではない。むしろ、不確実な世界に一時的な説明がつき、行動方針が定まったときに生まれる感覚である。人は納得すると、迷いが減り、行動を開始しやすくなる。
男は仲間のもとへ戻る。
息を切らしながら、草むらを指す。
「あそこに何かいる」
その一言で、今度は仲間たちの身体が変わる。
眠っていた者が起きる。
子どもを抱く者がいる。
火を強くする者がいる。
石を持つ者がいる。
草むらを見張る者がいる。
まだ誰も、ライオンを見ていない。
それでも、共同体は動き始める。
信実は個人だけでなく集団も動かす
最初は、男の身体を動かしただけだった。
だが言葉になった瞬間、それは仲間の身体も動かす。
集団にも行動の秩序が生まれる。
子どもは近づかない。
火は絶やされない。
夜は交代で見張る。
本当にそこにライオンがいたのか。
最初の音は風だったのか。
それは、もう少し後にならないとわからない。
しかし、共同体では変化が起きている
行動の指針ができている
人間は、このようにして世界を作ってきたのではないか。
見えないものに名前をつける。
不確かなものに意味を与える。
危険かもしれないものを避ける。
価値がありそうなものへ向かう。
信じてよさそうな人を仲間にする。
裏切るかもしれない人を警戒する。
その一つ一つは、最初から真実だったわけではない。
だが、行動を生み、関係を作り、共同体を保ち、次の検証を可能にした。
この世界は、完全な情報をくれる場所ではない。
私たちは、ほとんどいつも途中から始める。
断片だけを見て、予測する。
限られた手がかりから、世界の形を仮置きする。
その仮置きに従って、次の一歩を踏み出す。
それは、昔の草原だけの話ではない。
人間は今も、ガサガサ音の中で生きている。
通知が鳴る。
誰かの表情が曇る。
模試の判定が出る。
株価が動く。
ニュースが流れる。
親の一言が刺さる。
SNSの反応が少ない。
好きな人の返信が遅い。
新しい技術が現れる。
国と国の間に緊張が走る。
それが風なのか、ライオンなのか、
つまり、
ささいでごく短期的な変化なのか、
大きなエネルギーの断片なのか、私たちにはすぐにはわからない。
けれど、動かなければならない。
働くのか。
逃げるのか。
戦うのか。
許すのか。
信じるのか。
疑うのか。
作るのか。
諦めるのか。
私たちは、真実が完全に見える前に、自分の行動を決めている。
だから人間は、ただ事実を集めているだけではない。
事実を集める前に「信実」で動いている
その世界は、貨幣や国家や宗教のような大きなものだけではない。
もっと小さい。
もっと近い。
もっと日常的だ。
「自分には才能がない」
「この努力は意味がある」
「あの人は信用できる」
「この学校に行けば未来が変わる」
「この会社はすごい」
「このブランドには価値がある」
「この国は安全だ」
「このやり方なら勝てる」
「今は耐えるべきだ」
「ここから抜け出せる」
これらはすべて、私たちの身体を動かしている。
朝、机に向かわせる。
誰かに連絡させる。
お金を払わせる。
集団に参加させる。
逃げさせる。
挑ませる。
黙らせる。
叫ばせる。
人間は今も昔も不完全情報ゲーム下に存在している
注3:不完全情報ゲーム
すべての情報が見えているわけではない状況で、限られた手がかりから判断し、行動しなければならない状態。この本では、人間社会そのものを不完全情報ゲームとして捉える。人間は完全な真実を持って行動しているのではなく、断片的な情報から作った信実によって行動している。
人間はいつもそうだった。いや現代でも同様に
完全に見えてから進んだのではない。
見えないからこそ、信じるしかなかった、
より適切にいうと信じるものによって動くしかなかった
ガサガサ音がする。
あなたは、それを何だと信じるだろうか?
そして、その信実によって、どこへ向かうだろう?
人間は完全な情報を持って行動しているわけではない。
世界は常に不完全情報ゲームであり、
個人はその中で「これはこうかもしれない」「こう動くべきかもしれない」という暫定的な予測モデルを持つ
それが信実
信実とは、真実そのものではない。
だが、真実がわからない状態でも人間を動かすためのエネルギーである。
完全な真実を待っていたら死ぬ可能性がある。
だから人間は、不完全な情報の中で「ライオンかもしれない」という信実によって動く
つまり、信実は不完全情報ゲームにおける行動開始装置である。
ハラリとの重大な違いについて
ハラリの『サピエンス全史』的な議論では、
人間の特徴は「虚構」や「神話」を共有することで大規模協力ができるようになったことにある。
しかしここではを少し違う角度から見る。
人間はまず個人単位で信実によって動いていた。
信実は虚構とも言える、実体や客観性自体は薄いものだからである上に
事実が確定する前の頭の中での想像、妄想とも言える
例えばこっちの森行ったらなんか木のみ落ちてそうなど不完全情報ゲームにおける
行動の指針は全て妄想ともいえ、虚構との区別はし難い
人間も動物もそもそも虚構で動いているといえる
そして人間は共有意図性によって集団も信実によって動けるようになった。
そしてネットワークやコラボレーションの拡大によって、信実をより大きな規模で検証できるようになった。
人間と動物の大きな違いの中心は実態のないもの”虚構”を信じれたことではなく、
他者と信実を共有できるようになったことでより大規模な行動ができることだったのではないか
“虚構”とは不完全情報ゲームにおける行動の指針そのものではないか?
ハラリのサピエンス全史が人々に衝撃を与えた原因は真実となった信実の
種明かしにあるとみている
後の記事で詳しく解説するが、ここで端的に説明すると
真実の最大の機能であり、信実との決定的な差は予測誤差の圧倒的少なさである
例えばあなたが小学一年生で身長が父親に対し、
身長が170cmだと思うことは
大きな予測誤差を発生させる⇨嘘、いや真実ではないからである
その人が明らかに周囲の人よりも背が高く、日本の成人男性の平均身長を調べれば
170cmではないことだと一瞬でわかるだろう
だが身長が196、197cm,2mではないか?と予測が真実に近づくにつれ、予測誤差は低くなる
くどい説明だったかもしれないが、真実の機能とは予測誤差の圧倒的少なさである
だが、真実は作ることのできるものなのである
は?何を言ってるんだ?と言った人にはあともう少し読んで欲しい
例えばハローキティが世界で一番可愛いという信実を
持っている人たちの中では
ハローキティが世界で一番可愛いことは真実になる
その考えは予測誤差が発生しないからである
もちろんハローキティではなく、クロミちゃんが世界一可愛いと思っている人から見れば
それは真実ではないだろう
ここで言いたいのは信実を共有知る人たちノア間では
信実は極めて予測誤差の少ない真実になるのである
これはお金という概念に対してもいえる
初めは貝によって物の交換ができるという信実が存在した、ただそれだけだ
そしてその信実を共有する”信者”の間ではルールとして機能する
まさに真実となる
私の仮説では人間は不完全ゲームである自然界において信実によって行動してきた
そしてそれを共有できるようになったことで信実を真実として機能させることができるようになった
ハラリは真実となった信実の種明かしを行った