
短編小説『若冲と鬼灯』
若冲は、鬼灯を見ている。鬼灯が語り出すまで、見ている。風が舞い、空気が反転し、若冲は己を見失う。若冲は無くなり、世界をいつの間にか、鬼灯から見上げる。私は、月の光に照らされて、だんだん赤くなる。私の内側から、月の光が引っ張って、だんだんだんだん赤くなる。虫の音に、赤い赤いと交互に言われ、山を降りた風が、私を揺らす。朝日が昇り、私の足元を、雀が寄ってくる。ぴょこぴょこと、あの小さいクチバシで地面の虫を食べている。もう一匹の雀がやってきて、二匹は無邪気に戯れている。坊さんが子供を連れて、ゴム毬で一緒に遊ぶ。調べが空気を温かくし、子供の笑い声に、私まで泣きそうになる。坊さんはひと息つくと、私の側に座り、歌を読む。それはいっときの歌。日が強く照り出すと、飛んできた虫が私の茎にとまり、葉の影で休んでいる。私が葉を揺らすと、虫も羽根を揺らす。小さな子供がやってきて、私の実をひとつ、小さな手で不器用にちぎると、外のからをむき、中の実を口に入れる。首と肩に力が入り、子供は目を細める。母親がわが子を見て、いとおしそうに、目を細める。たぬきが私の横を通る。人がいないか、一瞬立ち止まり、足早に去っていく。雨に濡れた私は、里の様子を眺める。雨は、景色を半透明にする。カエルがのっぺりと歩き、げこっと鳴く。風が強くなり、私の身体が、横に曲がり、頭は地面にひしゃげる。実はいくつか落ちて、割れている。日照りが続き、男が私の前に立つ。手脚は、棒のように細いのに、異様に腹だけ膨れている。私は男に、もう私は腐っているから、食べてはいけない、と言うが、男は、私の実を摘むと、口に入れ、今度は両手で次々に入れる。私の実は食べ尽くされて、外の殻が散らばる。男は、私の側で蹲って眠る。男は、起きたかと思うと、腹を抱えて唸っている。私の側で、水のような便をすると、男はその場を去っていく。私の葉は枯れ、茎は茶色く硬くなる。私の命は、そろそろ終わる。私の親の、そのまた親の、代々ここで、私たちは、見守っている。私はもうすぐ時間の流れの一部になる。私は、あの腹を壊した男が、どうなったろうと思う。しかし、私には、何をしてやれるでもない。私は土に還り、風が吹き抜け、私の魂は、空気に溶ける。
若冲は、絵筆をとめる。この鬼灯が語る歴史の一部を体感する。鬼灯の実が風に揺れる。若冲は、鬼灯を、目を細めてみつめる。あの腹を壊した男は、どうなったでしょう?と、鬼灯が若冲に聞く。若冲は、なに、大事ないさ、彼はきっと、今度は河でタニシをたらふく食ったにちがいない。若冲が言うと、鬼灯が笑う。笑い声は、風にのって、鬼灯の実はかなかなと、揺れる。
終わり