
【エッセイ】 絶対に寝落ちしたくない
寝落ち。私にとって、それは絶望を意味する。一人暮らしを始めて一年余り。私は週に五回は、その絶望に打ちひしがれていた。
まず前提として、なぜ私が寝落ちをしたくないのかを記しておく。 私は普段、午後六時頃に帰宅し、午前一時に就寝する。その間の七時間が自由に使える時間だ。但し、家事や食事、風呂、デスクワークといった日々のルーティンに費やす時間を差し引くと、正味の自由時間は二時間ほどしか残らない。
だから私は、その二時間を大切にしている。小説を読んだり、アニメやドラマを見たりと、思い思いに趣味に興じるのだ。
私はこの時間を迎えるために、憂鬱に支配された朝に立ち向かい、沈鬱な日中の労働を耐え抜き、面倒な家事を乗り越えている。
そうして迎えた至福の時間に、あろうことか寝落ちをしてしまう。これを絶望と言わずして、何と言おうか。
寝落ちしてしまった場合、大抵は午前零時を回ったあたりで意識を失う。そして一時から二時頃、一度目を覚ます。だが、寝落ちしてしまった自分への失望と、そこから生まれる「もうどうにでもなれ」というやけくそな感情が、ソファから起き上がろうとする私を押さえつける。
その後も何度か目を覚ましては、傍らの携帯で時間を確認する。そうして画面に表示された時刻が四時を過ぎていると、「流石にやばい」と反射的に立ち上がり、歯を磨いてベッドへ向かう。
これがいつもの流れである。
最近は日の出が早い。四時過ぎに寝室へ入ると、すりガラスの向こうはすでに白み始めている。カーテンのない私の寝室には、その光が容赦なく差し込んでくる。
その光景が、絶望感に拍車をかける。
ーーもう朝じゃん。
電気をつけっぱなしにしたリビングで。寝返りも満足に打てないソファの上で。そして、夜明けの光に満たされた寝室で。そんな睡眠で疲労が取れるはずがない。外仕事の私にとっては致命的な問題であった。
すなわち、限られた夜の自由時間を最大限に満喫し、しかるべき時間にベッドで眠る。そのために寝落ちを回避することこそ、私に課せられた至上命題だった。
以下、私が寝落ち防止のために講じた対策を紹介する。
No.1「横にならない」
まずは一番単純な方法を試す。幸か不幸か、私の家のソファは座り心地が悪い。そのため、座ったままうとうとすることはあっても、寝落ちまで至ることはない。私が寝落ちする時は、大抵、横になってテレビを見ている時だ。
「今日は絶対横にならない」
そう固く誓い、ソファに腰掛けたままリモコンを操作する。『進撃の巨人』第一話を再生した。
二話目の中盤に差し掛かった頃から、座っている体勢がだんだん辛くなってくる。
ああ、このまま横になったら絶対寝落ちする。
頭ではそう分かっているのに、身体はいうことを聞かない。気づけば、私はソファに横になっていた。
でも大丈夫。今日は絶対寝落ちしない。
そんな…気が…す………る…………
ハッと目が覚める。
時計を見ると、時刻は午前二時半を指していた。
完全に寝落ちしていた。
つけっぱなしのテレビに目を向けると、エレンが巨人化している。
惨敗である。
No.2「胡桃」
指先を動かしていれば寝落ちしないのではないか。シャンプーをシャワーで洗い流している時、そう閃いた。何かいいものはないかとインターネットで検索していると、文玩胡桃というものを発見する。二つの胡桃を手のひらで転がしたり回したりする手慰みで、古くから中国の文人や貴族の間で親しまれているらしい。
「これだ!」
そう思った私は、早速インターネットで胡桃を探し始めた。
調べてみると、手慰みに使う胡桃は通常の胡桃とは違い、殻が厚くなければならないらしい。そこで私は、その販売元では年に数百個しか出回らないという、二個一組で三千円の長野県産手揉み胡桃を、胡桃専門の通販サイトで購入した。送料と手数料合わせると五千円に達したが、寝落ちを防げるのであれば安いものだ。
数日後、届いた胡桃を早速試してみる。
ソファに腰掛け、アニメを見ながら二つの胡桃を手のひらで転がす。カラカラと小気味よい音が鳴る。
これに私は五千円も費やしたのか。
改めて考えると少し恐ろしい。
しかし、その高級胡桃もあえなく敗れた。
敗因は、胡桃を転がす手を止めてしまうことだ。
まず、胡桃を手のひらで転がしていると単純に疲れる。そのため長時間続けることはできず、どうしても休み休みになってしまう。そして一度、手に持っていた胡桃をサイドテーブルに置く。その隙を狙うように、睡魔が襲いかかってくるのだ。
気づいたら横になって寝落ちしていた。完敗である。
No.3「ご飯は野菜とキノコから作戦」
今回は、まず敵を知るところから始めようと思う。
私に襲いかかってくる睡魔の原因は、一日の疲労もあるだろう。しかし、それ以上に血糖値スパイクの影響が大きいのではないか。そう思い至ったのは、またしてもシャワーを浴びている時だった。
血糖値スパイクとは、食事によって急激に上昇した血糖値が、その後大量に分泌されるインスリンによって急降下することを指す。このインスリンの大量分泌が強い眠気を引き起こす。これを防ぐには、食事の際に血糖値が急激に上昇しないよう、野菜や肉類から先に食べることが効果的とされている。
配膳された夕食を前に、白米をかっこみたくなる衝動を抑える。欲望に支配されては、この戦いに勝利することはできない。
そう自分に言い聞かせ、野菜とキノコから口に運んだ。
結果はまたしても大敗であった。
敗因は、夕飯にご飯を一合食べる私の食生活にあるのではないかと思う。最初に野菜を食べようが肉を食べようが、夕食に白米を一合も食べれば血糖値は爆上がりする。結局インスリンが大量に分泌され、私は夢の国へと誘われた。
この反省から、白米の量を減らそうかとも考えた。しかし、一日の消費カロリーを鑑みるに、それは現実的ではない。
No.4「ドクターベイプ」
口の中は敏感なため、間食や歯磨きが眠気覚ましに効果があるという情報を入手する。
ただ、これにはいくつか問題があった。
まず、夕食直後に間食をするのは難しい。そして、眠気が襲ってくるたびに歯を磨くのも現実的ではない。
そこで私はドクターベイプに目をつけた。いわゆるニコチンとタールの入っていない電子タバコのようなものである。タバコを選ばなかったのは、一日に吸う量をこれ以上増やしたくないからだ。
ドクターベイプは大学生の頃、興味本位で購入して少しだけ使っていたことがあった。そのため馴染みはある。しかし本体は後輩に譲ってしまっていたため、あらためて買い直した。
これで眠気を撃退できる。
そう期待していた。
結果は言わずもがな、大敗であった。
理由は胡桃の時と同じである。
確かに吸っている間は眠気が紛れる。しかし、延々と吸い続けるわけにはいかない。ある程度吸ったところでサイドテーブルに置く。そして再び手に取る前に、睡魔が私を回収していくのだ。
気づけば横になって寝落ちしていた。
エントリーNo.5「アラーム」
もう寝落ちしてしまうことは仕方がないと諦め、いかに本来の就寝時間に起きるかへと発想を転換する。
そこで、就寝時間である午前一時に、起床するためのアラームをセットすることにした。ここだけ切り取ると何ともおかしな日本語である。
結果は惜敗であった。
定刻になると、アラームがけたたましい音を発して、案の定寝落ちしたーー一応抵抗はしたーー私の意識を覚醒させる。
そこまでは順調だった。
しかし、起きなくてはという意識とは裏腹に、睡魔に支配された私の手は、アラームを呆気なく解除してしまったのだ。スヌーズまで。
本当に寝落ちを阻止する手段はないのか。
ここに来て初めてChatGPTに聞いてみた。
くだらない回答がつらつらと表示される中、一つだけ気になるものを発見する。
家事をする。
食後に少し体を動かすことで、寝落ちを防げるらしい。家事にも同様の効果があるという。
家事を片付けることができて、寝落ちも防げる。
一石二鳥である。
早速試してみることにした。
結果は辛勝。
ついに寝落ち阻止に成功した。
アニメを見ている間、何度かうとうとしかけることはあった。しかし、そのまま横になって意識が飛ぶところまでは至らずに済んでいる。
今のところ三日連続で、アニメなどを二時間堪能し、午前一時にベッドへ入るという理想的な過ごし方ができている。
ここに至るまでに一年と二ヶ月を要した。
決して平坦ではない。
とても長い道のりであった。