メインコンテンツへスキップ
見出し画像
Photo bykimama_plants

「水が尽きる月に、」

    人の横顔を見て、綺麗だと思う。
    この綺麗さを距離に例えたら、何億光年先の星に辿り着けるかもしれない。
    そんな馬鹿げたことを、考えたことはあるだろうか。

    「私ね、このまま何も変わらなければ六月に死のうと思うの」

    ベッドで横になっていると彼女は目を閉じたままそう言った。

    「そうなんだ」

    何億光年先の星から、今ベッドのふかふかとした感覚へ沈んでいった。
    僕の旅は一瞬にして終わった。

    大事な言葉ほど、音にならない。
    僕は、彼女の言葉に悲しさや驚きよりも、意志の強さを感じた。
    それを、改めて綺麗だと思った。

    彼女が自ら幕を下げる日を決めた理由を、僕は聞かなかった。正しくは聞けなかった。
    時計の針が動くのがいやに遅い。

    六月まではあと半年ある。
    ベランダから見える公園の紫陽花が咲く頃、彼女が心変わりするのを待つか。

    毎週火曜日、彼女は僕の家に来ていた。コーヒーを飲み、いつも決まったテレビを見る。
    五分遅い時計を直さないのも、緩やかな時を大事にできている気がしたからだ。

    大雪が降り、それが解けて梅の花が咲いた頃。

    「ねえ、前に話したこと覚えている?」

    真っ直ぐテレビを見たまま彼女は言った。

    「勿論」

    僕もテレビから視線を動かさず答える。

    「最後の場所って肝心だと思うの。
    貴方ならどこを選ぶ?」

    答えはすぐに出なかった。
    テレビの音だけが静かに部屋を満たして、コーヒーは温度を失っていた。

    「……僕なら」
    僕は、目の前にある五分遅れの時計を見つめた。

    「ここがいいな、この部屋がいい」

    彼女は少しだけ目を見開いて、それから困ったように笑った。

    「狭いよ、ここじゃ」

    次の火曜日も、彼女は来た。
    コーヒーを淹れ、同じ番組をつける。 違ったのは、時計を見る回数が増えたことだけだった。
    ベランダの向こうで、まだ蕾のままの紫陽花が揺れている。
    六月は、思っていたよりずっと近い。
    彼女が帰ったあと、僕は初めて、その時計の文字盤に手をかけた。 つまみを回し、針を動かす。

    五分遅れていた時計を、僕は"十分遅れ"にした。
    時間を巻き戻す魔法なんてない。
    彼女の絶望を消す言葉も、僕には見つけられない。
    だけど、もしも世界が彼女を連れ去ろうとするなら、僕はその世界の時間を、ほんの少しだけ抵抗してやりたかった。
    薄暗い空、雨に打たれている紫陽花を見ながら今日も彼女が来るのを待つ。
    僕の部屋の時計は今、世界で一番、ゆっくりと六月へ向かっている。

    今夜は、星なんて見えなくていい。

    ただ、少しでも長い夜を、僕にくれ。

     
     
    掌編小説を書いています。 皆様の5分を貰えたら嬉しいです☺️

    あなたへのおすすめ